　　　第一章　ブダの春の日曜日

　棕櫚の日曜日[１]の頃砲兵通りに、二人の新顔の住人が現れた、二人の女性は地方の女優で、地方では契約がとれなかったためペストに居を移したのだった。

　砲兵通りはベルヴァーロシュ(都心区)（ペスト側のドナウ河畔に面した地区で、現在のブダペスト５区、高級商店街やレストラン、ホテルや市庁舎が集まっている）の真ん中にある旧ペストの生き残りだった、まるでスロヴァキア人の労働者たちが方角を見失ったかのように、すなわち四軒の家からなるこの通りは取り壊されずにすんだのである。[２]ペストの古い市民住宅がここに身を寄せ合っていて、狭く奥深い中庭は、夕暮れどきには脅かすようにかなたまで延びていった。目に見えない水がすり減った石の上をちょろちょろと流れていて、ライオンの頭形の雨どいはすでに半世紀前に用をなさなくなっていた。門の下のでこぼこの敷石は怪しげにきしんだ、まるですぐ下に大勢の地下の住人が住んでいるかのようだった、階段は大胆にも高みに向かってらせん状にカーブして、いっそのこともう裂けてしまいたいとでもいわんばかりに揺れていた。つまるところ老いぼれた、ちっぽけな家々だった、薄い窓の背後には明らかに年老いた人々が住んでいて、音楽付きの時計が鳴っていた、そして女たちは壁のカビのせいで胸の病にかかっていた。どの家にも水道管はなく、夜は階段にガス灯をつけてくれるよう、管理人に叫ばなくてはならなかった。ドアや窓は、外で風があるときには、ひっきりなしにシクシクやりたがった。誰かこの家で殺されて、死体を壁に塗りこめられたというのは、ありそうなことだった。昔のペストではこのようなことがひんぱんに起きたのである。一体どの家で息の根をとめられたセルビア人の仲買人が聞き耳をたてていることやら？

　女優たちは３番地の家の一階に居住していた、二階はなかったからである。中庭のついた部屋と通りに面した部屋が一つずつあり、間に小さな台所、棺おけ位の広さの納戸、そこなら住人は首を吊ることが出来る、掃除女が雇われていたが、彼女は午後早々と出て行ってしまい、この家では誰かと知り合うことはなかったし、客人を迎えることもなかった、ごくたまに家から外出するだけだった。

　ホルヴァート・クラーラは舞台女優、ファーチョル・シルヴィアはオペレッタ歌手だった。カポシュヴァール（ハンガリー　南西部の町）とマコー（ハンガリー東南部　ルーマニア国境の町）ですでにかなりの成功を収めていた。ホルヴァート嬢は「モンナ・ヴァンナ」（仏メーテルランクの戯曲）に登場し、シルヴィアは「きちがい」と「勇士ヤーノシュ」（カチョー・ポングラーツ作曲のオペレッタ1904年初演で大成功を収めた）に出演していた。しかし支配人は彼女らの契約を更新しなかった、シルヴィア嬢はスキャンダラスに美しく、気立ても優しかったが、それ以外何の取り得もなかったからである。ホルヴァート・クラーラは美しくもなく、優しくもなく、叔父が内閣で何がしかの高い位にあったことをやたらと鼻にかけていただけであった。ほとんど近ずき難いことは明らかだった。二人の女性は長年一緒に住んでいた、すでに劇場の劇団生時代からお互いに注目していて、それ以来離れ離れになったことはなかった。ファーチョル嬢は地方では真に誇るべき喝采に浴することは出来なかったが、一座の誰も持っていないような絹のズボンと上等なストッキングを持っていた。彼女は同じ靴を一週間以上履くことは決してなかった。そのときはペストの靴屋に送り返すのである。その靴をすでに、履きふるしの靴を靴屋から大変な高値で引き取るある老紳士が待ち受けていたのだ。シルヴィア嬢の夢見るような、時おり涙ぐんだ眼差し、奇妙な小さな鼻～それは笑ったときも泣いたときもすぐばら色になるのだったが～小さな耳と良い香りのする茶色い髪は誰にでも気に入るわけではなかったということはあり得る、だがその足に対してはもう文句のつけようがなかった。通の老紳士たち、ないしは通りで何時間も上等な靴の後を追いかけ、夜はホテルの廊下で荒々しくいちゃつきながらも、優美な形の女物の履物を抱きしめる崇拝者たちが心に思い描くような女の足だった。

　シルヴィア嬢はおそらく当時のハンガリーで一番美しい足の持ち主だった、ただまだ（靴屋と謎めいた老紳士は数に入れないで）わずかにしか知られていなかった。クラーラは明白な嫉妬を抱いて、夕方ドナウ河畔のブダ側での散歩で、時折彼女らの跡をついてくる男たちの目を見つめた。

　クラーラは灰色の目、赤みを帯びた褐色の髪をした物憂げな歩き方の淑女だった、彼女は常にある種の傷つけられた思いで世間を見つめていた、傷つけられたか、あるいは傷つけてやろうとねらわれているかのようだった。彼女の太った鼻と顎、首すじと耳のわきにある髪の天然カール、そこでは彼女の赤褐色の髪はときどきヴェールのような姿をとった、まるで体のそれ以外の部分で姿を現す髪を模倣しているかのようだった、物憂げな揺れる腰、それを身につけて毎晩食料品屋に向かって走る白と青の縞のやわらかいスカーフ、ふくらんだ胸と灰色のブラウスに軽いチェーンをかけた首、すなわち彼女はユダヤ女に似ていた。彼女は我を忘れたときは鼻声で話した、口を大きく開け、唇をしめらせ、金色のまつげでまばたきした。まぶたは時折夜泣いたために赤くなっていて、どれが売買にふさわしいか常に把握していたほどに、すばらしくきっちり質札を整理していた。

　ドナウ河畔の散歩で、ブダ側で、大きなプラタナスの木の下で、彼女はシルヴィアの腕にしっかりとすがりつき、ブダの紳士たちについて皮肉な意見を述べた。片眼鏡をかけたはげ頭の人々を意地悪くののしり、膝の突き出たズボンの公務員たちに同情し、使用人たちのことをとりわけうんと笑った。

　「一生に一度でいいから、腕ききの理容師と劇場での修練のたまものの手練手管で人の興味を引くんじゃなくて、元から本当に洗練されてて、高貴に、伊達男に生まれついた上品な顔の人を見てみたいものだわ！中世の殿様か昔の芸術家と知り合いになりたい。ダンテのような考え方をして感じ方をするフィレンツェの貴族と。でなければヴェネツィアのドージェ（統領）みたいに貴族的な人に違いない新聞記者と。そんな人に私は自分を差し出したいのよ。とうとう二十四才になってしまったわ。今こそ恋愛生活を始める時期なのよ」ホルヴァート嬢は非常にまじめに言った、そして薄闇の中でベンチにゆったりとかけているブダの人々が彼女の望みを聞きつけようと、全然気にしなかった。

　彼女は余計な紳士たちがシルヴィアの靴の周りに群がっていないかと、灰褐色の目で激しくあたりを見回した、そしてある種の憤慨と共に何度も繰り返してきたお決まりの小唄を続けた。

「私はロシアの女学生だったらよかったのに。ケーバーニャ（ペスト側東南部郊外、現在の１０区にある工業地帯、当時も労働者階級の居住区だった）で生まれたなんて！・・・あの国にはまだ男たちがいるんだもの、私はゴーリキーかだれかニヒリストの愛人になれたでしょうに。ああ、ロシアにはなんて完璧で、申し分のない人たちがいるのかしら。ツルゲーネフかオブローモフの古い小説の登場人物たちだって、みんな一人の女に恋されるだけの価値があるんだもの。彼らの風変わりで、夢みがちな人生、果てしのない雪の積もった平原、途中で止まる停車場もなしにハンガリー一国位の距離を通過してしまう鉄道、トロイカ、タマネギ屋根の寺院・・・ああ私、あの国でならもうとっくに恋愛を始めていたでしょうに。二十四才の女が一人、健康な女が無垢のままで歩き回ってるなんて、医学的にだって間違っているのよ。町にいるあの大勢の男たちが何の役に立つっていうの！ああ、私に彼らの中から選びだすことが出来たら！」

　一人のテニス・ズボンの黄色い靴の紳士がかなり接近してきて二人の女優のわきを通り過ぎた。ホルバート嬢は冷たい軽蔑をこめてこの紳士をじろじろと見つめた。

　「ペストの店員だわ」彼女はつぶやいた。「ブダの女性たちの後を嗅ぎ回ってるのよ。そうはいっても遊歩道では何かの参考になりそうな女をほとんど見かけないのにね」

　ホルバート嬢はこの点では正しかった。

復活祭前にブダの人々が外出することはめったにない。春の流行がどんなものになるか誰にわかろう、そして冬服はすでにくたびれている。たまに一人、二人の女教師が短いスカート姿で大またに遊歩道を急いでいた、冬の帽子はびしょぬれで、まるでひどく悩んでるいるかのように、ほとんどヤケになってかなたに向かって行進していった。ぬかるみが靴を擦りへらし、日中にペストの職場か商店に通うブダの人々だけが幾ばくかの新鮮さ、エレガンス、路上での陽気さを携えていた。帽子を被ったお嬢さんたちは新しい微笑みを学んで～今日、ある上品なペストの女性が商店の前を通り過ぎたとき、その顔に見たのだった～蒸気船上で試してみては、後で遊歩道で試すのだった。先生たちは本を抱えて通りすぎ、ホテルの近くでは一人の黒いボンネットと黒いヴェールのレディが曰くありげにベンチに座っていた、一見ドナウを眺めているようで、実は密かに大層待ち焦がれていたのである。

二人の女優はしばしばペストからブダに駆け落ちしてくる恋人たちの様子を、彼らが馬車でドライブし、ホテルに姿を消し、やがて離れ離れになるのをうかがっていた。淑女は橋のたもとで乗合馬車に乗ると、橋の上で馬車がガタガタ揺れている間ぼんやりし、いささかびっくりしながら橋を、人々を見つめるのだった。まるで突然何もかもがひどく不思議になったといわんばかりだった。黒い煙をはく船の煙突、上に向かって傾斜し、やがて下向きになる橋の鎖、はるか遠くで湾曲するドナウの大河、バーチュカ（ハンガリー中南部セルビア・モンテネグロとの国境にまたがる地域）の小麦船上で乾きつつある女物の下着。まるでそれらが以前には存在しなかったかのように！だがペスト側に着くとすでに全てを忘れているのだった、彼女はヴェールを整えた、唇には新鮮な微笑み、その目にはすがすがしい春・・・

　男の方は電車に乗り、生活に疲れた声で区間切符を求め、これに対し車掌はそれはまずい、橋のたもとまでしか有効ではないからだと説明する、「畜生！」と男は言い、二人乗りの馬車に乗ろうと車を降りる。二人乗り馬車はガタガタ揺れ､盲目の馬はどの車とも衝突してしまいそうだ、手綱が、村の墓場でおののくポプラのように一本調子にぐいと引かれ、男は鼻をかみ、目をぬぐい、手を見つめ、臭いをかぎ、しまいにはタバコかパイプに火をつけ、見かけ上は過ぎ去った出来事を忘れてしまったかのように無頓着に車中で後ろによりかかった。実際は、偶然ペストの橋のたもとあたりで自分のレディをまた見かけたときだけは彼とて驚くであろうに、そのとき彼女ははずんだ征服の歩みで向こうへ急いでいる。彼女は街角ですみれの花束を買い、ある子供服の店のショーウィンドーの前で専門知識と共に視線を服の上に走らせた。

　「あら」ホルヴァート嬢はこんなときかなり大きな声でレディの背後で言った。「ポマードは洗い落としたのかしら？」

　ブダの遊歩道では短い間に二人の女優の恐るべきニュースが生れた。紳士たちは、省庁あるいは各役所のキリスト教徒の紳士たちにふさわしい自信を抱いてドナウ河畔で観察していた、彼らの家はもう遠くはなかったのだけれど。そこでは道楽好きで満ち足りていない、呪ったりあるいはそ知らぬ顔をしながら憎んでいて、泣きわめいてやろうかあるいはいつなりと断固とした一歩を踏み出してやろうと準備のできている公務員の妻たちが意地悪い喜び、あるいは抑制された怒りと共に彼らの帰宅を待ち受けているのである。彼らは決してかげ口の言葉、あるいは皮肉なまなざし抜きに二人の娘のかたわらを通り過ぎることはなかった、ブダではすでに誰もが彼女らの厚顔な振る舞い、とりつくしまのなさ、皮肉で見下げるような態度を知っていたのである。

　老いた局長たちは、なんとか恥知らずな会話をかわす娘たちに関するニュースを聞くことは出来ないものだろうかと、関心を寄せた。二人の娘は最もずうずうしいブダの紳士、きれいに顔を剃った下級公務員マーコシをも突っぱねた。ホルバート嬢はマーコシに平手打ちを約束し、これに下級公務員は警官を引き合いに脅しつけた。

　「警官に合図して、あなた方を連れていかせますよ！」この時代、橋の向こう側では第一のドン・ファンであったマーコシは言った。

　ホルヴァート嬢は立ちすくんだ、平静さに見捨てられたかのようだった、マーコシはすでに友情の笑顔を浮かべていた、シルヴィア嬢はこれにそっと声をかけた（というのもゲリラ戦に参加するのは彼女の常とするところではなかったので）「私たち『太陽』紙[３]に手紙を書いてよ！」

　確かに大勢のものが、ブダの遊歩道を訪れる者たちの間にいる痩せて青い目の、断固たる顔をしたハンサムな若い新聞記者のことを思い出した、彼は翌日遊歩道に現れ、レディたちの散歩に遠くからお供をした。マーコシはブダの女たちの要請で再び、ここにはふさわしくない女たちをブダから根絶やしにしようと持ち場についた。ホルヴァート嬢が実際におせっかいな紳士をひっぱたいて、警官が現われたときも、この新聞記者は熱心にメモをとっていた、静かなブダの通りでは夕方『太陽』紙が買い占められ、女優たちの趣味の良い帽子、シンプルな香水と上品な美しさにひどく悩まされていた遊歩道の淑女たちは、下級公務員マーコシにとても暖かく報いた。男っぽい顔の局長夫人はおやつを用意し、粋な煙突掃除屋夫人（おそらくは何軒かの家の持ち主）が、マーコシに借りを返すと公然と誓ったときも煙突掃除屋一家のところで夕食があった、合唱団ではパーティーがあって、そこではブダの少女たちの署名のある扇子でこの下級公務員をもてなした、そしてみなでこの英雄を賞賛した、というのは恥知らずなペストのユダヤ娘たちをブダから追い払ったからである。

　実際二羽の小さなつばめがドナウ河畔から、ゲレールトの丘[４]のふもとから現われることはなくなった。それ以後冒険に出かける女たちを監視するものは誰もいなくなったし、ベンチで渇いて捨てられた女たちが目をぎらぎらさせて紳士たちを待ち伏せしているとき、そして喫茶店のテーブル下で足たちが途方もなく活動しているとき、夕刻薄闇の中であざけりの意見表明をするものは誰一人としてなかった。全ては元通りの軌道にもどったのだった。ホルヴァート嬢のせいでみながテニス・ズボンをはくところだったかもしれない、紳士たちはこれからも、人生の春を過ぎた煙突掃除屋夫人の1回か2回の夕食のために求愛するかもしれない。プラタナスはため息をつき、船は汽笛を鳴らし、太陽は山々のかなたに沈み、古い家々の屋根ではネコたちが鬼ごっこをし、市民の夫人たちは安らかにマーコシの黄色い靴を夢に見ることができる、そして小さな庭で少女たちは静けさの中で毎晩崇拝者たちを待つことが出来る、すなわちペストのユダヤ娘たちの皮肉で、鋭い高笑いが響き渡ることはなかったのである。

　クラーラとシルヴィアは二度と砲兵通りからブダに出かけようとはしなかった、そこで彼女らは一番楽しい夕方を過ごしたのだったが。クラーラは紙で様々な人物像を切り抜いた。男達と女達を。色鉛筆で口髭と顎鬚を、女達には大きな目と開けた口を描いた。夕食のテーブルの上にこの人物像を展示し、ブダの遊歩道を上演したのである。酔っ払いは千鳥足で歩き、恋に焦がれる年配の淑女はびっこをひき、子犬たちが走り、太鼓腹の参事官は杖を上げて群衆の中に入っていった。クラーラは常に真剣に、ある種の復讐の感情とともにブダのこと、そこから奇妙な人々が出て来るのが見えた奇妙な家々のこと、（垂れ下がった衣服の）公務員たちと目的もなく野生のクリの木の下でサーベルをガチャガチャいわせていた貧しい士官たちのことを考えた。

　「あのすすけてカビ臭い地区から遠ざかったのは、明らかに賢明だったわ、私たちには何の役にも立たなかったでしょうよ。クレチャーニ[５]は遊歩道を毎日散歩したりしっこないわ」彼女はシルヴィアを慰めようとして言った、地方出の娘としてシルヴィアは遠くから聞こえてくる軍楽隊の音楽のリズムで歩くのが好きだった、彼女はドナウの中できらめく星々の空想にふけった、時折彼女はマーチャーシュ王[６]のことを考えた、彼なら間違いなくここを歩いただろう、そして上の方、王城では、曲がりくねった通りで夜半時、城砦の壁から黄金の兜をかぶった中世の王が出て来ることもあり得たろう。

　家の家賃を納めるときが近づき、クラーラは心配しながら日数を数えた。

　「あなたおばさんに手紙を書けばいいんじゃない」彼女はある晩シルヴィアに言った。

　「ペストじゃ私たち彼女をどうすればいいの？今私たちは一座に入ってないじゃない？」シルヴィアが答えた。「おばさんは私たちがダンチュファルヴィかキュルトシュと一緒でなければ、きれいな目をしてるからといって払ってはくれたりするはずないわ」

　その叔母とはドラヴァ河畔（現在のハンガリー／クロアチア国境を流れる河）に住むあるホルヴァート（旧ハンガリー領　クロアチア）の貴婦人だった、早くに未亡人になり、本国ではブーツと毛皮付きのマントで歩いた。ファーチョル・シルヴィアは彼女の姪であった、そしてこの田舎の貴婦人は芝居の大ファンだった。彼女は家では使用人たちの生皮を剥ぎ、森では弾をこめた武器をもって歩く、と言われていた、そこでは彼女は木の葉一枚に至るまで見逃さなかったが、芝居のためなら喜んで犠牲にした。というのもこれはこういう次第であった、シルヴィアが地方女優の頃、支配人に来週あれやこれやの時代劇を上演するようにと頼んだ。男優たちは茶色いブーツで、毛皮付き外套を着て、羽飾りのついた毛皮のふちなし帽で、サーベルをガチャガチャいわせながら舞台に上がり、女たちはみな貴婦人役でギリシア花火[７]をふうふう吹き、韻をふんでしゃべった、そしておそらくプロンプターも拍車のついたブーツをはいてボックスに座っていた。

　シルヴィアはこの特別な夜に叔母をドラヴァ河畔から呼び寄せ、未亡人ウルバノヴィッチ夫人は太い黄金の鎖、巨大な宝石を身につけ、重い絹の服を着て、厚い財布を胸元に入れ、楽しむためにハンガリーに出かけた。

　真っ黒な髪、燃えさかる目、顔を紅色に塗った南スラブの未亡人の奥方は、一座こぞっての期待のさ中に到着し、飢えた男優たちは髭をそり、支配人も自身の桟敷を売りわたした。公演の後ホテルのレストランで夕食となった、そのときも未亡人ウルバノヴィッチ夫人が勘定をもった、そしてジプシーたちにあらゆる種類の歌を演奏させた。彼女は夕食の間にいつも誰か俳優を好きになり、彼に自分の隣に来るよう命令し、食べさせ、飲ませ、さらにしばしば金銭でも報いた。あるときは二日、またあるときには三日間も黒い、狼の牙を持つ貴婦人の恋は続き、ホテルのレストランで一座はホルヴァートの貴婦人の勘定で飲み食いした、そしてシルヴィアも飲めや歌えのどんちゃん騒ぎの間にけっこうな総額にありついた、というのは叔母はその罪のなさ故に彼女をとても愛していたからである。ドラヴァ河のかなたの雌狼は二、三個の宝石を記念に残し、満足し青白い顔で、これからも自分の森で下に落ちてきた木の小枝を見張るために町を離れた。

　「私たちいずれペストでも彼女を楽しませてあげることになるわ、とにかく私を信じなさいよ」とクラーラは言った。「ばあさんを踊らせてあげて、彼女のお金を受け取るのよ」

　かくしてシルヴィアはすわって手紙を書いた、三日後には本当に未亡人ウルバノヴィッチ夫人が到着した。少なくとも一ヶ月はハンガリーで楽しむつもりらしく自転車のチェーン並みのネックレスをかけていた。彼女は旅籠「白い船」[８]に宿泊した、そこの主人が同郷人だったからである、そして砲兵通りまでポーターに案内させてきたのだった。立腹した、ほとんど突き刺すような声で姪に叫んだ。

　「さあ、あんた達は私をだましてむかつく町に呼び出してくれたもんだね。通りでは何かの役に立ちそうな男は見つからなかった、ここにいるのは浜の真砂ほどの貧相な道化ばかりじゃないか。女たちは胸が腰についてるし、背中は板みたいに薄いのね」

　堂々たる貴婦人は白い旅行用外套姿で、まるでブダペスト中を踏み潰してやりたい、といわんばかりに重々しい歩みで、小さな住いの中を振動させて歩いた。

　クラーラは未亡人の言葉が乱暴なのは心得ていた。

「確かに、ズリーニ・ミクローシュ[９]はここで自分向きの軍隊を見つけるのが難しいでしょうね。」

　「ズリーニ！」貴婦人は軽蔑をこめて答えた。「この世にはズリーニは一人しかいなかったね。カポシュヴァールのあのキュルトシュという名の俳優。彼が「神よ！神よ！」と叫んだときは心臓が止まりそうだったわ。あの子はどこへ行ったの？」

　シルヴィアは生き生きしてと立ち上がった。

　「このペストにいるわ。前に通りで彼と会ったわよ」

　「そりゃあとっても素敵だね」叔母さんは満足して答えた、そして外套を脱いだ。

　彼女は小さな住いの中を見回した。

　「あんたたち貧乏暮しをしてるね、いまだに自分自身を悪魔に売り渡してはいないようだ。でももし悪いニュースを聞くようだったら、これ以上もうあんたたちのことは知らないからね。たとえ私がいる森の中には、三日に一度しか郵便がこないとしてもね。さ、見せてごらん、シルヴィア」

　彼女は娘を引き寄せた、そして窓ぎわで熱烈にその目を探り、口を嗅ぎ、腰を手探りし、服の中を身体検査し、最後には友好的にその背中をたたいた。

　「問題ないようだね。そのうち一度あんたにドラーヴァ河畔から野育ちの地主を連れてきてあげるよ。五千ホルド（１ホルドは　　　０．５７ヘクタール）の森林を持っていて、二輪馬車で山の中を気違いみたいに走りまわっているのさ。熊みたいに強くて、深い森の中を歩いて雄猪を狩り立てるんだよ。狼だって恐れないくせに、女たちだけは恐いのさ。だけどあんたの写真、あの半ズボンのやつを心臓の上のあたりに入れて持って歩いてるよ」

　「おばさん、いつその野育ちの地主を連れてきてくれるの？」シルヴィアがたずねた。

　「待つんだね。今はまだ私の友達のジョルジさんが、私は自分であの田舎の地方には行けないんだよ。私たちには電話があってね～すばらしい発明品だね！～毎晩私たちはドラヴァ河をはさんで話しあうのさ。さてあんた赤毛さん！こっちにおいで。私は赤毛の連中は信用しないのさ」

　ホルヴァート嬢はある程度抵抗したが検査に屈服した。

　「ははん！」疑わしげにウルバノヴィッチ夫人はさけんだ。「私の目をごらん！」

　そうしてクラーラの審査も終え、まじめな顔で頭を振った。

　「あんたは熟れ頃だね、娘や、もうあんたを引きとめたりはしないよ。お嫁においき、でなきゃ誰か働きのありそうな恋人を探すんだね」

　「見つかりさえすればね。私の気に入りそうな男なんていないわ」

　「そりゃ本当だね。女たちはみな前より美しくなったのに、男どもときたら醜くなって、ひねこびて、しぼんでしまったよ。私のお祖父さんはまだ、大木みたいだったよ。お父さんときたら、本当のところずんぐりしていたけれど、山の斜面みたいに肩幅が広かった。当節男どもは眼鏡をかけて、顔をツルツルにして、頭を刈り込んでる、だけどこの世にもじゃもじゃ頭で、髭面の、堅固な男の顔より美しい物があるかい？私が国だったら、子供たちをみんな一年間は森や荒野や山地に送るね。そこで一つの世代を築くにふさわしい新鮮で、強い、勇敢な男に育つように。子供が若い狼と戦い、木の鷲の巣のところまでのぼるようにと。残念ながら私はもう五十才で、子供は出来ないけれどね。でももしいれば、毎日氷の張ったドラヴァ河で水浴びさせるだろうよ」

　クラーラは新聞の劇場広告欄にざっと目を通していた。ウルバノヴィッチ夫人の主義は心得ていた。

　シルヴィアは考え込みながら長いすにもたれた、彼女は歌手だったので、しばしば気違いじみた考えにも襲われたからである。

　「ねえ、おばさん、もしいつか私が恋をするのが、どうして気にいらないの？」物憂げな声で質問した。「あなたはかまわなくて、私たちにはダメなの？」

ホルヴァートの奥方は真っ赤になった。

「言っただろう、私はもう五十歳で、何をしてもいいのさ。私には森も放牧地も宝石もあって、この世で私に命令できるものはいない。でもあんたは何だい？乞食娘じゃないか。それ以外の何でもない。声があると思っているのかい？それとも優秀な女優だとでも！下らない！あんたは無垢で、若い、美しい女さ、あんたの財産はそれだけだよ。そしてもし一度純潔さを失ってしまったら、誰も見ていないところで声をあげて泣くことになるかもしれないよ。男どもはもう二度とあんたを必要としなくなる、さもなきゃ必要とされるとしても、今とは違うやり方で必要とされる。その小さな目に見えない、私から、そして他の大勢の女たちから隔たっている一線は、場合によってはあんたの財産の中の宝物かもしれない。場合によってはポイ捨てタバコの吸殻ほどの値打ちもないかも。でもどっちにせよ失わないでいる方がいいのさ、なんせ男どもはそういうことにはとても気難しいからね」

クラーラはこの言葉の洪水をなんとかせき止めようと、いきなり叔母の巨大な肩に腕をまわした。

「見つけたわ。キュルトシュ・ミハーイはヴァーロシュリゲト[１０]に出ているわ。夕食に招待しましょうか？」

「もちろん」ウルバノヴィッチ夫人は答え、またシルヴィアの方に向き直った。

「あんたのお母さんもきちがいだった、だからお父さんは追い出したのさ。どこか田舎の病院で死んだよ。あんたは知らないだろう、そのときはもう私があんたを育てさせていたからさ。あんたのお父さんは遊蕩者になった、放浪の音楽師になって、黒い眼鏡をかけ、毎晩ピアノを弾いた、堀の堤で凍死するまではね。あんたはそんなこと全然知らないだろう、あんたが知ることがないよう私が注意していたからさ。もちろん、私はまちがいを犯さないようにすることで旦那様に尽くしたし、彼が生きている間は裏切ったりしなかったわ。旦那様は私のために恥ずかしい思いをしたりする必要はなかった、なんせ私はきれいだったし、若かったんだよ。彼の方はといえば年寄りだった。でも私は荒野で育った牝馬が狼や犬にやるみたいに、男どもを蹴とばしてやったんだよ。女にはたった一つの武器しかないんだよ、純潔さと忠実さ。それ以外のものはみな後まわしになるのさ。でもお説教はたくさんだろうね。あの俳優の子はどこだって？」

クラーラは新聞を叔母さんの前へとかざした。ウルバノヴィッチ夫人は眼鏡をバックから取り出し、慎重にかけ、頭を振り、うれしそうな顔でキュルトシュ・Ｍがちょうどヴァーロシュリゲトで夜「シゲトヴァールの証人」（ヨーカイ・モールの小説）に出演中であることを読んだ。

　「それはきれいな劇場かい？」彼女はいささかの沈黙の後たずねた。

　「素晴らしいわよ」クラーラは答えた。

　「なら絹のドレスを着るとしよう。桟敷をお買い、舞台の近くのね。髪の染料は私の目にはよくなかったんだよ。染料に水銀だか何だかが入っていてね。私の視力は落ちてしまったのさ。でもここまで辛抱したのに、まさか白髪の老婆姿を見せるなんて出来ないだろう？」

　シルヴィアは頭を手で支え、考え込みながら前を見つめた。

　「あんたはふくれっ面するんじゃないよ！あんたは男どもを知らないんだ、でも私は充分にやつらとつきあったからね。男には二種類の使い道しかないよ。お嫁に行って、そして裏切ったりせず、愛情をこめ、好意をもって、つくして相手が目を閉じるまで一緒にいてやる、最後の瞬間まで「私の愛しき良き妻！」以外のことは考えないようにさせるのさ。さもなきゃ一日か一時間抱きかかえ、それから部屋から追い出し空気を入れ替える、そしてよく洗い流すのさ。男たちの低劣さより女たちのろくでなさの方がひどいもんだよ」

　彼女は一束の紙幣を紙入れから取り出し、市で家畜を買うときさわってみるように、どれかが偽物でないかどうかと紙幣を一枚ずつなで、それから数えてテーブルに置いた。

　「あんたたちにこれが必要なのはわかってるよ。どこかの下劣な男が約束しておきながらくれない、なんてことになるよりは、私があげよう。お返しなら、きちんとして、潔白にふるまうこと以外は必要ないさ。夕方馬車であんたたちを迎えに来るからね」

　クラーラは衣装だんすに紙幣をかくした。

　「ほら、私たちばあさんに失望させられたりしなかったでしょう？」彼女は小声で歌いながら言った。「ああ、どんなにすばらしいでしょうね、お金持ちになって、遠くまで旅をし、本当の男を、一番ハンサムで、一番素晴らしい、一番頭のいい男を捜すのは。さもなきゃ多分そんな男でなきゃだめというわけでもないんだわ、古めかしい指輪のように上品で、ダンテの詩みたいに高貴で、トレドの剣（スペインのトレドでかつて製造された優れた刀剣）のように勇敢なだけで充分だわ。誰か一人中世の騎士を生き返らせたいわ、若い法王かただの枢機卿でもいい、傭兵隊長か泥棒騎士を、家で火の傍らで詩を私に読んでくれて、その間冷たい赤ワインを金の杯からがぶ飲みするような。私に対して卑しい考えを抱かないような、お上品で、金の指輪をはめた白い指で私の髪をなでてくれ、わずかな言葉をほとんど捧げるようにしてもてなしてくれ、そしてただ「赤毛さん！」ってそれだけ言ってくれたら、私にはもう、彼がひそかに何を考えているかわかるでしょうね。ああ、この人のためなら腐りはてるだけの価値があると思うような男を私はいつか見つけてやるわ」

　シルヴィアはピアノに向かって座った。

　「もしお父さんを裏切ったというなら、お母さんは確かに見つけたんだわ・・・」

　「お父さんって何をしてたの？」

　「劇場付属のオーケストラ団員だったと思うけど」とシルヴィアが答えると、二人とも黙りこんだ。おそらく一人のオーケストラ団員にどんな愛すべきところがあるかと考えていたのである。

　シルヴィアは「リップ・ヴァン・ウィンクル」（仏の作曲家プランケットのオペレッタ）のワルツをピアノでたたいた、時折声を放った、やがて突然とび上がって、幾つかの刺繍のあるレースの花を準備していた女友達を抱きしめた。

　「クラーラ、私ものすごく不幸だわ！」彼女は叫んだ。

　舞台女優は笑った。

　「いずれ私たちまたどこかと契約するわ、そしたら何もかもうまくいくわよ」

　「この世に私たち二人みたいな気違い娘なんていないわよ。私は人生でもう何度も恋をしたわ、そしていつも自分の心に黙れって命令してきたのよ」

　「ああ、たった一度でいいから恋が出来たら！」クラーラは陽気なまなざしで応じた。「老いぼれの高級娼婦ウルバノヴィッチ夫人が何と言うことやら、同情するわ！さもなければ明日かあさってにはどうなることやら？」

　「あんたって空想屋さんね。あんたは、ボルゲーゼ公が法王官房の三百年前の地下納骨堂を出て、正式の礼装でドアをノックしてくれるのを期待してるの？」

　「でなきゃ少なくともブダの小さなケーキ屋さんでデートしてくれるようにと期待してるわよ、ペストのみすぼらしい女達が陸軍将校か弁護士見習たちと会うことにしているあの場所で。私だったら本物の枢機卿のためでなきゃ、あそこまで足を運んだりしないわ」

　「あんたはいつだって高望みだったわ、クラーラ？劇場でもたんとバカにされたじゃない」

　赤毛の娘役は、一頭の乗馬のように頭をそびやかした。

　「それがどうしたっていうの！あんなろくでなしども！多分誰かあばた面のコメディアンに自分を与えればよかったとでも？」

　シルヴィアは笑った。クラーラがののしると、彼女はいつも笑った。クラーラはその点では名人だった。

　一瞬二人はいつもの陽気さで互いの目に見入った。シルヴィアはしかしいらいらした気分だった。おばの来訪が彼女を反抗へとかりたてたのである。

　「恋は、相手が指揮者かローマ法王かなんて問わないのよね。あんたなら出来るわ。自分の服だって自分で作れるんですもの・・・」

　「だって私は、他の連中が紳士たちと演劇学校から散歩に出かけていたとき、裁縫を習っていたもの」

　「洗濯も、アイロンかけもあんたみたいに上手に出来る人は一人もいないわ」

　「簡単よ。そのためには明け方に起きなきゃならないの」

　「あんたぐっすり寝るものね」

　「女コックみたいにね」

　「あんたは誰よりきちんとした、誰より立派なひとよ。この世でちょっとばかり歌って見せること以外何も出来ない私みたいな人間はどうしたらいいのかしら？－おばさんが言ったように、それだって全然なのに！－私は体が弱いし、よく貧血をおこすわ、だから笑うとき私の鼻は赤くなるの、私、自信がないわ、だって夜中には動悸がするし、暗闇が恐いんですもの。私は二十歳よ、もう多分十回は恋をしてもいるわ。私は恋も男もなしで一人では生きられないわ」

　「それで一体誰に恋をしたの？」舞台女優は、刺繍のあるレースの花のしわを伸ばすためにアイロンを探しながら、気を良くした優越感からたずねた。

　シルヴィアはピアノの椅子にすわって、自分自身を抱きしめるかのように頭を両腕にもたせた。

　「夜ならもっと上手く話せるのに、だって夜なら私は残らず思い出せるの。彼らは訪ねてきて、私をなで、何人かは私のベッドのへりに座ったわ、あの軽騎兵は窓をノックし、別の軽騎兵は冬の夜ジプシーの楽団を連れてきた。舞台監督のチェレシュは、私彼の部屋に行きさえしたわ、彼は町外れの牛小屋の隣に住んでいたわ、その前は「白バラ亭」酒場だった、そしてチェレシュの部屋にはそれ以前には酒場の集金係りの女の子が住んでたのよ、そのせいで空中にはまだ安物の香水と汚れた下着の臭いがしていたわ、私の靴が口紅の箱にぶつかったの、女声コーラスの連中が塗ってるようなやつよ。多分そのせいで私はチェレシュに許さなかったんだと思うわ、そうはいっても彼、ハンサムで悲しげな若者だったんだけど。それからというもの彼はいつも私を「ふしだら女」と呼んだわ」

　「それから？」クラーラ嬢は刺繍の花の方に身をかがめながらたずねた。

　「あの軽騎兵は兵営に私を呼び寄せたの、彼が私のところに来ることは出来なかったから。私は聖人みたいなユダヤ人の一家のところに住んでたわ、その一家はポーチで寝ていたし、窓には鉄格子がはまっていたの。私が思うに、彼は星二つ（中尉）だったわ・・・茶色い、大きな目の、上品な歩き方をする、本当にエレガントな若い人だった、額には白いシミがあって、それはある女優さんのためにした決闘でついたのよ。ああ、私大好きだったわ、夜はいつも待ったわ、雪がすごく降って、犬たちも大平原（ハンガリー大平原　カルパティア盆地のドナウ川の東側にあるハンガリーの中央及び東部の平原をそう呼び、ドナウ川の西側にある北西部の平原を小平原と呼ぶ）の町で狼の臭いをかぎつけたみたいに吠え立てたわ。私は窓を開け、新鮮な冬の夜の寒気が私の部屋に流れ込んだ。とても昔の、ほとんど憶えていないクリスマスの夜を思い出したわ、お父さんがテーブルで大きなワインのビンを前にして座り、長い管の陶製パイプをふかしてたの、私たちはお母さんと窓のところに立っていたわ、誰かが窓の前を通り過ぎた。「もう窓をしめろ！」とお父さんが言ったわ、そしてそれ以上は何一つ思い出せないの。まるで一生それを言うためだけに生きてたみたい、「窓をしめろ！」って。あの軽騎兵のために毎晩窓のところで待っていた間、もし今お父さんが角型パイント壜を前にして窓のところに座っていたら、果たしてまたそう言うかしら？ってときどき考えたわ）

　「きっとそうね」

　「それからあの軽騎兵がやってきたわ。深い雪だったわ、でも彼の拍車はやっぱりチリンチリン鳴ったわ、まるで小さい銀の鈴を鳴らす天使が彼のまわりで飛び回っているみたいに。私はもう窓の鉄格子ごしに両手を差し伸べていて、彼は何も言わずに私の手に身をかがめたの。彼の口髭には雪のかけらがついていたけど、唇は燃えるようだった。それから彼が両手で突進し、たどり着いたところをなでたわ。何か言ったかどうか、思い出せないわ、口からワインの臭いしかしなかったけど、それだってとてもやさしかったわ。私何度もひどく凍えてしまって、次の日はしゃがれ声になっていたけど、とってもとっても幸せだったわ」

　「それで私の方はそのときどこにいたのかしら？」

　「あんた？羽ぶとんの下でぐっすりねてたわよ、冷たい空気のせいで目をさまさないように、あんたの顔にスカーフをかけておいたもの。彼は青色軽騎兵だったわ、そしていつも私を兵舎に呼んだわ」

　クラーラは笑いながらアイロンをひっくり返した。

　「それはクライン家で起きたことね、私たちの鼻の先まで隠れる位大きな青と赤の羽布団をかけて寝ていたわね？私おかゆの山の夢を見たわよ、自分でかきわけることも出来なかったわ。私鉛の兵隊をクリスマスに買って、窓のところに小さな勇士たちを並べたわ、兵隊が一人足りかったのだけれどね。でもクライン一家は立派な人たちだったんだけど」

　「私の軽騎兵が記念に持ち去ったのよ」

　クラーラは刺繍のレースの花を高くかかげ（いずれ夜になれば肩に貼り付けるのである）、そして注意深く、何か傷がないか、シミがないかと編目から編目へと調べた。

　「ふん」彼女はつぶやいた「私の鉛の兵隊を？」

　「持っていったわ。誰のかとはきかなかったもの」

　「私には一度だってお人形も、小さなミシンもなかったのよ。あのときクリスマスに私は一箱の鉛の兵隊を自分への贈り物にしたの。小さな勇士たちはとっても楽しませてくれたわ。隊長の鼻は赤かったわ」

　「私の鼻みたいに？そうでしょう？」突然シルヴィアがたずねた、そして女友達に密かな一瞥を投げた。

　クラーラは答えなかった。鼻歌を歌いながらアイロンの上にかがんだ。

　シルヴィアは一瞬ほど黙って女友達を見つめた。部屋の中では一台のカッコー時計が非常に大きな音でカチカチ鳴っていた。この時計は彼女たちがどこへ放浪しようともついてきたのである。彼女たちは夜のチクタクに馴れてしまっていた、おお、幾度彼女たちの目は、朝のプローバを前にしてあと十分でいいからベッドの中でぬくぬくしていたいと期待を抱きながらじっと見つめたことか。時計はのどを鳴らすセキと共に、十五分ごとに小さな停車場にたどり着いた。しかしＸＩＩの文字のところでは、カッコーが小さなドアからとびだした、そして正確なリズムで振動板を打って、レディたちに敬礼した、まるで果てしない人生のちっぽけなステーションの一つの小さな駅長か何かのように。劇場に行かなくてはならなかった、そして衣装かごは、中に良い香りのする衣装を入れて、白い清潔なスカーフでおおって、小間使いの少女が劇場まで運んだ。雪の積もった通りにはもう薄青いたそがれが降りていて、橋の下の氷はもうネズミ色だった、そして少年達は一枚刃のスケート靴でとっても早く前へ、そして輪を描いて進もうとした、まるで高い土手の雪の断片で覆われたヤブの後ろに隠れている月を恐がっているかのようだった。小さな町の劇場は、大きな、他に何もない草地の中央に立っていた、非常に寒い時期にはそこを多分まだ狼も行き来していたのである。もう一つの小さな町では、劇場はむしろ町の市民会館の一部を占めていた、そして女優たちは衣装かご持ちの召使たちと細い遊歩道を急ぎ歩いていったのだった。街角ではパラソルの下でクリが炒られていた、そしてふたが持ち上げられるたびに、狭い通りは炒ったクリの臭いになった、そこでは本屋がすばらしいイギリス製カレンダーを展示していて、町中がこれに見とれていた。キツネたちは赤いフロックの紳士たちに追跡され、他方最初の表紙ではディケンズ氏の長編小説の主人公たちが駅馬車で旅し、大食漢のピクウィック氏は燕尾服から誰もがそれと認めることが出来た、さらにウェラー氏も、そしてジョージにちなんで名付けられた旅籠も。われらが女優たちは、宝石商人が青いびろうどに横たえたダイヤモンドの傍らを無関心に通り過ぎた、花屋の花開いた棕櫚にも隠された一瞥をちらりと投げただけだったが、本屋では立ち止まった。便箋の箱ではミレディ（奥方）が馬に垣根を飛び越えさせるか、あるいは古いスコットランドの城で風がミロード（殿）の先祖伝来の色を旗ざおでひらひらさせていた。あるときはカラスでいっぱいの秋の森が便箋の箱を装丁していた。

　「おぼえてる？」シルヴィアが言った「私たち二週間の間に何羽のカラスを見たのかしら？・・・」

　「間違いなく見捨てられた貴族の領地の陰気な秋の夜だったのよ、領主は恋の幻滅のために流浪していた、そして領土にはカラスたちだけしか住んでなかったんだわ」クラーラは、言い放たれた言葉がどう続くか、途中まで見た夢の後半がどうなるか、前もってわかっている人のように、理解の微笑をうかべて静かに答えた。

　今や小さな駅長の敬礼によって、彼女たちが何かに追いたてられることはなかった。町の市民会館では、他の者のために幅広いシャンパン・グラスのような形のガスランプが灯され、そして薄明かりの客席で案内係りの女性たちの頭の白いリボンだけが照らし出されている間にオーケストラはピットの暗闇でそっとチューニングを行った。舞台の灰色の板上には小道具方が膝をつき、ほとんど無いに等しいわずかなろうそくの明かりで、昔の王の肖像を拝謁の間に描き込んでいた。楽屋の鉄の扉は、劇場の衣装係が俳優たちのビールのため、白い下着のため、エナメル皮の靴のために走り回る間、さっと開いては閉じるのだった。

　「すぐ考えついたはずなのに・・・クライン家の人たちはとてもまっとうな人たちだったもの」クラーラはしばらくして長く考え込んだ後、言った。「あんた、私の鉛の兵隊じゃなくて、自分のをあげられたはずよ」

　シルヴィアは乱暴に夢想を妨げられた人のように、憤りのまなざしを女友達に投げた。すんでのところで、長年来全てを分け合ってきたではないかと、遠慮呵責のないことを言うところであったが、シルヴィアは温和で繊細な性質だった。クラーラの叔父が内閣でかなり高い地位をおびていたことは事実だったが、父親はマーリアポーチ（ハンガリー北東部ニレジハーザ近郊の町、現在のニールバートル）の夜警にすぎなかった。

　かつてクラーラが俳優学校にどうやってやってきたか、誰が知ろう、誰に知り得たろう。

　シルヴィアはピアノに向かった、頭をそらし、彼女の考えがさらに過去に、幸せだったとき（今ではそう信じていた）にさかのぼっている間、その指の下からは「王の奪還」（ハンガリーの作曲家コンティ・ヨージェフのオペレッタ）のワルツが響いた、もはや二度とあんな風には幸せにはなれないだろう。

　・・・彼女は青いびろうどの、かかとまで届くマントをもっていた、彼女はそれを着て町全体を征服した。ダチョウの羽のついた帽子が、花屋の鏡の中で上品に揺れていた、ヴェールに、肩に小さな雪のかけら、立ち込めてくる霧の中で街灯は青い輪となって姿を消していき、遊歩道の背の高い、エレガントな士官たち、顔に火薬の痕のついた隊長は黒い毛皮の縁取りのついた外套姿で、幼年学校の生徒は高い縁なし帽をかぶって愛想良く敬礼してくれた。

　「われわれも公演に行きますよ」彼らは彼女の後から叫んだ。

　「ああ、私はなんて不幸なんだろう！」シルヴィアは思った、そして憂いに沈む茶色い頭をピアノの蓋にもたせかけた。

　「おばさんが来てるわよ！」背後でクラーラが冷たい声で言った。（鉛の兵隊のことをまだ忘れることが出来なかったのである）「着替えなさいよ。劇場に行きましょう。見て、ウルバノヴィッチ夫人たらなんて馬車でやってきたのかしら！」

　砲兵通りにギゼラ広場の最もエレガントなつじ馬車が乗り入れてきた。

御者の明るい灰色のコートには四つの貝ボタンがついていた、そして黄色いチェックの馬用毛布を巧みに馬たちの背にかけてやっていた。馬車の灯りは透明に輝いた。叔母は娘たちがぎょっとしてドアを開けたほどの息切れをさせながら階段をはい上がってきた。

　「どうしたの？」シルヴィアがたずねた。

　「どうも」とウルバノヴィッチ夫人は答えたものの、腰をおろすことすら出来ないほどきつくコルセットで体を締め付けていたのである。彼女は深紅色に顔を塗り、目は驚くほどキラキラ輝き、黄色い絹のドレスには新しいコウシンバラが咲いていた、そしてイヤリングはくるみ程の大きさだった。

　「これがもう流行遅れなのは本当だね」彼女は鏡の前で言った。「だって当節、一体全体誰がイヤリングのための三千フォリントなんてかけるんだい？流行なんて、誰もがイヤリングを買えるようにと、貧乏なお金のない人たちの好みで作られるのよ。ちっぽけなダイヤからイヤリングを作るようにとね。私は田舎者の女さ」彼女は尊大に付け加えた「ペストの公務員たちの流行なんて知るもんかね」

　クラーラはしかるべきやり方で叔母に感心してみせた、内心では重い宝石類を好きではなかったのであるが。（彼女なら真に洗練された細工の、おそらくは聖ペテロの鍵をつないでいた金の鎖をブラウスの下に着けたかったことであろう、そしてその鎖には、一枚の薄い、ほとんど見えないほどの装飾が彫られたメダルを、そしてメダルの中央にはばら色の顔、青い目、上品な金髪の、赤い服の男の顔がある。それ以外の宝石は望まなかった）

　ウルバノヴィッチ夫人は豊かな黒髪を指した。

　「これはみんな本物なのよ。私はかつらはつけないからね。悪い女たちだけが自分の髪をいろんな種類の髪でやたらとつぎ当てしたり、補ったりするのさ、多分病院で身を滅ぼした娼婦の頭から刈り取った髪でね。私が髪を染めているのは本当だよ、だってまだ老婦人にはなりたくないからね。間違っているかい？」

　「おっしゃる通りよ、叔母さん」クラーラが答えた、彼女は衣装係りの敏捷さと寡黙さでシルヴィアがホックとボタンを素早くかけるのを手伝っていた。女優たちというものは大方着替えが早いものである、叔母が大鏡の前でしわのないこめかみを自画自賛し始める頃には、シルヴィアはもう白鳥の羽のついた劇場用のマントを身につけていた。

　ウルバノヴィッチ夫人は姪の頭のてっぺんからつま先までじっと見つめた。

　「あんたはなんてきれいな足をしてること！」彼女はしまいに言った。

　「ハンガリーで一番きれいな足よ」ホルバート・クラーラが無頓着に言った。「それは誰でもわかるわ」

　真珠貝のボタンの御者は婦人たちの前で丸い縁なし帽をとって地面につきそうになるまで下げた。彼は巧みに婦人たちが着席するのを手伝い、やがて御者席に一跳びすると、アンドラーシ通り（都心からヴァーロシュリゲトまでのびる大通り）の方に尾の短い馬たちをかりたてた。

　つじ馬車のドライブは女たちの気分に疑いもなく良い影響を及ぼした。

　赤茶色の髪にパウダーをふりかけたクラーラは、まるでまだ鉛の兵隊のことを考えているかのように灰色の濃い目をしばらく閉じていた、街灯でキラキラ輝くアンドラーシ通りで突然我に帰ると、夜の市に皮肉に唇を尖らせて見入った。

　「叔母さん、今ここで何人のエレガントな淑女たちが散歩してるか、信じないでしょうね、その人たちは晩にどこで寝ることになるかわからないのよ」

　「知ってるよ。ペストの女たちは堕落してるよ」

　「そしてこの上機嫌の、ひげを剃った殿方たちときたら、それこそ強盗殺人か空き巣のことを考えてるかもしれないのよ」

　「男百人のうち九十九人まではぜひ撃ち殺さなくちゃいけないね、世界に再び秩序がもどってくるように」ウルバノヴィッチ夫人は熱心に答えた。

　円形広場（現在のコダーイ円形広場）の向こうの外アンドラーシ通りでは、そこでは通りはもっと静かだったが、対抗方向から突然大きなムチの音と、馬の蹄の音が響きわたった。つじ馬車屋は馬たちを引き戻した。

　六頭の、縁飾りのついた馬具をとりつけた、尾の長いくり毛の馬が彼女らのわきを全速力で走りぬけた。一列めの右側の馬には白いズボンの、びろうどの帽子を被った少年馬丁が座り、御者は巨大な緋色に塗られた郵便馬車のてっぺんでほとんど建物一階分の高さに陣取り、そのランプが遠くまで光線を投げかけていた。まだ鉄道がなかった頃、多分イギリスの卿たちはかつてこうしてウェールズからロンドンまで旅をしたのだろう。大きな車輪は荘厳に回転し、召使たちは階段上に身をこわばらせて立っていた。馬車は黄色と白い色で裏打ちされ、後ろ側の席には一人の断固たる表情をした、まばらな黒い髭の、タタール風の顔の上流紳士が陰鬱に座っていた。それまではまばたきしているように見えたその目は、彼の傍らを走り去る女優たちを見ると電球のように突然輝いた。

　彼の隣には、毛皮のふち飾りのついたコートを着て、小さな羽のついた丸い帽子の下は、すみれ色の目、英国風の赤い金髪で、昔のスコットランドの狩猟用の城のパステル画を思いおこさせる一人の淑女が退屈し無関心に座っていた。

　黒い髭のタタールの汗の一瞥は淑女たちの馬車の中にいくらかのセンセーションを引き起こした。

　ウルバノヴィッチ夫人は自制しようとすらしなかった。指輪をはめた指でノックして御者を呼んだ。

　「あの赤い馬車は誰のものなの？」

　「偉大なお方（１９４５年以前にブルジョワジー、インテリ層、六級公務員に対して慣習的に用いられた呼び方）アルヴィンツのものです」

　「行っていいわよ！」彼女は不快そうに言った、今だってたずねる前と同じ程度のことしかわからなかったからである。

　シルヴィアはやがてそっとクラーラに話しかけた。

　「あのすみれ色の目は覚えがあるわ。俳優学校でシュテュンメル・ロッティがあんな目をしていたわ」

　クラーラは軽蔑するようにうなずいた。

　「私たちの学校仲間には、もう夜の集金係になったのもいるのね」