長い沈黙
マーリア ああ、あなたのお父様ね、もちろん。お父様のことはすっかり忘れていたわ。
長い沈黙
マーリア でも申し訳ないけれど、そもそもあなたのお父様って誰？誰があなたをここによこしたの？だってもしわかっていれば、私だって当たり前のやり方で喜んでどんな説明でもしたでしょうに。だってあなた、まるで自己紹介するのも忘れたみたいなんですもの。そんなの似つかわしくないわ。《C》お名前をうかがえる？
若者 たくさんだ！
マーリア 《Cそれとも私を丸裸にしたいの？》どうぞ。ここで見つけたものはお持ちなさい。
若者 ふざけやがって！
マーリア 殺したいの？《C》どうぞ。《C》少なくとも私には必要ないわ。
若者 ご自分をお笑い種にはしなさんな。
マーリア あなたのお父様はあなた、《C ならず者だったわ。追いはぎで、ありふれたチンピラだったの。》それに学もなかったわ。ありふれたチンピラ。そして今は死人。どん百姓よ。私の計算があっているなら、もう自分の場所ですっかり腐っているわ。《C 太鼓腹の天使があなたのお父様よ。》
長い沈黙
マーリア よく云うように、私我を忘れたわ。
長い沈黙
マーリア 彼のことは許した、と思っていたのに。
長い沈黙
マーリア あなたってとてもかけひき上手な子ね、それは認めるわ。《C》なんて惹きつけられるのかしら！望んでもいたわけでもなかったのに！
長い沈黙
マーリア 望んでいたわ。
長い沈黙
マーリア まわりを見てごらんなさい。《C》これが私に起きたことよ。
長い沈黙
マーリア 《C私はこうなったの》ごらんになっていいのよ。
長い沈黙
マーリア ね、聞いてちょうだい。誰かに同情されるのはまっぴらごめんよ。私は年寄りで、貧しい、これでおしまい。そして特にあなたからは同情されたくない。聞いて、お話するから。
長い沈黙
マーリア 少しばかり緊張してしまったわ。私のこと大目にみてね。ある光景が頭に浮かんだからなのよ、よく云うように頭に浮かんだの、とはいってもなんてばかばかしいのかしら、光景は光景ですらないし、浮かびもしないし沈みもしない。私の話しはあっちへとび、こっちへとびするの。いきなり、この光景はいつもいきなり現れるの。いきなりこの広場は私の中にある、でも広場だけじゃない、私が広場を横切っていくような感じもするの。私が広場を横切っている。そんな光景よ。私が横切るときのようだと感じるの。晩秋で、私は時刻も日にちも正確にわかっているの、でも今はそれは重要じゃないわ、つまり十一月二十日、何もかもが灰色でびしょびしょ、そしてこの広場は私の中からこんなに強力にやって来る、そこを横切るときのような感覚、そのせいで気持ち悪くなる位。朝だったわ、広場は空っぽ。私はこれから自由になることが出来ないの。こんな病気をご存じ？めまいがするの。云いたいことをわからせたいなら、この光だけでなく、そう、光を正確に語って聞かせなくてはならない、でもどうやったらこの光を語って聞かせられるかしら？家だけでなく、広場の銅像を、反対側の寺院だけでなく何もかも、《C 何もかも！》語って聞かせるなんて出来ないわ。どうして語って聞かせたかったのかすら、もうわからない。どうやったら何かを語って聞かせられるかしら？私、何一つ語れないのよ。
間
そしてあの木々。あの木々のこともすっかり忘れていたわ。いずれそこで初めてあなたのお父様とも出会う、だからこの広場は重要になるの、だから私は語って聞かせたいの。もうわかった？《C あなたはこの広場のことを知らなくてはならないわ、あなたはあそこで大きくなったのよね》そしてこの広場を、今度は私が物語る通りに想像してみてちょうだい、毎朝一人の男が横切って行ったの、その人があなたのお父様よ。この話の中ではそれも重要なの、私はいつも広場を斜めに横切って行かなくてはならなかったから、木々のことも挙げたのよ。なぜかはわからないわ。今になってもそんな風に、斜めでなくてはって感じるのよ。他のやり方ではだめなの。多分それだとその人がもっと良く木々の間に紛れ込めるからだったかも。わからない。でも重要なことではないわね。プラタナス、《C 思い出すなら、ものすごく大きなプラタナス、》そしてプラタナスの枝の下では空気はあんなにも濃密だったか、でなければどんな風だったろう。それかあの臭い。息のつまるような臭いがしたわ、それにひらひら動く葉っぱ。長い茎についた大きな茎衣、混みあってはいない枝。これも語って聞かせなくてはならなかったんだわ。そしてこの朝の光を、ひらひら動く葉っぱの間にどんな風に差し込むのか。《C》語って聞かせられるものなら。
間
そしてしばらくすると私は、この男もいつも同じように横切るのに気づいたの。彼は向こうから来て、私はこっちから行く。彼もこんな風に横切らなくてはならない。でもそれはずっと後になってからのことよ。私は何もかも混ぜこぜにしてるわ。
間
《C 今は私もう、横切ってはいないわ。》
間
私は青りんご色の絹の服を着ていたわ、トカゲ革のサンダルを履いて、全部で底皮２、３枚分もある高いヒールで、靴下はいつのまにかなくなってしまったかして、つまるところ裸足だった、あそこではこんな男物のレインコート、フードの付いたのをもらったわ、背中には大きな赤いバッテンがついていて、いい、そしてトカゲ革のハンドバック、あれもまだあったわ、そんな格好で広場を横切っていたのよ。私は自由だって言われたとき、この青リンゴは知人に見えたわ、私はいつも青リンゴが好きだったわ、でも自分のサンダルの方は見分けられなかった。全部で二十フォリントしか残ってなかったので、靴下は買えなかった。電車は四十七フォリントかかったわ、それからミルクも買ったの。でも別に足が冷えたりはしなかった。甥がまだここに住んでいたので、私はここに来たのよ、でもドアを開けたのは同居人だったわ、その間に住まいの割り当てがあったからよ。
間
《C でもこれはただの言葉ね》
間
何か言ったら。《C》
間
言葉、言葉、言葉。《C》
間
これじゃものすごく静かになってしまったわ。
若者は少しは前に来る、ほとんど跳ぶ。そしてここには何か獣じみたものがある。彼は何かを言いたくて、苦悶する。
マーリア 何も言えないの？
若者は苦悶し、やがて性急に放棄し、ベッドのところまで後ずさりし、枠にすがりつく
マーリア むしろやめましょう。《C》お行きなさい。
大層長い沈黙
私にはわかっていたのよ、《C 前からわかっていたの》 私は永久に自分自身のうちにとどめてはおけないと。いつかは誰かが来る、そして語って聞かせなくてはならない、そのときは死ねるんだって。正直になろうって、それがよりによってあなただとは予期していなかったわ。何をしようと私は、死に近づいていくの。でもだからこそ待っていたのよ。《C あなたの人生を想像していたわ。》ただ私はまだ死にたくないの。語っていた間このことを感じていたし、よく考えてもいたのよ。
大層長い沈黙
マーリア 《C 同情してるの？》
大層長い沈黙
マーリア目を閉じる
マーリア あの光景が消えたわ。
長い沈黙
マーリア 暗くなったわ。
大層長い沈黙、双方とも全然身動きしない
マーリア突然目を開く
マーリア あの声が聞こえる？
若者 どんな声です？
マーリア 誰かがドアのところで点検しているみたい。
若者 風ひとつ吹いていませんよ。
マーリア 誰かいつも私のドアのところでうかがっているのよ。窓から覗いているの。一分だって一人っきりだと感じられることはないわ。一瞬も安らぎはない。誰かドアの前に立っていないか、ご覧になりたくない？《C》立ち聞きされているのよ。
若者 いいえ。
マーリア笑う
マーリア あなたの声を聞いてみたかっただけなのよ。
若者 怖いんですね。《C》
マーリア 本当に安っぽいトリックね、それでもあなたは入ってきた。
若者 怖いんですね。《C》
長い沈黙
若者 《C 恥じることはありません》
長い沈黙
若者 誰であれドアの向こうに立っているなんて思いませんよ。《C 僕はここです。》もうあなたが待つべき人はいません。
大層長い沈黙
若者 それ以外何一つ起こり得ないんです。
長い沈黙
若者 安心してふり返ってごらんなさい、わかりますよ。
長い沈黙、マーリア身動きしない
若者 でなければ目を閉じてごらんなさい。
大層長い沈黙、マーリア目を閉じない
若者 僕はお話がしたいんです、むかし僕が愛した娘がいました。
間
なぜ僕が話すんです？
間
あなたがさっき、出て行けといったとき！
《C》又言葉にすることが出来ません。《C 僕が考えていることを、言葉にするのはうまくいきません》
間。彼は苦悶する。
《C 僕は感じはしませんでした。》
僕は想像してました。《C むしろ想像してました》よく言うように、想像してました。人間はどうやって想像するんでしょう。想像出来るものを。彼には見えるが、他人にはそれが見えない。感じもするが、何一つ起こりはしない、すなわち他人には見えるべきものすらないことになる。
間，彼は苦悶する。
想像、《Cそれとも何と言ったらいいんでしょうか。》それとも感覚。
間 彼は苦悶する
僕は出ては行けません。
間、彼は苦悶する
《C 想像の感覚、》でなければ何と言ったらいいんでしょう。
長い沈黙
若者 僕はここにいられて嬉しい。《C》違う。これはまたうまくいかない。幸福だ。これだってちっとも正しくはない。僕はここに居るだけだ。僕はここに居るということ以外、他のことは何も言えない。僕はここに居る。これではむしろ充分に正確だとはいえない。仮に、僕は非常にここに居る、となら言えるかもしれない。僕はここだ。これならおそらくもっとよく言えているだろう。僕はここだ。
間
《C僕が愛していた》、この娘のことを話したかったんです。
間
もしドアのところへ行ってコートを取り、ドアを開けたら、僕は出ては行けないだろうと想像し、感じていました。何を言ったらいいかわからないでしょう。苦痛でしょう。《C》何を言ったらいいんでしょう？さよなら、また来ますとでも？
あれほど苦痛なのに、どれほど苦痛か想像してみることすら出来なかったし、感じることすら出来なかった。だから、僕はここだと言うんです。結局、僕は非常にここにいる、とは言えないでしょう、僕はここだというだけです。
《C 僕はここです。》
そして、僕はこんな風だとは想像していなかったことも認めることが出来ます。あなたは金髪で、とても背が高くて、そしてとにかくその髪にはいつも風が吹きつけているんだろうと想像していたんです、それはとても子供っぽいことですが。若いんだろうと。あれ以来もう非常に長いときが過ぎたんだ、とわかっていたくせに。非常に長くはないが、長いときが。でもそのことについては僕らは黙っていたから、とても長く思えるのです。僕らは話すことはしませんでした。《C まるでそれが起きはしなかったかのように。》それでも僕はやはり、あなたの髪に、長い金髪に、風が吹き付けるのを想像していました。それがとても子供っぽい想像ではあっても、そしてとても若いんだと。とても若くはないが、でもやはり若いままだ、と。
間
あなたは死の準備をしている。《C》
間
これは最後の瞬間なんだ。《C》
間
みんな死んでしまった。
間
だから沈黙なんだ。《C》
間
この娘は、それほどとらえどころがないように見えるんです。
大層長い沈黙
若者 《C 僕が醜いと思って彼女をじっと見つめたら、突然きれいになりました。それでもやっぱりきれいだと感じたのはムダだった、見てみると醜いんです。》僕はいつも、まるで僕が見つめるのではなく、誰か他の人がそうしているかのように見つめるのが好きだった。僕はこれら全てを望んではいなかった。何ひとつ決して望んではいなかった。《C 彼女の足は曲がっている、あるいはとにかくがにまただと思う。そして彼女の靴も幅が広すぎると。》僕はまるで、一人のよそ者が見つめていてこれらの欠点を確かめているかのように見るのが好きだった。こいつはなんてとらえどころがない女なんだと。
間
何も起こらない。
間
感じますか？
間
あなたはそこで坐っている。
間
僕はここに立っている。
間
何も起こらない。
間
僕はしゃべっている。
間
やって来たときのようですらない。《C 感じますか？》
間
今度は少し黙りました。
間
そしてじっと見つめたとき、《C 彼女が大きな胸をしているのが》見えたんです、大きな。《C そして人間そのことが嬉しいんです、だって気に入れば、やっぱり好きになっただろうし、僕には気に入った、そして後でじっと見つめると、急に小さな胸になったし気に入った、でも後になってまた見つめると、また大きな胸になったかのように見えた》、だから僕はそのせいで彼女がきらいなんじゃない、自分自身がいやなんだと感じたんです。何かを、僕が決められなかったこと、この何かを決められるようにと、僕はひっきりなしに見つめていました。それをこんなに大騒ぎするのは余計なことです。《C わかっていたんです、余計なことだと、》どうであれ彼女は誰とでも寝るんです。彼女のことをばかだとも思いました。利口だったといえるような、そういう利口さじゃなかったけれど、彼女は例えば自分のことは、ひっきりなしに誰とでも寝たいのだとわかっていたし、そのことを隠したりはしなかった。なぜなのかはもう言うことも出来なかったんでしょう、《C でもわかっていたんです》
間
それなりに利口だった。《C》でも僕は一人でいると、やっぱりばかだと思わざるを得なかった。僕はひっきりなしに考え込んだ。しまいにはそのことを考えなくてすむようになり、そうなると僕にとってはちっとも重要でないことにびっくりしました。まるで誰か、必ずしも僕ではない者が、そのことが重要であれと望んでいたかのようでした。例えば彼女の髪はすぐに脂っぽくなりましたが、すぐに彼女の髪が脂っぽくなっても、誰もどうも出来ない。ときどき髪を洗ってやっても、《C すぐもっと脂っぽくなるんです。》
間
きっと僕がお話ししていることは、重要ではないでしょうね。
間
僕はしゃべっているだけです。
間
僕には出来ないんだ、と思っていたのに。
間
自分の言いたいことを言い表せないんだと。
間
そのことは言い表せたんです、でもなぜ言い表さなくてはならないかわからないのです。
間
あなたは僕の声を聞きたかっただけなんですか？
間
答えてください。
間
そうでしょう、ただ僕の声を聞きたいだけなんでしょう？
大層長い沈黙
若者 《C 僕に強制しても全くムダです。》
間
もっと聞きたいですか？
間
やめましょうか？
間
どうして答えられないんです？
大層長い沈黙
それから若者は突然ベットから飛び上がり、女のほうにとびかかる、すぐ近くで身をかがめる、そして不明瞭な声で、長々と彼女の顔に向かってわめく
マーリアは身動きすることなく、その目は動じない
若者は舞台上をあちこち走り回り、声を震わせて歌う、手をたたく、吼えたてる、旋律のある意味不明の言葉をしゃべり、手で机をドンドン叩く、ほえる、口笛を吹く、遠吠えし、歌い、ますます荒々しくなる、輪を描いて、やがて身震いして終いには怒号しつつベッドサイド・テーブルのところで立ち止まる、あえぐ
マーリアは全く身動きしない
大層長い沈黙
若者 どうぞ。《C これはみんなあなたのためにしたんです。》
間、あえぐ
あなたにはどうでもいいんだ。
間、あえぐ
これが全部あなたのものになりますように。
間、あえぐ
《C あなたにとっては僕はただの間抜けなんだ。》
長い沈黙
マーリア お話をして下さるなら、とてもご親切だわ、でも私のことを手伝うのはもう、そんなに容易いことではないの。
若者 それじゃわからないんですか？《C 今度は僕が物語りします。怖がる必要はありません。僕が自分の物語を、お話します。》怖がる必要はありません。
マーリア もし私の番だといわれても、ムダよ。
若者 《C 彼女は、想像して下さい、趣味の悪い服装をしているように見えました、そう見えました。趣味の悪い服装をしている。大きすぎる声で話す。でもそのとき彼女は何かきれいな物を身につけていたし、とても上品に黙っていることも出来たんです。》
間
彼女は他の人の言葉をじっと聴いていることも出来ました。
間
《C まず彼女の口もいやしかった。あまりに薄い口をしているように見えました。彼女の口が気に入らない、と思いました。》
間
この薄すぎる口であんなにも恥知らずに口づけした、まるでとっても、まるで完全に自分自身を捧げようとするかのように。感じることをもう自分に許さないまでも、そしてそのことで僕は、僕に関心がないみたいだと感じた、それほど緊張し、それほどカチカチのままだったんです。《C 僕はそれをそれをそのままにしておきはしませんでした》まるで彼女にとっては僕はファックするため、ファックするためだけに必要なみたいだった。ファック相手としてだけ。これは完全に口だけのことで、意味もない習慣か何かにしかならないでしょう。僕は彼女をにくみました。そのせいで彼女がいやになりました。彼女は２発くらいました。《C ファックする代わりに。》売女です。《C 売女のおふくろと楽しめばいい。自分でファックしろよ！》そのとき彼女の口がとにかく変化して、もっと厚ぼったくなりました。もうそれほど薄くも、それほどとらえどころがないということもありませんでした。わかりますか？ちっとも薄くない、そうじゃなくて確かに厚ぼったいのです。そしてそれも彼女の口だったんです。美しい。《C それじゃその話をしましょう》おそらく彼女の一部ですらなかった何かを僕はぬぐい去ったんです。そして僕の口は、彼女の口が僕のを感じていることを感じたのです。
大層長い沈黙
それから若者は何気なくワイングラスを手に取り、高くかかげ、光のほうにかざして、すかして見る
マーリアは身動きしない
若者 きれいだ
大層長い沈黙
そしてそのあとに続くディアローグの間中若者はワイングラスを手に、ほとんど感知出来ないほど大層ゆっくりと、壁のところにうずくまる
若者 疲れました
マーリア 《C 私は金髪だったわ》
若者 彼女が金髪だったか赤毛だったか、僕には決めかねました。
マーリア 《C あなたは間違わなかったわ。》
若者 僕らがもう何も着ていないときは、そのときは何もかもが良く感じられました。そのときは何一つ決めなくていいって感じたのです。
マーリア 《C まだお腹は空いていない？》
若者 たまにしか彼女の髪は金髪に見えなかった、それ以外のときには赤毛に見えました。
マーリア 喉が渇いたのなら、そのワインを飲んではダメよ、毒を入れたから。
若者 良くはならなかった部分は彼女の体にはありませんでした。
マーリア 私立たなくちゃ。《C》
若者 僕が触れることの出来なかったものが何か彼女のうちには残っていました、でもそれは良いことだったんです、僕は捜しましたから。
マーリア 何か他のことを話して。《C》
若者 やっぱり僕は出て行ったんです。
マーリア 《C あなたはきっと、私がお父様を捨てたことをご存じね。》
若者 何故だかはわかりません、でもあなたのこともそんな風だと想像していました。
マーリア 二度目に釈放されたとき、そしてまたあの広場のプラタナスの下を横切っていったとき、そのときは彼は来なかった。《C この腐った広場から私は、生きている限り自由になれないの》
若者 彼女の頭が、片方に傾いて僕の下の柔らかい枕に沈んだとき、闇の中ではそれは金髪で、赤毛ではないんです。日の光が髪に当たったときだけ、赤毛なんです。
マーリア もし亡くなった主人がたまたまユダヤ人でなければ、私は一番名門の名前の一つを受け継いでいたことはきっとあなたもご存じね。《C 私たちの結婚は今世紀最大のスキャンダルだったわ。》
若者 僕の体を彼女の体に、僕の胸を彼女の胸に、そんなときには残念ながら彼女の胸を感じることが出来ないほどに、そしてやっぱり感じたのです。僕の息が彼女の首にかかり、その炎が僕自身の顔にはね返る、しかし彼女の顔に僕らの下半身の動きひとつ読むことが出来ない。でも僕は見たいんだ、目をこらす。聞きたい。彼女は膝で僕の靴を押し付けるのが好きなんだ。
マーリア 後で、金融資産家だか何だかで私たち生まれながらの貴族は協定を結んだことを読んだわ、そしてそのために楽しむ必要があった、だって単純に征服したから。
若者 僕は彼女が声をあげ、わめき、あえぐ声を聞きたかった、でも彼女の呼吸の上品なささやきだけが聞きとれた、歯の間からささやきと一緒に空気がもれ出てきた、彼女は目を開けなかった、そして口はほとんど完全に閉じられていた。
マーリア あなたはもうわかりっこないわ、それがどれほどある種古典的な意味で、風格のある征服だとみなされたことか。
若者 どうして彼女はそんな風に自分にじっと注意をこらしているんだろう？
マーリア ああ、言えるわよ、なんて気持ちいいのかしら。
若者 彼女のまぶたのおののきだけで、一瞬のもがきだけで、彼女にいいことは僕にもいいことがわかる。もっとゆっくり、ゆっくりになろう。もっとゆっくりと。
マーリア 多分後になって、あなたのお父様との関係でも私は理性を失った、あのいとしい人はもう違うやり方で私を徹底的にユダヤ人化したからよ。
若者 充分に深いといえるような深みはない。ああ、もっと深みへ。充分にゆっくりだといえるようなゆっくりさなんてあり得ない。もっとゆっくり、彼女が求めた。
マーリア ゆるしてちょうだい、お願いよ。
若者 まるで僕らはどんなことをしても実現しようとしていることを、永久に捕えておこうと望んでいるかのようです。彼女はそうは言わなかったが、求めていた。
マーリア わからないの、やめて？！
若者 彼女がそう望んだ。引き伸ばすことすら楽しみなんだ。
マーリア 私は立ちあがらなくては
若者 苦痛さえも楽しみなんだ。
マーリア 手伝って。
若者 楽しみには果てしがないんだ。
マーリア これ以上こんな風に坐ったままでいるのは我慢ならないわ。
若者 彼女は声をあげはしなかった、わめきもしなかった、そしてともかく僕が自分自身に想像出来るのよりずっと知恵があった、だってそれでもっと苦痛を楽しめたから。
マーリア 我慢ならないわ。
若者 そしてそのときは何日も、何週間も。彼らはベッドから起きあがりさえしなかった。覚えてますか？これはまだ思い出す価値のある唯一のことです。
マーリア いいえ。そうじゃなかったわ。
若者 僕はこれしか覚えてません。
マーリア いいえ。そうじゃなかったわ。
若者 彼らは、起きてしまったことが起きないように望んでいたんだ。
マーリア いいえ。全然別だったわ。
若者 彼らはいいことはもはや望まなかったほど、楽しんだ。
マーリア いいえ。そうじゃなかったわ。
若者 そして唯一のおののき。
マーリアは獣じみた声でおめく
マーリア 違う、違う！
長い沈黙
双方身動きしない、縮こまって自分の場所に座りこんでいる
それからゆっくりと起き上がる。マーリアは椅子から立ち上がり、若者は背中を壁に滑らせながら立ち上がる
短い間
やがて若者はたった一度の素早い動きで長いすにびちゃびちゃとワインをこぼし、グラスを右側の壁にたたきつける
マーリア若者の方へ向かい、若者はベッドの方へ向かう、彼らは舞台の中央で出会い、双方慎重に立ち止まる、ゆっくり、いささか不器用に互いの顔に触れる、そして一瞬そのままでいる
互いにすれ違って、すぐさま先へと進む。マーリアは舞台の右側の壁のところに行き、若者はベッドのとこへ行く。
若者は靴を蹴るように脱ぎ、ベッドに身を投げる。腹ばいになる
マーリアはしゃがみ、ガラスの破片を集め始める、その間まるで泣くか歌うかのようにそっとすすり泣く
マーリア 違う。そうじゃなかった。
短い間
若者 そうだった。
短い間
マーリア 違う、そうじゃなかった。
短い間
若者 そうだった、覚えている。
短い間
マーリア 違う、そうじゃなかった。
短い間
マーリア 全然そんなじゃなかったわ。違う、違うの。
短い間
マーリア手のひらでガラスのかけらを握り締めて立ち上がる、若者の方へ向くが上手の壁側にとどまる
大層長い沈黙
マーリア やっぱり動脈を切れるかもしれないわね。《C》
若者ベッドの上で電光石火に背中を向ける
若者 僕が助けるでしょう。
彼は今やあおむけになっていて、やがて足を大の字に広げくつろいでベッドの
もたれにかける
マーリア 《C どういう風にガラスで動脈を切らなくちゃならないか知ってる？》
大層長い沈黙
マーリア さもなければ単純にこぶしを握り締めるだけで、こう圧縮できれば、《C 血がなだれ込むの。》
若者 あなたの手にちゃんと包帯してあげますよ。
大層長い沈黙
マーリア身動きせずに立つ、手のひらにはガラスのかけら
マーリア 何一つ残らなかった。
間
《C ばかばかしい物語だわ》
間
最終結果としてはそれほどひどい被害でもないわ。《C》
間
彼とではそれ以上幸福にはなれなかったでしょうしね。《C》
間
私はここから出て行きたかったんだというところから、始まったのよ。
間
主人はそのときはもう死んでたわ、《C 可哀想に。》
間
でもその前に私を捨てたわ。
間
ダンサーだかなんだかに、《C 男の子に夢中になったのよ》
間
九六キロあったわ。
間
本当よ、私たちお互いいなくても寂しくなんかなかったわ。
間
彼は大食が大好きだったわ。それは大目にみなくてはならなかった。彼のお祖父さんも羽売りのユダヤ人だったわ。国中を歩きまわったのよ。《C 羽を買うよって！》
間
彼のために偽造書類を手に入れてあげたわ。《C》
間
この物語には何の関係もないわ。
間
ある坑道で爆殺訳注１されたの。彼の体はばらばらになったわ。お棺に収める物はなかったわ。
間
《C つまり死んでたのよ》
間
《C ここから始めましょう》
大層長い沈黙
今度はもう若者は身動きすらしない
マーリア しばらくすると私の番だったわ、大食が好きになったのよ。そんな風に育てられてはいなかったのに。私たちテーブルから立ち上がることが出来なかったほど過食したのよ。
大層長い沈黙
マーリア デザートの後は一切れのソーセージまで頼んだわ。それかすじ肉をパプリカ味で。口に甘味が残らないように。
大層長い沈黙
マーリア この物語には関係ないことだけが頭に浮かぶわ。もちろん何もかもがこの物語の一部なのよ。《C 私がこの物語だわ》
間
まるで私たちここに閉じ込められたみたいに感じるわ。《C》
間