第十章　エシュテッラ

　春の午後ブダに向かって出発したときレゼダ氏は（彼はこのとき自分をアン女王陛下の連隊長ヘンリー・エズモンド¹のように感じていた、ちょうど昔のロンドンの新聞作家の小説を家で、ある塔で読んでいたからである、そこには以前は正気を失った老紳士が住んでいた）無言でホルバート嬢の隣をぶらぶら歩いていた、鎖橋にさしかかったときだけ彼は父親ぶった声でぼそぼそと言った。

　「クラーラ、風がありますよ、帽子に気をつけて」

　概してレゼダ氏はまるで何らかの不運が家族の中で起きたかのようにふるまっていた。偉大なるオリバー・クロムウェルの友人だった育ての父は、英国庭園における決闘で心臓を打ち抜かれた、育ての母は〜ロンドンの新聞記者の表現によれば、地球上で最も美しい、忘れ難い女性像〜悲しんでウェールズの宮殿から遠くを見つめていた、そして軽い雲がこの女王の王国の最も美しい目の中を通り過ぎるのだったーあるいはホルバート嬢が忠実なる騎士をあざむいたのか、行為によってか頭の中でだけなのか、そして今や彼らはマルティノヴィッチ師の野原²（ブダの１区にあるヴェールメゾー　第六章訳注３参照）に大切な死者を葬りに行くのである、それは恋と、友情と、復活祭の朝と、ポプラの木の葉を通して沈む日差しと、冬の晩の夢（外では雪嵐が古い塔の屋根の周りにかかっていて、小説と詩の本が積まれた美しく古い書き物机ではパンチが青い光をあげて燃えていて、誰かが火のそばに座り、焔に見とれ、そしてある女のことを考えている）と呼ばれていた。

　「監獄から解放されたとき、ターンチッチ・ミハーイ³はここに連れてこられてのですよ」ほとんど歯をカチカチいわせながらも、尊大な微笑みを浮かべてレゼダ氏は言った、まるでこの小さな回顧が今一番重要な考えごとであるかのように、ともかく、彼らが鎖橋を離れたあと、そして聖なる僧正から名をとった山（ゲレールトの丘）のふもとに曲がったあと、ホルバート嬢が何を言うのだろうという気づかいではない、嘆かわしい恐れではないというかのように。神よ、彼女はどれほどおそろしいことを告白するのだろうか！世紀の中頃に流行したフランスの小説では、マダムがついに証拠の重みで「ムッシュー、何もかもあなたにお話します・・・」と沈黙を破るとき、裏切られた夫たちは鈍い絶望から唇をひきしめる、造物主たる神よ、ただ何も言わないでくれさえしたら！恥知らずにずぶとく嘘をついてくれたら、空から太陽を、黒から白を否定してくれるなら、嘘でもいいから否定してくれたら・・・だが彼らはまだ橋の上にいたし、レゼダ氏は下で波うつ大河に見入った、そこへはもう大勢があきらめとともに飛び降りていた、そして全員が川にそった市町村で引き上げられたわけではない、いく人かは黒海までいきついたかもしれない、黒海では大きな頭のカニたちと、奇妙なかたつむりたちと一緒に小さなペストの子守り女が泳いでいた、女主人が彼女をぶったのである。レゼダ氏はゆっくり、白昼夢にひたりながら言った。

　「ペストでは、ドナウ川の魚にとっては大きな楽しみがあるのかもしれませんね。水は、ヴィシェグラード⁴では今もなおアンジュー家⁵の王たちと王妃たちの姿を映しているかのように、キラキラ輝きながら湾曲しています、ペスト内では、波とくずと罪と泥で一杯で、たぶん自分自身にもうんざりでしょう。ぼろぼろの黒いハンカチで包まれたコレラが流れの中央を泳いでいる、しょう紅熱は腐敗する木ずり板のきのこの間に場所を求め、そして小さな村に、近くの草地で子供達が遊んでいるような柳の林に停泊するのを好むのです。そして人生でブダをまだ一度も歩いたことがない、そんな典型的なペスト住民たちが波にのって旅をしている、そして今やはりあちらの方へ、モハーチ（ハンガリーの南部クロアチアとの国境近くにある村、ドナウ川はブダペストからモハーチに南下して流れている、すなわちモハーチはブダペストから見てドナウの下流に位置する）の蒸気船がいつも行く方向へ道をとりました。あるカフェの女性マネージャーがコマーロン（ハンガリー北西部のスロヴァキア国境にある都市）で駐在中の恋人、歩兵隊の中尉のところに行き着きたいと思い、ドナウに身を躍らせたのです。可哀想に、学校に通ったことがなかったのでしょう。ドナウがどの方向に流れているのか知らなかったのです。もし水中では上流に向かってコマーロンまで行き着けないことを知っていれば、多分死んだりしなかったでしょう。」

　この瞬間彼らは鎖橋を後にした。

　「もう無駄なおしゃべりは充分だわ、レゼダさん」ホルバート嬢は、母親を失った腕白な子供たちを扱うときのように悲しげな厳しさと共に言った。「ちょっとの間考えさせて、どこから始めたらいいのか、何を否定するか、どこで本当のことを言うべきなのか！」

　「わが心の女王よ」レゼダ氏は口ごもった「嘘で頭を悩ますのは無念です。勇敢に真実を言って下さってかまいません、どこで欺いたのか、誰と、いつ、何度・・・私は病気で人生に倦み飽きた男です、女性たちとはもっぱら頭の中で楽しんでいるだけです、彼女たちの服に触れようとすると、不健康な恐れが引き止める、それどころか私が夜考えていることによれば、毎日午後私はあなたと小さな住いで取っ組み合いをしているのです、まるで脱穀場で刈り入れ女と一緒の農夫の若者のように。そして私の夢の中ではあなたは私の顔にあえぎ、私の顎にかみつき、腰はこわばり、「いや、いや、いや」とかみ締めた歯の垣根の背後で叫ぶのです、しかし若いときの私は良い取っ組み相手でした・・・私は、病気であることに喜びを得るあの病弱な紳士なのです、子供時代に希望もなく恋していたとき病を得たからです」

　ホルバート嬢の目がピカリと光った。

　「私たちの一座には一人の演奏家が、青白い顔の管楽器奏者がいたの、彼はもし楽譜が許せば、下のオーケストラボックスで時々あつかましく振舞ったわ、そこからは女優たちの服の中を見ることが出来たのよ。心優しい母親役の女優たちが直してやろうと努めてもムダだったわ。いい人だった支配人も終いには辞めさせるよりなくなったの。そしてそれ以降もう劇場の演奏家ではなくて、普通の人になったの。でも若かりし日のその妙な過ちについてはやめましょう！私の学校の女友達は、絵をよく眺めてはとても幸福だったの、新聞の活字からあらゆる種類の言葉を細かく切り抜いて、そして詩を彼女たちのシャツの中か、コルセットの下に入れて持っていたわ。あれ以降彼女たちのうち大勢は幸福な家庭の母親よ。心配しないで、レゼダさん、あなたはいつかはもっと幸せで落ち着いた男性になるわ」

　「私は心配はしていません、わが主の君、私自身のためにはほとんど心配などしないのです・・・それどころかあなたに何が起きたのか、すでにずっと前から私が注意していたこの変化はどうしてなのです？・・・」

　彼らはこのときゲレールト僧正の像の下で石のベンチに座った。レゼダ氏は地面に見入り、ホルバート嬢は瞑想にふけりながらペスト側の遠景を見つめた。

　「エシュテッラはナヴァールのある町なの、そして私の若いときの友達の一人がそういう名前だったの、彼女は俳優学校で一番美しい帽子をもっていたわ」ホルバート嬢は物思いにふける声で始めた、まるで自分自身の出来事を語るのにとりかかったのではないというかのように。「エシュテッラは青い目で、赤い髪のひどく堕落した性格だったわ、そして老ウイハージ（ウイハージ・エデ　１８４４〜１９１５　性格喜劇俳優）の手にかみついたの、マールクシュ（マールクシュ・エミーリア１８６０〜１９４９当事の国立劇場の代表的女優）のことは公爵夫人と呼んでいたわ、そしてずうずうしくどこで彼女の干し草の香りの香水を買うのかたずねたわ。彼女は学校に長くは留まらなかった、人生が壁に囲まれた生活から彼女を解放し、そしてしばらくの間私の目から彼女の美しい帽子、上等な靴下ととても素敵な靴は姿を消したの。

　二、三週間前春の日中、私はエシュテッラと散歩道で出あったわ。ああ、彼女はなんて平凡になってしまったのかしら！彼女を見つめたとき、私は始め自分の中で思ったわ。ところがエシュテッラの方では変わっていなかったの、彼女は学校にいたときの彼女のままだった、悪魔的な女よ、多分私の見方の方こそ、かつてのそれとは変わったのね、私たちの子供時代大きいと思っていた家や木が、大人になってから再びそれらを見ると地面にもぐってしまうかのように。エシュテッラは緑色の服と縞の靴下を今も愛用していたわ。幅広い靴底の短靴を足に履いていたわ、そんなので英国女性たちが世界一周旅行をするようなやつよ、顔に錆び赤色のヴェールをかけて、そして御者帽の横に青いカラスの羽。彼女は男っぽく私の手を揺さぶったわ、そしてミレディと呼んだの。ドナウ河畔のカフェにエシュテッラのために入ったわ、彼女は二，三人の新聞を読んでいるお年よりを身をこわばらせて見つめた、それから私たちは隅に座ったわ、私の友達はコールドチキンをボーイに頼み、それから突然笑いながら私の方を見つめたの」

　「私は今英国婦人なのよ、あなた、それだとペストでは男たちの気に入るからなの」

　私は同業者たちが私以上に自由な世界観を告白するのには慣れていたのよ、そして彼女たちの道徳生活はしばしば非難の余地なしというわけにはいかないの、結局私は地方の女優だったのよ、あなた様、それに老監督さんは新入りの女性団員の肩をかんだの。エシュテッラが淑徳の道には留まらなかったことは知ってたの、このドナウ河畔のカフェで彼女の隣に坐っていたときどんな雰囲気の中にいたのか、自分でももうわからないわ。

　「私イギリス人の女性教師のところへ通っているの、そして少なくとも三百語は英語を知ってるわよ」エシュテッラは続けたの、そして上品に食事をとったわ「世界で一番すばらしいお金はイギリスの金貨よ。一番上等な下着はイギリスで作られてるの、そしてもし英国紳士がペストにくるとシュタイン夫人がいつも私を迎えに女執事をよこすわ。私は外国人の紳士たちとだけお話するの、ペストの男たちは堕落しているし、ばかだし、ほんのちょっぴりの秘密だって守れないのよ、そして散歩道かヴァーツィ通りで知り合った女たちを大っぴらに指差すわ。あなたペストで一人と知り合えば十分よ、翌日にはあなたの靴下止めがどんな色だか、町中全部が知ってるわ。ドイツ人たちも好きよ、野暮だけれどね、何時間も人を痛めつけ、値切ろうと試みるわ、幸運にもシュタイン夫人は品行方正な女性で、彼女にはお金のことで冗談は通じないの。ペストに漂着するあのフランス人たちはといえば、話すだけの価値もないわ。ペストの連中よりもっとおバカよ、それにもし通りでフランス語で話しかけられたら、あなたのネックレスに注意していなくてはだめよ。老バラニャイおじさんが生きてる間は、シュタイン夫人のところにもっとひんぱんにカジノの紳士たち、伯爵たちや男爵たちが通ってきていたわ、彼らはバラニャイおじさんが連れてきたのよ、太ったシュタイン夫人が彼に一回か二回撫でさせてくれるようにって。そいつらも紳士たちだったわ、そしてやつらのためにフランスの歌を一つ二つ習ったの、私それに自分でピアノをたたいて伴奏したのよ、シャンパンを冷やしている間にね。絹の燕尾服のサイフの中に大きな額のお札が入っていたわ、そしてＴ公爵はシャンパンをどっさり飲んでいたとき、私にハンカチをプレゼントしてくれたの、それには公爵の紋章が刺繍してあったわ。（後でもちろん、ユダヤ人の紳士たちのところで、このハンカチでずいぶん成功を収めたわ）けれどもバラニャイは卒中の発作を起こしたの、昔あの頃の紳士たちの中でアルヴィンツィ・エドゥアルドだけがときどきシュタイン夫人を訪ねてくるわ、上等の葉巻をふかして、そしてふんふん言いながらシュタイン夫人の生活で起きた出来事を聞いてるわ、そしてあの女はもう自分のところの商品を提供することを思いつきもしないのよ。「ペストに女はいない！」昔は陽気だった紳士たちはため息をついてるわ・・・

　学校でもいつもエシュテッラはおしゃべりだったわ、でもそれ以来もっとよくしゃべくることを学んだみたい。このひっきりなしの会話は彼女の職業の結果なのよ、男たちを楽しませようとして。間違いなく夜、普段着で語ってきかせるお話も幾つかあるんだわ、ジョークとかシャレとか・・・あなたにわかって、親愛なるお友達、あの例の名前をエシュテッラが唇で発音したとき、私の心臓は三度たて続けに激しく打ったわ、静まりかえった国境の森林で、冬の闇の夜、電報が近づいてくる汽車を知らせると、鉄道の番人小屋の合図の鐘が三度鳴り響くように。不幸、ねたみ、苦痛と嘆きが私の咽にこみあげた。このくずめは多分アルヴィンツィの退屈している時間をかすめとるのに成功したのだ！・・・このみじめなやつの頬を打ってやりたかったわ」

　「それであんたでもアルヴィンツィは気に入らないの？」私は押さえつけた声できいたわ。

　「私は誰にでも好かれるわよ」彼女は楽しそうに答えたわ、そしてその目には特別な、嘘っぽい光がピカリと光るのが見えたわ、それですぐにわかったの、エシュテッラが嘘をついていると。私の心はそれ以上痛まなかった。

　エシュテッラはドライ・フルーツを注文したわ、その後端にフィルターのついたたばこを一服二服したわ。

　「あなた幸せ？」私はたずねたの。

　「その幸せって何？」

　彼女は私を見つめた、肩をすくめ、それから少し悲しげになって顔をそむけたわ。

　「ときどき思うんだけど、私はひどく具合が悪いのよ」彼女はぶつぶつ言ったわ。「いつかは私の骨は鋼製だったのにね、あなたくるみを私の胸の上で割ることだって出来たでしょうよ。いずれ治療してもらわなくてはならないわ、ドレスデンに行くの、そこには有名なお医者さんがいるんですって・・・でも銀行にはまだ七千フォリントしかないのよ。全部で一万フォリントになったらすぐ、治すため、休養するために行くわ、誰かドイツ人のところにお嫁に行くかもしれないわね・・・正確に言えば私は男たちにはうんざりなのよ」

　「恋してはいないの？」

　「ときどきはね・・・自分の心の声に耳をかたむけてはいけないのよ。一度で十分だったわ、十三歳のときあるろくでなしのためにマッチを飲み込んだの。私は絶対、誰かならず者が私の苦い収穫を後で持ちだしてカルタに使うか、それとも女たちに使ってしまうために、小銭を一枚ずつかき集めているわけじゃないのよ。悪い奴は毎日のようにいるか、出てくるかなのよ・・・やつらには私がいい服を着てて、きちんとしてるのがわかるでしょうよ、だってもう４年間シュタイン夫人には、私を地元の紳士たちに紹介することは禁止してあるの、最初の千フォリントがたまるとすぐ。いずれきっと、このペストのばかどものために私は売春婦になってしまうわ！彼らの中で一番ピカピカのシルクハットのやつにだって、決して私の靴のひもを結ぶことを許したりするものか。やつらにはきっといつかカフェか通りで、「そこを老いぼれのエシュテッラが行くぞ、あのときもあのときも、あそこでもここでも、いくらでいくらで」って私の後から指差したりなんかは出来ないでしょうよ。神様が口数の多い、下劣な男をぶってくださいますよう！」

　さあ、ついに、高貴なイギリスのレディは地面にたばこを投げたわ、ボーイたちがそっちを見るようにね。そのとき彼女は顔にヴェールをかけたわ、そして声を低めたの。

　「その通りよ、私はもう若くない、わかってるわ、通りでは私よりきれいで若い子も歩いてるわ、どれも村のありきたりのやつが昨今ココットに跳ね上がったんだけれどね。帽子作りが帽子の箱を運ぶのにうんざりして、化粧させ、着飾らせてくれるようにとシュタイン夫人のところに行くのよ。タイピスト嬢には新しい服がいる、仕事時間の後でシュタイン夫人のところにかけつけるの。技師夫人、弁護士夫人、首に金の十字架をかけたブダのお嫁さんがたそがれどきシュタイン夫人の台所でぶらぶらしているの、そして会う男が知り合いであることだけを恐れている、パーティかコンサートでいつもそいつに後を追いかけさせていて、扇子のかげでささやき声で「チャイコフスキー。私は彼の音楽が好きよ・・・」って言ってるの。でも大部分の連中はどんなことでも覚悟しているのよ、だってもう春だし、新しい服がいるからよ。男たちはみな、娼婦たちが新しい春の帽子を手に入れられるようにと、この町で働き、盗み、欺き、強盗し、カードをやるのよ。ペストの女たちのために男たちはドナウに身を投げる、ピストルで頭を撃つ、監獄入りを引き受ける、そしてかわいそうな人たちは予想すらしていない、あがめた淑女はシュタイン夫人の台所で黄昏どきカーテンの背後で、階段で酔っ払いのドイツ人か、アラグ（現在のドゥナケシの競馬場、ブダから３０キロほど西側の郊外）の競馬でお金をもうけたるいれきのあるつじ馬車屋がつまづくのをうかがっていることを。カード賭博屋の元締めたち、彼らなら絹のストッキングを買える分位はプレゼントしてくれるかもしれない・・・ペスト全体が一軒の大きな売春宿なのよ、シュタイン夫人の女執事は多分教会にだって出かけて行くし、今婚礼をあげたばかりの若い婦人を夜に女主人のところへ呼ぶのよ・・・私は老いぼれて、病気になるわ、でも私の名誉はどんなお金をくれてもあげないわ。酔っ払いのジプシー楽団のリーダーとかすりは決してシュタイン夫人のところで私に手をだせないわよ。ギャルソン。Ｖ．Ｓ．Ｏ．Ｐブランデーを一杯お願い。二杯ね」

　「ありがとう」私は答えた「私はアルコールは飲まないのよ」

　「あなたには容易だわ、健康なんだもの、私はもう、二、三杯空にしたときしか気分よくなれないわ。もちろん、私が飲む物は、文句なしに第一級の上等のものであるようにとても注意しているわ。ドイツ人のおじさんが私に倹約させようとしてもムダなの、ハンガリーのシャンパンは馬車屋向きだわ、そして私のお気に入りは「ポメリー・エ・グレノ」（仏シャンパーニュ地方の老舗のシャンパン・メーカー）なの。その内のセック（辛口ぶどう酒）よ。シュタイン夫人はわかってるわ、私がサロンにいるときは、上等なグラスに安物のワインを注ぐことは出来ない、彼女の切り下げ前髪に私がフラスコを投げつけるだろうって、だってもし飲んだら、ときどき私は荒れ狂うんですもの」

　「ぞっとするわ」私は言ったわ。

　「私はとても運が悪いのよ」エシュテッラは静かに言って、そして黙ったわ。

　こんな風にエシュテッラは話してたわ、多分他のことも話したかもしれない、それは私はもう覚えていないか、言いたくないかどっちかね。

　やがて子供時代のことをエシュテッラは話したわ、彼らは村に住んでいたの。２階建ての家にね、でも大きな木が屋根より高くなってしまった、そして夜には忠実な犬達が中庭で吠えていた。彼女は当時いつも黄昏時に、あたりが静まりかえってしまい木々の間で悲しげに闇が行き来するときは悲しくなった。黄昏どきに寂しくならない人には、心がないのよ。それからペストに旅してきた、そして秋の午後遅く、町の上空では一本の工場の煙突の黒い煙が伸びていた、まるで下に横たわる家々には悲しい人間たちしか住んでいないようだった。遠くでは霧と薄暗闇の山が見え、駅ではもうガス灯が灯っていた、そしてまだエシュテッラは罪を知らなかった。

　私たちはブダに散歩に出ていったわ、そしてエシュテッラはいつも自分がどれほど運が悪いかについて話していたわ。多分彼女、それが私には心地よく響いて、それだから私は彼女のことが好きなんだと感じていたからよ。それ以上男たち、シュタイン夫人、堕落した女たちの話は出なかったわ・・・

　「お隣には王様の森番がいたの、彼は何度も私のことをお嫁にするって断言していたわ。顔は霜枯れの景色のように赤くて、そして橇につけた気性の荒い馬を自分で追い立てたの」そうエシュテッラは言ったわ。

　彼女は自分のお祈りの本について、日記についてそして眼鏡の教育係について話したの。

　「私の母が父を愛していなかったこと、あれが全ての問題の原因だったよの！」

　そして彼女は大洗濯の日のことを、ぶどう狩とある結婚式のことを思い出したわ、そこでは彼女は花嫁のつきそい娘だったのよ、そして小さな野バラの花輪を髪に乗せていたの。

　私たちはある小さなカフェの前を通りすぎた、そこでは老カップルがカフェの庭でひなたぼっこしていたわ。山の斜面、古い静かな広場、そしてカフェの店主が小さなびろうどの帽子を被ってドアのところに立っていた。エシュテッラは私の肘に触れたわ。

　「きちんとしたお年よりたちには注意しなさいよ」

　マントを着て、流行遅れの帽子をかぶって、鈎針で編んだ手袋をした老婦人がゆったりと坐っていた、手には写真入りのウィーンの新聞を持っていたわ。あの老人は、誰か引退した公務員みたいに、丸い眼鏡ごしに夕刊をとても注意して研究していた。両方とも黒い服を着ていた、老人の方の手だけは普通の人がはめているよりもたくさんの指輪があって、ルビーの深い焔が強く輝いていた、そしてその小さな婦人の足には、ブダで普通履かれているものより上等な靴があったわ。その短靴には高い、フランス風のヒールがついていた、そして紐は灰色の靴下の上で器用に結ばれていた。

　「それで？」さらに先に行ったとき、私はエシュテッラにたずねたわ。

　友達は目を伏せた。胸元の絹のパンジーが揺れていた。

　「私一番初めはあの人たちのところに通ったのよ、まだ俳優養成所の生徒だった頃。彼らはペストに住んでいたの、黄金の手通り（�X区、現在のヒルトン・ホテルとヴァーツィ通りの中間に位置する通り）にね、そしてもしお客たちが家にやってくると、娘たちを呼びに、ローカーシ伯父さんは老いぼれた足ですばやく二階に上がったわ。サロンには小さいピアノがあった、それであのお年よりは震える手で古いワルツを弾いたわ・・・奥さんは後で二ヶ月間も拘留されたの・・・この商売ではこういうこともあるの―そのとき彼らは商売から手を引いたのよ」

　私たちは先に進んだわ、そして私は、あのお年よりは眼鏡ごしになんとやさしく老婦人を見つめていたのだろうか、と考えていたの。ああ、もし私がいずれ年をとり、醜くなり、そして小さなマント姿でブダのカフェで坐っていたら、私のことを誰かこれほどの愛をこめて見てくれるだろうか？

　ある人気のない庭で私たちはベンチに坐ったわ、そして長い間黙って坐っていた。エシュテッラは突然泣き出して、私の肩に頭をもたせかけ、そして私も涙ぐんでしまったの、私は歯が痛いときだって泣いたりしないくせにね。

　夕方別れたとき私たちは、もしアルヴィンツィ・エドゥアルドがまたシュタイン夫人を訪問したら、そしてサロンで「もうペストに女たちはいない」ってため息をついたら、後でエシュテッラが私を呼びに来ると取り決めしたわ。

　一晩中、エシュテッラの、ブダの老人たちの、エナメル靴の老婦人の夢を見たわ、鈴をならす橇が雪の地方を走っていて、そして赤い毛皮付きのマントを着て、霜のおりた口ひげのエシュテッラの森番が私を呼びに来たの。

　黄昏時に老人のポーターが〜多分ペストで最高齢のポーターね、彼にはアブラハムのように白い髭があったわ〜内緒で廊下へ私を呼び出した、そして紙切れを私の手に押し込んだの。「夜八時。金の孔雀通り３。III １、Ｅ」そのあと私が辺りを見回すと、老ポーターはもう私の前から姿を消していた、まるでただの幻だったかのように。私は急いで着替えを始めたわ、一番上等のストッキングを引っ張りあげ、爪を長い間磨き、シャツにリボンを結んだの、リラ色のリボンを。

　この間私は何を考えていたって？何も。

　私はアルヴィンツィ・エドゥアルドの気に入りたかったの、彼がこれ以上「もうペストには女たちはいない」と言えないように。それまで何があったか、そしてこれから何が起ころうと、とっくに私の前を過ぎ去ってしまったことだったかのように、私は少しも意に介さなかったわ。すでに私もエシュテッラだったのよ、午後は散歩道を男をつりあげるために散歩する、そして人気のないブダの庭で一人で静かに泣く。明日はどうなってしまうのだろう？・・・一番重要なことは、私の靴がピカピカになることよ。

　灰色のペストの家に私はたどり着いた、その前を多分私は、もう他のときにも気づかず、急ぎ通り過ぎていたのでしょう。門の下には住人たちの妙な表札があって、突然のにわか雨につかまったりすると私はそれをいつも、とても楽しんで読んでいたの。そして今、名前の列にシュタイン・Ｏ夫人の名前を認めたとき私の心臓はドキドキしたわ。いささか呆然としながら私は階上を上がっていった、そして呼び鈴のボタンを押した。

　一分ほど待たなくてはならなかった、まるで玄関のカーテンの後ろでは、半分しか着替えていない女性たちがつま先だちで、サンダルで走っているみたいだった。ある声が「ママ！」と叫んだ。ドアは半分だけ開いた、一人のがっしりとした、赤い普段着の女性が、冷たい灰色の両目を私のてっぺんからつま先まで走らせたの。

　「あなたがそうなの？」彼女は厳しく、無愛想にたずねた。

　私はうなずいたわ。

　「お入りなさい」彼女は冷淡に言った。「待たなくてはならないわよ・・・でもここにエシュテッラがいるわ」

　エシュテッラは薄暗い玄関の部屋のどこからか前に進み出てきたわ。両手で私の手をつかみ、そして彼女の目には涙が光っていた。

　「ああ、それじゃやって来たのね？」彼女はほとんで息をつまらせて言ったわ。

　シュタイン夫人は冷たく、命令する口調で発言したわ。

　「お嬢さんたち、玄関の部屋でぐずぐずしていてはだめよ。やって来ては出て行く人全員と会うのは余計なことよ」

　エシュテッラは私の腕をとったわ。

　「台所に行きましょう」

　台所には石油ランプしかついていなかった、その家の他の部屋では輝く電灯を見たのに。玄関の部屋の赤い絨毯と緑の壁掛けに代わって、ここではむきだしの壁と石のベンチが待っていたわ。空気中には食べ物とタマネギの臭いがしていた、隅では一人の老いぼれの召使が食器類を洗っていたわ、そしてスロヴァキア語でののしっていた。窓の下の三本足の低い椅子に、大きな帽子に絹のドレスのレディが坐っていたわ。手袋をした手には上等な日傘を持っていた、そして冷たくじろじろ見た後、再び顔をそむけ、バラ色のカーテンの下で薄暗い廊下を見つめていたわ。

　私たちは大きな旅行用長持ちに腰を下ろしたわ、くっつきあってお互いの隣に、だって私の心臓は、失神してしまうんじゃないかと思ったほどドキドキしていたんですもの。エシュテッラは私の手を握りしめた、そして彼女を横目で見たとき、私は気づいたの、彼女のブラウスのボタンが首で外してあるのを、そして彼女の髪は怪しく乱れていた。ああ、どうしてこの娘は髪振り乱しているんだろう！冷たさが私の背中を走りぬけた、そして私は手をエシュテッラの手からそっと引き抜いた。

　大きな帽子のレディはときおり敵意の眼差しを私の上に投げたわ。特に私の靴が彼女の気に入らなかったのね、それは市松模様のはめ込みがあって、ペストではまだわずかな人しかはいていなかった。彼女はエシュテッラのことは、きちんとした素人の女性たちが通りで着飾った娘たちを見るときのような、皮肉で思いやりのある微笑でうかがったわ。金髪で青い目をしていた、イギリスのデッサン家たちの猫がこんな顔をしているわ、そしてかすかなすみれの香りが黒い絹のドレスから発散されていた。彼女はハンドバックから小さな鏡を取り出すと、白い、小さなビーズのロザリオが彼女のバックの中でじゃらじゃら鳴ったわ。

　今や突然足音が廊下で聞こえてきた、スツールの上でそのレディは素早く向きを変え、手でカーテンを上げたわ、玄関の部屋で短い呼び鈴が鳴ったわ。

　そのレディはいらだって立ち上がったわ。スカートを、コートを次々と引っぱり、ヴェールを直し、優美にわきの下に日傘をかかえ、そしてそんな風にして閉じられたドアに注意しながら立っていた、私たち、女優たちが舞台のそでで自分のせりふの番を待っているように。

　彼女はやがて突然私の靴に一瞥をくれたわ。私たちがまた出会うかどうか誰にわかるかしら、だから彼女は冷淡にたずねたの。

　「お嬢さん、その靴をどこで買ったの！」

　私の精神状態はずっと意気消沈していたの、この質問にほとんど答えられないほどにね。婦人はちょっとの間身をこわばらせて私を見つめ、それから静かにドアが開き、そしてそっと声がかかったわ。

　「金髪の奥さん！」

　そのレディはすぐ「演技」を始めたわ、長ったらしい哀願の果てについにデートに出かけるときの、ブダのホテルに忍び込んだ小さな婦人のように、秘密めかして、嫉妬し、感動して微笑んだわ。その上下劣な女は咳払いまでしたわ。そしてわざと小またの歩調で絹のストッキングで台所からすべり出ていったわ。

　「金髪の奥さんに答えなかったのは良くやったわ」今やうなるような声で私の隣でエシュテッラが言った。「あの婦人はペスト最大の売女だわ、正式の夫がいるので、私たち全員を見下しているの。いつだったかもう運送屋のロージが水をぶっかけてやるって脅したのよ。シュタイン夫人は小銭だってけちるし、あの「金髪の奥さん」は坊やといつも通りを散歩しているわ」

　「坊やはどこにいるの？」私はびっくり仰天してたずねたわ。

　「下の管理人のところよ。管理人は坊やの良い友達なの」

　スロヴァキア人の召使はののしりながら籠に食器を投げつけたわ。私たちは黙ったの、そして私ははっきりとエシュテッラの心臓のドキドキいう音を聞いたわ。それとも多分私の心臓がドキドキしていたのかしら。

　「お嬢さんたち、トランプなら台所でもできるわ、私の部屋を占領しないで！」シュタイン夫人の声が聞こえたわ、そして笑いながら、太った方の娘のおしりをぴしゃりとたたいて、ドアから二人の髪をくしゃくしゃにした娘を引っ張り込んだの、そして小さな薄暗い台所にはいっぺんに、村のとうもろこしの粒をもぐ作業場の雰囲気が降りてきた。

　シュタイン夫人はタバコを口にくわえ、そして台所の真中でまわりに伝染する上機嫌さで、腰に手を当てたの。彼女は笑いながら老いぼれの召使をしかったわ。

　「おやおや、ちくしょう、老いぼれの売女め・・・！いつもお昼の食器を洗ってないのね。さあ、それじゃいずれこれからは自分でそれをやらなくてはならなくなるね。いずれ私があんたに、どうやって洗い物をするかやってみせよう。もちろんならず者のあとをうろつきまわることは出来るのにね！」

　老いぼれの女性はブツブツ言いながらののしった、髪をくしゃくしゃにした娘達が笑っていたわ。シュタイン夫人は三本足の椅子に巨大な体をおろし、そしてタバコから大きく一服した。

　「私の下で椅子が壊れるんじゃないかと、思ったよ」

　彼女はカードを混ぜ、横にいた娘達は床にうずくまったわ。

　「マリッジ（同じ組のキングとクイーンが得点になるトランプのゲーム）をやりましょう、賭け金は５クロイツァー。あんた５クロイツァーある？め牛さんや」シュタイン夫人は太った方の娘にきいたわ。

　「ママ、貸してよ」

　「問題外だね」

　案の定、赤い絹のブラウスの下から太った娘のサイフが現われたわ。

　彼女らは真剣にそしてよく考えてしばらくの間ゲームをしたわ。私が思うに、ゲームの間中、誰一人インチキはしていなかった、シュタイン夫人は多分ずるをした人を殺してしまったでしょうから。

　シュタイン夫人は突然カードを置いたわ。

　「今思い出したんだけど、お年寄りの閣下（原文では「慈悲深い方」、大貴族や大臣クラスの役人に対して用いられた呼称）を起こさなくては。私のソファーでしか眠れないのよ。だからここに通ってくるのさ」

　彼女は背伸びしながら立ち上がり、あくびして、タバコをすみに放った。

　「ああ、私は人生にはうんざりだよ！」

　かつては美しかった顔に、よどみに映った茶色い雨雲の姿のような真剣な嘆きの雲が通り過ぎた。今も燃えるようで深く、茶色い、大きな目には夢想、メランコリー、ブラハ夫人⁶がかつて舞台で見せたような「マジャールの愁い」が現われたわ。

　彼女は古いハンガリーの歌を口ずさみながら台所から出て行った、そしてそれはまだ玄関のホールからも聞こえていたわ「驚いて起き上がったティハニーの娘が・・・」

まるでこの歌で老閣下を起こそうとしているみたいだったわ。

　数分すると真鍮の鳥籠を手にしてシュタイン夫人はもどってきたわ。小鳥が鳥かごの中にいた、多分マヒワかゴシキヒワよ、それは静かに鳥かごのすみにうずくまっていたわ。シュタイン夫人は床にしゃがみこみ、そっと口笛を吹き始めた。小鳥は羽をふくらませて、しばらく答えなかった。シュタイン夫人は人差し指を上げた。

　「お聞き！聖土曜日の夜の鈴みたいだよ！私の可愛い小鳥や！」

　ドアがひとりでに開いたわ、敏捷で陽気なテリアが開けたのよ。黒いシミが犬の顔にあったわ、そして目には、忠実で気立ての良い犬たちの目にいつも輝いているような陽気さが輝いていた。犬は二，三度鳥かごを飛び越えた、そしてシュタイン夫人のことを飛び越え、気違いのように、ほとんど酔っ払ったように夢中になって喜びのあまり女主人の周囲で飛び跳ねたわ。シュタイン夫人は終いには手を差し伸べた、犬はキスし、そして床に横になったわ。

　「坊っちゃまよ！」シュタイン夫人はテリアを指差しながら言ったわ。「もう二百ペンゴー、この子のために罰金を払ったわ、通りでご婦人たちのスカートを引き裂くんですもの」

　シュタイン夫人はしばらく小さいものたちと遊んだわ、明らかにこの世で彼女の犬と鳥以外に彼女の関心を引くものはないのだ。

　足音が廊下に聞こえた、やがて短い呼び鈴の音がした。シュタイン夫人は玄関のホールに急ぎ、そして赤くなった顔でもどってきたの。

　「お嬢さんたち、急いで青い部屋に行って。イェヌー男爵がいらっしゃって、フリッターを食べたがっているよ・・・通りでお腹が空いて、それで何か食べるのに私のところにいらしたのよ」

　エシュテッラは私の腕をとり、隣のドアを通って住いの中を案内したわ。台所で客人が大きなドシンという音と共に旅行用長持ちに腰を下ろすがはやいか、彼のブツブツいう声が私たちにはまだ聞こえていたわ。

　「いずれあんたにもわかるわ、この世にはどれほどたくさんの気ちがい男がいるか」私たちが青い部屋で椅子に座るが早いか、エシュテッラが言ったわ、。「紳士はほとんど全員がいささか狂ってるわよ。何人かはきれいなストッキングが好きだし、ほかのやつは靴が好き、３番目のやつは顔をぶってやらなきゃならないの、だって彼はそれでいい気分になるからよ、４番目のやつはママが手足を荷造りヒモで縛ってやるの、５番目のやつは死んだ奥さんを思って泣くし、そしてやつの子供達のために靴を買うお金をくれって頼まなくてはならないの・・・あるとてもお金持ちで上品な若い人は〜ほとんどロハン公爵並にハンサムなのよ〜泥だらけのかかとの女たちしか愛せない、一方では黒人のヒステリックな詩人にブルボン公爵と称号をつけなくてはならないの、だって昔マドリッドで彼の母上がフランス国王の愛人だったから・・・悲しげな若い人たちがやってくる、彼らはまずシュタイン夫人の肩で恋の悲しみを泣いて晴らす、彼らは不眠症と心の痛みに対する忠告をママに求める、口ヒゲにチックを塗った老紳士たちをヤーンチとかピシュタとか呼んで、すみに立たせなくてはならないの。素晴らしい、立派な奥さんたちのところから真面目な紳士達が逃げ出すのよ、そしてママに汚いスカートの売春婦のことを繰り返したずねるの。新聞記者たちがやってくる、彼らの翌日の記事を台所で読み上げ、シュタイン夫人から意見をきく。ここは気ちがいの世界なのよ〜一晩中不幸で、不運な男たちがやって来ては出ていく、彼らはみんな彼女が一言か、忠告であるいは一人の娘で慰めてくれると、心優しいシュタイン夫人を当てにしているわ。ああ、ペストにはどの位ハンサムで不幸な上流の人たちがいるのかしら。大都市の千の苦痛、涙、不幸なありさまが毎晩シュタイン夫人の台所でこだまする・・・日中は頭を高く上げて通りを行く男たちが、ここで信頼して深い傷を見せる。婚約した若者たちは指導を求めるし、そして老いた家庭持ちは秘薬を恋の回春に求める。普通はイエズス会懺悔聴聞僧の耳に、あるいはマーリアポーチ（ハンガリー北東部ニレジハーザ近郊の町、現在のニールバートル）の奇蹟を起こす婦人の前で膝まづいて、僧院の敷石に口をつけてささやくような秘密が話され消えていく。「人生」も毎日訪問にやってくる、そして一冊のユダヤの祈祷書と「騎士フォーブラの冒険」（仏の小説家ルーヴェ・ド・クーヴルーの恋愛小説）しか読む物はないわ。夜半、静けさの中で待ちながら、淑女たちはあるときは祈祷書を、またあるときは冒険集を手にしてページをめくっている・・・シュタイン夫人の年頃の娘はウィーンのある修道院で成長している、一方夫はカナダで酒場の主人をやっている。私たちはここでこうやって生きているのよ、あなた」

　うなずいたわ、悲しかった、青い部屋には深い沈黙があった、まるで私は生活から、ブダペストからとても遠くへ来てしまったかのようだった、どこかおとぎ話の家で座っていて、そして私の周囲で起きていることは何一つ本当ではないみたい。エシュテッラは人形劇場の奇妙な登場人物の一つでしかなかった、そして直接壁にかかっている、シルク・ペーパーから切り抜かれたバレリーナが回転している。部屋の中にはアヘン・タバコの煙の臭いがして、ロココ調の足の、金色に塗った小さなテーブルに一人用トランプが横たわっていた、シャンデリアからは古い馬券と舞踏会のダンス・カードがぶら下がっていた。灰皿の飾りの黒い仮面の女のガラスの目が光っていた、そして二枚の絵が壁にかかっていた。赤いコートの、髪に白粉を振りかけたロココ調の紳士たちとしなやかなレディたちが古いサロンで興じていたし、短ズボンの黒人の召使がコーヒーを運んでいた。そして、年老いた村の酒場の亭主たちがそうなりそうな、丸い帽子の老人の肖像画が続いた。

　「シュタイン夫人のお父さんよ！」エシュテッラが言った。

　そして老いた酒場の亭主の隣にはヨーカイ⁷の銅版画の肖像。

　シュタイン夫人が肘まで袖をまくった服で入ってきた。焔で顔は赤かった、目がうれしそうに輝いていた。

　「いつかあんたたちに飽きたら、娘たちや、私はイェヌー男爵の領地へ家政婦として行けるんだよ。雇ってもらったのさ。子豚を育てて、黄色いカモとヨチヨチ歩きする小さなアヒルを卵から孵させ、春にゼンマイなしの車で緑の草地を放牧する、そして冬は中庭には腰までくる雪がある・・・それが私には必要なのね、村娘なんだもの。父はシャヨー河畔（ティサの西側の支流、スロヴァキア領内の名前はｓｌａｎａ河）のある流行らない酒場でワインの小売りをしていたのさ、そして冬の夜にはキツネたちと狼たちが河の向こうの沼地でほえていた。お嬢さん、まだ待たなくてはならないよ！エシュテッラ、この淑女に肖像アルバムを見せておあげ」

　赤い普段着の、奥さん風の婦人は高いかかとのサンダルで急いで部屋から出て行ったわ。

　エシュテッラはある引出しから赤いびろうどで装丁したアルバムを取り出したわ。中には男性の肖像写真があったの。若者たち、老人たち、文官たち、僧侶たちと軍人たち、シルマイ・イムレ（１８６０〜１９４５　俳優、人気喜劇役者でオペレッタの二枚目役）とウイハージ・エデ（第二章２０ページ参照）、ブローディ・シャーンドル（第二章１７ページ参照）の額には小説のヒーローみたいに髪が降っていたわ、そして大佐のコートを着た大公、木馬にのった坊や、肘をついて頭を支えたレヴィツキー・ジュラ（第７章、　訳注３参照）、ヴァーロシュリゲトの写真には二人の娘と一緒の新聞記者のラーザール、あるところでは黄金の十字架をつけた僧、それからペストの美形の人々。大きなヒゲのティッレイ・モールと、ハンサムなファルカシュ・ベーラ、コシュート・フェレンツ（１８４１〜１９１４　政治家　コシュート・ラヨシュの息子で父の没後帰国、１８９５年議員となり独立党主となった）とタルヤーン・ヴィルモシュ（１８８１〜１９４７　新聞記者　劇場やオルフェウムの支配人）、彼らはいつも女たちのお気に入りだった、サーカス支配人のベケトウ（ベケトウ・マーチャーシュ　１８６７〜１９２８　道化、曲馬芸人を経てブダペスト大サーカスの支配人）と人気歌手のバウマン・カルチ（バウマン・カーロイ　１８７１〜１９２０　世紀末のブダペストのナイトクラブやオルフェウムの人気歌手）、ライオン頭のアーブラーニ・コルネール（作曲家のアブラーニ・コルネール１８２２〜１９０３かその同名の息子１８４９〜１９１３の作家か？）と老新聞記者のケメーニおじさん（彼は間違いなく敬意から美形の人々の列に加えられたのだ、毎晩オルフェウムの淑女たちの間でヴァージニヤ・タバコをふかしているのだから、とレゼダ氏は思った）、親切で、女好きのする顔の数々、ハンサムなソモリ（作家のソモリ兄弟、デジューとエミルのどちらかか？）とイヴァーンフィ・イェヌー（１８６３〜１９２２　俳優で演出家　主として古典劇の上演に力を注いだ）、モルナール・ヴィクトル（政治家　文化振興と教育の普及に力を尽くした。１８５９〜１９１８）とガーロシュ・カールマーン、ハディク・シャーンドルとマールクシュ・ミクシャ（１８６７〜１９４４　新聞記者　編集者）、彼らの肖像はカルデローニのショーウィンドーにかかっていて、かつて娘たちは記念に買っていた、それから新旧のファッションの非常に大勢の女性たち、何人かの横には黒いヴェールの断片があった、彼女たちは間違いなくもう死んだのだった。それから再びエシュテッラはページをめくったわ、そして大きな写真に、ズリーニ・ミクローシュ・チュニックを着て、バルコニーに立つアルヴィンツィ・エドゥアルド。小さな見張り小屋で合図の鐘の音が鳴り響いたわ。

　「しい！」突然エシュテッラが言った。

　隣の部屋で一人の女の声が大声をあげて笑い、ハトのように鳴いて、ヒステリックに金切り声をあげて泣きくずれ、嗚咽し、興奮して息がつまる言葉を叫んでいた。

　「ペピータ、ハレンチ女よ」憎しみをこめてエシュテッラが言った「男たちを奮い立たせるのに錯乱状態のふりをするのよ。この間あるイギリスの調教師の知り合いがここで寝てたの、朝の列車を待つのに。ペピータは一晩中隣の部屋で錯乱したの、イギリス人は何度も目がさめては、同時に私も起こしたの。あの気ちがいのイギリス人少なくとも十度は目をさましたわ。ああ、夜が明けるまでなんて長かったこと」

　私はとびあがったわ。やみくもに、ふらふらと、我を忘れてドアに走ったの。どうやってたどりついたかわからないわ。通りはもう暗かった、冷たい雨が降っていた、私の顔は涙でいっぱいだったわ、そして一人の酔っ払いの若者をつきのけたわ。

　この話の間、レゼダ氏はホルバート嬢の両手をとっていた。

　涙ぐんだ目で彼は娘の涙あふれる目に見入った。

　「本当にそうだったのですか？」男は静かにたずねた。

　「名誉にかけて！」

　レゼダ氏はこれをきいて令嬢の手にキスした。