第三章　われらが時代の主人公

 

　レゼダ氏はこの時期まだ、ブダのとあるかなり古い家に住んでいた、そのすすけた丸天井、すり減らされた階段と隙間風の吹く廊下は常にケープをまとった陰謀者たちを思い出させるのだった、彼らは明かりを隠して、秘密の合言葉を口にし、仮面をつけて陰謀をはかる～伝説によれば赤い修道僧マルティノヴィッチ[１]はいつの頃かこの家に住んでいたのだった。

　レゼダ氏はこのときすでに四十台にさしかかろうとしていたが、まだどうでもいいことを夢に見て、のんびり火に見入り、そして非良心的にも無為に過ごす時間があった、なぜなら彼の確信するところによれば彼の場所はすでにかなり以前から地下に、六足分の深さに～場合によってはブダの古い兵士の墓場の溝に～あるはずで、そして毎日は、彼を驚かそうという運命の偶然の贈り物だったからだ。感傷的な厭世観はハンガリーではすでに、スタンレー風の白い木綿の帽子のように流行遅れだった。

　繰り返すが、このかつての新聞記者は四十歳だった、その髪はむろん白くなり、悲しげな目からはすでに過去の美しい思い出さえも引っ越してしまい、もし彼の道が、ペスト区かブダ区にある、ある種の幸福、驚き、人をあざむく喜びが色あせた花束をたばねていた家々につながっても、彼のまなざしはきらめかなかった。

　なぜなら彼はもうその頃だって知っていたからである、その瞬間は過ぎ去ってしまうのであり、人々の間を皮のリュックにさまざまな小さな装身具を入れて運ぶ秘密めいた旅人は、乾きを癒すためにだけ喜びの馬車から降りてくるのだと。この使者はレゼダ氏にはありとあらゆる種類の髪の生えた人形をもたらし、彼はそれらと時を過ごし、たまに何の理由もなくその中のおがくずを見つめ、またあるときは生きながらそれらを葬った、喜びに飽きたからである。そしてもちろん、長い午後に自分の部屋で物思いにふけりながら座っていて、お隣では一人の精神病の老人が歌いながら祈りをあげていたとき、どの女が幸運をもたらしてくれるものやら彼自身わかろうはずがなかった。

　「俺は狂うのだろうか？」彼は夕暮れどき、狂人が寝るために連れていかれて沈黙してしまうと、一人でたずねた。彼は空想にふけりながら道を行き、ある種の静かな好奇心から実際に精神病なのかどうか、と考えた。この件は少しも彼の心を騒がせたり痛ませたりはしなかった。むしろ彼は変えようのないことだと同意した。ごくたまに、非常に遠い先のことについて、いずれいつかは自分の病気を治療させようかと考えた。しかし母方の叔母が（間違いなくロマンチックな女性だった）～彼は若いとき彼女と恋愛関係を続けた～死んだとき、そして遺言でレゼダ氏に定期的な月額を遺したとき、彼は狂った老人のお隣から引っ越した。

　「自分自身のためにするのではない」～彼は鏡の前でいささか悲しげな微笑とともに思った～「場合のよっては訪問してくる女たちのためだ」と。

　とはいえこの頃すでに誰一人レゼダ氏を訪ねてくるものはいなかった。

　彼はとにかく新しい服を作らせ、財産が出来たことをブダの酒場の老主人には知らせた、そこでは客が乱暴にふるまったりしなければ、そして敬虔なキリスト教徒式に金曜日に魚を注文するなら、一人の人間が一生の間つけで飲み食いが出来た。

　この酒場の亭主はグラツィアースという名前だった、そしてもう何人かの先祖が居酒屋業をやっていた。レゼダ氏は何年もの間、真夜中頃には居眠りしている亭主の横でくつろいで勘定書きをつけ、そして家人の好みに応じて政治を論じた。いずれいつかは酒場の亭主の太った女房を欲っしてみようかと計画したが、それから頭をふりながら家へ帰った、そして英文学史を読むか、あるいはパイプの火がベッドに燃えつくほどダーウィンかカントに没頭した。

　たまに彼は朝、自身の慰みに詩やちょっとした物語を書きなぐっていた書き物机で見つかった。若い頃から印刷所のインクとは旧知の仲だったとはいえ、恥ずかしがって自作をしまいこんだ。「何のために出版するんだ！」彼は一度ある詩の裏に書き付けた。「どうしてペストで笑いものになる必要がある？」（すなわち孤独な人々のこだわりで、ペストではまだ誰かが自分のことを覚えている）と考えたのである。

　彼はグラツィアースには一度ある詩作品を見せた、というのも彼らはワインの試飲会からもどってきたところだったので。この尊敬に値する人物は長い時間握手を返さなかった、フンフン言いながら居眠りしてしまい、唯一の尊敬に値する友人に全ては夢だったと信じさせている間に、レゼダ氏は膨大な量の勘定書きをテーブルの天板に書き記さなくてはならなかった。

　外見から見ればレゼダ氏は、大都会で人知れず、気づかれることもなく安らかに暮らし、夜にはカフェであらゆる新聞を読み、洗濯女が清潔な衣服を届けてくれるときにはそのご機嫌をとり、十五分位なら一人の上流婦人も彼らの気持ちに耳を傾けてくれ、美しい踊り子たちのことは忘れ、ヴァーツィ通り（ブダペスト５区、ペストの繁華街ベルヴァーロシュにある目抜き通り）のレディの集団を近づき難いものとみなし、恋のドラマには考え込みながら頭を振り、そして晩にはベッドで静かに「いずれいつかは自分もこの場所で死に、そして世界はこの先もまわっていくだろう」と考えているあの独身主義者と変わるところはなかった。

　大都市の金切り声と全てを飲み込む退屈さの中で彼らは消えていく、彼らは人生の静かな釣り人たちであり、他の者たちが詐欺師の小船のような不確かさにその生活と名誉をのせ、覚悟を決めた泳ぎ手たちが疲れを知らずに泡と格闘し、高みではそれを引き受けた連中が、首を折ったものなどまだ一人もいないかのような楽天主義で空中ブランコのジャンプを行なっているのを、岸から嫌悪の念とともに見つめているのだ。

　彼らは人生の好意を受けるに値する、ゲームのおせっかいな観戦者たちであり、静かな驚きとともに大胆な博打打ちの汗ばんだ商売を肩越しにのぞき、そして常に一番最後になって最近の流行を知るのだ。仕立て屋、靴屋、酒場の亭主の家族なら、あるコンサートのことを長い間忘れずにいて、習慣となっているクリスマス・プレゼントを十二月の初めに買う。

　他方ではおそらくだからこそ彼らは、忘れっぽい、現在を貪欲に飲み込む人々の間で過去を思い出し、昔の年代と忘れがたい場面を正確に知るためにこそ、町に散らばっているのかもしれない。

　彼らはいささか控えめなずるさで自動車の警笛が鳴る円形広場をこっそり逃げ出し、小さな路地で居心地よく感じ、もっと年配の人々のことを重要視し、濡れた口で女性たちの

手に口付けした、もっともばい菌がいることは新聞で読んでいたのだが。

　兄弟よ、もし君が、一人の縞模様のズボン、ジャケット、白くなりつつある髪の青と白のまだらのネクタイ姿の、銀の杖をもった比較的古いシルクハットの男性が小さなブダの通りでぶらぶらしているのを見かけてもすぐ、彼は恋の冒険のためにタバーンで黄色い靴をすり減らしているのだと思う必要はない、すなわち彼はそこの住人であり、そして彼の小さな部屋のテラスで本屋に注文した写真雑誌のページをめくり、百科事典で一度ならず新聞記事が正しいか調べ、床につく前には時計を引き寄せ、週に二度ルダシュ温泉（ブダ側ゲレールトの丘のふもとにある温泉。十六世紀に作られた）に行くのだ。

　このレゼダ氏、われらが時代とわれらの小説の主人公は、若いときにはすでにドイツの中小王国の住人のようにワインと恋に酔っていたが、四十歳のときには手と爪の清潔さに非常に注意を払うようになり、帽子用ブラシを持ち、まよいながら新しいネクタイを買い、君は彼の下着戸棚をいつでも見ることが出来るが、古い手紙はゴムひもで束ね、場合によっては毎日コートにカーネーションをさしているが、すでに一人の魅惑的な女ゆえに苦痛の中で枕を噛むか自殺を考えようとは夢にも思っていない。彼は、彼女は嘆きを知らず、それどころか曲がったお尻でがたぴし音をさせながら、塗りたくった女大家のように上っ張り姿で彼の隣をぶらついているのだと思っている。

　ある日銀の封印、金色のふちで、首長の肩書きの手紙をレゼダ氏は受け取った。

　「きちがいのアルヴィンツィがまたペストに来ている」彼はうなるように言った。「町でお笑い草となるだろう」

　その手紙には緋色の郵便馬車での冬の旅への招待状が入っていた。