第十二章　・・・人生は走り去る・・・

 

　雪はモミの木と山腹に羊毛のように塊になって積もっていた、空は真珠貝の灰色だった、そして雪解けを意味する生ぬるい風がどこか見えない場所から吹きまくった、まるである午後の妖精が雪に沈んだ大地に慈悲を与えたかのようだった、だが判事仲間はまだ心を和らげてはいなかった。

　旅の一行は最後の昼食をウングバール（現在のウクライナの町ウジホロド、１９１８年まではハンガリーのウング王城県の中心地）の旅籠「コロナ」でとった、彼らは前もって、ウングヴァール人たちが全てのよそ者を連れて行く（その後で最高に新鮮なビールを得るためである）有名なビヤホールを視察した。ウングヴァール人らはやがて昼食の後エズヴェジ・ケーキ店で腰を降ろすのだった、長い人生に納得してここでクラバヤス（世界で広くプレイされる二人用のカード・ゲームで、英米ではクロビオッシまたはクロビーと呼ばれる。クラバヤスは独語でクラブのジャックを意味する。古くは切り札がクラブのジャックだったことからきている）をめくり、専門家たちが肩越しにのぞいて意見を述べ、長々とカードのチャンスを議論している老いたカルタ師たちを目にするために。まるでこの勤勉な商人の町では、エズヴェジ・ケーキ店のクラバヤス党以外の誰も相手にされないかのようだった。

　この場所でアルヴィンツィ・エドゥアルド氏を旧世界のある高貴な人物、老ベルゼンツェイ氏がシロカイ先生と連れ立ってたずねてきた、そしてものものしく彼をウングヴァールのワイン貯蔵庫の視察に招待した。

　「私が思うに、われわれはメドヴェハーズに着く前に、少しばかり中断して休息をとるのに充分なだけの旅をしてきた」アルヴィンツィ氏は述べた、一同は賛成した、とりわけレゼダ氏が。彼は旅の途中、そこで夜をこさなくてはならなかったたくさんの地方のホテルの建設者を良心のくもりなく殺したことだろう。

　（ハンガリーの地方の旅館は鉄道の貨物車並みに荒涼としている。まるでついうっかり足を踏み入れてしまった客の器用さを試そうという目的のためにだけ建てられたかのようだった、すなわちどうやって気づかれずに明け方または夜に、あざのある強盗面の召使、不合格ではねられた子供を殺すのを手伝い、小間使い娘で商売をする「部屋係の女性」と裏切り殺人者面の門番から、チップをやらずに逃げ出すことが出来るかという器用さを。ここで客と従業員の間で永遠の陰険な戦いが続くのである。いつも寒く、ベッドは前日にこの中で入浴していないばくろうが絞め殺されたかのように汚れていた。洋服だんすには古い新聞紙があり、窓からは、子供たちが決して笑うことがなく、そして大人たちがどんな目的を持って生きているのかを理解出来ないわびしい通りが見える）

　レゼダ氏は生き生きとした、もの言いたげな一瞥をクローンプリンツ・イルマに投げた、そしてこの町を覆っている大雪に注意を促した。

　「それじゃワイン蔵に出発！」彼は派手に付け加えた。「毎年冬に一人二人、ワイン蔵の周りで酔っ払った旅役者が窒息死するのですよ」

　ゼルドヴァーリ家の淑女たちが（小説の中にあるような）一軒の小さなケーキ屋を発見した。ヴェッツェラ嬢とミスター・Ｈとともに彼女らは午後をそこで過ごした、そしてやがて窓から、この小さな町の大きな目をした東洋風の淑女たちを注目に値すると判断した、彼女たちはペスト人たちのように流行の帽子をかぶり、あらゆる文学および芸術上の事件をペストよりも先に知っていた。老書籍商の店では新しい本と新鮮な楽譜集が貪欲にめくられていた。ザッコニ[１]あるいは「銀のヤギ」の作者[２]のサインか写真を持っていないのは、エレガントな女性ですらない。外で北東カルパティア山脈の吹雪が襲いかかる間、暗い部屋でバッハが弾かれていた、この町には、女たちにうんと挨拶するために頂点で引退した画家のマルギタイ・ティハメール（１８５９～１９２２イラスト的風の風俗画で当時人気があったが、早くに忘れ去られた）が住んでいた。彼らは例えばナジヴァーラドのように、自分たちを小パリだと信じ、そして足の筋肉は女主人たちのイニシャル入りのガーターの下で社交界の柔軟性で引き締まるのだ、パリ、ペスト、輝かしい照明！

　老いた高貴な特別人物ベルゼンツェイ・ジェルジ（彼はアルヴィンツィ・エドゥアルドをゼンプレーン王城県で子供のときから知っていることを自慢にしていた）は、死がここでは彼のことを忘れてしまったようなそんな種類の人物だった、なんせ間違いなくいつも夜ワインボトルの傍らでくつろぎ、さまよっているかあるいは窓をコツコツいわせる死のために空のグラスが用意してあるのだから。細いすね、細い腰の老人だった、頭には「ｉ」の字の上の点のような小さな帽子をかぶり、口ひげはさまざまなポマードで唇に貼り付けてあった。レゼダ氏は始め、この尋常でない男の長くて薄い首に見えるとがった咽仏を楽しんだ、それは確かに、ワインが彼の内で転がり落ちるとき、愉快な動作を行うのだった。聖ピエトロ寺院の鍵も、この老紳士が山の斜面にだんだん見えてきたワイン蔵を左手で指差している間、そして寡黙なアルヴィンツィ氏、同様に忠実な取り巻き、シルヴェステルとヴェンデーグヘジ・アルジにワイン蔵の持ち主たちの歴史を物語っている間、手でふりまわしている地下室の鍵より重要なものにはなれなかった。どの蔵の持主たちにもそれぞれの物語、それぞれの小唄があって、それどころか大昔にはジプシーたちもいた。だが持ち主たちは客人らにも嫉妬深く注意していた。ときには年寄りの客人の一人がワイン蔵に現れず家にとどまったときなど、持主たちは大樽の隣の彼の場所にバツをつけ、やがて死亡通知を送ってくるのだった。

　シロカイ先生は肩幅の広い、低い声の老人だった、救急警報タイコのような声をしていた。学校では少年たちにハンガリー文学を教えた、建国者たちがここに置いていった衛兵か何かのように国境のギムナジウムのハンガリー人たちに、注意していた。彼はピクニックのバスケットを運んでいた。

　レゼダ氏と許婚クローンプリンツ嬢は残った、ＲＫは雪が膝より上にくるときにはとりわけ、山の斜面の無人のワイン貯蔵庫の間を一行とともに進むことを好まなかった。

　「妬いたりしますか？」レゼダ氏はたずねた。「ばかなことを言ってるのはわかってます、でもやはりあなたには言っておきますが、十年だか十二年前にもうこの地方を歩いたことがあるんです、冬にご当地の劇場の娘役と、彼女の名前は忘れました」

　クローンプリンツ・イルマは斜視気味にＲ・カズメール氏を見た。

　「本当に名前を忘れたの？」

　「お許しがあれば言いましょう、イルマという名でした」

　イルマはクロテンの毛皮の帽子を目まで引っぱり下ろした。

　「かまいませんよ。一時はイルマたちのワルツまで書かれたのです。彼女と会ったのは一度だけです」レゼダ氏は憂いに沈みながら言った。

　「間違いでなければ、この場所で」

　彼は一軒の自然石で建てられた正面がすすだらけの、子供の頭大の錠前を備えつけたワイン蔵をさした。その入り口の上には古めかしい数字「１７５５」が書かれていた。

　クローンプリンツ嬢はワイン蔵を、何か面白いものか何かのように見た。それから一同から取り残されるのに成功したので、ＲＫの唇に噛み付いた。

　「彼女こんな風にあなたにキス出来て？」彼女はしゃがれ声でたずね、その目が悪意で光った。

　筋肉を使い慣れない腕で、つる草のように彼女はＲ・カズメールの首をかかえ、騎士は息がつまり始めた。

　「彼女こんな風に抱けた？」

　そしてすでに何度も試していたレスリングの押さえ込みで、ＲＫの肩に膝をかけ、すねを男の首にからませ、これで彼はすぐに雪の中に落ちた。クローンプリンツ嬢はこの後ＲＫの胸に膝をついた、修道女がパン屋からシュテファニア・クロワッサンを受け取っている間、ご機嫌な思春期の娘たちが修道院の寝室で取っ組み合っているかのように。

　深い雪の中での戦いは無言で、断固として続いた。レゼダ氏はようやくネコの毛皮のついたマントから自由になり、帽子を振り落とし、まだ許さなかった押さえ込みで（そのときもイルマの手の親指の爪の辺りに触って押したのだ）、クローンプリンツ嬢は膝をつかざるを得なかった。

　彼は、骨と筋肉がシカのそれのようにメリメリいったとき、「言うことをきけ！」と若い頃麦刈り娘たちにしたように叫んだ、そして目的を遂げようと、喉をしめるのをためらわなかった。

　もうそうする潮時だったのは本当だ、一つ二つの村や静かな田舎で女たちが彼から安全でいるわけがなかったころ、春に雄狼が羊の番犬にするように、彼は囲いの周りで隠れうかがっていた、もし夜どこかで気がつかれたら、男たちは荷馬車のハシゴ型の枠と車の長柄で追い払ったであろう、すなわちレゼダ氏はたとえ彼の髪はすでにそこかしこで雪のように白くなっていたとしても、結局古い武勇伝を忘れてはいなかったのだ。何でもするつもりのならず者（老ならず者）の飢えを抱えて彼は、いちご摘みの娘と戦うようにイルマと戦った。（娘のすねはのたくり、槍でつきまくるように、かかとでついてきた。腰は海の上の泡のようにあちこちへ転がった）クローンプリンツ嬢はやけっぱちの怒りとともに、一塊の雪を彼の顔に投げつけたとき、

　「あなたのお父上が！・・・」

　彼女は立ち上がり、軽蔑とともにＲＫ氏をじろじろ見た。

　「あなた、私のことで何を考えてるの？みじめな男ね！」

　一秒間レゼダ氏は、十年前ならそうしたように、令嬢ののどをつかみ、彼女に不服従ゆ

えの許しを乞い、手に、顔に、手袋に、マントに唇を触れ、しまいには恋人に誓いをたて

ることを強いるつもりだった～だが、レゼダ・カズメールはすでにことに飽いていた・・・彼は、明け方の通りでひどく寒くて、かごをかかえびっこをひいて行くときのパン屋の小僧のように口笛を吹き始めた。

　「一度雪の中で一人の瀕死の人間を見ました」彼は言った、そして冷淡に雪をイルマの

コートから落とした。「伸びていた長靴から見てばくろうか何かだったようです、そして道

端に横たわって血の泡をふいていました、目を開いては閉じしていました。もし人生で聖

人になる資格がなかったら、いつかは私もこんな境遇にいきつくのだと気づきました。一

体いつから聖アウグスティヌスは清らかな生活を始めたのでしょうね？」

　「あなたって人は決してなおらないんだわ」イルマは傷ついて答えた。（彼女自身、ひじの突きあいがこんな味気ない最後になるとは思っていなかった）「ライオン亭や小レドゥー亭で、老いぼれになっても酒場の看板でい続けると決まっている人々というのがいるわ。やがていつか落ちぶれ、ぼろを着てみすぼらしく、喘息もちでバーでくつろぐ、そのとき唯一の友グラーツィアース氏ももういなくて、地獄の苦しみを抱えてテーブルに私の名を書いているでしょうね」

　「そうはしないと約束します」ＲＫ氏は実に乾いた声で言った。

　イルマの顔にはいくばくかの影が現れた。

　「一体あなたの運命はどうなるの？四十代ではもう働くのは無理だわ。性格俳優みたいにプライドばかり高くて、お金持ちの女と結婚して、女に養わせるんだわ。偶然の幸運に当たることはない、あなたの幸運は、今までの生き残ることが出来たことで、翼を使い果たしたんだもの」

　「全ての新しい日は神の特別な恩恵と奇跡です」レゼダ・カズメールは熱烈な信仰とともに言った。「人生は、良きにせよ悪しきにせよ、知らせを手渡した後の郵便配達の若者のように走り去るのです」

　「そしてもしいずれ私も見捨てたら？」

　イルマは雪から傷ついたまなざしを上げた、それはほとんど憎しみに光った。

　レゼダ氏は祈るために両手を組み合わせた、そして肩をすくめた。

　「もし私たちも見捨てたら？」クローンプリンツ嬢は苦しみつつ続けた。「私はあなたを蹴飛ばして、二度と会わないわ。私はあなたのお仲間のところには行かないし、あなたも私の仲間のところへは来れない。私たちは会えないし、お互いを忘れるしかなくなる・・・」

　「老いの日々には修道会に加わろうというのが私の昔からの計画です。ティハニーの僧院長は私の知り合いです。バラトン湖の上、伝説の世界の上に大胆にそびえる古い修道院には一番年寄りの修道僧たちが住んでいます。十一人います、そして彼らの年齢はあわせて大体千年位になります。そこが私にとっての良い場所になるでしょう」ＲＫは控えめに答えた。

　「何を考えてるの？修道僧たちに怠け者が必要だとでも？」

　「私は暖炉をたき、木を切ります。ワインを貯蔵庫から持ってきましょう・・・」

　娘は復讐に燃えて高笑いを始めた、涙があふれ出、顔をつたわった。

　「私の腕をとって！」彼女は叫び、山の斜面をかけ上がった、そこではすでに暗い地下室のドアからここかしこを光が照らしだしていた、まるで悪魔たちが鍛冶屋の仕事場についたかのようだった。

　シロカイ先生は一人の帽子も靴もない人間を谷に走らせ、この瞬間にジプシー楽団のリーダー、ラーニが全楽団とともにベルゼンツェイのワイン蔵に現れるよう手配していた、かつてのハンガリーではそのような人間をすっかり心満ち足りた状態で見出すことが出来た、そして彼は照明のある都市では太鼓の運び手と呼ばれていた。（これらの、音楽家のジプシーたちの奉公人になった人々はどこからかつてのハンガリーにやってきたのだろうか？）ナジ・イグナーツ[３]のペンによる「ハンガリーの秘密」にも書かれていなかった。破滅した紳士たちが一度ならず、この世の生活との完璧な不一致と別離を見出すことの出来るこのコースを選んでいた。豹のような体躯のジプシー娘に恋をし、ジプシー女王をたまには目にすることが出来るようにと、ホッロー通り（７区のキラーイ通りとドブ通りとを結ぶ路地の一つ）で太鼓とシンバルを音楽家たちの後から運んでいた変わり者のＫについて思い出が語っている。またあるときは破滅した後、バイオリンの弓と四本の弦に夢中になった紳士たち、みすぼらしい縞模様のズボンと底のないエナメル皮の靴で居酒屋の片隅でバンドの音楽をもっと聞こうとして、楽しみ続け、静かに歌い、バンドの音楽で自分たちの過去を思い出すのだった、彼らは郵便屋が、カフェ「ベチャール」にハンガリーのジプシー音楽家の愛好家であるＸないしはＹが偶然にも、酩酊した頭で足を踏み入れたという知らせがくると、背にシンバルを受け取るのだった。オーストリアーハンガリー銀行は、黄色かった古い千フォリント紙幣を廃止した、そしてそれは国の一番太った、一番美しいユダヤ女性たちのお守りの中で見つかった、なぜならどれもその地のジプシー楽団のリーダーの額に貼り付けるためにデブレツェンに運ばれたからである。私の若い頃、ある太鼓運び屋が初めて、女たちを信用してはならないと私に教えたー彼はその後三十年間あきらめといくばくかの情熱とともに夜の楽団のために楽器を運んだのだった）

　地下室の中にはすでに陽気な生活があった。

　豆ランプの炎―年上のボロミッサの胃のように気まぐれだったーはワイン蔵の壁の上のさまざまな図案を見せた、昔の客人たちがここで爪と、血と、最終的な忘却とで描いたものだった。すなわちパイプをふかすクルツたちと一本足の老人を可愛がる女たちとが地下室の壁の上に腰を下ろしていた、そしてピラミッドの中のミイラのように安らいで振舞っていた。山の斜面にはラーコーツィ・フェレンツ二世ないしは少なくともベルチェーニ[４]が自然石の壁に半ば燃えたまきで名前を書き付けなかったであろう蔵はほとんどなかった、この時期、オチュカイ[５]がウィーンの壁で練習した頭文字のイニシャルは大流行だったから。（ベルゼンツェイのワイン蔵には本物のポーランド王たちが署名を残していった、彼らはワインと娘のキスとケルメツィ金貨（１３５３年からハンガリーで鋳造された金貨。フォリントは当時正式の名称でなかった。スロバキアのケルメツ鉱山で鋳造されたためこの名称がある）を盗みにハンガリーにやってきたのだ）

　アルヴィンツィ・エドゥアルド氏はもちろん深い感動とともにこの歴史的な壁を観察していた、そして署名の間でとりわけ一つが彼の注目を惹いた。

　その署名はこう響いた

　「Hic fuit Szemere de genere Huba」（ラテン語で「セメレ＝ドゥ＝ジュネール＝フバここにありき」の意）

　「おそらく私の縁者のミクローシュ[６]がここに来たのでは？」彼はいくばくかの感動とともにたずね、何心なく帽子を直した。

　シロカイ先生は全てを心得たまじめさで答えた。

　「この署名の主は、セメレ一族の出の詩人ミクローシュです、彼はペトーフィのことを遠くから好いていましたが、他方近くでは好みませんでした、彼の意見によればペトーフィが履いていたようなピカピカのブーツを身につけるのは、詩人にはふさわしくなかったからです」

　アルヴィンツィは賛成してうなずいた。

　「確かにわが親戚の言うとおりだ」

　他にもリラ、トリラ、アニュツィの名前がすすで汚れた壁の上、このワイン蔵の思い出の記録帳に現れた。シロカイ先生は、本人は眼下に横たわる町で聞かれないようにささやき声のつもりでいたが、バスの声で見解を述べた

　「私の弟ジュルカは当地の劇場の座席予約会員ですが、女優の卵たちは彼のちょっとした援助にあづかっていました」彼は歴史的な表情で、あたかもジグモンド王の時代の署名を解説しているかのように言った。

　（話題にのぼったジュルカ、老ベルゼンツェイ氏は目を伏せた）

　この後まもなく彼らは、豆ランプを置いた古い樽のまわりに腰を降ろした。工事用の架台やさまざまな梁や、昔の道楽者たちの記憶を守っている選り分けられた樽に一同は腰を降ろした。ヴェンデーグヘジ氏は壁際の棚に座った、そこから主はほんの少し前にすっかり変色してしまった非常に分厚いガラスのワイングラスを取り出した、アルヴィンツィ・エドゥアルドがてんの毛皮の一つしかないボタンを外している一方で、シルヴェステルはある旅回りの役者がここに忘れていった、サーカス芸人のかぶるようなばね状の帽子を発見し、頭に斜めにかしげてかぶった。ベルゼンツェイ・ジェルジは地下室の暗闇に姿を消し、そこから黒いびんとともにもどってきた、そして処方箋どおりに薬を計るかのように心配気にフラスコからついだ。

　「おすすめです。ことに空腹には」彼は魔法使いのように、貼り付けた口ひげの下でもぐもぐと言った。

　クローンプリンツ嬢は疑わしい杯を底まで空にした。

　シルヴェステル氏は、ヴェンデーグヘジ・アルジャーノンがかの赤く酸味の強いエゲル・ワイン（ハンガリーではこれに比肩しうるものはない）についての言葉を棚の中のクモの巣だらけの流行遅れのグラスに贈っている間、いつものように全てに満足していた。

　「美しい女たちのために！」アルヴィンツィ・エドゥアルドは言って、そのまなざしは偶然クローンプリンツ嬢の燃える目と出会った。

　高齢者は赤くなり、それから身につけている毛皮を整えた、やがて新たにイルマに陰険な一瞥を投じた。彼はイルマがいつもと異なる声で話しかけるまで、数分の間言葉なく、じっと前を見つめて座っていた。

　「ある年齢の男たちがもう女たちの手袋を拾い上げなくなるのは、なんて悲しいことかしら！」

　アルヴィンツィ・エドゥアルドは傷つき、当惑して周囲を見回した、だが地下室ではこのとき誰も女性にかまっていなかった、ハム、小さなたまねぎ、赤カブと強い香りのチーズに心を奪われていたのだ、それらはシロカイ先生が放浪の魔法使いの寛大さで大樽の上にきちんと積んでおいたのだった。焼きたての新鮮な白パンはすぐに胃を一杯にしてしまうので、パンがまだ乾燥していて固い間に。ペンシル類、シカ角のナイフ、狩猟用のハンマーがポケットから出てきた。アルヴィンツィは旅と義務付けられた礼儀から疲れた声で、何かの芝居の中のように繰り返した。

　「女の手袋・・・」

　「地面に落としたやつですわ」聞きなれぬ見知らぬ女の声が、まるで壁から名前の一つ、昔のトリラか誰かが口をきいたかのように答えた。

　「さあ、ナイフです！」シロカイ先生が食べ物をすすめながら言った。

　レゼダ・カズメール氏はこの間ずっと、聖地に赴く前に召使を去勢し、奥方に貞操帯をつけたキリスト教徒の勇士のような、いい気味だという顔をしていた。彼は悪意のないシロカイ先生と、「ウングバールでは一番上等なハムをどこで買えるか、何しろ伯父に送るので、その伯父からは大層な遺産を当てに出来るのだ」、と長々と話し始めた。

　「ワインは恋の残忍な敵です」先だっての声が続いた、まるで舞台の背景幕の間にいる、本当の顔は決して見ることの出来ない誰かが話しているかのようだった。

　「今はともかく祖国のために飲もう」アルヴィンツィ・エドゥアルドが言い、そして杯を置いた。

　彼は神経痛にかかった老人のようにゆっくりとおきあがった、だがその顔は、昔のクルツたちの地下室で魔法が起きたかのように驚くほど若返っていた。

　彼の顔は赤く、ラーコーツィの時代の歌のリズムのように熱中していた。

　その額と顔は、油絵の中の先祖たち、厳しいまなざしの辮髪の勇者たちのような顔色だった、彼らは吹きさらしの夜に、父親らしい気遣いで孫たちの、若い女たちの（彼らが仰向けで寝ている間に）夢の中を一瞥しようと額縁の中から出てくるのだった。

　彼は亡霊のように伸び上がり、そして目に見えない腕でクローンプリンツ嬢を抱いた。

　黒い薬のガラス瓶からしたたる魔法がまだ何秒かの間集まりを支配していた。

　ＲＫ氏は突然身震いし、頭を上げ、イルマを探した。

　イルマは背後の大樽に座っていた、手鏡に顔を映して、米粉がついたハンカチで鼻をぬぐっていた。着替え室の貴婦人が、自分の苦境を面白がっているときのように、そしていずれ男たちが自分のスカートの刺繍や靴下止めの蝶にどんなお世辞を言うかと考えているときのように挑発的に微笑んでいた。

　「私あなたを裏切ったわ」クローンプリンツ嬢は、レゼダ氏の牡牛のような血走ったまなざしに気づいたとき、ついでのように言ってあごに米粉をはいた。

　ラーニのジプシー楽団がこのとき到着した。

　楽士たちはワイン蔵のドアから次々と滑り込んできて、丸く見開いた目で当たりを見回した、まるで広い世界で初めて演奏に呼ばれたかのようだった。（村のジプシーたちはみな同じようなので、彼らを区別することはほとんで出来ない。ラーニの楽団は都会の楽団とみなされていた、夏ごとにソブラーンツ温泉（スロヴァキアの東部コシツェ地方のSoobrannce,ウクライナとの国境近くにある温泉地。すでに十四世紀から亜硫酸塩水の温泉はよく利用されていた）で、よい匂いの松林と心を晴れやかにしてくれる山々の間の円形のパビリオンで、毎朝ハプスブルグ行進曲で客人たちを起こすのだった。セカンド・バイオリンは狭いつばの暗黄色の硬い帽子を、一方笛吹きはそんなのは町でも誰も持っていない、真珠ボタンのついた明るいコートを自慢にしていた、リーダーはジャケットとしまのスボン姿だった、シンバル奏者のネクタイには指輪が結び付けられていた、さらに大太鼓をここまで運んできたあのシャツなしの人物にも～長年～手にカフスがあった、ラーニの楽団はじつにエレガントなバンドだった。

　楽士たちの野生の獣のような匂いはすぐに貯蔵庫の空気の中で嗅ぎ取れるようになった。レゼダ・カズメール氏はしばらくはこの戦いに勝ったが、その後は悪臭をはなつ葉巻を歯の間でかんだ。やがて彼は、シルヴェステル氏がほとんで理解不能な乾杯の挨拶を始めたとき、大樽の横から逃げ出した。

　ワイン蔵の前は感動的な冬の夜だった。山腹は、たまにモミの木から一塊の雪が滑り落ちるのが聞こえるほど静かだった、まるで放浪の若者がその下に横たわっていて、その死骸を朝まで隠しておかねばならないとでもいうかのようだった。あたかも冬の夜の黒を黒に重ねるかのような闇が、夜のさまざまな部分に向かって姿を現していた、ここかしこで筆の線を一本引き忘れていて、闇はより明るかった。これこそ、人間が彼岸の生活とはどういうものになるのか感じることの出来る時間だった、おそらく表面が雪に覆われた絵の

中で道に沿って立つことか、あるいは、ある見捨てられた厩(うまや)のクモの巣だらけの窓にな

るのか、そこではせいぜい罪に陥った、一人の召使の少女が子供を生むのである。

　レゼダ氏はときたま死後の用件に取り組むのが好きだった。遺言書でも心臓の一刺しを提案した、帽子ピンか何かが目的にあっていたことだろう。

　誰かが肩に触れた。

　レゼダ氏は振り向きもせずにこう言った。

　「あなたがあの墓場の匂いのする老人に何を期待してるのか、知りたいものです！」

　クローンプリンツ嬢は毛皮の襟を立てた。

　「ばかばかしい」彼女はふるえながらつぶやいた。「たまに何の理由もなく色目を使ったりしてしまうのよ。私、血筋が悪いんだわ。私が悪いときは、誰かがなぐってくれればいいのに」

　「そんなことはしません」ＲＫ氏は静かに、本気で言った。「他にやるべきことがあります・・・このことで私のやることは何もありません。この酔狂な旅行に加わったのが残念です」

　少女は両手でＲの肩に触れた。

　「カズメール！私をゆるして！」

　ＲＫは心を動かされて繰り返しうなずいた。

　「私は―怒ってはいません・・・私が最後に女に腹を立てたのは十五年前です、そしてそのことを永遠に恥じています」

　「軽蔑する？」

　「なんて子供っぽいことをきくんです？誰一人として他人を軽蔑する権利はありません！一般的に人を見下す習慣のある連中は、大抵は本人が一番恥ずべき罪にまみれているのです」

　「何か安心させてくれるようなことを言って」

　ＲＫ氏は考え込み、まるで何か非常に重要なことを説明するのに頭をひねっているかのようだった。額にしわを寄せ、しまいには次のような講演を行った。

　「かつてまだ、あらゆる手段があなたの心をかき乱すのにちょうど良いと思えたとき、そしてコップの下にいるサソリのようにあなたをうかがっていたとき、私は日本の絵をあなたに見せました、それらはシルク・ペーパーに印刷されていて、恋の様式化された場面を描いていました。あの奇妙な植物を覚えていますか？それが愛し合う人間たちだったのです。人間の頭をした特異な動物を？長いおしべの花と特異なうてなの雌性の桜の花を？この植物は若者たちと老人たちでした、東洋の想像のエクゾチックな猥褻さが線からにじみでていました。そして、あなたがあの酔狂な老人とキスしていたとき、この小さな絵を思い出したのです」

　「他のことを話して。何を感じたの？」イルマはおもねるような声でたずねた、まるで、予想出来る苦痛な言葉の特別な素晴らしさに、すでに聞く前から虜となったかのようだった。

　ＲＫ氏は、まるである窓が待っているので堀をよじ登り始めるかのように、冬の夜から大きく息を吸い込んだ。

　「今まで淑女の知り合いがたとはいつも、私が彼女らを忘れることで終わりとなりました。幸運でした。私は決して立ち止まりませんでした。何か風変わりな残り香、たまには苦痛の叫び声をあげて目覚める夢、あるいは崇拝した女の額にあったほとんど気づかないようなしるし。すなわちテントの柱を抜いて、このあたりから引っ込むよう知らせてくださったのは良かったのです。私はときどき、まだ私があなたを崇拝していたときでさえ、近づいてくる氷を感じていました（天候を予想する神経痛が心の中にあるかのように）、あなたは間違いなく気づきもしなかったでしょうが、恋のささやきは偽者で、あなたのご希望はすでに惰性となり、そしてあなたは退屈しながら女性クラブの集まりのためにするように、デートのための着替えをしていました。

　あなたはすでに時折、朝夕の魂の祝福のためのお祈り同様、靴下止めのレゼダ色の花束のことを忘れていた。うわの空で通りをやってきて、決められた時間より一時間も遅れたし、階段をあえぎながらかけ上がることもなかった。

　丸天井の古い家で、あそこではわが淑女の足音が壁に反響していましたが、あなたの足音は門の下へ幾度もターンしました、私はあなたがどんなご機嫌で、詩にうたわれた小さな手を呼び鈴にかけるか判断することが出来ました。一体あなたは逃げ出すか、それともまるで自分の道を悔やんでいるかのようにためらいつつ立ち止まるだろうか、本当のことを言うかそれとも嘘をつくのか、早々と立ち去ってしまうか、それとも照明がともされる頃までいるか、そして下着の戸棚を整理するのだろうか？

　あの古い家での足音は、孔雀あるいは小さな灰色のすずめが何度来るかまで知らせてくれたのです。最後だと！いつだってそれは正確にわかりました。そして私は、それ以上自分が生きている兆候を示しませんでした。私がお別れもなしで地方からしょんぼり出て行くと、女たちはどれほど驚いたでしょう！彼女らはことを正確に理解していませんでした、誤解がある、いずれ私たちは出会っていくつかの言葉をもらし、手を握りあい、気の狂いそうな思い出とチップのような呼びかけを口にし、そして騎士はこれからも見張り場所にとどまるだろうと信じていたのです。私は決して最後のデートに出かけては行きませんでした、いつも、恋の物語ですでに人生の回想録か何かのようにページをめくっている女たちを恐れていました。「ねえ、なんて素晴らしかったでしょう―水曜でしたね！」彼女らは言いました、そして私は放浪の役者のように、内緒で荷造りを始めたのです。

　そして私が片足を汽車に乗せていることに彼女らが気づく前に、一人ずつ彼女らを忘れました。いうなれば私はつごうのよいときに、真似事だけで遅ればせながらも一人か二人のために苦しんだのです、男たちというのは女たちとちょうど同じように空想家です。ありふれたものでない、興味深い感情を特別扱いするのです」

　「それじゃあなたは一度として愛してなかったんだわ！」クローンプリンツ嬢が意見を述べた。

　「いつだって生死をかけて愛してました」

　「私には決して忘れることは出来ないと思うわ」イルマはおののく声で続けた。

　「忘れます」

　「あなたなしでは私の人生は一体どうなるの？」

　ＲＫ氏はユダヤ人のように手の平を外に向けた。イルマがつぶやいた。

　「何かが私に、あなたは私のせいでまだずっと苦しむだろうとささやいているわ」

　「神の御許に逃げます、神はいつだって救って下さったのです」

　少女の目は、天から追放された天使が真実のために戦うように闇の中で灯った、レゼダ氏がその傍らによりそうと、彼女の肩甲骨がメキメキ音をたてた。

　「行っていいわ。でも最後にキスして」

　冬の夜は、いかさまカード師たちの隠れ宿で寝たふりをしている老秘密警官のように、彼らの周りで耳をそばだてた。地下室ではどれか古い大樽の鉄のたががパチっと音をたてた、雪は凍りつき始めていた、そしてからすの羽ばたきのような聞き取れないため息をついて寒さが降りてきた。

　「あなたの口はアーモンドの香りがする」ＲＫ氏は口ごもった。「まるで何か秘密のなりゆきの結果のように、あなたの口は毎回口づけの後で生まれ変わる、そしてそのみずみずしさは決して物憂さに変わることはなく、良い匂いになるのです」

　「あなたの膝は森の星のように照らしだす」

　「あなたの髪のこの誘惑的なメスの香りはどこから来ているのだろう、きっと午後中ずっと外にいたのですか？」

　（二月の夜、ウングヴァールの山腹の雪の上にはピラミッドのヒエログラフのような記号が残った）

　この後再びレゼダ氏は地下室に現れた。

　クルツの首長に威厳をもって樽に座っていたアルヴィンツィ・エドゥアルド氏は、さしまねいた。

　彼は、父親が息子にするように尽きることのない思いやりとともに、抱きしめた。

　「息子よ、遺言の中で君について配慮しておいた」彼は光る、湿った目で言った。「君は立派な男だ。お嬢さんを悲しませてはならない。愛してあげなさい、それだけの価値があるのだから」

　ＲＫは皮肉っぽく肩をすくめ、それ以上クローンプリンツ・イルマには一瞥もくれなかった。

　アルヴィンツィ氏はこの後婚礼のような上機嫌で、ジプシーが高まる雰囲気の中で皆に、ラーニは民衆劇場のシンバル奏者の兄だとささやいている間に、リーダーにいくつかのジプシー音楽風、民謡風の憂いに満ちたハンガリーの歌を（ラヴォッタとチェルマーク[７]を後回しにすることなく）注文した。心臓病のチェロ奏者は表情を変えながら歌を奏でた、バンドの老パパ、コントラバスのマネージャーは柔和な老人式にべろんべろんになっていたが、必要な箇所では常に弓で老いぼれの弦に切りつけるのだった。（一般に老いた音楽家が音を外すには、よほど酔わなくてはならなかった）

　青きバラトンの地、夢の中のぶどうの山々、ワイン蔵の前の孤独な笛の演奏、バラトンフュレドの昔のエステルハージ家の中庭の月光に照らされた窓、思い焦がれた目、性急な、その時代のたっぷりしたスカートを着た茶色い貴婦人、生死を覚悟した騎士、魅力的なロマンスが古い歌の響きにあふれ出た・・・

　あるとき巻き毛で、額がはげあがり、背の低い刑事裁判所判事キシュファルディ・シャーンドルが恋をした、恋愛の世界で女性については大した成功が望めないあの詩人たちだけに出来るような恋を。だからこそ希望をかきたてるもの、唯一のものに激しく執着するのだ。

　またあるときは前世紀の、皮肉屋の山師の袖なしの仕事着が、裕福な商人の娘の窓の下にある木の幹の背後に隠れているのが、嘲弄的に「お嬢さんの生死のためにセレナードを忘れないで」と言っているのが見えた・・・

　レゼダ・カズメール氏は死者の門の下で、自分は午後、鉄道の郵便車両の隙間から手紙を投げ込んで、汽車が出発し、そして彼は滑りやすい床で滑って車両の下になったのだと思っていた。今やレール上に大の字になり、一台の貨物車両のピカピカ光る車輪が避けようもなく近づいてくる。髪は空に向かって逆立ち、そしてシルヴェステル氏がシンバルを壊す前に、アルヴィンツィ・エドゥアルドが出発の合図を出したとき、本当に楽になった。

　「人生は走り去るのだ」彼は一人で考えた、そしてその夜の特別な出来事をあきらめた。

　（十年前なら翌日の夜、頭を打ち抜いていただろう）