第十二章　　　　過去の秋

　ブダの、タバーン（第九章９８ページ参照）にある一軒の古い家では秋だった、そこにはかつて王様たちの恋人たちが住んでいたのかもしれない、地面の下の通路は半ばくずれていたが、王にとっては、毎晩恋人を訪ねるためにもっぱらあつらえ向きだったからである。一つ一つのドアにはワタリガラスの紋章（ハンガリー王マーチャーシュの紋章）があり、崩れたバルコニーの残骸にもカラスが止まっていた。壁の中から古い石たちが見張っていて、まるで彼らの周囲で流れる生活に関心があるかのようだった、地下の廊下ではかわうそが孤独に散歩していて、屋根では雄鶏の風見鳥の尾だけが残っていた、それは子供のおとぎ話のグロテスクさでおかしな具合に動きまわった、まるで不実な雄鶏にとって代わりたいと希望しているかのようだった。

　レゼダ氏はかくてこの家に住いを、部屋を二つ求めた、一つにはホルバート嬢を帽子の箱とともに引っ越させて、もう一つには本と、青いフロックコートと胸に刺繍のある夜会服のシャツを置いた、このロマンティックな男は概してそんなシャツで歩くのが好きだったのである。（ホルバート嬢は刺繍入りのシャツのアイロンがけが見事に出来た！）幅の狭いベッドでレゼダ氏は寝た。クラーラは床に休息用の寝床を作って、古い豆ランプを壁に彫られた十字架の下で就けっぱなしにしておいた、そして彼らはランプの光で毎晩話をした。

　時折小さなボニファーツ・ベーラという客人もあった、彼は長きに及んださすらいの後、徒歩で、汽車で、ドニエプル河のいかだでディデリ・ディルの娘たちとシベリアから帰国したのである。彼は肺結核とブッダ崇拝を地球の反対側から持ち込んだ。一週間というもの貨物列車でヤギたちや毛むくじゃらの子馬たちや仏教の僧侶たちと旅をしたボニファーツ・ベーラのピクニックの途中、どこか中国との国境で、そこにはコサックたちの守備隊がいたのだが、少女たちは退屈している士官たちを楽しませるためにハンガリーの子馬のダンスを跳んでみせたのだった。その貨物列車でベーラは改宗し、中国のお祈りを学んだ、そしてブダに到着すると、この国でブッダに新たな信者たちを獲得しようと腕をふるった、ここでは真の老いた神さえもう充分に崇拝されてはいなかったのである。東洋の神は驚くべき雄弁という衣を不幸な小さな信者に着せ、彼はおそらくかつてよりもみすぼらしかった。だがどうしてみすぼらしいのかは今はもうわかっていた。

　というわけで秋だった、そしてタバーンの塔では時計の音がメランコリックに響いていた。家の前には老いた漆の木が立っていた、それは多分まだジグモンド王（第九章９３ページの注参照）の時代に植えられたのだろう。レゼダ氏は窓からいつもこの漆の木を眺めていた。来る日も来る日も彼は、木の葉がどんな風に赤くなるのかに注意していた、そして子供っぽい悲しみとともに散っていく葉の一枚一枚の後を眺めていた。この住いには一脚の大きな肘掛け椅子があった。年老いた王たちは多分この場所で若い恋人のおとぎ話語りに耳を傾けたのだろう～女たちときたらそれほど素晴らしいお話を語ることが出来るのだから！あるいは多分老王女たちがくつろいで座り、そして若い騎士たちの冗談やかげ口に微笑み、そして皇太后は隣の宮廷ではびこっている不道徳に頭を振ったのだろう。今レゼダ氏がその肘掛け椅子に座っている、銃傷がなかなか治らないからである、動きまわることはほぼ禁止されていた、そしてホルバート嬢は、いかなるタバコの煙にもとがめるようにボニファーツ・ベーラを見た、彼はひと隅に自分用の素晴らしい場所を見つけたのである。彼は以前の住人たちがここに忘れていった子供のゆりかごに座っていた。多分子供は死んだのだろう、そして彼らは悲しい思い出を一緒に持って行きたくなかったのであろう。何週間も小さなボニファーツ・ベーラはゆりかごの中から短い足をたらしてぶらぶらさせていた、そして毎日十語以上話すことはなかった。夕方になると起き上がり、そしてどこかに出て行った・・・神の小鳥たちのようにどこか、人気のない庭で眠ったのだ、彼は決して夜の招待を受け入れなかったからである・・・

　ある日彼はゆり籠からこう言った。

　「あんた方は全然キスしたりしないんだね。私は散歩に行くから、キスしなさい」

　クラーラはしおれて頭を垂れた、そしてレゼダ氏の顔をなでた。

　「もうじき私の優しい旦那様が治って、また健康になったら、そのときはいつだってこの唇の上には私の唇があるの。私は今はまだわが王の侍女でしかないのよ」

　ボニファーツ・ベーラは議論は好まなかった。さらに足をぶらぶらさせ，安物のかぎタバコを吸い込んだ、それは節約のため乾燥させたアカシヤの葉と混ぜてあった。ホルバート嬢は部屋の中を、聖女となった中世の尼僧の静かな足取りで行き来し、料理し掃除した、隣の婦人と廊下でうわさ話をした、これがレゼダ氏を喜ばせるとわかったからである。愛しい人は楽しんでいる・・・そしてイラスト入り新聞の小説を読んで、その続きを毎日好奇心と共に待ち受けた。

　「ああ、シャロクシャーリ伯爵に何が起きるのかしら？」ときおり彼女はこう言った、これもレゼダ氏を喜ばせたからである。愛しい人を捕えるのが憂愁だけでないように・・・彼女はいつもかかとの低い靴と普段着で行き来し、切り下げ前髪にし小さな十字架を身につけ、台所の食器に名前をつけ、そしてお隣の六才の少女ミツィと午後中遊んだ・・・レゼダ氏はまぶたの下でそっと微笑んだ。愛しい人は退屈はしていない・・・彼らはフランス語文法のページをめくった、ボニファーツ氏はしばしば正しい発音のために口をはさんだ、そしてある日一羽の陽気な小鳥を、タバーンの市場からクラーラが持ち帰った。小鳥は、細工用ののこぎりで切り出されたロマンチックな塔のある小屋に住んでいた、そして秋の太陽の日差しが漆の木の葉の間からあふれた出たとき、お話の世界の小屋の中からヤマガラの口笛が響きわたるのだった。クラーラは唇に指を当てて、ほとんどこの世のものならぬ幸福とともに小鳥を見つめた・・・レゼダ氏は目を閉じた。神よ、この世に愛しい人の喜びとなるようなものが何かあるだろうか。

　彼らはこんな風にブダのタバーンで、ジグモンド王が愛人たちを隠していた古い家で暮らしていた。漆の木の葉はどれももっと赤くなり、そして時計の音は秋の静けさをたたえた地区の上空ではより大きくなった。ボニファーツ・ベーラはゆりかごから這い出してきた。

　「やっぱり私は宗派の創設のために出て行くよ！」彼は言った、そして翌日はいつもの時間にやってこなかった。

　あるときジグモンド王の漆の木の黄色い葉は申し分のない赤になった、ホルバート嬢はその日、二匹の子猫をタバーンの市場で買った、一匹はしまの雄猫で一匹は黄色いぶちの雌だった。彼女は雄猫をレゼダ氏の腕に置いた。

　「これはあなたの！」彼女は優しい母親たちが病身の子供の方に身をかがめるような、憂いに沈んだ微笑を浮かべて言った。

　彼女はぶちの首に赤いリボンを結んだ。

　「お嬢さん！」彼女は言って、涙ぐんだ目で笑った。

　レゼダ氏はシマの雄猫を撫でている間、またも目を閉じただけだった、そして遠からず司祭を呼んでこさせなくてはならないと考えていた。愛する淑女との別れはどれほど困難なものとなるだろう！昔の王の漆の木から落ちた木の葉は、ほぼメヌエットのステップで旋回していた、そしてセルビア人の町の屋根の上空はお話の中のような深さをたたえていた。煙突は、アンデルセンの童話のように陰鬱に煙をはいていた、そしてドラゴンの頭飾りのついた錆びた雨どいは秋の日差しに対して、一体いつになったら山々のマントの形をしている雲は、彼らが勤めを果たせるようにやって来るのかと、ほとんど陰険に、修繕された目をパチパチさせていた。この地区に何匹白い犬がいたにせよ、どれも急いで通りを走っていた、まるで逃すことの出来ない用事があるかのようだった。ワタリガラスたちだけがしばしば不安を抱えながら家の軒に腰を落ち着け、そして高い停泊場所で心配事にひたりながら瞑想していた。晩秋だった、お日様は、勲章をつけたピンク色の顔の老人たちがかつての恋人たちを訪れ～午後に美しい過去について話しあうように～聖なる恋を抱いて曲がりくねったタバーンの通りを散歩していた。

　ある午後マダム・ルイーゼの快適な馬車が、かつての王の愛人たちの家の前で止まった。女主人は灰色の旅行着と小さな、羽のついた帽子を身につけていた、御者席からボニファーツ・ベーラが飛び降りた。悲しげにそして考え込みながら友人たちに声をかけた。

　「残念だが、私はマダムの隣には座れないんだよ」彼はまるで途中まで口にだしかけた考えを続けようとするように口ごもった、「マダムは、私がお粗末な服で隣に座ったりするには、ずっと上品で裕福だしね。通行人たちはこう考えるかもしれない、太った背中の馬たちが偶然鎖橋でやつをはねてしまったのかもしれない、そして心優しいマダムが今病院に自分の馬車で運んでいるのだと。だが君らは安心して馬車に乗ってかまわないよ、われわれはクリスティナ（ブダ側の現在の１区にある、王城の丘の西側にある地区）の「赤い狼」に行くんだ、そこではシルヴェステル氏への敬意を表して盛大なパーティーがあるんだよ」

　「あのご老体は死んだのですか？」レゼダ氏がたずねた。

　「まだだ、だがもう死にかけている。小ゲレールトの丘の野ばらの木の茂みの間でうとうとするために通っている、大きな石に頭をのせて、そして時折枯れた芝生から起きるときは非常に不満そうだ。自殺した娘の夢を毎晩見ている、そして夕方は長い間太陽を見つめている、まるで明日はもう見られないだろうというように。あのお年よりを楽しませるために行こうじゃないか」

　優しいマダムは、弱っているレゼダ氏の肩と膝に暖かいスカーフをかけるようにと心遣いをした。ホルバート嬢は、まるで誰か前世紀のブダの婦人から借りてきたかのようなみすぼらしくて妙な小さな帽子を頭の載せていた。彼女の手袋は必要な個所では繕ってあり、そしていささか擦り切れた靴を心配そうにスカートの下に引っこめた。マダムは長いまつげの下からたった一瞥でこの女優を上から下まで見て、軽くため息をついた、そして一本の赤いバラをクラーラに差し出した。

　「金髪の人たちに良く似合うのよ！」と言った、その声には許しを乞う響きがあった。

　小さなボニファーツ・ベーラは御者台に腰をおろし、そして活気に満ちた、灰色のヒゲの御者は～彼はまるで霊柩車の御者席に座っているかのように悲しげだった～広い背の灰色の馬たちをムチで駆り立てた。若き日のマダムは一番俊足のアメリカ馬を自分の馬車につなぐのが好きだった、そして御者席には時々縞のズボンのテノールを座らせた、しかし時とともに血が静まってからは、ヴェスプレム（ハンガリー西部の都市、昔は司教管轄権区だった）の管区教会代表団から馬たちを買った、それらはもう老いた司教座参時会員氏すら馬車につなごうとしなかったのである。

　かくて彼らは曲がりくねったブダの通りを、山を上がり谷を下って行った、灰色馬たちは、まるで頼りになる昔の公務員たちが職務を果たしているかのように忠実にだく足でかけた。マダムは目のつまった、青いヴェールのついた帽子の下で身動きすることなくまじめにくつろいで座り、レゼダ氏は、しばしば倒れた囲い、崩れた家々の背後に浮かびあがった美しい秋の風景に注意していた。王城ではある家の屋根が濃いピンク色だった、まるで新たに瓦をふいたかのようだった、塔は希薄になった空気の中からほとんどセンセーショナルなほど尖がってそびえ立っていた、遠くの山々の上では鳥たちがくの字を作って飛んでいた。ホルバート嬢は愛人の顔を真剣な信頼とともに見つめていた。彼の目、顔、そして首を、それはとりわけ細くなり青ざめていた。彼女は献身的な愛情とともに、人生を捧げつつ、神聖なる愛とともに若者を見つめていた、彼はまだつい最近彼女のために心臓に弾丸を送り込もうとしたのだ。彼女はまるで天気が悪いときの花のがくのように唇をしっかり引き結んでいた、しかし彼女の目、額、つくろった手袋と擦り切れた靴のつま先は常に「ああ！」とだけ言っていた。

　クリスティナ区を快適な馬車は進んで行った、車輪がゆっくり回転した、もう急がせても仕方なかったからである。マダムはしばしばヴェールの下でうっかり口を滑らした。

　「ほら見て！」

　色褪せた木の下で恋人たちがぶらついていた、男たちは、気まじめで、考え込んでいて、言えることだがフロック・コートの紳士たちで～ところどころに灰色の口ひげのがいた～その傍らにはペストの婦人か小娘、彼女は不満気にそして不機嫌に征服者の傍らを闊歩していた。幾人かの女性は身をこわばらせて、自分のパラソルが地面に届く個所を眺めていた、他のものたちはクリスティナ区の道の縁に並んでいる木々を見つめていた。ブダを散策する淑女たちの服装には、非常にしばしば昨年の流行が現れていた、それどころか一般的に彼らはみな、まるで新聞の三行広告の「捨てられた妻」という仮名で知り合ったかのような格好だった。ぽっちゃりとした女性がその知り合いと並んで、そこを行くところだった、彼女の仮の名は「地方出の金髪婦人」と「第一歩」だった。彼女たちはあるときは目立つ服で、そしてまたあるときは流行遅れの服で、断固とした表情の染めた口ひげの紳士達の腕の中で着飾っていた、まるで、三行広告で場所をここと取り決めたとき、まだ一度もブダに、ヴェールメゾー(血染めヶ原)(第６章　　訳注３参照)の地に来たことがなかったかのように。誰がブダで、ヴェールメゾーでデートするだろう？王女たちは間違いなくここで騎士たちと会ったりはしないだろう、インファンタたちはここに駆けつけはしないだろう。散歩の途中で心にかかっていることをありったけ言うために淑女と一緒にブダに、ヴェールメゾーに行く人は、非常に若いに決まっている、心の中で恋に燃える愛人あるいはおませなめかし屋に決まっている、ガタがきた老独身主義者に決まっている、恐がり屋で八人の子持ちの一家のパパに決まっている。彼らの口ひげを床屋はこの日、より入念に染めたであろう、そして女たちは昼食の後、色褪せた刺繍の飾りにアイロンをかけたろう。

　「隊長の奥さん！」マダムが言った。「もう十年間彼女を見てきたわ」

　一人の小柄で干からびた、短いスカートの婦人がほとんどチョロチョロした動きでまん丸な、真面目そうな男のわきを闊歩していた。目はこうもりのそれのように輝いていた、そして素早い一瞥をマダムの馬車にくれた。マダムは馬車のクッションの上で犬皮の手袋をはめた手を、ほとんど気づかれない程度に動かした、そして隊長夫人は奇妙な小さな帽子の下から友好的にうなずいた。それから馬車の車輪は先へとまわって行った。

　マダムは秋の雲を見つめ、それからそっとため息をついた。

　「ああ、ブダを歩いているのはウィリアム・テルばかりだ。男たちはみな女たちの心臓を打ち抜く」

　馬車は半ばまで地面を掘って建てられた一軒のレストランの前で止まった。遠くからではなく、多分レストランの中庭から、鍛冶屋のハンマーのトンカチいう音が聞こえてきた。小さな町や、静かな村ではこんな風にハンマーが響くのである。夕暮れ時の薄暗闇の中で青と赤の焔が鍛冶屋の炉に現われ、蹄鉄打ちを待つ老いた灰色の馬が悲しげに立っている・・・

　「それじゃ飲みすぎないで！」聖人たちの後光のさした顔を見せた女優は、レゼダ氏にささやくか考えるかした。金色がかった茶色の髪には、晩秋の午後別れをつげるお日様が、色褪せやすいプリムラの色で輝いていた。レゼダ氏は敬虔の念をもって、淑女の帽子の下から現われた素晴らしい髪の房を見つめた。髪は秋の日差しの光の中でキラキラし、そんな髪のためなら、おそらくかつて王たちが殺されたこともあったろう。アヴィニオンの宮殿で黄昏が夢見るような一瞥を投げかける間、昔の法王たちの前で、ホルバート嬢のような髪をした王女たちは膝をついただろう、・・・レゼダ氏は鍛冶屋のハンマーが遠からぬ場所でメロディアスに、村のもの淋しさとともにトンカチいっている間、もちろん自分の内でこれを考えたのだった。

　「着いたぞ！」ボニファーツ・ベーラが言って、御者台から飛び降りた。マダムは威厳をもって馬車の階段を降りていった、まるで急いで駆けつける召使を待っているかのようだった。御者はこの間油布で覆った帽子を手に持っていた。そして御者に女主人はスロバキア語で言った。

　「お前さん、三十分後に迎えに来ておくれね」

　（マダムは村の領地で何人かの召使と多かれ少なかれ親戚関係にあることが、いっぺんではっきりした。彼女は貧しくなってしまった親戚たちをあばら家に詰め込んだ、そして少なくともよそ者たちに煙突からハムを盗まれるのではないのだ、と自分を慰めたのだった。夏季の村ではこの老いた御者は六人の子供の父親だった、女主人のブドウ畑で耕し、そして寒さの開始とともにようやく御者の制服を着るのだった）

　レストランの中にはすでに、もしそれを陽気な生活と呼びうるのなら、陽気な生活があった、シルヴェステル氏はキノコ位の大きさの帽子をかしげて被っていた、そして必要以上に飲んでしまったかのように、一人の盲目の太った人間の広い肩によりかかっていた。

　「わが友のボチュカイだ、残念ながら、本当のボチュカイ一族の出ではない[１]、だがやはり本当に素晴らしい人間だ」シルヴェステル氏は友人を指さしながら言った。

　一瞬の後、彼は手を派手にふった。

　「ボチュカイはブダで一番素晴らしい人間さ。若い頃は劇場付きの演奏家だった、だが舞台の上の、女優たちの服の中をやたらとのぞきこんだので、盲目になった。かくてピアニストとして夜間の盛り場に現われた、そして彼の人生で一日として悲しかったことはない。ヒムゼー通りでは本当に良い仕事があった、最高の大貴族たちにダンス音楽を提供して、若い貴族たちはあの頃天意が介入するまではダンスを習いに通ってきたのさ。わが友ボチュカイはその家のある淑女に恋をし、そのために盛り場から遠ざからなくてはならなかった。可哀想なやつが嫉妬し・・・彼は今はもうカパーシュ通り（現在のブダ側の２区、王城の丘の北側のヴィズィヴァーロシュ地区にある）でしかピアノを弾いていないんだ」

　盲目の人物は自分の人生図を満足してあいずちをうちながら聞いていた。彼のベストには太い銅の鎖が、黒いネクタイにはターバンのピンがあった。清潔なカラーとハンカチがあった。一体誰が盲目の人物の服装の世話をしているのだろう？・・・ボチュカイは手を常に太い脚のついた、分厚いガラスのグラスにかけていた。シルヴェステル氏は時折法律家の上機嫌さでピアニストのグラスを満杯についでやった。

　「私は夜はカパーシュ通りに行くよ」輝く目で彼は約束した。「可哀想な妻が死んでから、決して女性を抱いたりしなかったさ」

　マダム・ルイーゼは声高に笑った。

　「ああ、老いぼれのろくでなしたち、みんなそんなことを言うのね！あんたたちはそうやってすでに女たちを誘惑しているんだから。あれ以来・・・十年間というもの・・・十五年というもの・・・もし一人の男が十年間清らかな生活を送っているとしたら、それは否定し難い興味深いことよ」

　マダムは上座に座った、そしてただちに自分の隣からボニファーツ・ベーラを巻きタバコの悪臭とともに追い払った。

　「レゼダさん、あなたはタバコは吸わないわね・・・私の隣に座って」

　サラミ、タマネギ、辛い小さなパプリカを酒場の亭主が持ってきた。パイント壜の赤ワイン、そしていぶしたハムを、それにシルヴェステル氏は即刻自分のナイフを提供した。彼は盲人と杯を合わせた。

　「かつてはいつも亡くなったバラージュ・シャーンドルとこんな風に生活していたのさ。民衆劇場（第二章　　訳注５参照）にはあのころまだ喜んでブダの小さな酒場にやってきてくれる女優たちがいたんだ。ここでいつか、ラーニ[２]がシンバルを打っている間、ブラハ夫人（女優でオペレッタ歌手のブラハ・ルイザ、第十章の訳注５参照）と妖精のヘジ・アランカ（オペレッタ歌手、　第二章１８ページ参照）が歌ったんだ。昔の作家たちはここで楽しんだんだよ、君。彼らはどんちゃん騒ぎをリスナイ方式でやらかした、そして詩人は決して恋ゆえに悩む必要がなかったんだ。小さな娘は夜サロンの柔らかいソファで横たわって、レヴィツキー（詩人のレヴィツキー・ジュラ、第六章の訳注５参照）の詩を客人たちに読み上げた、だが市民の少女たちだって夜、薄暗闇で開け放した窓の植木鉢の間から白い手を差し出すことをいやがることは決してなかった。詩人たちは聖なる男たちだった。作家や俳優たちはベルヴァーロシュ(都心区)（第一章１ページ参照）の家の昔の女家主たちのところでは、しばしば宿代を払わなかった、そしてくり色の髪の少女は詩の本をソファの下に入れておいた。あの頃は恋もまだ違っていたんだ。

　盲目のピアニストはしっかりした動作で唇にワイングラスをもっていった。彼は打ち沈んだ、遠くから響く声で口をはさんだ。

　「平日だとわれわれのところでも本はとても人気があるんだよ。シモーニアが～彼女かつてはあちこちの良家で家庭教師をやっていたんだが～サロンで大きな照明の下に座って、そして大きな声で娘たちに読んできかせたんだ。この間は家中が一冊の本で泣き喚いたよ。「私たちがまだ書いていない手紙」、作者はチェルゴー・フーゴー（１８７７～１９４４　作家で新聞記者　ユダヤ系でファシストに連行された）さ。「白い婚礼」詩人がそう言うと、みながそっと泣きじゃくったよ」

　シルヴェステル氏は熱っぽくうなづいた。

　「私はその本は知らんが、私の意見では、本でなくレヴィツキー本人から「街の女」サイクルを知ったときは、真の女たちが盛り場にいたんだ。そして若い作家たちはヒムゼー通りで、あのお話の中の宮殿で寝て、年契約で住んだ。若い頃は私自身素晴らしい踊り手だったんだよ・・・そして有名なツィガーニ・ヴィルマに私がペスト県の歌を教えたのさ」

　マダム・ルイーズは探るような視線をレゼダ氏に投げた。

　「ねえ、お若い方、あのお気の毒な娘さんをどうしようというの？」

　レゼダ氏は顔をしかめた。

　「もし治ったら、結婚します。それだけの価値があります、立派な娘さんです」

　マダムは悲しげに微笑んだ。

　「お幾つ？お若いお友達！」

　「二十六才です。いずれ働きます」

　「何で？」驚いてルイーゼ夫人はたずねた。「多分詩をお書きになる？」

　男は目を伏せた。

　「私にはある年寄りの友人がいます、彼は、今スタートした『ジャーナル』に校正係りとして採用すると約束してくれました。ガヤーリ・エデン（１８５２～１９１９　新聞記者で政治家　議員として活動しながら幾つかの重要な新聞の編集に携わる。首相ティサ・イシュトヴァーンの友人で、「ジャーナル」は1903年ティサの政治を援護するために創刊された）は誰に対しても兄弟であるかのように、自分のところの人たちのことをいつも心配してくれるのです」

　「校正係りは夜中に働かなくてはなりませんよ、あなたは胸の病だとお見受けします。レゼダさん、あなたの死後には若い未亡人と薬屋の払いが残されるかも」

　レゼダ氏は額を撫でた。

　「私はいつも奥様について」声を低くして彼は言った「詩人の精神をもった方だと思っていました。どっこい、私が思っていたのよりずっと散文的です。私は死を恐れてはいません。いつ死ななくてはならないかということは全くどうでも良いのです、いつかは人間やはり死ぬのですから。でも私はまだ幸せになりたいのです・・・奥様、私は本当に人生でまだ一度も女を抱いたことがありません」

　「あのお嬢さんのことも？」

　「ああ、それ以上にずっと愛しています・・・まず私たちはどこか古い小さな教会で結婚式を挙げます、聖なる生活を送る老僧の祝福を我々の愛に求めます、手をブルブルさせている寺男が証人になります、そしてびっこの鐘つき男が教会のドアのところで幸運を祈ってくれます。もし私たちにお金ができるようなら、オルガンで「ローエングリン」の結婚行進曲を、それを得意にしている名人に弾いてもらいます。私を見つめる茶色い、近眼気味な素晴らしい女性の目、落ち着きのない足と白い手、そこには悩みが宿っている・・・あの淑女は神秘そのものなのです、そしてその魅力の宿る肉体を知りたいと私は焦がれています。茶色い顔の、黒い額縁の聖人たちが壁からわれらを見ている、そしてユリの冠を頭に被った聖母が祝福して祭壇から微笑んでくれる。自殺未遂をおこしてから、私は信心深くなりました、奥様。神を信ずることを学びました」

　マダムは額にしわを寄せた。

　「私も神を崇めています。自殺未遂を起こしたころからです。あれ以前・・・気ちがいじみた、金使いの荒い、音楽だらけの若い時代には心の中で敬虔の念を感じることは一度もありませんでした。大声で、急いで、義務感からお祈りしていました。この頃ではときどき日々のやるべきことの途中で立ち止まり、考え込みます、私の心は温かく、幸せにしてくれる敬虔の念で満ちるのです。私はもう五十歳です。くる日もくる日も神様をお訪ねする準備をしています。私の村には礼拝堂を建てさせました、そして古い金貨や銀貨を、それは若い頃に伯爵たちや王様たちから記念に頂いたものですが、小さな鐘の金属に溶かし入れさせました、それが村の私の所領近くでその地の民を夜の祈りに誘うようにと。ルイーゼ・ポメリー[３]がランスで、私の好みに応じて茶色がかった白ワインをかつての見事な壜に詰めさせることはもう決してないでしょう、私はそれをバッテンベルグという名のある大使のために浴槽に注いだのですが、そして音楽はハイドンだけが私のお気に入りです」

　マダムは話している間、オレンジの皮をむいた、一切れをレゼダ氏に差し出した。

　「お若いお友達、神を崇める人間は他の人間の人生を破滅させることは出来ませんよ。お嬢さんを行かせなさい。同情から自殺未遂の後あなたの看病についたのですよーでも人生は病人の看病からだけ出来ているのではありません。いつかは、彼女がシュタイン夫人のところでスキャンダルをおこしかねない時が来るでしょう、彼女のことは若い頃から、それも昔のショモッシ・ミュージック・ホール（第七章　　訳注２参照）の時代から知っているのですよ」

　「奥様はご存知なのですか？」蒼白になってレゼダ氏はたずねた。

　「町で起きているようなことは、ほぼ全部知っています。かつては、美しかったこと、ばかだったこと、そして私が彼らに許すまで何ヶ月も若者たちが私のために苦しんだことが私の名人芸でした。今や私はレディです、第一級の宮廷婦人のように教養があって、たくさんの本を読みました、おそらく人間をよく知ってもいます・・・私を訪ねてきて、そして私の快適な生活のことを心配してくれる老紳士たちは、昨日の劇場の公演の淑女たちについて意見を言わなくてはならないときに、もし私がいつもサルセー（第三章３５ページの注参照）かシャルゴー・エルノー（１８７３～１９４６　ジャーナリストで翻訳家。仏の小説と劇作品を多数訳している。演劇評論家としても著名）ばかり引用していたら、私のところで退屈してしまうでしょう・・・ソファに横になっている老紳士たちは、彼らの生理機能について、毎晩カジノで夕食をとっているだけなのだ明かした後は、時折壁の外で起きている遠く離れた生活の話を一つ二つ聞きたがるのです。私は知っていなくてはなりません、ペストで一番の美女はゴンバセギ・フリーダ（１８９０～１９６１、女優で第Ⅱ章のミクローシュ・アンドルの夫人）であり、マールクシュ・エンマ（女優のマールクシュ・エミーリア、第二章１８ページの「金髪の奇跡」参照）がトラの毛皮を着ていることを。エレガントなチェコニツ伯は何をし、何を考えているのか？そしてセメレはどこに行くのか。私は老婦人たちを援助して世話しています、彼女たちは町の中のニュースを私のところに届けてくれます、一方でまだ人生の戦いから引退していないかつての女友達たちは、助言を求めて私のところにかけつけます。そしてこんなふうにして私は、お嬢さんが、結婚前はシュヴァルツ・ファーニといったシュタイン夫人の住いであの偉大なアルヴィンツィ・エドゥアルドと会いたいと思し召し、ある不快な出来事に邪魔され、突然立ち去ったことも知ったのです・・・でももう私の馬車がきていますので、みなさんに良い気晴らしを祈ります」

　マダムの儀式ばった退場の後まもなく、もう一つの小さな出来事がシルヴェステル氏の記念日パーティーの思い出に残った。

　ボニファーツ・ベーラはテーブルの一番端で突然崩れ落ち、そして血を吐いた。隣家から一人の医者が、後からブダペスト救急隊が現われた。

　「消化不良と昔からの肺病です」救急隊の医者がホルバート嬢に言った、彼女はこの出来事にひどく怯えていた。

　そして馬車は聖ヤーノシュ病院に向かい、ボニファーツ・ベーラを運んで行った、彼はすでに馬車のクッションに、親愛なる善良な死者のようにきちんと横たわっていた。一週間後には善意の看護婦さんたちが胸の上で両手も組ませてくれた。

　ピアニストを連れに六才のちっちゃな娘がやって来た。彼女は盲人の手をとり、毎日の習慣通りカパーシュ通りの盛り場に案内した、そこではもうピアノのキーが彼の手を待っていたのである。

　「またな」シルヴェステル氏が彼の後から叫んだ「いつかまた、もしまだ私が生きていたら、訪ねていくからな！」

　ガス灯が燈された、そしてシルヴェステル氏は額を手の平に埋めた。何分かそのままでいた、胸だけが激しくぜいぜい鳴っていた。

　「君たちお互いにキスしなさい」彼は突然言った。

　レゼダ氏とホルバート嬢は従った。彼らは静かに、子供たちのように控えめに互いに口

付けした。

　シルヴェステル氏は人差し指を上げた。

　「老人たちは人がよくてね」彼はいささか言いずらそうな声で言った。「ほとんどもう誰も好きになったりはしない、だがもし誰かが気に入ると、その人のことはしばしば内緒で考えてあげているんだよ。われら老人たちは若い友人の問題に口出しするのが好きでね。レゼダさん、お仲間や、君のお人形さんは今夜君の元から去るんだ」

　ホルバート嬢はレゼダ氏の仰天した眼差しの前で目を伏せた。

　「この集まりは君らのお別れだったのさ。君らはおたがいに別れる、われわれ老人たち、ボニファーツ・ベーラ、ルイーゼ夫人はみな、これでいいし正しいと思っているからだ。鉄道の南駅にもうお嬢さんの荷物がある、そして汽車は一時間後には出発する、それは地方の一座にお嬢さんを連れもどす。機関車はもう王女の出立にそなえてエンジンを暖めている」シルヴェステル氏はまじめな声で言った。

　レゼダ氏は勇敢にふるまった、ただしばらく口をきくのに耐えられなかった。

　「本当に行ってしまうの？」彼は突然たずねた。

　女優は目を伏せて古いレストランのすりきれたビロードのソファに座っていた。青ざめ、悲しげに、具合が悪そうに見えた。唇が少しおののいてもいた。彼女はレゼダ氏の手を捕らえた。「あなたに言う勇気がなかったの、だってあなたまだそのときはひどく悪かったんですもの・・・私とても、また劇場に出たいの」

　「行ってしまうの？」

　「行くわ、他にどうしようもないもの」

　レゼダ氏は女優の手を握りしめた。

　「さようなら」

　彼らはこの晩三人でまだ長いことひっそり泣いた。いつもの通りシルヴェステル氏が涙を流しはじめ、レゼダ氏が引継ぎ、そしてクラーラはしゃくりあげている間、手の平に顔をうずめていた。片方の目が泣いている間もう片方よりも小さくなった。少しヤブ睨みになった。女たちはヤブ睨みになるとき、一番美しい。

　それから彼らはもう一度お互いに口づけした。

女優はしっかりとレゼダ氏の唇に唇を触れた。熱くなり、涙で濡れた顔を顔に重ねた。

「いつか、人生で誰かのものになるとしたら、あなた以外の人のものにはならないわ」彼女はそっと言った。「死んだ母に誓います」

「さようなら！」レゼダ氏は打ちひしがれて言った。

この夜、空には、タバーンの上空には、膨大な数の星があった。ちっとも涼しくなかった、夏が暗闇のなかでもどってきていた。レゼダ氏は真夜中まで古い家の窓辺に立っていた、そしてひっきりなしに星々を見つめ、一人で幾度となく言った。

「さようなら！朝になったら司祭を呼んでこさせよう」

空では、暗い高みでガンたちが叫んでいた。どこか遠く、タバーンのあるセルビア人の酒場で静かにタンバリンが鳴っていた。不幸な若者は私物の中から一個の古い指輪を探し出した、この指輪はしきたりに従い、あるアンジュー家の女王がそのきゃしゃな指にはめて眺めていたのである。トルコ石、忠実を意味する石がその指輪にはついていた。彼はその指輪を女優に送ろうと決めた。

１９１３年