第三部　人生は走り去る

 

　　　　　　　　　　第十一章　ファウストの名の日

 

　無論アルヴィンツィ・エドゥアルドは、緋色の郵便馬車で冬の上ハンガリー地方に出発する前に、すでに三十年というもの彼の信頼をほしいままにしている占い女にカードで占わせた。この占い女は外フェレンツ地区（現在のブダペスト９区、ペスト側ドナウ河畔の南部地区）に住んでいて、近所の主婦やお針子たちが顧客だったが、時折秘密めいたレディたちが夜完全に暗くなった待合室に腰を降ろした、そこには、占い女の小さな白い犬がドアノブに飛び上がって内側からドアを開けるときだけ、いくばくかの明るさがあふれ出るのだった。時折呆然として、良心に目覚め一、二日は続く大きな衝撃を受けた上流階級の淑女たちが彼女のところから出て行く、彼女らは謎めいた情事に引っかかったのだ。カードの束を三度切った後（この後手袋を視野に入れながら）占い女は大抵こんなふうに始めるのだった

　「淑女(あなた)のまわりには二人の男がいますね」

　そして通常は真実を発見するのだ。

　アルヴィンツィはずるいやり方でシルヴェステル氏の外套を身につけた、それは革命以後おばあちゃんのスカーフから直接作られたものだった、それ以外にもセヴィリヤで闘牛士がかぶっているような丸い、スペイン帽に頭を押し込んだ。彼は徒歩で、よろめきながら郊外の町の通りを近づいてきた、そして破産した商人のように主婦たちの間で辛抱強く座っているのだった。だがカルヴァジ夫人が古い知人を見つけだすまいとして、手の平をその目の上にかかげている間、すでに小さな白い犬が見分けていた。

　カードは指図に従って未来を語った。アルヴィンツィは旅に出し、彼の旅には幸運と女がついてくる。

　この他アルヴィンツィはある午後を、白いストーブの前で二本の手を組んでシルヴェステル氏に遺言を口述して過ごした、秘書の方はディオーシュジェール（北部の都市ミシュコルツの工業地区、１７８２年ハンガリーで最初の製紙工場が作られた　　）の大判の紙に羽ペンで忙しくパチパチ音をたてていた。

　「君にはもちろん私の古いパイプを遺贈するーこの遺言を終えしだいだー君が私の死を喜ぶのは、ありがたくないのでね」

　それから一日彼は断食して、この町の誰よりも大きなヒゲをつけたギリシア正教の僧侶を呼ばせ、自分を祝福させた。シカ革の旅行カバンにお守りの日本、インド、その他のアジアの国々の神々の小さな像を、ピテーリの縄（１５章１２３ページに名前が出てくる殺人犯のピテーリ・ミハーイか？）と母親の子宮内で死んだ子供のへその緒、馬の蹄鉄の釘と母親の髪の一筋、彼を愛する前には（昔）常に裏切ってばかりいた、ある堕落した女のシャツを、そしてある骨董屋から非常に高い値段で買ったケレシ・チョマ[１]のサンダルを結びつけた。

　英のＳＭロスチャイルドの英国紙幣の図案の白い手形にかなり大きな総額を記入し、マルボー銀行（十九世紀ペストの仏系商人マルボー・ヨージェフ・ケレステーィが設立した個人銀行。後にこれが土台となって１８６９年いはハンガリー融資・為替銀行が作られた）に、相応の割引と共に、総額の半分は英国の金で求めるという伝言を送った。出納係と助手は羊皮紙にくるまれた小さな延べ棒をデスク上に数えて置いた。そしてセルヴィタ広場（ペスト側五区の繁華街にある、以前はマルティネッリ広場）の花屋で、毎日すみれを一籠、後からメドヴェハーズの家に送るように手配した。最後に手を洗い、サンダルでくつろぎ横になる習慣だった兵士向けの固い鉄のベッドが最後まで見えるようにと、後ろ向きでドアから出た。最終的にこの旅籠「グリフ」を去る前に、この家の老門番にもう一度、本当にファウストの名の日かどうか尋ね、召使たち、黄色い土踏まず用敷皮を入れたブーツの乗馬御者たち、赤いコートのボーイたち、エプロンをかけた何でも屋の従卒たちに取り囲まれて、慎重に緋色の郵便馬車に乗り込んだ。何らかのルートと方法でこの件を聞き込んだトゥルフ・カロリン（第八章　　　訳注１０参照）は最後の瞬間に椿の花束を差し出した。同様に心を引き裂かれながら内情に明るいマダム・ルイーゼの門番の妻が、女主人のインドのストールをもってきた、そのストールはかつてすでにザンクト・ペテルブルクにもアルヴィンツィ氏のお供をしたのだった。

　この出発は秘密裏に行われたため、ヴェンデーグヘジ・アルジ、シルヴェステル氏とミスターＨはすでに早いうちに赤い郵便馬車の内部に腰を降ろしていた、それは「グリフ」のわらを敷いて雪に覆われた中庭のすみに荷物を山積みにして止まっていた、そして彼らは無言の会釈でアルヴィンツィに挨拶した、彼は手首のヤドリギ製のロザリオを直してから、長々と毛皮のコート、マフラーを身につけた。ポーランドのフェンシングの師匠は赤いサーカスのドルマンと乗馬用のブーツ姿で出発の合図を待っていた。アルヴィンツィはまゆで合図し、これにポーランド人は手にしていた狼の毛皮をまとい、ペストの境界まで緋色の郵便馬車の六頭の馬を御することを求めた後、高い御者台にゴムボールのように飛び上がった。先乗りの御者が鞍に滑り込み、そして床の上では鉄格子の通路で誰かが郵便らっぱを吹いた。郵便馬車は振動し、怒号をあげて「グリフ」の丸天井の下を走り出た。ポーランドのフェンシングの師匠は黒いビロードの帽子を額まで引っぱり、そして腰を後ろに引いて手綱につかまった。

　途中で、ヴァーツィ通りの終わりにある見捨てられた旅籠でもう二台の緋色の馬車が、御者たちが手を挙げて互いに合図した後、アルヴィンツィの馬車に加わった。三組の馬車馬は落ち着いただく足で互いの後に続いて進んだ。アルヴィンツィはある橋、道のカーブで後ろの窓から皮製の覆いを取り除いた。馬車は彼の満足がいくように、忠実にそのあとに続いてきた。

　クローンプリンツ家の淑女たちと一緒の馬車になったレゼダ氏は、早起きのせいで不機嫌にブツブツ言った。

　「誰かが午前中に埋葬してもらおうという気になるなんて、聞いたこともありませんよ。このアルヴィンツィがきちがいでないというなら、私は二度とラーツ寺院を目にすることはないでしょうよ」

　ああだがこの場合、クローンプリンツ家の淑女たちに、この多面多才な良き友にして騎士が何を話そうとムダだった。女たちは午前中の日光にうっとりしていた、それは長患いからどうにか起き上がった人間の初めての散歩のように、心地良かった、彼女たちは雪原で楽しんでいた、それは道の両側で安らかな、良心の呵責なき人生のように、変化することなく広がっていた。雪を被った道端のキリスト磔刑像はヴィルマお母さんを涙を流すまでに感動させた、一方ＲＫ氏はある村の寺院の聖処女マリア像の前でで子羊の皮のとがった帽子を手早くひっぱり下ろした。

　「私は聖人たちの中でこの女性しか信じていません」彼はつぶやいた。

　やがてもじゃもじゃの、老いたウサギがそりに乗った人々の間に見えた、おとぎ話のように三本足で走っていた。遠くではクリスタルホワイト色の裸の木々がその地で凍りついた放浪者たちのように立っていた、彼らは魔法にかけられているので、春まで同じ場所から行きかう人々を見つめているのだ。小さな橋の下では、見ることの出来ない水が深みで忘却のように眠っていた。そしてカラスたちは、国境の監視人のように用心深く飛んでいて、たまに、通行税の収税史が異国の馬車に停止するよう注意するように声をあげるのだった。

　ペスト近隣の村々は、目つきの悪い住人たちと、新たに建てられ心配の種となっている家々と、不満を抱き、つぎはぎだらけの悪い道にあこがれる郊外の町の女たちの目に似た窓とともに、すなわちとり残されていた。耳を刈り込んだ、ブラックコーヒー色の、ペストから追い払われた犬が、野心的で無力な、貧しい役人が上司たちについていった悪口のように、長い間馬車の後ろから吠え立てていた、その後青く塗られた一台のナージマロシュ（ペスト県ソビ郡にある、ドナウ川をはさんでヴィシェグラードの対岸）の荷馬車が視野に入ってきて、それをポーランド人は回避出来たであろうに、その前に器用な手綱で溝へ向けさせた。ドイツ人は雪の下の石を探していたが、その目的を実行に移す前に、郵便馬車はさらに先にとガタガタ音を立てて進んで行った。

　正午頃、一同はヴァーツのホテル「領主館」の前に着いた。司教の町（ヴァーツは初代国王イシュトヴァーン一世が設置した司教管轄区の司教座の一つだった）は家々の屋根に降りてきた霧の中で希望もなく眠っていた、まるで大地の下から監獄の盗人たちの（鈴のついた囚人服の）チリンチリンという音が聞こえてくるかのようだった。シルヴェステル氏が昼食の注文に追われている間、一同はプロムナードをずっと歩いて行った。

　荒涼たる、車の油の匂いのする通りではたまに一人の目的のない騎馬の士官がくたびれた拍車で頭をふりながらぶらついていた、僧たちは人生を誤ったかのように悲劇的に進んで行った、そして顔を塗りたくった娘たちが、捨てられた花嫁たちの、婚礼衣装姿で勝ち誇った競争相手のようにキャーキャー声をあげて笑っていた。

　レゼダ氏はちっぽけな家庭用のパイプたばこ濾し器の皮に残されたたばこがざらざら鳴るように、陰険にぶつぶつ言った。

　「美しいヴァーツの女たちは、もちろん、こんなときはペストに行ってます。買い物がたくさんありますからね。私が驚いているのは、美しい女たちがしばしば新しい帽子でペストから夜汽車でもどってくるとき、ここで起きる結婚の危機のドラマがこんなにわずかなことです」

　アルヴィンツィ氏は、旅の間カルデローニの店のかつてのオーナー（彼はカウンターの隣のよぼよぼでいただけだったが）のように若返っていたが、感動して述べた。

　「ヴァーツの美しい女たちは、ペストの野生のハトのようなものだ。すすで汚れた町に飛んでいき、森の香り、こうろぎの鳴き声、田舎くさい下着を持ち込むのだ。パローツ方言（ハンガリー北東部の独特な方言グループ）で恋について語り、恋人の傍らでゼラニウムのことを忘れる。長い熟考の後一枚のヴェールを買い、思い悩みながらヴァーツのことを考える。清められた魂で、憧れつつ幸せに夜汽車で家に帰る、鳥たちが巣にもどるように」

　ＲＫ氏はブダペストにいるときより不機嫌だった、彼の意見によれば健全な道徳を経験して癒えるために地方に旅に出たからである。

　「私の覚えているところでは、地方の女たちは恋の出来事の数々、情事、秘密のデートを、例えば堕落したペストの女たちのように、悲劇にふくらませることはしません。多分彼女たちは自然により近いところに居るからです、そこでは恋は、土曜に日曜が続くように、それほどの日常的に起きるのです。少女たちだけが屋根裏で首を吊るのです、一方より成熟した女たちは、「とうとう私は女なのだ！」と満足するのに。そしてこの環境が全てと和解させてくれるのです。私の若いころ一人の心身ともに良き友がいましたが、彼はペストで一軒の家庭に足を踏み入れると、いつも大騒ぎを起こしました、女たちから良識ある理性をはぎとろうと一心になったのです、そしていつも姿を消した後何年もの間話題になるほどの問題を引き起こしました。さて、この冒険家があるとき地方に現れ、行商の靴屋の長持ちにさえ入りきれないほどのたくさんの素敵な嘘を携えて行ったのです。そしてたった一人の女性とて彼のせいで心臓の発作を起こしたりはしませんでした、誰一人として路地で彼の後を待ち伏せする者もなく、しばらくの間、一日、あるいは一時間愛された場所でも、スキャンダルも起こさずに忘れ去られました。すなわちクリスマス・ツリーの下で彼を愛して、子羊、小さな箱、木の馬など靴のかかとでバタンと倒したりしたあの淑女も翌日には彼のことを思い出すことはなかったのです。いや、わが友は悲劇を起こしはしませんでした。愛されたのですが、それから襟をつかんで通りに放り出されたのです」

　アルヴィンツィは賛成してうなずいた、一方イルマは口を尖らせた。

　「思い出は」彼女はさばさばして言った「全ての思い出は偽者です。最大の狂人というのは、女たちのサンダルをデスクの引き出しで保存している男たちよ。過ぎ去った恋人には、歯のない老いぼれのコメディアンの昔の栄光ほどの価値もないわ。しわだらけの顔のよろよろしている年寄りの男性が、かつては女たちに愛されたのだと自慢しているのは、なんてうんざりさせられるのかしら。女たちによ。そういう女は全部雄鶏がつついてやればいいのよ！」

　昼食は「クーリア」で二時に予約されていた、ヴェンデーグヘジ氏は個人的に食卓の準備を監視していた、シルヴェステル氏がたまたまホテルのある女性室内係りと知り合い、旅行と環境の変化と見知らぬ町のせいで興奮して、室内係りがホテルの廊下を移動するのをずっと追いかけていたからである。（だから彼は後で英国の２ポンドをアルヴィンツィ氏の支払いにした）

　退屈した軽騎兵の将校たちはすでにフェレンツ・ヨージェフの肖像画の下に置かれた長いテーブルから去っていた、独身者たちは一人一人立ち去り、一人の男だけがすみのテーブルでくつろいでいた、彼はレゼダ氏に一瞥をくれると、すぐ立ち上がった。白髪頭の、思い出のアルバム風の顔の、冷静なまなざしの老けた男だった、彼の各部分は人民劇場の喜劇役者、かつてのショイモシ（ショイモシ・エレク１８４７～１９１４　民衆劇とオペレッタの歌手で劇場支配人、ペストの人民劇場の喜劇役者）のように、小割り板で組み合わせられているように見えた。地方のアルバムから出てきたような紳士はＲＫ氏を、郵便配達人のように抱きしめた、感動して二言三言述べ、そして突然中断して飛び出してきた役を思い出したかのように、深い悲しみとともに椅子にもどり、殉教者のようにチーズをからめたパスタからベーコンのカスをつまみ出した。

　「どこの落ちぶれたお友達を見つけたの？」イルマが、長いテーブルに着いたとき、ＲＫ氏にたずねた。

　カズメールは謎めかした目配せをした。

　「後でブラックコーヒーを飲みながら・・・この人はユニークだよ」

　イルマは斜視ぎみの視線を投げて、すみにいる紳士の擦り切れたえんび服と房飾りのあるカフスをじっと見つめた。

　「見たところ、ロンドンで流行の服装ではないわね」

　Ｒ氏は派手に手をふって、レヴァーときのこのスープにスプーンを入れている一同に追いつこうと、急いでえり元にナプキンを押しこんだ。

　「あなたもう、まるで亭主みたい」イルマはそっと言った、恋人がたまに小言を言うと、レゼダ氏に肉体的な快感を起こさせるのだった。

　（彼は胸ポケットに赤く乾燥した、硫酸並みの効力のあるセゲドのパプリカを、食事に味付けするためにだけ持って歩いていた、クローンプリンツ嬢がそれを我慢ならぬと思っていたからこそである。イルマが熱烈に抗議したので、彼は昼食の後、歓喜とともに黒いヴァージニア葉巻を取り出した。ブラックコーヒーにはコニャックを注いだ、そういうときは愛する人が青ざめて、カズメールは自分をしかるべきときより早く寡婦にしたいのかとたずねたので。ああ、レゼダ氏はオヴィディウスやその他の古代の恋の喜びと共に、心配性で、市民的な恋の喜びを軽んじてはいなかった、いつクローンプリンツ嬢がイェーガー先生のシャツを着せるか、時間の問題に過ぎなかった。いずれ彼女は言うだろう「あなたはもうそんなに若くないんだから、カズメール！」。そしてＲＫは実際にもう、老いぼれたサーカスの綱渡り芸人のようなめまいをたまに感じていた。

　昼食の終了とともにレゼダ氏はアルヴィンツィ・エドゥアルドの耳に二言三言ささやいた、これにタタールのハーンは疑わしげにすみにいる年老いた紳士を凝視した、それから肩をすくめた。カズメールはこの小割り板を組み合わせた男の腕をとり、テーブルに導いた。

　「国事犯で女たちの犠牲者ボトフィ氏です、私は彼と国家刑務所で四週間拘留されました」レゼダ氏はものものしく言った。

　ボトフィは胸に手を当て、半円形を描いて足を後ろに引いた、そしてカフスを外套の袖の下に隠そうと努めた。この瞬間なら本当に、彼はある古めかしい洋服たんすから出てきたのだと、そこで彼は服掛けにかかって腹話術師の公演を待っていたのだと信じることが出来ただろう。彼は瞑想にふけりながら淑女たちの方にうなずいた、まるで彼女たちは若くてみずみずしいままだったろうが、自分だけには老いの悲しき運命がみまったのだと言いたいかのようだった。

　「女たちの犠牲者です」レゼダ氏は繰り返し、このせいでこの見知らぬ人物がどれほどじろじろ見つめられようと、彼はこのまなざしを、老兵がジャケツのメダルを裏返されるを耐えるように、まじめに受け入れたのだった。