第二章 ブダの城の白い婦人
フェレンツ・ヨージェフがブダにやってくると、かつての敵対者アルヴィンツィ・エドゥアルドは王のブダでの用向きを探り出そうとこの機会を利用した。彼はペストでの王も男であることに違いはないと踏んでいた。
この年、長い数十年の経過を経て、再び昔ながらのハンガリーの冬がこの国を訪れた。かつてのハンガリーでは冬とは休養であり、安らぎであり、控えめな喜びの季節だった。冬は一人の老人のようなけっこうなもので、そのひげから気前良く雪をふるいおとし、マージョラムの煙が天空にたちのぼるのだった。
というわけでこの昔ながらの冬がもどってきて、ペストでははやばやと交通が止まってしまった。これに対してブダの王城の周りでは勤勉な労働者たちの手が雪かきをしていた、
ちょうど王がペストにいたからである。
この時期に、ある晩ブダの城で「白い婦人」が現れる、ということが起きた、彼女については老いた宮廷の召使たちが、ウィーンの王宮の門付近になすすべもなく立ち尽くしている「クルムバハ・ビヤホール」であらゆる種類のおとぎ話をかき集めていた。かの白い婦人の登場は、彼女が今までまだ一度としてウィーンの城を去ったことがないだけにいっそう尋常ならざることだった、今や彼女は初めてハプスブルグ家の人々についてブダにやってきたのである。
白い婦人のブダ訪問は、正確かつ詳細にかのペストの貴婦人マダム・ルイーゼの日記に書き記されていて、筆者はそれで読んだのである。信頼性のためにも、該当する部分を言葉そのままに引用するのが最良であろう。
「陛下はルイザの歌をお聞きになろうと、彼女を夜八時にお召しになった。大型の冬のためにシャーンドルは三頭の馬を馬車につけた、深さ１メーターにも達する雪が道路を覆っていたからである。私はトラの毛皮のコートを身につけ、並びに恒例の足用湯たんぽも用意した。馬車は血染めヶ原[１]の城砦の階段付近で止まった、ルイザは白いマントを手にとり、私は彼女の額にキスした。
「勇気をだしてやるのよ、私のお友達」
ルイザは急いで階段を上っていった、私は馬車の隅でしばらくウトウトした、湯たんぽは正しい配分によって温かくしてくれた。例によって夢におじいちゃんが赤い国防軍の帽子姿で現れ、そしてチョークで宝くじの番号を壁に書いた。降る雪が閉ざされた馬車の周囲でピューピューいうのに目がさめた、私たちは同じ場所にいて、まるでもう雪に埋められてしまったかのようだった。遠くの血染めヶ原に一本のガス灯が見えた、ぎょっとして外套から、ペルシャのシャーから贈り物にもらった時計を取り出したほどに、落ち着かない静けさだった。薄暗がりに針が互いの上に重なり合っているのだけが見えた。今どこか遠くで、おそらくは別世界のどこかの塔が鐘を鳴らしていた。私はゆっくり時計の音を数えた。十二時だった。
私は身震いし、突然氷のような戦慄が手足を走った、湯たんぽは文句のつけようがない位ちゃんと働いていたのだが。神よ、私には何が起きたのか、ルイザはどうなったのか？
辻馬車のドアを開けることが出来るまでには長い時間がかかった。降る雪は馬車を中央まで埋めていた、ドアはなかなか開かず、馬車の照明の周りのばら色の雪の中で私はくるぶしまで沈んでしまった。
「シャーンドル」私は御者を右から左へと呼んだ。誰も答えなかった、鞍をつけた馬だけが頭を上げ、毛布の下で震えていた。
恐るべき状況、と私は思った、そして名高い私の冷静さにはそのときほとんど見捨てられていた。（かつて私は一人きりである冬の夜に、荒野の道を馬を駆った、愛しい恋人エレメールを農場で探してみても無駄だった、嘆きのうちに私は家に向かって痛む心をドクドクいわせた、乾いた唇は口付けなしで苦かった、何か不幸が起きたかのようだった・・・。大体こんな風に私は夜の血染めが原で感じていた、とはいえエレメールと静かに別れてからすでに二十年たっていたのだが）
おそるべき状況だった、繰り返す、なぜなら友人にある種の責任を感じていたからである、彼女の御前での歌の夕べは、あっぱれなボルトラースが再び実現させてくれたのだが、彼にはその点感謝している。私はもう、美しく若くなりたいとは思っていないが、私は終日ストーブの隣に座っていると思っている老いた友人たちが信じているほどには決して恋を軽んじてはいない。ああ、そうではないのだ、いつかこのページを読み、私の一生についての小説を書く親愛なるクルーディよ。この年月私にとって恋はまだ、毎月崇拝者をとり替えていたほどに、魔術的な何かだった・・・ 私はルイザを心から好きだった、彼女の高貴で、自己犠牲的な友情によって私は親愛なる「ビミー」の知遇を得た、彼は一年間だけでなく毎晩作品を読みあげてくれた）
私はあてどもなく血染めが原の雪の中でウロウロした。人殺しどもが、強盗たちが恐かった、私はベッドの上では死ねないだろうという子供のときの予言を思い出した、そして夜は墓場のように静かだった。
どれほどの時間が過ぎたろう？
上の城砦の階段あたりでガスの炎が、わが眠りなき良心のごとくゆらめいていた。一人のほっそりした男の体躯と青ざめて、生に倦んだ顔が照明の届く範囲内に現れ、それから階段を近づいてくる足音が聞こえた。
ほとんど最初の一瞬で私はレゼダ・カズメールを、気まぐれな詩人タイプで、私が思うに、身を持ち崩した生活を送る男を認めた、彼のことを私はこの十年の間何度もブダで見かけた、いつもわずらい、不幸な恋でいっぱいだった。彼は、私の足がカモシカのそれのようであり、ミラノ王がこの前に膝まづいたことに決して気づかなかった。また王室の男性たち内誰が恋をしているかにも全く興味がなかった。このレゼダはとりえのない、酔っ払いの修道士だった、間違いなく溝の中で死ぬだろう。
しかし今の私は彼が来たことが限りなくうれしかった。
何年か前のクリスマス頃、私は雪原でクチャヴィッラ[２]あたりをカズメールと腕を組んで散歩し、彼のことをすっかり忘れてしまった、雪の上に腰を下ろして、あらゆる種類の姿を描くのはなんと貴重な体験だったろう、太陽は赤く凍りついたドナウの上を沈んでいった。
多分レゼダ氏は酔っているだろう、なぜならいつもそうだと聞いていたので。
恐いながらも私は馬車のわきから呼びかけた。
「レゼダさん、あなたこんな寂しい場所で何をしているの？」
彼はうんざりしてこちらをじろじろ見つめた、ちっとも驚いていなかった。
「白い婦人だかなんだかが王宮をうろついているようですよ、何人かが庭からそれをうかがってました。わが友グラーツィアースは何度も何度も誓ってました、白い婦人がある廊下の窓の奥に見えたとかなんとか」
（私はもう、その白い婦人とはわが友ルイザ以外の誰でもないことを知っていた）
「へえ、それであなたはその白い婦人を見ていないの？」
彼は手を振った、そして雪のついた口ひげの下でぶつぶつ言った。
「ばかばかしい・・・私は熱いグロッグ酒を一杯やりに血染めが原の向こう側に行きますよ」
私は手を組み合わせ、出来るだけ大きく目を開いた。
「レゼダさん、あなたは騎士だし殿方だわ、女一人のお願いをつっぱねることは出来ないわね」
「女一人？・・・」彼はいやみにもぐもぐ言ったが、私はこの意地悪な意見には取り合わなかった。これ以上こんな遅い時間に一人でとどまることは出来なかった、思うに最後には泣き出すことになったろう。
「私はここである人をーあるレディを待っているの。御者は消えてしまったし、一人きりにしないで」
「私は馬を駆るのは苦手ですよ」彼は皮肉に答えた。
「馬を走らせるのは私に任せて、あなた、私が馬車を走らせます。でもわかってくださいな、あなた、夜は荒らっぽくてぶっそうだわ、私は一人ではいられないの」
レゼダ氏はちょっとの間考えこんだ。
「黄金の弾丸亭が閉まってしまわないか心配ですね、そこならブダで一番すばらしいグロッグ酒を飲めるんですが」
奇妙な知り合いはそう言ったが、それでもやはり残ってくれた。一本の葉巻をポケットをかきまわして取り出し、歯でプチンと音をたてて端を切り、ゆっくり、煙をあげながら、火をつけた。
「それで誰を待っているんです？」彼は冷静にたずねた。
「お友達のＫ・ルイザは晩に王宮で仕事があったのよ、御前で何曲かハンガリーの歌を歌うようにと・・・」
レゼダ氏に生じた変化は目で見てとれるほどだった。劇場の古いオペレッタでは劇がヤマ場に近づくと、似たような場面がある。彼は私に近づき、ほとんど聞きとれぬほどの声でたずねた。
「Ｋ．ルイザは王宮にいるのですか？」
それから彼は私の友人についてあらゆる種類の侮辱的な言葉を口にした、私はそれらをはねつける勇気はなかった、このきちがいにはまだ、ブダペストで一番高貴なレディだったルイザに恋することが出来るのだ。彼は雪の中で地団太ふみ、脅かすようなしぐさをした。
「これは間違いなくあなたの仕業ですね、マダム。あの芸術家は誰か宮中の人間のお気に召した、そしてあなたはこの城で闇取引をやってのけた」
私の日記は、一人のまぬけな正気を逸した男の爆発ぶりを記録するためのものではない。
私は男たちが、いまだにまだ小説のように恋をしていることに、ある種の謝罪の気持ちを感じた。見よ、このシニカルで、ほくちのような心のレゼダは深夜の血染めが原でなんと驚くべき感情を抱えこんでいることか！人生は奇蹟に満ちている。いずれいつかは私だって死ななくてはならないということを、私が受け入れることが出来るかどうか、わかったものではない。
私は出来る限りこの手に負えない悩める男を落ち着かせた、彼はしまいには泣き声で私が慣れていないあらゆる名前で呼んだ。
ついに階段にルイザの毛皮の、白いマント姿が、その後ろにはわれらの御者シャーンドルが現れた。私はあえぎながら彼女の前に走った。
「あなた、ここに立っているこの人は・・・」
レゼダ氏は帽子をとって、頭をかがめ、紙のように白い顔でルイザの前に馬車のドアを開けた。まるでよき召使か不幸な恋人のようだった。
馬車の中でルイザはあえぎながら私の胸によりかかった。
「かつてない冒険だったわ」彼女は息を切らしながら言った。「音楽会の後、宮殿の中で道に迷ってしまったの、暗い部屋の中で、音のしない廊下をうろついたわ、鏡に映る自分自身におびえたわ、自分の足音で気が遠くなったの、生きてこの宮殿から逃げられないんじゃないかと思ったわ、だって廊下で衛兵がものすごくドアをたたくんですもの、そして家族の肖像画が私の髪にまとわりついたの・・・」
この瞬間のルイザは実際美しかった、それは認めることが出来た。大きな、涙に濡れた目が泣き笑いしながら語りかけ、小さな金の靴の妖精たちのようにさえずる唇で言葉がダンスをしていた、そしてその肩は魅力的だった。
「今のあのきちがい男は誰だったの？」ルイザは興味をもってたずねた。
「あなたは、あなたの行くところならどこでも姿を現わした可哀想な男と出会ったのよ」私は笑いながら言った。
「死刑執行人のように立ってたわ、私に噛み付くんじゃないかとこわかったわ・・・」
「まじめな話をしましょう」私はうなずいた。「どれくらいもらったの？」
「百フォリントよ、だって陛下はこのお金の価値をご存知ないのよ」
「とんでもない」
このとき幸運にも私たちは家に着いた。お茶にして将来の計画を立てた。
もし朝『相互理解』紙（１８７４～１９１３年まで刊行された日刊政治紙、二重帝国時代のハンガリー国会の最大野党独立党の機関紙）で、ブダの血染めヶ原で首を吊った男が発見されたというニュースを見つけても私は驚かなかったろう。
王の百フォリント紙幣はタバコの煙がした、間違いなく彼はシガレット・ケースの黒いヴィルジニア葉巻の背後から取り出したのだ。
ルイザは私に何か隠していると思う。願わくは、明日には何もかも打ち明けてくれるように。
そして今は、おやすみなさい、かわいそうなひどく苦しんだ女性、白い椿姫よ。一体、いつかはお前の心の声を理解してくれる騎士がやって来るのだろうか？
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マダム・ルイーゼの日記はこのブダのアヴァンチュールにこれ以上触れていない。だがアルヴィンツィはそれ以上のことをした、彼は即刻この特異なアヴァンチュールを、この件はウィーンの芸術家Ｓ.カタリン（カタリーナ・シュラット）には内緒にするようにという要請とともに、ウィーンの友人たちに書き送ったのだった。
かくてアルヴィンツィはフェレンツ・ヨージェフにお返しの切り札を切ったのだった。