第六章　ブダの美しき淑女たちの物語

 

　クローンプリンツ・イルマはブダのあるぶどう栽培業者の娘だった、そしてこの気位の高い一家は、妻と娘が足が速くておしゃれなペストの貸し馬車でシュテファニア通り（ペスト側の市民の森公園付近の路地）からブダへとカタカタ音をたてて帰宅したところを、この老人が袖つきのシャツで、くわを肩にして家の門の前で額から汗をぬぐっているとき、彼のせいで何度も非常に恥ずかしい思いをした。彼女らは辻馬車屋の前では石のベンチでくつろいでいる老人のまなざしに出来るかぎり見ないふりをし、貸し馬車がかなたに車輪を回して走り去ったときやっと左右からこの老人を捕まえ、キスで苦しめるのだった。ぶどう園主クローンプリンツは、終日くわをふるって疲れ果て、奥方と娘の愛情をあきらめと共に耐えるのだった。彼は絹のドレス、帽子、上等な靴に一顧だに与えず、クローンプリンツ夫人の名高い青サギの羽飾りにも、娘の流行のドレス同様わずかの興味もおぼえず、ただ夕食をとりたかった、だから家で家族を待っていたのである。赤ら顔の、口数の少ないブダ市民で、すでにおじいちゃんたちの代からぶどう農園主だった一族の出だった。ワインを尊びこの世の生活の内それだけを愛し、自分でも制限するほど大切にしていた、祝祭日ごとに小さなグラス一杯のシャシュヘジ・ワイン（ブダペストのブダ側１１区と１２区にあるブダ山脈の南側の一角。かつてこのシャシュヘジとオーブダは有名なワイン生産地で、赤ワインは国外にも知られていた）を飲んだ、そしてそんなとき自分の運命に十分に満足だった、とはいえケルカーポイ氏のワイン「ゲレールトの丘のセメル」は、アンドラッシ・アラダールのヘジアヤ（現在のハンガリー北部ゼンプレーン山脈の南東に走る外周部、トカイやマードといった地区もここに属していて、良質のワインの生産地として名高い）・ワイン同様にうらやましく思っていたのだが。

　クローンプリンツ・フェルディナンドの顔は深紅色の布のような色であり、一方髪は、森林に住んでいてノルマン人たちを脅かしたアングロサキソン人たちのようにほとんど黄色だった。この老人は髭も明るい黄色だった、すでに六十歳をとうに超えていたのではあったが。袖つきのシャツのポケットに、さまざまな試飲用のワインが入った緑色のガラス小瓶が入っていなかったことはなかった。本物のシャシュヘジのワインが入っていて、画家が色彩の効果を試すように日差しの中であるいは日陰で試してみた。ワイン醸造蔵同様、家でも長い皮の上っ張りを着て歩き、しかめ面で家の訪問者の前を出て行った。中庭で大樽をつちでたたき、ワインの容器を修繕し、濾過器とサイフォンを試してみた、まるでピアノが鳴っているのは別の惑星の出来事であるかのように、イルマは遠くの大陸で歌っているかのように。

　あるとき彼は秋の明け方、いつもより早く起きた、まだ濡れた指をした夜が庭に手の平を伸ばしていて、家からはたいそうにぎやかな音が響いていた。だがクローンプリンツ・フェルディナンドはこの日理由もなく早起きしたわけではなかった。ぶどう園のある山の貯蔵庫で差し迫ってやることがあり、それには上の家の戸棚に置いてあるあのガラスの器が必要だったのである。他のときなら絶対、照明のついた、客人たちでうるさい部屋に近づいたりはしなかっただろうが。しかしそのガラス器のためなら地獄にだって出かけて行った。彼は暖房され色ガラスを被せた廊下を、幾分のろくさく大またに闊歩していった、そこでは棕櫚の鉢植えの中に吸いかけの葉巻やタバコが見えた。どこもかしこもたいそうな乱雑さだった。彼はある小テーブルの上のひっくり返ったワイングラスと半分空になったグラスとに気づいた。彼は残ったワインの臭いをかぎ、味わってみた。腹立ち顔になった。みなは彼の家で彼特製のワインではないものを飲んでいたのだった。一秒ほど舌ですすり、口の中で転がし、そして吐き出した。そのワインは偽者だった。やがてやるべきこと、差し迫って必要なガラス器のことを思い出し、手を白いドアの赤くなったノブに載せた。第一の部屋は明るい横うね織布で出来たサロンだった。クローンプリンツ夫人、娘時

代はクローミ・ヴィルマはあるヴィズィヴァ(水の)ーロシュ(町)（ブダ側のドナウ河畔にある区域、現在はブダペストの１区と２区とに分けられていて、北東部分が２区にあり、南東部分は１区の王城の丘と

ドナウ河にとにはさまれた区域）のパトリキ（昔の裕福な家族）の後裔で、胸元の深く開いたドレスで、寝癖のつ

いた髪に白い米の粉をはたき、髪にワックスを塗った一人の黒髪の紳士と一緒になれなれ

しく長いすの上でくつろいでいた、彼はおそらく金のないブダの紳士たちがこのような機会にはもう何世代もにわたって着たのであろう、古いフロック・コートを身につけていた。

　ブダのどこかに本当の持ち主が太って着られなくなったフロック・コートがあって、それ以来、若い紳士たちがデートやパーティーがあると、互いに借してくれと求めていた、というのはありそうなことである。

　クローンプリンツ・フェルディナンドはこのかなり興味深い偶然にほとんどかまってい

なかった、彼は山で樽を修理していたある老桶職人から、下のヴィズィヴァ(水の)ーロシュ(町)の家

ではパーティーが開かれていて、それには誰もが招待され、ただ家の主人だけがそうでないと、うわの空で聞かされてはいた。ろうを塗った髪の、ひらつくネクタイの若者はどうやって妻の信頼の圏内に入ったのかたずねたかったところだろうが、それにもかかわらず長いすそのフロック・コートは水の町の女性たち同様、彼にも強い印象を与えたのである。多分問題の人物は市役所の職員か学校の先生なのだろう。

　彼はかくて歩調をはやめ、黄色い髭で横畝織布の家具の間を進んだ。これらの家具は妻

の娘時代の持参金の一部だった、その当時はヴィズィヴァ(水の)ーロシュ(町)の娘たちが持参金にサ

ロン家具一式をもらうなど、大変なことだった。クローミ家の娘はしかし当時ですら例外

だった。クローンプリンツ・フェルディナンドが完全にワイン作りのためだけに生きるようになるより前の時代には、もしひとたび離婚となったら、ヴィルマ夫人は家具を持って出て行くだろうとうわさされた。この家の三番目の部屋は又もやサロンだった。このことをクローンプリンツ・フェルディナンドはいわば知りさえしなかった、この家具は、彼が毎週日曜の午後であっても皮の前掛けをして歩きまわり始めたこの時期、この家にやってきたのだった。これはイルマのサロンだった、そしてペストのケレペシ通り（ブダペスト東駅から郊外に向かって東に伸びる大通り）のある商人のところで買ったのだった。サロンにはピアノがあった、ピアノの前にはイルマが白い絹のドレスで座っていた、リボンで結んだ黒い髪は蛇のように白い肩に垂れていた、白いスリッパの足元には、前述のやつにそっくりの、似たようなフロック・コートを着てポマードをつけた若者が膝をついていた、クローンプリンツ・フェルディナンドは目の前に手の平をもってきて、色とりどりの敷物の上でいささかよろめいた。彼は首を垂れ、そしてほとんど聞き取れないような声でぶつぶつ言った。

　「これは実際、ふさわしいとはいえんな」

　彼は右にも左にも目もくれずに家から出て行った、すなわち何か忌まわしいことを見る

ことになるのを恐れているかのようだった。そして彼が、肩にくわをかけ額に汗を浮かべて、夕食のために家人を待ってブダの家の前の石のベンチでゆったりくつろぐことは二度

となかった。彼は外の山に、圧縮作業場にとどまった、冬も夏も外に住み、二度と

ヴィズィヴァ(水の)ーロシュ(町)に足を向けることはなかった。

　クローンプリンツ家の淑女たちの物語はこんな風に始まった、彼女たちのことはまもなくペストの紳士たち、殿方たちと誘惑者、気まぐれな連中とまぬけたちと一緒に、首都の菓子屋で、競馬レースと劇場で見かけることが出来た。偶然が彼女らをあらゆる所に押しやった。彼女たちは、通りで、流行のレストランやボート・レースで毎日見つけることが出来る、あの大勢の首都の淑女たちに属していた。

彼女たちは紳士たちをひんぱんに取り替えた。クローンプリンツ夫人は娘を嫁にやるまでは生きていたい、とすでにおおっぴらに明言していた。イルマの方では初めは毎週求婚者たちをはねつけていたが、後になってくるとクローンプリンツ・イルマが女優のように演じた愁嘆場は、まれにしか成功しなくなった。

　「悲しまないで、ママ、誰か本当に私たちに値する人が現れるわ、そう感じるの」

　クローンプリンツ夫人、娘時代のＫ．ヴィルマ、ヴィズィヴァ(水の)ーロシュ(町)のパトリキの家

族の後裔は、紳士たちと崇拝者たちが一緒になって家の周囲にわんさと現れた間は、ずっ

と悲しむこともなかった。「ドンたちとグランドたち」の知り合いの数が増えそうなあらゆる機会に断固として固執した。女学校の少女のように驚きながらも冗談にきき耳をたてた。

　恋を告白されると、いつも信じた。

　天気のいい日には、自分はいささか退屈している娘よりも若いと思った。

　ブダの娘なのにすでに何年もマーリアレメト[１]の教会の巡礼に通ってはいなかった、そしてあの夜明けの場面以来、親戚たちとも、多分ブダではまだ起きてすらいない、あらゆる接触を断った。

　「私たちペストで運を見つけなくてはならないわ、お前」彼女は繰り返し言った。

　まさにこのため彼女たちは日中どこにも出かけず、教会はもうずっと彼女らを見かけることがなかった、彼女らは、門限を過ぎて間違いなくもう知り合いと顔を合わせる心配の

ない時刻に、ヴィズィヴァ(水の)ーロシュ(町)へ帰宅したのだった。

　ブダの住人レゼダ・カズメールは長い間クローンプリンツ家の淑女たちを避けていた、

この人たちを知らない間は、きびしい道徳的批判を抱いていたからである。それ以外にも、始めにブダで、グラツィアースのレストランでこの淑女たちが「ニュースになった」とき、彼女らがかげ口のやり玉に上がった原因が、あらゆる類の「すかんぴん」の取るに足らない若者たちとの関係だったことが彼の虚栄心を傷つけたのだった。彼はグラスの間でグラーツィアースにこの件を説明した。

　「わが友よ、あの二人がもし自分と似たような階級と評判の男とカップルにならなくてはならないというなら、この件は全く違ったものとなったろう。どこかの伯爵か大臣の座を奪うことが出来るかもしれない、と仮定してみよう。それならレゼダは試合に出馬するだろうさ。だが貧しいブダの若い連中には興味はないね、だから私はクローンプリンツ家の淑女たちがこの地区で一番大きい帽子を被っていてもどうでもいい。私なら間違いなく彼女らのことはほっておくな」

　レゼダ氏の唯一の友人グラーツィアースはしかし、この件をそのままにしてはおかなかった。大方のとてもいい人たちのように、この心のきれいなブダの酒場の親父は好奇心と意図達成の面では強制的だった。

　「あらゆるペスト間抜けどもが、ブダ人の目の前で美しいクローンプリンツ家の淑女たちをかっさらっていくのを、わが友がなぜほうっておくのかわからんね。最後にはブダのためにも何とかしなくてはならない。もしこれが誰か触れてはならん有名な女、聖女、そして教会に通う未婚の娘の話だったら、グラーツィアースは友人レゼダにこの件を引き受けることを思いとどまらせる最初の人物だったはずだ。罪がなく善良なら女を責めるのはよそうと。だが二人の女がブダから毎日ヴァーツィ通りに通うなど、やはりふさわしくない。何かしなくてはならんぞ、わが友レゼダよ。かわいそうなクローンプリンツ・フェルディナンドにはもうどうでもいいんだ」

　「私ならたった一言の魔法の言葉でクローンプリンツ家の淑女たちのペストでのピクニックを終わりにしてみせよう」レゼダ・カズメールは自慢した、グラツィアースの前では神通力の持ち主のように振舞うのに慣れていたからである。

　ブダの単純な旅籠の主人グラーツィアースは、クローンプリンツ・フェルディナンドの奇妙な失踪のため、古い丸天井の下のベッドでしばしば安らかでない時間を過ごしていた、そこにはすでに彼以前、百歳以上年上のブダの市民たちが横たわって、新王の戴冠や若いときの女たちの夢を見ていた、あるいは単純な人々が夢に見るようなことを、山での聖霊降臨祭を、黄色いぶどうの収穫を、そしてぶどうを踏み潰す嫁たちの足を見ていた、グラーツィアースは目を開けてブダの出来事について考えていた。

　どの方向からこの件を眺めても、結局はブダの人々が恥辱をこうむったのだ。間違いなくペストではクローンプリンツ家の出来事を笑っている、そして娘たちや女性たちがブダっ子以外のものにはほとんど話しかけることもない道徳堅固なブダにおいても。ラーツ街（タバーン地区の別名、１７世紀末に南スラブ系、特にラーツ人（セルヴィア人）が多数ここに入植したため、こう呼ばれた）とオーブダ（現在のブダペスト３区、ブダ側の北部地区　）は別々に結婚したし、タバーン（ブダ側の現在の１区、王城の丘とゲレールトの丘にはさまれた地区で、王城の丘の南斜面には当時古い建物が多く残されていたが、現在では全て取り壊された）の娘たちは出来る限りこの古い地区から外出することはなかった、クリスティナ街（ブダ側現在の１区にある、王城の丘の西側にある地区）だけは女たちを遠い場所に誘い出すことが出来た、ここは本物のブダ人は住んでおらず、彼らの多くは移住者だったからである。尊敬すべきグラーツィアースにはこの安らげずに過ごした時間に、朝になると自分でもびっくりしたほどおかしな考えが浮かんだ。例えば彼は毎晩、失われたブダの名誉は素晴らしいレゼダ・カズメールだけが元にもどすことが出来る、と堅く信じた。この途方もない人物にだけは何事も上手く行く。賢くて、落ち着いていて、賢明で思慮深い、そして僧侶のような口がある。もしレゼダ氏が不実なクローンプリンツ家の淑女たちの件の処理を引き受ければ、おそらくほとんど失われてしまった家族の名誉を立て直すよう説得出来るだろう、すなわちクローンプリンツ・フェルディナンドは再びくわを肩にかけて現れるだろう、そして～これが一番重要だが～淑女たちはもはやペストでブダの評判を落とすべく、この地区を出ることはないだろう。

　これが、汚れのない老年期、魂の、家族の、店のそして町の秩序を愛するひとりの老いた、立派な市民の考えだった。

　彼はロザリオの日（「ロザリオの聖母マリアの祝日」　十月七日あるいは十月の第一日曜、１５７１年のレパントの海戦でトルコ艦隊に対するヨーロッパ側の勝利を記念して祝日に定められた）と名づけられた日曜にマーリアレメトに乗り合い馬車で出かけた。懺悔し聖餐にあづかった。道端の乞食たちに何枚かの４クロイツェル貨を分け与えた。月曜の朝には大きなワインのびんをわきの下にたばさんでクローンプリンツ家に現れた。

　ずっと前からここに来る客人はなかった。淑女たちはただ寝るためにだけ帰宅した。イルマはしばしば午前中にはもう町へと出かけていた、午後にはどこかのカフェか菓子屋で母親と落ち合った～どんな風にして時間が過ぎたか、誰にわかろう。

　グラーツィアースの髪は教会の牧師のように白かった。その挙措の全てが彼の満足を、安らぎを非常に良く物語っていた、落ち着いて明日を見つめ、税金は納め済みで、負債はきちんとしており、貸しは正確に一冊の本に記帳されていて、大晦日の日の午後にはその行に下線が惹かれる、そのような人々の外見だった。しかし今彼は柔らかいシャツのカラーの中で落ち着かなげに頭を動かしていた、この心優しい男は人生で初めて、正しいのかどうか完全に説得力を持てない一件に踏み込んでいた。

　クローンプリンツ夫人はすでに女理容師との用事を済ませていた、彼女はペストから乗り合い馬車で渡河して通ってきていた。太った、四、五十歳台の女性だった、大きなアーモンド形の青い目をしていた、古い寺院の黒くなった、（放浪の絵描きたちがまだ、理解可能な絵を描くことを惜しまなかった時代）壁に描かれた絵で見ることが出来るあのマグダラのマリアたちに似ていた。そのまなざしの中には、ある市民の女性のそれの中にあるような、奇妙な、捨てられた女性たちに見てとることが出来る渇望が座していた、その女性は少女時代にある酔った公爵に忘れることの出来ないお世辞を言われ、夜半のミサでその無経験さを利用して突然妙な具合に抱擁され、撫でられ、キスされたのだった、これに対して経験のない未婚の娘は予期せぬ攻撃のせいで叫び声をあげるところだったろうが、雪の降る中からはもうそりのガチャガチャいう音しか聞こえなかった。

　そして人生の進展とともに（それ以降はせいぜい彼女の台所や子供たちの美しさについてのおせじしか聞けなかった）思い出はすべてよりこんがらがって現れてくる。この公爵はほっそりした騎士だった、そしてその髭は孤児の女の子の髪のように柔らかかった。クリスマスの夜だった・・・家のものは夜半のミサに行き、呼び鈴はどこからも聞こえなかった・・・暗い店、大胆な所業が起きた場所はそれ以後空っぽのままだった。もともとは茶色だった髪は、どれも金色と白になった、もろくなった髪の筋の上では米粉と染め粉が何度も櫛を通したことで互いに混ざりあっていた。四十歳の女性の夢は櫛の下でこわばって隠れていた。髪の筋は耳のわきで熱心に、そして日曜のミサの濡れたブラシで後ろになでつけられた、だがドーム形の額の上の巻き毛はうろうろしていて、事情に応じて顔に、太ったまっすぐな鼻と大きなアーチを描く眉毛に優美な影を投げかけた、その顔は自信を持って成熟した市民の美しさの例としてあげることの出来るような白く、健康的で、太った顔だった。ブダでは山々の空気の中で、そして徹底的な洗顔の後で主婦たちはかくも美しくなる、男たちの冒険的な、さまようまなざしが結局は彼女らに別れを告げる前に。

　それでもこの女性の姿には何かの興味深いところ、異様なところがあった。あるソーセージ屋の大理石のテーブルの傍らで、湯気をあげるソーセージとくるくる巻いた子豚のしっぽの間にいる彼女を想像することは、全く出来なかったろう。その歩み、ふるまい、夢見心地に頭をあげ、落ち着きのない唇は、彼女のためにこんな情景をかもしだすのだった、その背景には悲哀とともにしぼんでいく小さな森が不可欠で、その女性は木の葉が撒き散らされた国道でびくびくと、だがあきらめと共に高いかかとの丈夫な靴でぶらぶら歩き、あるろくでなしの男の足跡を探している、その男はもし機会があればいずれは彼女をぶち、家まで追い払い、遠からぬ場所に痩せて汚れた小さな子守女がベンチでゆったり座っている間も、彼女の鼻先で馬車のドアをしめるのだ。ーこの女性は決して幸せを見つけることは出来ないだろう。

　しわのよった絹の普段着がその体を覆っていた、サンダルからはむき出しのくるぶしと

赤いバーチェットのペチコートがキラキラしていた。

　「ワインの小瓶を一本持ってきましたよ、老フェルディナンドから買ったものでね。あの老人が家から引越してから、あなた方は間違いなく自家製ワインを飲んでいないのはわかっています」グラーツィアースは習慣に反して女性のふっくらとした手にキスした後でそう言った。

　クローンプリンツ夫人はしばらく手をブダの酒場の亭主の口ひげの下でそのままにしていた。この手へのキスは彼女をまだ楽しませてくれた。

　「かわいそうなフェルディナンド、私は彼が出て行ってしまったことを本当にとても残念に思っています」クローンプリンツ夫人は、ペストのキオスクで学んだように、上品に言った、だがそれからブダの善良さが打ち勝った。「私のかわいそうな善良な主人、もしもう一度帰ってきてくれるなら、私絹の服なんかズタズタに引き裂いてしまうでしょう、もしまた私たちと一緒に夕食を全部片付けてくれるなら、もう二度とペストの方には行ったりしません。わかっています、人は非難していますし、私の実家の家族は私を拒んでいま

す、ヴィズィヴァ(水の)ーロシュ(町)では私は後指を指されています。でも娘のことでは誰にも悪口

を言わせません、そうなったら私、殺してしまうでしょうから。フェルディナンドが私た

ちに対してこんなに厳しくなれるなんて、ほとんど残酷な位になれるなんて、思ってもみませんでした。私は殉教者ですわ」

　グラーツィアースは娘時代の名前でその女性を呼んだ。

　「ヴィルマ、私はあんたのことを怒ってはいない。あんたがすることは、あんたの問題だ。女性たちのことに私は決して干渉しなかった。私の古女房のフルージナは、もし私が何にでも鼻を突っ込んだりすれば、やめてくれと言っただろう」

　これは非常に正しい会話だった。

　ヴィルマ夫人はすぐにわがグラーツィアース氏に椅子をすすめた。殉教者たることでグラーツィアースが遠まわしにフルージナと比較したことは、最もまれなペストのおせじ以上に彼女の魂に心地良かったのだ、～彼女が何年もの間家を空けたことがなく、靴をはくこともなく、この二、三年というもの新しい服を作らせたこともないことはブダの誰でも知っていた～。復活祭のとき寺院に行き、それで彼女の冒険は終わるのだった。

　「われわれブダのものは」わがグラーツィアース氏は始めた「もうとっくにあんたのご主人フェルディナンドにバツしるしをつけていた。彼は一生の間ずっと気まぐれな人物として知られていた。間違いなく耳が遠い、なんせ人の言葉をほとんど理解できないんだから。彼が好きなのは古いグラスと樽だけだ。あのぶどうの山ではかささぎとうぐいすが彼の友達だった。彼が自分の金を隠している黴臭い地下室の穴を知っている、という噂だ」

　ヴィルマ夫人はダクスフントに似た足の椅子の上で力強く身を乗り出した。

　「私の子供のお金を？」

　グラーツィアースは赤くなった。途方にくれた、彼はこの金についての話を、老クローンプリンツの立場ならどうしたらその不運の復讐が出来るだろうかと考えたときに、彼自身がそんな夢を見ただけだったからである・・・

　「金のことは問題ではないし、なくなってしまったわけでもない、だが名誉については穴のあいた橋を渡るのには賢明ではないな」彼はまじめに言った。「私はあなた方に足りないのは誰で、何なのかわかっている、ヴィルマ。一人の尊敬すべき、立派なよき友人、非の打ち所のない高貴な騎士がこの家には足りない、場合によっては楽しませてくれる、別のときには守ってくれる人だ、悪魔を全く恐れず、お小姓のように優しい一人の男だ」

　（市民グラーツィアースはどこからこの言葉をとってきたのか？おそらく彼はレゼダ氏がときどき一杯ひっかけると、朗読し、悩みにくれ、行ったり来たりするのをとっぷり聞いていたのだ）

　「私のブダっ子としての心がこうささやくのだ。レゼダ・カズメールがヴィズィヴァ(水の)ー

ロシュ(町)に住んでいるとき、何のためにあんた方はペストの娯楽場に、集まりに、コンサー
トに出かけて行くんだね？」

　「その興奮した男性は、いつも晩に窓をガチャガチャいわせているの？」ヴィルマ夫人はたずねた。

　「あんたは狂ってるよ、ヴィルマ、あんたには理性というものがない。レゼダ・カズメールは窓をガチャガチャさせることなどない。彼は栄誉と、大いなる尊敬にふさわしい男だ。もしありふれた地上のもろもろのことに興味があれば、まさにこの地区の説教師にだってなれただろう。学問の本、世界の叡智と夜ごと対話するのを習慣としていて、女たちの家の周りをうろうろすることなど全くない。毎週ペストのホック・ヤーノシュ師のところに神知学の話をしに通っている」

　「また誰かうちの娘に申し込みたがっているのね」

　「大間違いだ」グラーツィアースはもったいぶって答えた、そして立ち上がった。「私の友人は娘たちに申し込んだりはしない。結婚したい、ともらしたことは一度もない。私は足を磨り減らしてでも、彼にブダで最良の縁談を世話したろうに。望みのない恋をしている、ということもありうるかもしれないが。十年も、二十年も泉の底のように自分の中に秘密を抱えている男たちもいるからね、そして決して自分自身を語らないのだ。心の内の感情を見せびらかそうとしない、そんな男たちだ、真の人間が敬神の念については沈黙するようにね。彼らは沈黙し、一生を通して何を考えていたか、いつであれ語ることなく死んでいくのだ。レゼダ・カズメールは、だが私だって似たようなものだが、どれほどの優しさを、どれほどの弱さを心に抱いているかを、一人の女にいつでもしゃべってしまう男たちを軽蔑している。ちゃんとした男は決して恋を告白したりないものだ」

　ヴィルマは考え込み、鼻の下で静かに微笑みながらこのブダ市民の言葉に耳を傾けていた。彼女に対してこの数年どの男も恋の告白をした、キオスクでもホテルの食堂でも、フランシスコ派寺院（ペスト側５区のエルジェーベト橋の手前、フェレンツィエク広場にあるバロック様式の教会）でもアラグ（現在ドゥナケシの競馬場、ブダから３０キロほど西側の郊外）でも、緑の芝生の上で、「ペスト新聞」の広告欄でも劇場の平土間のひじかけ椅子上のプログラムでも・・・彼女は何度も驚きながら、常にクローミ家の名誉だった大きな鏡の前で立ち止まった、そこに男たちは、そのために最も神聖な感情を即座に告白する勇気を出すような何を見出すのか？あるいは彼女の外見にある、男たちを挑発する、ほとんど征服する天賦の才能とは何なのかと～いつも女たちが鏡の前で考えてきたように。

　おそらくは彼女の髪か。それはあるときは亜麻色で、またあるときはパリ風の金髪だった。染め粉は全然使わなかった、彼女は髪を染めたりするよりはずっと品行方正だった。それでもこの豊かで滅することの不可能な頭髪は、外からの影響を受けず、色調を変えるという独特な性質をもっていた。もしヴィルマ夫人にとってとても幸せな日なら、その髪はパリ風の金髪だった。そして首には小鳥の産毛のような小さな縮れ毛があった（娘時代には小さな口ひげもあったが、いつの間にか消えてしまった）

　あるは多分彼女の足が男たちの理性を迷わすのか？普通の大きさの女の足だった、七十～八十キロの女たちをのせて歩くような足だった。靴のかかとはもちろんいささか外側に傾いていたし、ボタンははじけそうだった。これではまだ男たちは狂ったりはしない。

　もし彼女とブダの山々へ、深い谷間に、涼しい芝生に、そして密かにため息をつき、緑のとうもろこし畑で空想にふけりつつカーブする散歩道に、彼女の人生の忘れることの出来ない思い出の場所に散歩に行ったら、一体この非凡なるレゼダ氏は何と言うだろう、そのときは例のひっくり返った木の幹に座って、茂った潅木の中で、森の端で、初めて一人の男のうそに聞き入り、非常に幸福で興奮していた、そしてディスノフォー（ブダ山脈の一部でブダ側１２区のハイキング地ズーグリゲト付近にある有名な水源、１８３７年オープンしたここに付属する同名のホテル・レストランは行楽地として非常に人気があったが現在は閉じられている）からここまでジプシー音楽家たちの演奏が聞こえてきた、そしてそのスカートには小さな勿忘草が刺繍してあった・・・決してあの夏服と鹿皮の夜会靴を捨てたりすまい、だって一本の笛のように真実そして憧れつつ愛していたのだから。そして今レゼダ・カズメールという人のためにもう一度古い服、靴をとりあげ、想像の中でひっくり返された木の幹を見ているような気分だった。彼女はため息をつきグラーツィアースの手を握った（まるでそれがすでにレゼダ氏の手であるかのように）、そして自分でも驚いた暖かさとともに言った。

　「レゼダ氏といつでも喜んでお会いしますわ、あなたのことはよくわかっていますからね、良きお友達」

　彼女は、鏡でしっかりと自分の顔と髪と手を見られるように、すなわち自分が話の間中美しかったか、そして善良な老グラーツィアースはどんな感想とともに去ったのか見られるように、急いで別れを告げた、。

レゼダ・カズメールは夕食の日にアーグネシュの日（１月２１日）を選んだ、というのもこの日彼には、ドナウ川に落ち、氷の下から非常に苦労して岸にたどり着いたという、ちょっとやそっとでは忘れられないことが起きたからである。（要するに彼にとっては幸運で不運な日々であった。彼はその記念日に部屋から出る勇気はなかった、手にロザリオを巻きつけ、聖遺物で自分を取り囲み、ドアを閉めきりにした、またあるときは部屋の隅に置いておいてあった狼の剥製（女性の訪問者たちは～そのようなものもこの世にいたとき～これに何度も驚かされた）と会話した。

　グラーツィアースは長い平屋建ての家の門までお供した、そして礼儀正しく注意して壁の呼び鈴を引いた。三度引っ張り、家の中で引き起こされた鐘の音に耳を傾けた。

　レゼダ氏の肩を軽い小さなカラーがおおっていた、ペストでは上流階級の紳士たちがフロック・コートにつけていたものだ。コチョウざめの鼻のようなエナメル皮の夜会靴、腰にひだのある、茶色い、金ボタンのついたフロック・コート、縞模様のズボンとしわくちゃの、刺繍のあるシャツだった。彼のネクタイにはルビーの目の狐の頭がついていた、そして夕暮れ時にペストのキシュヒード通り（現在のテュル・イシュトヴァーン通り、ペスト側５区の都心、ヴァーツィ通りとドナウ川に面したホテル・マリオットを結ぶ通り）で髭をあたらせていた。

　（もちろん、このちょっとした見栄を自分自身に対してすら告白する勇気はなかったろう。彼はブダの床屋は髭剃りが出来ない、という口実のもとにペストにぶらつきに行った、とはいえ他のときならブダの聖三位一体広場（ブダ側の王宮の丘内のほぼ中央にある広場、その名は広場にある三位一体像から来ている）にある床屋の椅子で、毎日の髭剃りからもある種の喜びを得ている好き者の老人のように、気持ちよく寝ていたのだ）

　門が開き、グラーツィアースは励ますようにレゼダ氏の背を軽くたたいた。

　「高貴なるわが友よ、いつも女たちのお気に入りだったポーランドのワイン商の物語を忘れなさんな」彼はもぐもぐと言った。

　祝日用に着飾った小間使いが、女主人のかかとのすりへって傾斜した短靴で、かたつば飲んで門を開けた。階段でレゼダ氏を案内する間、彼女は獣脂ろうそくを高くかかげていた。経験を積んだ紳士は中庭で周りを見回した。ワラの中に挿し木したバラの木の周囲から雪がほうきで掃き寄せられていた。彼女たちはここで客人を待っていた。

　しかし二、三回しか窓の下を散歩したことのないグラーツィアースと先に進む前に、あるいはレゼダ氏とここにとどまる前に、天晴れなブダ市民が女性の征服のために提案した魔法のおとぎ話に耳を傾けようではないか。

 

　　　　　　　　　　あるワイン商の物語

 

　あるときセペシュ（現在のスロヴァキア中央部スピシュ地域　　　　　　）のポドリンの町（スロヴァキアのＰｏｄｏｌｉｎｅｃ、ケジュマルクの北東約１６キロのところにある）にルトリツキーという名の商人がいた、彼はいわばポーランドの旦那衆の中が空になっている喉とハンガリーのヘジアイとを結ぶつける留め金だった。ルトリツキーこそが、クラッコーの貴族たちがトカイとマードのワインを吸い込んだサイフォンだったと言えよう。

　ルトリツキーは快活な若者で、五十歳をいくらもすぎておらず、しばしばの長旅で馬具のように乾いていた。

　彼の赤ら顔で、大きな口、そばかすのある顔はどの宿屋でも知られていた。国境を越えて走る大きな国道沿いに、この悪魔のようなルトリツキーがキスをもらわなかったあるいは盗まなかったであろう女はほとんどいなかった、彼がヘジアヤ・ワイン以外に好きなのは女性たちだけだったからである。

　大きな、何世代にもわたって着られるよう裁断された外套、五十年もののブーツ、尖ったかわうその帽子で彼は旅の間皆と知り合った。エペルイェシュ（現在のスロヴァキアのプレショフ）では塔の監視兵とも良き友情を維持していた、監視兵の方は決して塔を離れたりはしなかったのであるが。

　金は常に潤沢にあった、愛想のよい嘘の言葉は容易にその口から転がり出た、彼が捨てた女たちでさえ決して呪ったりはしなかった。

　このルトリツキーは幸運な悪者だった。

　たくさんのトカイ・ワインとマード・ワインを飲んだためルトリツキーの両足とも麻痺してしまうということが起きた。人生ではそんな謎めいたことが起きるのである。ドクターたちは頭を振り、ルトリツキーはののしって、聖人の絵に短銃の弾を撃ち込んだりした、自分の犯した罪が寝台に安らかな夢がやってくることを許さないと、彼はこの前で礼拝したものだった。全ては無駄だった。

　ルトリツキーは自分の馬車で大きな国道をさらに行ったり来たりした。若い小間使いが道端の宿屋の井戸で歌いながら洗濯していると、そのときだけは首を垂れた。

　かくてルトリツキーの日々は喜びなく過ぎていった、あるドクターの説得でワインを飲むことさえやめてしまったからである。もちろん彼の商売は傾き始めた、ルトリツキーは売り手とも買い手とも踊らなかったではないか。クラッコーの老貴族たちはクモの巣だらけの目で見下げた。

　「いずれはわれわれもしまいに麻痺してしまうだろう」そしてルトリツキーのワインを飲もうとしなかった。

　トカイ・ワインの、マード・ワインの製造業者たちは不具の商人に喜んで信用貸ししようとはしなくなった。このみじめな人間がいつまで生きるか、誰にわかろう？そうしてそのときは彼らの金の取り立てに走り回ることになるだろう。

　ルトリツキーはしばらくの間疑う人々をなだめた。

　「私はハンガリーで一番信用できる商人だよ、なんせ債権者たちから逃げ出せないんだから」

　今やすでにルトリツキーは、二つの国の女たちの中から選ぶことの出来たうちに結婚を逸したことをしばしば残念がっていた。少なくとも長い冬の夜、誰かとけんかすることが出来たであろうに！この人間は一人でののしるのにも飽きたのである。

　みじめさのさ中にあって、ルトリツキーはいろいろな誓約をした。今ではもう、霧に濡れた窓の、ブタ肉シチューのにおいのする宿屋の代わりに、古い、煙で汚れた暗い身廊の教会の前でも馬車を止めた。座席からエス様や聖者たちに手で合図を送った。道端のマリア様に、もう一度だけ立たせてくれるなら、もう決して女性たちを殴ったりしませんと誓った。

　「生きているものには、全員に赤い靴を買ってやります、一番年寄りのものにも！」ルトリツキーは誓った「どれほど遠くにいても後を追いかけ、もし何か私が悲しませたのなら、あやまります。私の私生児たちも育てます。私のために結婚出来なかったものには嫁資をやります。老婦人たちには愛人を世話してやります」

　このたくさんの誓いには成果があった。あるクラッコーの老婦人がヤゲロー塔の周りに

うずくまっていたワイン商に同情して、家族のためにだけとってあった奇跡の草をくれたのだった。ルトリツキーはそれを入れた湯で沐浴し、そして次第に歩き始めた。古いブーツを投げ捨て、代わりに赤いのを買った。外套の下に金の紐のついたドルマンを着た。一番上等なセペシュのリンネルでシャツを縫わせた。たくさんのあきらめていたことの埋めあわせをしたかったからである。三年にわたる病気の間、大国道沿いには一群の美しい娘が育っていた。たくさんの未婚の娘が花嫁になっていた、それ以外の女たちの間から退屈

が口笛を鳴らし、それを追っ払うのに最良なのは常に口の上手(うま)いルトリツキーであった。

　誓約の一つでも果たそうとは思いもしなかった。ワイン商(あきな)いは新たに景気が良くなっ

た、ルトリツキーは一番年とったワイン生産業者たちでさえもダンスにと誘い、買い手たちの方は天使のように誘惑したからである。

　迷信に傾く女たちにはルトリツキーの話はとても気に入った。このワイン商はトカイからクラッコーまでの国境付近の大国道でずっと、全ての女性に、全ての娘に、彼が昔の健康、踊る足、赤いブーツと食欲を取り戻せたのは、彼女たちのキス、抱擁のおかげだ、という例のうそを言ったのだった。

　ルトリツキーがいつもエス様と聖者たちを前にして毛皮の襟に顔を埋めた古い寺院で、ある日酔った頭で旅の馬車から落ちる、ということが起きた。荒れた馬たちは彼の上を渡っていった、馬車の車輪が触れ、ルトリツキーが目を開けたときには、彼の馬車はもう遠くの山を登る国道を走っていた。そして彼はなんと、二本の赤いブーツを履いた足だけが、胴体も頭もなく馬車の後を追って国道を走って行くのを見た。

　この日から、誰一人としてルトリツキーを見たものはいない、だが二本のブーツを履いた、青いだぶだぶズボンをはいた足は百年後も、クラッコーとトカイ間のはるかな距離を急いで進んだように、大国道で叙々に姿を現すのだった。決して安らぐことの出来ないルトリツキーの足を誰が駆り立てていたのだろう？この世にはこんな迷信深いことがあるのである。この謎の足を見かけると、荷馬車の車夫たちは十字を切った。一方大国道沿いの嫁たち、娘たちは、後世の旅人たちがその耳に心地よい嘘をささやくとき、突然正気にかえるのだった。

　ルトリツキーの足がやってくる！

　そのときは恋も、冗談も、気まぐれの冷やかしも終わりだった。あつかましい、その気になっている旅人たちを若い宿屋のおかみは家から閉め出しさえした。

　これがあるワイン商の物語だった。

 

　レゼダ氏はグラーツィアースほどには、このおとぎ話に重きを置いてはいなかった、それでも夕食後クローンプリンツ家の淑女たちにこのワイン商の物語を語っている間、ブダの淑女たちが長い間空想にふけるという体験をした、ヴィルマ夫人は臆病な一瞥を鉄の窓格子の窓に投げ、外から石だたみの上の足音が聞こえた、多分ルトリツキーの主のない足が外を行き来しているのか？・・・

　イルマは長々とオレンジの皮を剥いていた。手の平にのせてレゼダ氏の前にそれを差し出した

　「どうぞ、レゼダさん。ねえ、そのおとぎ話は男たちは死後もなお女たちの後を這い回るものだ、ということをたとえているのでしょう？」

　「おそらくは。何人かの女のことを決して忘れることはないのですから」レゼダ氏は述べた。

　「全ての男はいささか狂っているのでは？」イルマはたずね、注意深く客人を見つめた。

　レゼダ氏は物思いにふけり頭を振った。すぐには答えなかった。しっかりイルマの目の中を見つめようと努めた。

　イルマの姿は黒と白の色からなっていた。体にぴったりした黒い服を身につけていた、これは彼女によく似合ったからであり、父親の喪に服していたからでもある。どこかであきらめの物腰を学んだのだった。彼女は人々とはかかわろうとしなかった、その連中は彼女の悪口を言っていたからである。

　彼女には、顔に影を投げるほどに長いまつげがあった、そしてそのせいで悲しそうに見えた。額には星のような白い染みがあった。母親は印が着いているのだと言った、他の女とは違うからである。黒い髪は豊かで、非常に色白で、上品で傾いた首をしていた。ときどき男たちはあるペストの女優と比較した、だがこれは彼女には気に入らなかった。「私はユダヤ娘みたいなのよ」彼女は苦々しげに言って、このため首に十字架をかけていた。優美な肩から、本当に形の良いその手から、えくぼのあるあごからは何か言いたいことをたくさん読み取ることは出来なかった。それでもその外形、ちいさななり、取り立てたところのない姿は、このありふれた外見の下にある種の謎が、宿命が、運命が、さらに秘密が隠れていることを語っていた。

　彼女がまつげを開いたとき、顔の影の場所に白いひらめきが現れた、それは秘密の輝く目からいつなりと行動を起こせる何らかのエネルギーのように放射されていた。その目の中には断固たる態度とセンチメンタリズム、子供っぽい優しさと殺人の実行、長いすすり泣きと生き生きとして辛らつな、人の感情を傷つける注視、満ち足りない悲しみと致命的な嘘があった、その目は我を忘れた瞬間、あるいは深まった思考のもとでほとんど気づかれずに互いに歩み寄るのだった。いきなり見つめると、クローンプリンツの目はたまにやぶ睨みになり、そんなときこの少女なら寝台車での晩、一人の男の写真にナイフを投げつけることもあり得ると、見てとれたかもしれない。

　こわばった左目はまるで将来の知られざる光景に注目しているかのようで、幕が早々と上がるのを注意深く待ち受け、そしてその口はすでに嘘と、謝罪と役者のせりふでいっぱいなのだ。見知らぬ人々の中から誰かがやってきて（多分ルトリツキーの主なき足が）、その人にはやがてたっぷりと、迅速に、説得力を持って、二十歳になった今日の日まで何が起きたか、そしてすでに十二歳の頃には国立印刷所の役人だったある灰白色の口ひげの貴族にラブレターを何度も書いていたことを、語らなくてはならない。やがてある長い晩、人生の転回点が落ちてきて上がっていくまでの間、ある顔とあるもがいている魂に注意しなくてはならないとき、この鋭いまなざしの左目には大きな役割が出来るのだ。（イルマは過去の何かを隠そうとは決して思わなかった。彼女は自分の冒険を正確に憶えていた。彼女は、ある男がランデブーに来なかったとき、たった一度だけ自身を恥じた。このときは復讐を誓った、そして勝手にヒンペレールとだけ呼んでいたその男を、人生で最も重い不愉快な目にあわせてやると決めた。いずれ将来の夫にヒンペレールとのいきさつを語り、復讐を手伝ってくれるよう頼むことだろう）

　右目には小さな小屋の世捨て人のような憂いがすんでいた。

　ここでは思い出、苦々しさ、幻滅と泣き明かした夜は小さな雲として急ぎ通り過ぎてしまうのだった。二十歳の人生の退屈、もろくも色褪せた魂の花、過去ゆえの目標のない苦痛、取り返せない時間と失われた罪のない若さが、すなわち右目の陰鬱な闇の中ではちっぽけな悪霊のようにくつろいでいて、かぎ状の爪で長い睫毛によじ登り、晩ごとに監視所を放棄し、忘我の喜びの蝶を狩る矢を置くのだった・・・夢の最中に奇妙な小さな服を着て額の野を行き来し、ほどいた髪の中で馬を走らせ、耳の赤らむ貝殻から足をぶらぶらさせるだった・・・夢の中で過ごした夜、やることが何もない間、なぜなら下では砂人間が幅広の足で魂の上に身を置き、そしてアラバスターの体が朝には青々とし若返ってベッドから飛び起きるようにと、血管の血潮の中を春の花が泳いで進んでいくからだった。暁の湿気が草の中、花の中、木の中そして人間の体の中で自然の秘密の道へと出発するとき、苦しみに満ちた想像、この向こう見ずな空中ブランコ乗りは最も大胆な空中ブランコの出し物を、堕落していて罪のない天使たちの夜間の照明のまわりで終わらせるのだった。

　左目が、冷たいナイフが世界と生活の断片をうかがうように、山猫のように耳をそばだてて照明の炎と向かいに座っている男の嘘と真実の容貌をうかがっている間、右目の中には忘我と秘められた憧れがくつろいでいた、ここにはイルマの女らしさが、若い恋と生への好奇心が住んでいた、

　レゼダ氏は自分が審問官の前に座っていることを知った（ヴィルマ夫人は習慣通りそして最初の一目で恋に落ちた、そしてルトリツキーの謎めいた足の遠くから聞こえる足音の中からすでにレゼダ氏の足音を～それらが家の周りでためいきをついているとき～聞き分けられると思った）、まさにそれゆえにこそ、拘留を避けられないと前もって知っている人のように絶望し、凍り付いていたのである。

　（すでに最初の一目で彼は、少女の肉体の、手の、髪のあの特別な香りを、彼の意見によればただ彼だけがある種の女たちに感じた香りを感じ取っていた）

　この憧れ、夢そして幻想からよりあわされた香りは、この女たちのピカピカした靴のかかとに、散歩広場の通りの青白い雪のようについてまわっていた。まさにこの香りがあの、背中がその重みで丸くなるほどに生死をかけて恋した女性の名前からも、その名を自分の部屋で一人で大声で口にしたとき、流れ出るのだった。彼は、あの耐え難い、ほとんど肉体的な苦痛の数々、孤独な平手打ち、鏡の前での自分をののしる言葉は、とうとう彼に生涯の恋を、彼以外の誰も征服者とは見なさなかったあの女を忘れさせてくれたと思っていた。今やここに、彼の前に忘れられた女性が立っていた、すなわち若返り、少女のような外見で。彼は今夜までは石棺の間で夢見心地でいる中世の勇者だった、彼は町ではすでに騎士バヤール[２]のようにあらゆる女に嫉妬していた、なぜなら一度として恋をしたことがなかったからである。彼は女たちの、ブダの、夜ちゃんとカーテンを引いていない夜の家々で、女たちが誰にも見られていないと信じているときのあの動作を、云わば人生の客観的な距離をおいて見ていて、それを一人で心に留めていた。不幸の最中で喜びを得る男は、病気のさまざまな苦痛の中で楽しみを見出す人間の無感覚さとともに今夜までは屋根と、その下の嘘を、化粧された現実を観察していた。今や急に、慣れ親しんだ孤独から人々の間にもどってこいという、果てしない憧れが不意に襲ってきたと感じた。人生の笑いと悲しみと取り組め、楽しみを、さらにある種の偶然の有益さを、香りある声の中で見つけるようにと・・・。胸の中で雪のかたまりが軒から落下するような驚愕を感じる一方で、目の中でいくばくかの戦慄を感じた・・・。イルマのやや長い足、薄い肩と細い腰は、いずれは彼を小指で地面に投げ捨て、郊外で泣きながら死を請えと蔑む、あの昔の女と出会ったことには間違いないという期待される証言そのものだった。

　「ねえ、男たちっていささか気が狂っているでしょう？」イルマはテーブルの上で質問を繰り返した、そして嘘をつくことも良く出来る右目には渇望が、知りたいという欲望が、生徒が師匠を見つめるような謙遜が現れていた。

　レゼダ氏は小さな二車輪の車で処刑場に運ばれていき、そして途中である通りの知人に健康状態を尋ねられた人のように静かに手を振った。

　レゼダ・カズメール氏が小さな絹の上着でグラーツィアースの宿屋に押し入ったとき、ラーツ寺院ではもう、時計が真夜中を打った。

　「呪われたルトリツキー！」彼は始めた。「道中雪の中で私の前を、主なき赤い足が走っていたよ」

　老グラーツィアースは満足して、かけすを、この最古参の酒場の客の鳥かごを撫でた。

　「わしにはもうわかっていたよ」

　レゼダ・カズメールは考えこみながらワインの前に座った。後で内緒でクローンプリンツ家の前にもどってみたとき、そしてギシギシ音のする雪の中を何度か散歩したとき、中の明かりに気がついた。彼はつま先立ちした、そして中で赤い豆ランプが晩にはまだその場になかった一枚の聖人画の下で燃えていることをしごく当然だと見なした。

　一体誰がともしたのか？

　ヴィルマかイルマか？

　母親か娘か？

レゼダ氏はゆっくりした歩みで家の方へ向かい、ときどき立ち止まった、しかしその前を無関心に通りすぎたことは決してない、ちゃんとカーテンがかけられていないブダのいくつかの窓には一顧だに与えなかった。

　「わが人生の最大の不運が始まったときも、われわれは豆ランプをともしたっけ」彼はうなるように言った。「幸いにももうわが人生にはもうあまりときは残っていない、しのび難きをしのぶとしよう」

　彼はカントの本を床に投げつけ、明け方まで天空を見つめていた。