第十章 冬
レゼダ氏は冬の季節に女たちのために尽くすのが大好きだった。
冬はあの数年前と同様、今度もその場所、女の側に見つかった。降雪の中でレゼダ氏は冬の臭いを、かの淑女のアストラハン産の子羊のコートの香りと同様に感じとることが出来た。ファウストの日は一週間後にはやってくる、それまでクローンプリンツ夫人は旅に必要な準備を整えようと、朝から晩までペストの商店をまわったーイルマの小さな足にあう大きさの雪靴はほとんど見つからなかった、一方グラーツィアース氏はＲＫのために、場合によっては葉巻に火をつけるために必要となる火打石とほくちを見つけるまでペスト中を走り回った、この間イルマとレゼダは、山々の間の小さな通り、隠れた小さな酒場といった幸せだった頃の場所にもう一度行った、まるで恋の思い出に永遠の別れを告げるように。
そりはいつもグラーツィアース氏の山腹のワイン蔵からワインを運んでいたわけではない、そして激しやすい馬たちの気分のために鈴を振ることもありえた。ドナウ川は氷結し、ラージマーニョシュ（現在の１１区、ブダ側のゲレールトの丘と鉄道橋の間の住宅地）の方面で、クチャヴィッラ付近（第二章の訳注２参照）で古風なブダのそりは氷にとびのった、グラーツィアース氏の先祖たちが王様にワインを運んだときは、それで遠い道のりを行ったのである。鞍馬はほとんど自分の若さと力を誇示するために足を上げて跳ねた、まだ誰にも悪いことを言われたことのない修道院育ちの少女がダンスをしているかのようだった。後馬は、信頼できる良き友のように忠実に進んだ。
暗くなったとき、そして岸辺で照明が灯ったとき、ドナウ川の氷上で馬にだく足を踏ませ、レゼダ氏は若き日の愛読書「エウゲーニ・オネーギン」を思い出した、そして自分がネヴァ川に、モスクワにいるのを想像した。プーシキンの詩を、少女がつる草のように傍らの彼に寄り添っている間イルマの耳に唱えた。寄り添うこと、近くにいること、かかとから髪のすじまでカズメールと触れ合うこと、すなわちこの町のどの女にも出来ないことがイルマには出来た。長いまつげの下の目はほとんど見えなかった、半ば閉じていたので、そしてあらゆるやり方で、自分がＲＫ氏をおのが神とみなしている兆候を示した。
恋は美しかった。
（ペストから不意に現れた狼の群れ、あるいはドナウの氷の腹黒い魚のスープ、さらに山猫の襟巻きをした路上強盗たちがクローンプリンツ・イルマと争うことが出来たとは思わない。レゼダ氏の腕はあらゆる危険からこの少女を解放したであろう、彼はこの少女を、昔の金細工師が最後の夜に稀なる高価な石を抱くようなあきらめと共に愛していた、朝にはもう買い手が、ある幸運な泥棒騎士が彼から持って行ってしまうのだ）
どちらも自分の回りで何が起きているのか全く気づいていないあの恋の日々は忘がたい。時計の文字盤では黒い針が視野の内にある風車の翼のように早くまわっているのだ。中世の館の窓から、分厚い古書の間で生きている司書が鉛の円形の窓枠から見るように、人々を遠くからしか見ることが出来ないということだ。－どこかで市がたつ、そして曲がりくねった国道を人々が市へと急ぐ。乞食たちは色とりどりのぼろ着で、裕福なだんなたちは着飾って。二輪馬車に乗った油売りとワインのはかり売りたち。一対の馬車馬には太って顔を赤く塗った女たちが乗っている、彼女たちはやがて、貧弱な体格の綱渡り芸人に憧れに満ちた目と泡だらけの角ばった口でじっと見とれるのだ。ビロードのズボン、赤いチョッキのばくろうたちは息切れしている馬にこぼしながらパーリンカを注いでいる。白髪で、やぶにらみの市場泥棒が靴を背中にかけて運んでいる、一方色とりどりのズボンの若いスリがやつれ、ふらふらしながら羽のついた帽子で楽しみながら国道を通過する。若い女たちは、無遠慮におしゃべりしざわめいている兵士たちの前で目を伏せる、彼女たちは内心で、男友達がいくらやつらに主の祈りをとなえる罰を言い渡そうと十分ではないと考えている。
恋している者たちはときどき、人生を自分自身から遠くにあるように見る、そして通りの子供たちが背後で鼻に手を当ててあざ笑っていることに気づきもしない。寺院の壁からはある死者の腕が伸びてきて、淑女の髪に貼りつこうとしている。一方ではワイン売りの鉛を打ったテーブルの上では、赤い鼻ともじゃもじゃひげの道楽者仲間たちがビールのジョッキに向かって喉を全開にして大笑いしている、そして愛しい女をひどく中傷しているのだ。
レゼダ氏とイルマはこの冬の日々こんな風に腕を組んで行ったり来たりした、まるでもう二度と現実の生活にはもどってこないかのように、人々の言葉、考え、世間、豚屠殺の祭りや葬儀から永遠に遠いところにいるかのように。彼らはもうブダの市庁に、聖器室にも、地区警察あるいは魚市場にももどってこないのだ。彼らはあの大仮面舞踏会に行ったのだ、そこでは人生の選び出された者たちが、恋人たち役の役者の承認を一番良く得られるような仮装をするのだ。人々のどよめきは、道すがら「その意図を南風が鳴り響きながら、木々の間でうつろな笛を吹きながら広める、青ざめた朝のように」遠くに残るのだ。白鳥たちのやり方で果てしないかなたに飛び去るのだ。
恋よ、つんぼで、年老いた狂人よ。
山々の間で幸せな日々を過ごしたあと、彼らは冬の臭いで満たされ、山腹の小さな酒場でおやつにした（レゼダ氏は何年か前だが、すでにいつだったかここに現れた、細い小道を上に向かって進みつつ他の女の靴のかかとをちらちらうかがいながらであったが、そして今や、「トランペット」亭の辛いパンまでもプログラムから見落とすことなく、新たに古いお話を演じなおしているではないか）、山腹の酒場の特別の小部屋で。そこから昨日亭主の肺病だった女房が葬られ、ワインにも、長いすにも、棺おけが置かれていたテーブルにも蜜ロウソクの匂いがした。すなわちある午後彼らは墓地をおとずれたのだ、そこではイルマの大叔母だか誰かが天使の角笛の合図を待っていた、彼女は長い期間ブダを去る前に、何としても大叔母に別れを告げたかったのである。（「彼女が私の子供時代育ててくれたの、そして毎晩私の運命をカードで占ってくれたわ。私が小さなベッドでせきをすると、一晩中暖炉を見つめていたわ」イルマが言った、そしてレゼダ氏は死んだ大叔母さんに対して何の異論も抱きようがなかった）
老淑女はすでに十年来鬼籍にあった、そして火の気のあるそりが墓地の門まで彼らをのせて疾走する間、R・K・氏は自分の幸せを若ガモの足でターンする宮殿と名づけた、そこでは昼夜音楽の音が聞こえてきて、赤い足の妖精たちが歌っていて、尖ったつま先のサンダルであちこちへふらついている宮宰が「いつまで生きたいのか」とみなにたずねていた。
「あなたが愛してくれる間だけ」イルマは答えた、そして平静な決意とともにレゼダ氏の目を見つめた。「そのあとはもう何もないわ。いつだってあなたと一緒にいたい。一時間あなたを見かけないと、あなたはどこにいてどこに向かっているのか、あなたのまなざしは誰の上に止まっているのか、あなたの考えが退屈した放浪者のようにどこをさまよっているのか。それ以外のことは考えられないの・・・そしてお母さんがたまに私の前であなたの名前を口に出すと、私は人生でいまだなかったほどの愛情を込めて抱きしめるの。もしそれがもうなくなってしまうなら、そのときはおばさんの隣に引っ越したいわ」
墓地を雪が覆っていた、そして雪に覆われた塚の下では見たところ生活は、雪嵐の中の汽車のように立ち往生していた。この静かな、灰色の雪のない午後、深夜にはここでアラニカカシュ通り（セルヴィア系住民たちが居住していたタバーン地区にあった通りだが、区画整理でなくなっている）の昔の仇敵同士が再び相手の上を行こうとして、仕立て屋たちはさらに縫い続け、ロープ作りたちは背中を向けて前進し、贋金作りたちははそ知らぬ顔で小さな暖炉の火を吹いているなどとほとんど想像出来なかった。
墓の塚にたどり着くと、昔の死者たちの思い出のように白かった。鉄の十字架上の錆びた小さな板にはゴシック体の文字がまだエリザベス・クローミの名を保っていた、人気のない墓地のその墓標に今彼らは座っていた。
「とてもきれいな人だったのよ・・・そして何度も恋をしたしずいぶん苦しんだの・・・私生児が一人いてね、ペピはたまに私たちの家に来たわ、そして私はいつも、一体私に似てるかどうかとペピを観察したわ。似てなかった。濡れた目の、ブラシみたいな頭の坊やだったわ、確か仕立て屋になったわ。私は大叔母に似始めたの。小さかった頃からもう短い巻き毛を彼女のくしで整えたわ、そうすれば私の髪型も、彼女のロマンティックで空想的で、人の心を動かす髪形に似るようにって、そんなのはあれ以来古い版画でしか見かけなかったわ、そしていつだってある王妃の名前が絵の下に書かれていたの。そして彼女はあなたも時折やるように、私の髪にキスしたのよ、カズメール！」
「あなたの髪は、わが人生の暗い天空で安らぎを与えてくれる巻き毛です」レゼダ氏は答えた、何かを望むときは、舞台の台詞を口にしていたからである。
（大叔母のロザリオと組み合わされた二本の手は間違いなく突然ダラリと落ちたりしなかった、死者たちは許すことが出来るからだ）
この後彼らは「終着駅」と目した酒場に行った、そこは墓堀り人夫たちのたまり場だった。堂守りはたまに雪まみれになりながらブダからしかるべき知らせと共に降りてきて、それに口数の少ない人々もひげのワインをぬぐうのだった。
レゼダ氏はサラミを注文した、それはワインと同じくこの酒場の名物だった、死者がすでにしかるべき場所に葬られてしまうと、葬儀の集まりはこのワインで陽気になったものである。
すみでは一人の盲のハーモニカ吹きががっちりした杯に手でさわってみていた、老人は満足した、彼は客人たちの勘定で何杯かを空にしたとき、申し分なく何の害もない生を見出すのだった、そして葬儀の参列者たちは宴会の終わりに彼をなぐったりはしなかった。