出会い
休憩なしの悲劇
ナーダーシュ・ペーテル作
飯田緑訳
目次
出会い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・２
父親の不在・・・・・・・・・・・・・・・・５９
（ラドノーティ・ジュジャ）
劇評「極端さと真実らしさ」・・・・・・・・ ６２
（ウィルハイム・アンドラーシュ）
作者略歴と主演俳優たち・・・・・・・・・・６９
〈登場人物＞
マーリア
若者
チェンバロ奏者
チェロ奏者
リュート奏者
＜初演時の配役＞
ペスト劇場の初演時の配役（1985年２月８日）
マーリア ルトカイ・エーヴァ
若者 ヘゲドゥーシュ・D・ゲーザ
ハープ ペターク・アーグネシュ
バイオリン メリシュ・ラースロー
打楽器 ショオーシュ・アンドラーシュ
演出 ヴァッロー・ペーテル
今回はオーケストラ・ボックスはオープンである。薄明かりの深みの中で楽師たちはまだ着席していない。三つの譜面台の小さなライトがついている。
やがて楽師たちが楽器の傍らに着席すると、彼らが頭をフットライト光線の方へそびやかせ、上演時間の間ずっとそのまま幻影として常に同席していられるように、オーケストラ・ボックス中の演台（演壇）か何らかの足台が彼らを支える。
三つの楽器、チェンバロ、チェロ、リュートの楽団は、初期のバロック・オペラのように、台詞の頭、内容上重要な台詞部分の声ないしは何か強調された重要な言葉、わめき声ないしは特別なアクセントで、ある和音を奏し、そしてこの三和音を幾つかの場合においては完全に次の記号まで、次のチェンジ（変
換点）まで保つ、すなわち通奏低音原注１を奏する.
けれどもこの通奏低音の和音が伴奏音楽、ムード・ミュージックとして使用されることを私が希望していないことに、断固として注意を促さなくてはならない。通奏低音はそこに位置している価値に従って、問題となる台詞部分の中で明白になる感情的な内容を補完し、高め、否定し、追跡し、打ち消すことが出来るが、同時に台詞とは無関係な独立性も備えていなくてはならない、よりスケールの大きな全体を形成する、従って同じランクの音楽構造を作り出さなくてはならないし、この構造はいわば劇の方法で台詞によって築かれる構造とは対立しなくてはならない、というのが私の構想である。
たいそうゆっくり、勿体ぶって幕が上がる。
舞台上には全く小さい部屋。
部屋の左側の壁ぎわには白い鉄枠のベッド。平らにきっちりと整えられた寝具は純白のキルティング・カバーで覆われている。ベッドの頭上にはシンプルな十字架。ベッドの傍らの客席と向かい合う壁には白く塗られた鉄のベッド・サイド・テーブル、扉と引き出しが一つずつついている。このベッド・サイド・テーブルには磨きあげられたグラス、グラスの中には赤ワイン。
白い漆喰を塗った、裸の壁。
ベッド・サイド・テーブルのすぐ隣は赤く塗ったドアで、開きっぱなし。あたかも雪に閉じ込められた地方か白い無そのものにむかって開いているかのよう。その背後には不確かで果てしない白い空間が見える、より正確には感知出来る。ドアの裏側には銀色の塗料で塗った鉄のストーブ、鉄のストーブの上には電気のコーヒー・メーカー。ストーブのパイプと壁の間に張られた針金には、大きな柔らかい、白いタオル。
天井から吊られている一本しかないコードには電球が下がっている、その隣にはねばねばするハエとり縄が結びつけてある。電球は灯っていない。舞台上にはわずらわしい、強く、白い光、これは上演中変わらない。
それ以外の重要なこと：楽師たちは黒い燕尾服、ないしはフロック・コートを身につけている、マーリアも黒い夜会服を着ている。眼鏡をかけた若者だけがシンプルな普段着、作業ズボン、チェックのフランネルのシャツ、短いスウェードのコートで登場する。
舞台の中央では、ちょうど楽師たちの頭上に、シンプルな白い椅子。椅子はほとんどオーケストラ・ボックスのふちになくてはならない、影の中、いわば舞台の照明とオーケストラ・ボックスの照明の間に。
椅子の右には、少し後方に白いホーローびきのたらい、その中には白いホーローびきの水差し、中には水が入っている。
マーリアは客席と向かい会って、身じろぎもせず椅子に座っている
たいそう長い沈黙
チェンバロ奏者がオーケストラ・ボックスに現れ楽器のところに着席すると、マーリアは立ち上がり、ベッド・サイド・テーブルのところに行き、引出しを開け、小さい箱から白い粉を赤ワインに注ぐ
チェロ奏者とリュート奏者が登場し、彼らも着席する。マーリアはスプーンでワインの粉をかき混ぜる。
楽師たちはチューニングを行う
マーリアは椅子にもどり、再び同じように座る
楽師たちは突然チューニングを止める
たいそう長い沈黙
マーリアは立ち上がり、赤いドアの方へ歩きだし、そしてまるで外から何か声が聞こえたかのように、急に立ち止まり、耳をすます、やがてストーブのところへ行く、そしてコーヒー・メーカーのコードをコンセントに差込む
再び席にもどり、待つ、動かない
たいそう長い沈黙
楽師たちは再びチューニングする、少なくとも２〜３分間、やがて突然に中止する、リュート奏者とチェロ奏者は席を交換する、譜面台も取り替える、出来るだけ不器用に。
たいそう長い沈黙
コーヒー・メーカーのコーヒーがシューシューいって、蒸気をあげながらゆっくりあふれ始め、しかるべく沸騰する
マーリアは動かない
たいそう長い沈黙
マーリアは立ち上がり、ストーブのところに行く、コーヒー・メーカーのコードをコンセントから抜き、まるで外から何か声が聞こえたかのように耳をすまし、やがて席にもどって同じように座る
たいそう長い沈黙
開いたドアの向こうに感知出来る白い空間では、後方の、下の方の空間の深みに、眼鏡をかけた若者の頭が現れる、ゆっくり上がってくる、すでに肩も見える、上に上がってくるかのように近づいてくる、すでに胴体も見える、近づいてくる、上に上がってくる、大変ゆっくり、しまいには体全体が見えるようになるが、それでもどんどんやって来る、来る、ドアで立ち止まる。
マーリア さあ、お入りなさい。《C》やはり来やしないんだと、望みをつないでいたのだけれどね。
若者は身動きしない
マーリア それでもちょうどいいときにコーヒーを沸かしたみたいね。もう溢れ出すところだわ。
若者は動かない。マーリアはゆっくりと立ち上がり、そちらの方を向く
たいそう長い沈黙
マーリア それじゃ、ここに来たのね。
間
じゃ、そうなんだわ。ここにあの子が。
間
《C》やって来た。
間
心配よ、あなた凍えてしまうわ。
彼らは動かず、互いを見つめる。
長い沈黙
マーリア 私は物を食べなくなってしまったの。コーヒーが全てよ。暖房はつけなかったわ、私の部屋をありのままに感じてほしかったからなの。どうぞ、ドアを閉めて下さらない？私わざと暖房をつけなかったの、いつもと同じ位寒くなるように。私はいつも閉めっぱなしにしておくの、ここではみんなが中をうかがっているからよ
若者は部屋に入ってきてドアを閉め、あたりを見回す。マーリアは手を差し出し、彼らは握手するが、マーリアはすぐには放さない、もう一方の手も若者の手に重ねる
たいそう長い沈黙
マーリア そうなさりたければ、コートを脱いで下さってかまわないのよ。その方がやっぱりくつろげるでしょう？
間
きっと私がこんなに貧乏に暮らしているのに、びっくりしているのね、でも私はすっかり満足しているのよ。
興味あるわ、どうやって私の消息を掴んだか知りたいの。後で話してくれるわね、いいこと？
長い沈黙
マーリアは若者の手を放す
マーリア もし通りで出会っただけだとしても、私には分かったでしょうね，そしたらこの出会いはもっとおかしなものになったでしょう、だって通りで出会ったなら、私はあなたの後を追いかけていったでしょうし、あなたは私から逃げ切ることは出来なかったでしょう、あなた、この老いぼれの売女はここで俺に何の用があるんだ、と気になって仕方なかったでしょうね。でも私はあなたの目を見られるように、あなたがいつ振り向くかと待ちながら、ただもう後についていったでしょう。だって私もう礼儀は全然気にしてないし、多分あなたの額に手を置くのを我慢することだって出来なかったでしょう。《C》
若者は急いでコートを脱ぐ、まるでそうすることで、マーリアが本当に彼の額に触れようとするのを妨げたがっているかのようにである
マーリア 洋服掛けはドアのところよ
若者はドアの方へ向かい、コートを洋服掛けに掛ける。彼はドアのところに留まっている
マーリア 私から逃げ切ることは出来ないわ。《C》ご到来の理由を考えるときは私、私のために来てくれたんだということ以外、何も気がつかなくなってしまうでしょう。
長い沈黙
マーリア 何のご用？
長い沈黙
マーリア とにかく私のお客さまだわ。私の時間でおもてなしするわ。
長い沈黙
マーリア 《C》私にどんなご用？
長い沈黙
マーリア 本当なら敬語抜きで話さなくてはならないのだけれど、やめておくわ。こんなにあの人に似ていなければ、敬語抜きで話したでしょうにね。《C》鼻、目、額、それに残念だけれど口まで。二十年間というもの誰も私の口にキスしてくれなかったわ。肩にもよ。そんなの想像出来て？出会わなければよかったと思う位似ているわ。いいえ、ちっともこわくはないわ。物事にはこんな風にそれ自体の奇妙さがあるからよ。何がきても平気よ。あなたはドアを閉めた、頼んだのは私、今はもう私たちは共通の時間の中にいるんだわ、そのことはどっちも前もってわかりはしなかったのに。私は自分が無防備だと感じるわ、そしてあなたもちょうどそれ位無防備だと感じているのかもしれない。だって私たちには、起きるべきことしか起きないんだもの。それ以外のことは何も。《C》
これは多分閉められたドアの秘密なんだわ。まるで何かが今起きるべきだというみたい。ドアが開いていた間は、何一つ起こらないと期待出来たわ。それとも、例えば偶然に通りで出会ったのだったら、多分あなたの後をつけたりせずに、あなたが行ってしまうのをそのままにしておいたかもしれない。行ってしまう。見知らぬ人のように。《Cまるで私がこの口に全然気がつかなかったみたいに。そう出来たかもしれない、あなたは知らないんだし、私だって知りやしない、そして知った顔だとしても、それが彼を思い出させることは忘れることが出来たかもしれない。人間というものはおのが苦痛から自分をいたわりたいものなの。私は全てを忘れることが出来るかもしれない。そして今あなたはやっぱりここに来ていて、私たちには避けることは出来なかったんだとしても、人間喜んで、苦痛を抱きながら敬語抜きで話す関係に陥ったりはしないんだ、と言わなくてはね。忘れるなんてことはないんだから。そうやって少なくともちょっとした距離を保っておきたいものなの。どのみち無理なんだけれどね。そのためなのよ。気を悪くしてはいないわよね？どう、まるでちょっとばかりあなたのお母さんみたいにして迎えたら、その方が気にいったでしょうね？お母さんはお元気？ここを見つけるのは簡単だった？
若者 ええ。《C》
マーリア これじゃむしろ、何だかわざとらしく媚てるように見えるかもしれないわね。お父さんとだって敬語ぬきで話したりしなかった。《C 抱かれたとき、私はしゃべりもしないし、声をあげもしなかった、愛撫もしなかった。今、まるであなたを彼と間違えているように見えるんだったら、ほんとのお笑い種でしょうね。》そうはいっても本当に見間違えそうだわ。でも、今のあなた位の若いときのお父さんは知らなかったから、そうはならない、やはりそうはならない。だからあなたは今、私にとっては単に奇妙な錯覚にすぎないというわけよ。《C おわかり？》まるで私の内で時間が少しばかりかき混ぜられてしまったみたい。きっと彼はずっと若い頃はそんな様子だったんだわ、そしてもしそのとき私たちが出会っていたら、でもそのときは出会えなかったのよ、おそらく私は彼のものになっていたでしょうね、きっと、そしてそうなればあなたは本当に私の子になっていたでしょう、まさにありそうなことよ、でもそうなるとこんな風にではなく、すっかり違う具合になるでしょうし、どのみち私たちがこんな風に出会えるはずがなかったでしょう、だって少しは私に似ていたでしょうから。このことはむしろ考えない方がいいわね。考えるだけでも恐ろしいもの。《Cだってそうなったら、あのときまであなたの身に何が起きていたかしら？》あなたはもうそのことを考えたわね、あなたがもうここにいるというなら、あなたの考えを知りたいからこそ私はきいたのよ、あなたはもうそのことを考えたわね？《C どれほどたくさんのことが私たちには起きていないかって。私に言わせりゃ、起きていないことより、ずっとわずかなことしか私たちには起きてはいない。》例えば今あなたはここに来て、あなたが言うように、いとも簡単にここを見つけ出した、私はあなたに話す、だって誰かと、そもそも誰であれ、自分自身にであれ、お話しすることに飢えているし、あなたは辛抱強く黙って聞いてくれるし、そうすることでご自身をとっても感じよくしている、でもそれでどれほどのことをあきらめてしまっているかは考えていない？そうする代わりに、どれほどたくさんもっと別なことが出来るかを？無の代りに、何かが出来るかもしれないことを？《C》
若者 いいえ、そんなことは全然考えていません。
マーリア それで私は何をもって、こんな風にあなたに他のことをあきらめてもらったのかしら？《C》
あなたお腹空いていない？
若者 いいえ、ちっとも空いてません。《C》
マーリア コーヒーを飲む？
若者 喜んで
マーリアはベッドサイド・テーブルのところに行き、たった今、赤ワイン中の白い粉をかき混ぜたスプーンをとり、再び外から何か声が聞こえたかのように耳をすまし、それか急いでスプーンを舐めてベッドサイド・テーブルの後ろに投げ込む
二人は見つめあう
間
マーリアは急いでベッドサイド・テーブルの扉を開け、二つの白い瀬戸物のカップ、受け皿、銀のスプーン２本と白い瀬戸物の砂糖入れを取り出し、これらすべてをベッドサイド・テーブルの天板の置き、扉を閉じる
マーリア 《C 私たちどれ位の時間を一緒に過ごさなくてはならないか、わからないわね》 でもやっぱりお腹が空きそうだったら、恥ずかしがることはないのよ、おもてなしは出来るから。うちにはクラッカーがあるの。私の亡くなった母は、お客さまが私たちのために費やして下さった時間を何かで埋め合わせ出来るように、お客さまをおもてなしするんだ、と教えてくれたわ。気がついていた？これは古来からのしきたりなのよ。私は何年も誰もおもてなししなかったわ。誰一人一分たりと私に割いてはくれなかったわ。私は一人よ、でもそのために苦痛は少しも感じないわ。お砂糖を入れる？
マーリア鉄のストーブのところに行き、コーヒーをベッドサイドテーブルのところへ運び、カップに注ぐ
若者 いえ、すみません、砂糖なしでいただきます。
マーリア 私は砂糖を入れるわ。たくさんね。もう座ったら？砂糖が私の全てよ。
間
若者は再び辺りを見回し、手の平を慎重に白いクロスで覆った寝具でぬぐう、やがてあやふやに椅子まで進み、少し椅子の向きを変え、立ったまま
マーリアはカップを差し出し、自分の分のカップも取り上げる、互いに向かい合って立ち、互いを見つめる
マーリア どんな風がここに運んできたかという質問には、答える必要ないわ。私のたった一つの質問にだって答えなくていいわ。
マーリアは上品な放心状態でコーヒーをかき混ぜる、彼らは互いを見つめる
若者 《Ｃ》僕はしゃべりませんよ
マーリア あなたにはどうしたって、私が実際に言うだろうことと、考えただけかもしれないけれどやはり口にだして言ってしまうことを、区別出来ないでしょうね
若者は、まるでカップを椅子におきたそう、手が震え、苦悶する
若者 《Ｃ 僕には言葉にして言ってしまうことなど出来ません》
間 苦悶する
若者 《Ｃ》自分が何を考えているのか、わからないんです。
間、苦悶する
若者 《Ｃ 今だってこれが言いたかったわけじゃない》
彼は椅子の上にカップを置き、コーヒーがこぼれる、手でぬぐう、再びカップを取り上げる
若者 うまくいかないんです。
マーリア ちょっとだけ眼鏡を外してくださるよう、お願いしてもいい？
若者 僕が言うことは、僕が考えていることではないんです。僕が考えていることは、言葉にすることが出来ないんです。例えば今そのことを考えていて、言葉にするのに成功しました。でもこれはつまらないことです。
間 若者は苦悶する
マーリア 《Ｃどうしてここに来たのか》言って下さるよう、お願いしてもかまわない？
若者 僕が言うことと考えることはつまらないことだ、と言葉にして言ってしまうのはうまくいきました。つまらないことです。だから僕はしゃべらないんです。
マーリア 《Ｃお願いしてもかまわない？》
若者 でもそれを正確に言葉にすることが出来なかったんです。
彼らは長い間お互いを見つめる、若者は右手のカップを左手に持ち替え、眼鏡を外す
マーリア 《Ｃ誰かにキスするときは、外す》、でしょう？
若者は眼鏡を元にもどし、コーヒー・カップを再び右手に移す
マーリア 言ってくださらない？《Ｃ》
長い沈黙
マーリア 眼鏡をかけなければ本当に素敵な男の子よ。《Ｃ もっと大胆に言いたければ、ハンサムだと言うでしょうね》あなたのこと何度も考えたわ。
若者 僕が来ると、どうしてわかったんです？
マーリア 《Ｃ あなたのこと何度も考えたわ》、だってあなたが生きていることはわかっていたし、あなたの人生を想像してみてたからよ、たとえ私たちが出会うことは本当に予想出来てなかったとしてもね。《Ｃ あなたの首の母斑って本当にキスしたくなるわね。》私は、お客様にふさわしい数の質問をしなくてはならないって育てられたのよ、お客様がご自身を重要だと感じられるように、そして立ち入りすぎは禁物だって。《Ｃ 首に母斑があるんだったら、胸にもお腹にもあるはずよね。当たった？》
若者は注意深くコーヒーをすする
マーリア しつけはそれがどんなものであれ、私が受けたのは実際には最後のものだったというわけじゃないけれど、どのみち跡を残さずに消えてしまいはしないのよ。他の全てのように無用の長物になるだけ。あなたは今二十五才のはずよね。《Ｃ そしてあなたの肉体はおそらく素晴らしい姿形だわ。》私の言うことにまともにとりあっていてはだめよ。私はあなたを眺めているだけで、ここには居もしないようなものなんだから。《Ｃ あなた肩幅は広くって、たくましいわ、腕は力強いし、胸の筋肉は隆々だし、脛は筋肉質だし、それでもくるぶしはしなやかで、あなたの関節のようにもろいくらい。》手を見せて。
若者はコーヒーの残りを飲み干す
マーリア あなたの手はきれいだって予想していたわ、あなたのお父さんの手もとてもきれいだった。《Ｃ 胴はただ堂々としているだけでなく、骨盤も完全に均整がとれていると言うにはもっと幅が広いし、そのせいでお腹もより強調されているるし、腰は少年の愛らしさであなたを幼く見せているわ。》
たいそう長い沈黙
マーリア その話をする？
間
これはもうこの物語の一部だわね。
間
それとも、私がこれを話して聞かせるのはいや？
若者は苦悶する、答えることが出来ない
マーリア 《Ｃ じゃ何のためにいらしたの》、何のため？
間
長い沈黙
マーリアは若者の方に進み、その手からカップを取る、カップをベッド・サイド・テーブルのところに持っていく
マーリア あなたは一つの美しい、完結した物語を聞くことをご希望ね、そうでしょう？
若者 《Ｃ 眼鏡を外すのは、寝るときだけです。》
マーリア 私が全てを美しく語るのを、望んでらっしゃる、そうね？
若者 僕は完全に一人ぼっちです。《Ｃ》
マーリア 話して聞かせることになるでしょう。《Ｃ》
若者 僕は誰にもキスすることは出来ません。《Ｃ》
マーリア この物語はね、完結はしないの、最後は一体どんな風だったのかまでお話しはするけれど。
若者 あなたは訊ねられた。《Ｃ》母はもう死んでます。
マーリア そして最後には私は自殺するでしょう。
若者 僕だって生きてはいません。
マーリア 今度は急に良くしゃべるようになったのね。
間 彼らは互いに見つめ合う
マーリア どこから始めましょうか？
間 彼らは互いを見つめる
マーリア 手伝ってちょうだい。
間 彼らは互いを見つめる
マーリア 少なくとも、手伝ってちょうだい！
たいそう長い沈黙
マーリア 《Ｃ 手伝う。これがどんな意味か、おわかり？手伝うこと、手伝い。彼は手伝う、手伝って。どんな意味かお分かり？もちろん私は、これだって待っていてもムダなんだとわかってるわ。ただ私は自分がこれほどまで妙だと感じて、混乱しているの。ごめんなさいね、でも何が出来るものやらわからないの。私の方で手伝わなくてはならないのね、わかってるわ。また私の方で。これが私の償いなんだわ。それ以外の何物でもない。》ただこの手の中のたった一つの動きでさえ感じられないのよ。どこへ行くのかも、わからないの。どこかで始めなくてはならないけれど、私がどこにいるか、何故なのか、あなたはどうやってここに来たか、どうして質問するのかも、わからないの。ごめんなさいね、でもどんな権利があって質問するの？《Ｃ》これは私の人生なのよ。
若者 よければカップを置けるでしょう。
長い沈黙
マーリアためらいがちにベッド・サイド・テーブルにカップを置く
若者は苦悶する
若者 それからよければ椅子にもどったらいい。
マーリアたいそうゆっくり椅子にもどる、若者は注意深く席を譲り、肘掛椅子の背もたれの背後にまわる。双方とも綱渡りしなくてはならないかのよう。
若者 よければ今度は椅子を具合よく直したら。僕はさっき失敗しました。
長い沈黙
マーリア もしかして今度こそ目をつぶれるわね。
若者 いいえ！
間
よければあなたはまず座ってみなくては。
マーリアは椅子を直し、手を椅子の肘掛におく
彼らは隣合って身動きせずに立つ。
若者 まず座らなくては。その後でしか目をつぶることは出来ません。
マーリア座る
マーリア そうね。それが習慣だわ。《Ｃ人が何か思い出そうとするときには》
若者 お手伝いしましたよ。
マーリア目をつぶる。
たいそう長い沈黙
マーリア 《Ｃ もっと手伝って。》
若者 手伝います。
マーリア よければ椅子のよりかかりもつかんでちょうだい。《Ｃ 私はどうせあなたのことを思い出すのよ。》
若者椅子のよりかかりをつかむ
たいそう長い沈黙
若者 何か見えますか？
マーリア 何も。
若者 闇を見なくては。
マーリア でも闇の中に何も他の物はないわ。暗いだけよ。
若者 じゃ場所を交代しましょう。《Ｃ》僕が座って、あなたが僕の後ろに立つ。
マーリア 私にはこの方がいいわ。
若者 何か感じますか？
マーリア もちろんよ！二日前から歯が少し痛いのよ。
双方笑う
マーリアは目を開く
マーリア 椅子にお尻が押しつけられてるわ
間
それも感じるわよ。
もっと声高に笑う
それ以外は何も。
長い沈黙
マーリア 人間ってひっきりなしに自分の体のことを感じるものね。
若者 じゃむしろ最初から始めましょう。
マーリア 《Ｃ それより、手を私の額に置いてちょうだい》
若者は女の頭を抱きかかえ、手の平で彼女の額と目を覆う
たいそう長い沈黙
マーリア いいわ。《Ｃ》今度はとてもよくなったわ。
たいそう長い沈黙
マーリア 《Ｃ これじゃちっとも良くないわ》
若者は手をはなし、椅子の背後に自信なげに立つ、やがて少し後方に引っ込み始める、鉄のベッドのよりかかりにぶつかるまで。
マーリア いいえ、《Ｃ 何一つ思い出せないわ。》
若者 僕が何であれ弁明を求めているんだとは、思わないで下さい。
マーリア あなたの手だけが気持ち良かったわ。《Ｃ》
若者 何であれ弁明を求めようとするのはお笑い種でしょう。
マーリア 《Ｃ 多分娘時代の話なら出来るかもしれないわ》
若者 僕には自分自身を責めるのと同じ程度にしか、責められないでしょう。
マーリア 私が結婚していたことはご存知？、夫は単に退場しただけなのよ。
若者 僕は知りたいだけなんです。《C》
マーリア それとも私の最初の逮捕の話をしましょうか。とても面白いわよ。
若者 僕はただ、《C 何があったか》知りたいだけなんです。知ること。
マーリア でもそれには何の意味もないでしょうね。
若者 《C》あなたははぐらかしている。
マーリア どうやって？
若者 《C 僕は父のことを聞きたいんです。》
長い沈黙
マーリア ああ、あなたのお父様ね、もちろん。お父様のことはすっかり忘れていたわ。
長い沈黙
マーリア でも申し訳ないけれど、そもそもあなたのお父様って誰？誰があなたをここによこしたの？だってもしわかっていれば、私だって当たり前のやり方でどんな説明でも喜んでしたでしょうに。だってあなた、まるで自己紹介するのも忘れたみたいなんですもの。そんなの似つかわしくないわ。《C》お名前をうかがえる？
若者 たくさんだ！
マーリア 《C それとも私を丸裸にしたいの？》どうぞ。ここで見つけたものは、お持ちなさい。
若者 ふざけやがって！
マーリア 殺したいの？《C》どうぞ。《C》少なくとも私には必要ないわ。
若者 ご自分をお笑い種にはしなさんな。
マーリア あなたのお父様は、あなた、《C ならず者だったわ。追いはぎで、ありふれたチンピラだったの。》それに学もなかったわ。ありふれたチンピラ。そして今は死人。どん百姓よ。私の計算があっているなら、もう自分の場所ですっかり腐っているわ。《C 太鼓腹の天使があなたのお父様よ。》
長い沈黙
マーリア よく云うように、私我を忘れたわ。
長い沈黙
マーリア 彼のことは許した、と思っていたのに。
長い沈黙
マーリア あなたってとてもかけひき上手な子ね、それは認めるわ。《C》なんて惹きつけられるのかしら！望んでいたわけでもなかったのに！
長い沈黙
マーリア 望んでいたのよ。
長い沈黙
マーリア まわりを見てごらんなさい。《C》これが私に起きたことよ。
長い沈黙
マーリア 《C私はこうなったの》ごらんになれるでしょう？
長い沈黙
マーリア ね、聞いてちょうだい。誰かに同情されるのはまっぴらごめんよ。私は年寄りで、貧しい、これでおしまい。そして特にあなたからは同情されたくない。聞いて、お話しするから。
長い沈黙
マーリア 少しばかり緊張してしまったわ。私のこと大目にみてね。ある光景が頭に浮かんだからなのよ、よく云うように頭に浮かんだの、といってもなんてばかばかしいのかしらね、光景は光景ですらないし、浮かびもしないし沈みもしない。私はあっちへとび、こっちへとび話すでしょう。いきなり、この光景はいつもいきなり現れるの。いきなりこの広場は私の中にある、でも広場だけじゃない、私がこの広場を横切って行くような感じもするの。私が広場を横切っている。そんな光景よ。私が横切るときのようだと感じるの。晩秋で、私は時刻も日にちも正確にわかっているの、でも今はそれは重要じゃないわ、つまり十一月二十日、何もかもが灰色でびしょびしょ、そしてこの広場は私の中からこんなに強力にやって来る、そこを横切るときのような感覚、そのせいで気持ち悪くなる位。朝だったわ、広場は空っぽ。私はこれから自由になることが出来ないの。こんな病気をご存知？めまいがするの。自分の考えを述べたいのなら、この光だけでなく、そうね, 光を正確に語って聞かせなくては、でもどうやったらこの光を語って聞かせられるかしら？家だけでなく、広場の銅像を、反対側の寺院だけでなく、全てを、《C 全てを！》語って聞かせることは出来ないわ。どうして語って聞かせたかったすらも、もうわからない。どうやったら何かを語ってきかせられるかしら？私、何一つ語れないのよ。
間
そしてあの木々。あの木々のこともすっかり忘れていたわ。いずれそこで初めてあなたのお父様とも出会う、だからこの広場は重要になるの、だから私は語って聞かせたいの。もうわかった？《C あなたはこの広場のことを知らなくてはならないわ、あなたはあそこで大きくなったのよね》そしてこの広場を、今度は私が物語る通りに想像してみて、毎朝一人の男が横切って行った、その人があなたのお父様よ。この中ではそれも重要なの、私にはいつも広場を斜めに横切って行かなくてはならなかったから、木々のことも挙げたのよ。なぜかはわからないわ。今になってもそんな風に、斜めでなくてはって感じるのよ。他のやり方ではだめなの。多分それだとその人がもっと良く木々の間に入り込めるからだったかも。わからない。でも重要なことではないわね。プラタナス、《C 思い出すならね。ものすごく大きなプラタナス、》そしてプラタナスの枝の下で、空気はあんなにも濃密だったか、でなければどんな風だったろう。それかあの臭い。息のつまるような臭いがしたわ、それにひらひらと動く葉っぱ。長い茎についたおおきな茎衣、込みあってはいない枝。これも語ってきかせなくてはならなかったんだわ。そしてこの朝の光を、ひらひら動く葉っぱの間にどんな風に差し込むのか。《C》語れるものなら。
間
そしてしばらくすると私は、この男がいつも同じように横切るのに気づいたの。彼は向こうから来て、私もこっちから行く。彼もこんな風にして横切らなくてはならない。でもそれはずっと後になってからのことよ。私は何もかも混ぜこぜにしてるわ。