第二部　あわれなタタールよ、良き夢を

 

第七章　カズメール女たちの手に落ちる

 

　レゼダ・カズメールはこの頃一日に二度ひげを剃った、朝早くに時間を何かでつぶすため、そして水の町の新鮮なかげ口を警察官ヒゲの老床屋から聞くためである。同じように夕暮れどきペストのキシュヒード通りで、そこで新聞を読み、髪を臭い水で洗わせるために、彼は髪を染めさせ、口ひげから比較的目立つ細い白い筋を切り取らせようかと何度もためらった。

　彼はすでに何日も一つのひじかけ椅子で夜を過ごしていた、ベッドに横たわったときは、果てしのない孤独と生への退屈を感じたからである、常に頭の中で、一発の見事なピストルの射撃が彼の人生の疑わしい収支決算をつけることが出来るだろう、古馴染みの腎臓病と、辱められた心にけりをつけることが出来るだろう、という思いが飛び回っていた。その心は誓約を破ったため、懺悔に来る女たちが踏みつけるよう、娘たちがあざけるよう、女性たちが引き裂くよう、老いた魔女たちがつばを吐きかけるようにと、再び寺院の入り口の階段に置かれたのだった。

　肘掛け椅子では鹿皮のチョッッキとモロッコ皮のサンダルを身につけで、長いパイプが友だった、この友は村の養蜂所のデアーク・フェレンツ[１]のように落ち着いて、ゆったりとした助言を与えてくれた。

　残されている全人生には人間がそのために変わるほどの価値はなかった。若さがどれほど燃え盛っていたにせよ、老いは間違いなくまきの束をかついで墓場に向かっていた。膝のばら色の皮膚は擦り切れ、髪は少なくなり、そして苦しみが疲れ果てた猟犬のようにあばら家に横たわっていた。ある日、退屈した黒い下男たちが階段で棺おけを下ろすことは間違いなかった、そしてわれわれには穴でびっくりする時間すらないのだ、そこは仮死状態のものが蘇生するときは、最初の晩だけは不快だろうが。

　それどころか、もしわれわれがその地の営みから遠ざかっていれば、われわれが生きていることには何の関心も払われない。遠くで生きている者は絶対の確信を持って欺かれ、だまされ、忘れられ、名前さえも線を引いて消されてしまう、そしてふとんには他の者を寝させられる。自分のためだけにためいきをつき、そして我を忘れて祈ってくれるのだと信じる者は、最高の狂人である。

　もし男たちがこれほどまでお互いに対して秘密屋でなければ、しばしば明るみに出るのだろうが、何人かの女は同じ二言三言を（ちょうどよいときに）言うことで恋愛生活を欺きとおすのだ。カズメールは、暗闇ではいつもヘンリクと呼んだある淑女のことを思い出した、そうして良心を静めようとしていたからである。（一体あの愛しい人には何人のヘンリクがいたのだろう？）

　しかしこうしたことが薬になるのは肘掛け椅子の上でだけだった、上級裁判所判事の優越は、イルマには彼以前に一体何人の愛人がいたのだろうか、間違いなく今も誰かと薄暗い部屋でキスしているのでないか、そしてほとんど聞き取れない言葉を口ごもっているのではないかとわずかなりとも考えるとすぐ、レゼダ・カズメール氏を見放した。こんなときのレゼダ・カズメールはすぐ急ぎ始めるのだった、静かにパイプで一服する忍耐はなかった。

　またあるときはこの一件を、自分の身に起きたのではないかのように冷たい落ち着きとともに審査するのだった。

　「さて！ブダに一人の退屈した独身主義者がいました、ある日彼は一人のやぶにらみの市民の少女と知り合いました。彼は間違いなく恋をしました、他にやる事がなかったからです。これは何でしょう？これは悲劇でしょうか？問題でしょうか？誰の迷惑になり、誰の役に立つというのでしょう？お嬢さんを征服しなくてはなりません。ペストに、昔の上流階級の友人たちと女友達たちのところへ連れて行きます。この世ではブダだけが生活ではないことがわかれば、いずれ彼女は身を委ねるでしょう。冒険家が鉄道のコンパートメントでやるように誘惑し、その路線は二度と乗らないようにすること。無邪気な魂に毒を盛ること、彼女の前に秘密の幸運を開いてやること、人生を、人間たちを見せてやること、賢い女の数が増えるように絶望させ慰めること。彼女の夢の中、考えの中にしのびこみ、寝ているときにそっと耳打ちし、朝の太陽の中で写真のように示すこと・・・それから何もかもに飽き、最終的には旅に出ること。それが人生というものではないでしょうか？」レゼダ・カズメールは冷静な午後、ブダに冷たい風が吹き、氷の板がポジョニ県からきた凍りついた死者のようにドナウを流れていたとき、自問自答していたのだった。

　しかし彼は毎晩しばしばどんな理由もなく住まいを後にした、その住まいの窓にはイギリスではクリスマスを祝うのに用いる赤いヒイラギがあった、そしてその赤いつぶつぶの周囲にはサーディンの缶詰、ますのオイル漬け、紙に包んだ燻製肉とさまざまなワイングラスが場所を占めていた、冬の厳しい寒さはそういうのには害にはならないだ、すなわち彼は居心地の良い肘掛いす、哲学を、そして叡智の本を捨てたのだった～家のない放浪者のようにブダの通りに隠れ、そして彼の唯一の喜びとは、杖で商店のブリキの看板をカンカンたたくことだった。

　家々のカーテンのかかった窓に彼はそねみの一瞥をくれた、あの中では幸せな家族が生活していて、アヒルのスープで育てられた夫たちが、白い皮膚の良い匂いのする妻たちを抱きしめ、子供たちは天使の夢を見、老婦人たちは入り口の階段のところで猫と一緒で、平和、堅実さ、高価な沈黙があり、それらをほとんど熱烈な信仰を持って灰になりかけている石炭の灼熱が照らし出しているのだ、眠れない者はグチを聞きつける敏感な耳を見出す、病人の枕を愛人の手がひっくり返し、時計は幸福なチクタクとともに希望に満ちた朝に向かっておのが道を前進し、女性たちがひっそりとおきだし、家で誰かが目覚める前に手足をよく洗い、新鮮で、良い香りのするテーブル掛けをテーブルに広げ、そして子供たちと男たちは、まるで彼らの休息は綿毛のように軽かったかのように幸福に目覚め、彼の脳、心臓、胃には問題もなく、口も苦くはなく、泡立つセッケンを、良い匂いのするコーヒーを、黄色いお茶を、カリカリのベーコンを、美味いハムを、家庭用の簡易蒸留器で温めたパーリンカを喜ぶのだった。女性たちの髪はすでにくしを通して頭上になでつけられており、たいそうな楽しみに満ちた市民の一日が始まるのだった、やがて夜にはその喜びは一年のクリスマスのように、終わってしまうのだ。

　レゼダ・カズメールはパン屋のブリキの看板を、通りに反響するほど強くたたいた。

　「誤った！」彼は絶望して繰り返した。「誤った。俺はどうなるんだろう？」

　「市民に、尊敬に値する、きちんとした市民になる。もし自分に、じん臓に、心臓に、肝臓に気をつければ、八十歳まで生きられる！」すぐ自分自身に答えた。

　あるとりわけ凍りつくような一月末の晩、最も明晰な常識を持って彼は再び決めた、これ以上何一つとして修正して、きちんとさせることも出来ない、結局人生とのゲームに負けたのだ、鎖橋から暗い川に身を投げることが助けになる、いつもの通りその周囲をうろうろしていたクローンプリンツ家の窓が開いた。

　「どうして凍えているの？」高い床からひとつの声がたずねた。

　クローンプリンツ夫人、あるいはカズメールが一人で勝手に名づけたように「ヴィルマお母さん」だった。

　黄色い家の白いかまちの窓が天国の窓のようにゆらゆらと、ゆらめいた。

　レゼダ・カズメールはため息をついて壁の傍らに足を踏み出した。

　「私は不眠症なのです」彼は今やすでに、ほとんど自分でも驚いたほどの深い苦痛の混じる声でぼそぼそと言った。

　「かわいそうなお友達！」暖かい、静かな、抑えた言葉でヴィルマお母さんは答えた、まるで水の町の誰もが彼女の言葉を聞きつけるのを恐れているかのように。

　「私は人生に永久の二日酔いなのです」今やすでにもっと陽気な雰囲気でレゼダ氏は説明した。「私の胃、心臓、腎臓はすっかりダメになっています。私はいつも病気です。そして悪魔のように丈夫だと思っていた自分自身もセンチメンタルな、か弱いやつであることが明らかになりました。大事なヴィルマお母さん、手をさしのべてください。お手にキスすれば、多分もっと平静になれるでしょう」

　善良なるクローンプリンツ夫人は、病人に薬を与えるような人の役に立ちたい一心で、窓からガウンに包まれた腕を差し出した。レゼダは、脈拍が控えめに心地よくやるべきことをやり遂げた場所に唇で触れた。その手はレゼダ氏の顔とまつげを撫でた。

　「家にお帰りなさい、横になりなさい、カズメール、そしてあなたを好きな人がそうするよう頼んだのだと考えなさい」夜の女性の声が口ずさんだ。「手足を伸ばして、壁の方を向いて、絹のスカーフを頭に巻いて、そして心臓には冷たい湿布をね。お願い、心を静めて、全てはまだ良い方に向かうのだと信じなさい」

　「良い方に向かう？」レゼダ・カズメールは繰り返した。

　「教育があって、親切で、力強い男性だわ。どうしてわざと自滅したりするの？女たちの好意はあなたに健康を返してはあげられないけど、少なくとも痛みをやわらげられるわ」

　「生きるのが恐いんです」

　「何度でも私のところにいらっしゃい、いつでも・・・。明日は昼食にお待ちするわ。そしてお望みなら、明後日だって」

　レゼダ氏は頭を垂れた。

　「寝ているお嬢さんに私に代わってキスしてあげてください、ヴィルマお母さん」

　「そうしますとも」クローンプリンツ夫人は暖かく手を握って答えた、そして窓はそっと閉じた。

　カズメールは静かに家に向かってブラブラ歩いて行った、途中でいかなる騒音も立てなかった、そして長い時間の後で初めてベッドで夜を過ごした。

　「俺は菓子パン屋に生まれついたんだ」彼は夢うつつの中で言った「冒険家にじゃない」

　彼はライオンのように、右側を向いて寝た。

　翌朝のように呼吸がすっきりしていることは今までなかった。新鮮に、ある種同意の上機嫌さでベッドからとびおき、心臓も、腎臓も驚くほど痛まなかった。慎重に身じまいし、ネクタイには他のものより時間をかけた。若い頃以来、正確には一番愛した女と別れて以来着けたことのない、一本の古いタイピンがあった。彼はその十二個のトルコ石が並んだピンを取り出し、窓辺で長い間物思いにふけりながら見つめた。人生についてまだある女がガーターに名前を縫い取りしていることしか知らなかったときには、どれほど幸せだったかを思い出した。（それ以上のことまで学ぼうとするのはなんという愚かなことか！）今や彼は、何かの幸運のお守りのようにそのピンを取り上げた。彼女たちは似ていたではないか、イルマはもう一人の昔のあの女だ、まるで十年など過ぎてはいなかったかのように。

　イルマは窓辺に座っていた。

　うららかな日差しの一月の日中、花瓶に刺した冬の花々の間でその目は驚くほど輝いていた。ドナウの水で水浴したかのように、新鮮でしなやかだった。暖房された廊下を彼の前に駆け寄ってきた直後、彼女はほとんどレゼダ氏の肩に触れた。

　「どうして私たちを信頼してくれませんの？何か問題があって？私たちはあなたを良いお友達と思ってますのに、あなたのお心の曇りを払えるならどんなことでもしましてよ」

　「全ては熱病のような一時的な悪い雰囲気だったのです。人間は翌日には、人生のためにそんなに苦しむ価値はないのだと見てとるのです。今やもう全て良好です。小さなお友達よ、あなたと再びお目にかかれてうれしいです」レゼダ氏は答え、伯父のようなやり方で拍手した。

　「一時期は私ひどくいやな夜がありました」クローンプリンツ・イルマが言った。「夜ごといつも誰かが私のベッドの水さしの水を飲み干したんです、そして私は日一日と痩せて、青ざめていきました。いずれいつか、二、三年前の私に何があったかお話しましょう。今は昼食に行くとしましょう。母が待ってますわ」

　聖パウロの回心の日（１月２５日）にこれほどうららかな日中はたえてなかった。細長い平屋建ての黄色い家の白い窓が輝いていた、明るい灰色の敷物が明るくしているように見えた、家具はほこりをぬぐわれてピカピカだった。二体の天使が壁に掛かったランプの白いかさの上を飛んでいた、そして花がナプキンの中で香っていた。肉スープは脂のようだった、野菜は別皿で供された、小さい白パンはよい香りがし、冷たいロースト・ビーフには朝から晩まで馬を駆る、赤ら顔の郵便馬車の御者の食欲こそがふさわしかったであろう。スペアリブとともにロール・キャベツが後から続いた。スペアリブは食べている者の口の中でくずれた、骨も噛んでしまったかもしれないので、骨のせいでまずいことになったかもしれない、そしてキャベツの葉は緑色でパリパリしていて、まるで朝庭から取ってきたかのようだった。軽いワインは氷のように冷たく、低いグラスの中で黄色だった、そしてナイフはかみそりのように切れ味がよかった。これは貯蔵庫にあらゆる種類の食料が潤沢に蓄えられている、上流の市民階級の昼食だった、そして一人か二人の客人と大勢で食卓についても、女コックが邪魔しに来たりはしない。

　「ヴィルマお母さん」はここで気分快適だった、テーブルの上座に白いブラウスと黄色い皮の帯で腰にしめ付けた赤いスカート姿で座っていた。いつも清潔で輝いている、ふっくりした白い手で、レゼダ・カズメール氏の皿にたっぷりと盛り付けた、乾杯する前に口の端をぬぐった、そしてブラック・コーヒーの後は隣の部屋の～刺繍したクッション付の～寝椅子を指さした、レゼダ氏はそれに「興奮を鎮めるため」寝転んだ。小さなテーブルには「ジャーナル」と一箱のプリンセスサーズのタバコが準備されていた。

　カズメールは、白い両開きの扉が彼の背後で閉じられたとき、この友好的な家で考え込んだ。これほど心地良い日はもうずいぶん久しぶりだった。肉体的にも文句のつけようがないと感じた。心臓は、村にでもいるかのように、平熱で鼓動していた。腰は一個の絹のクッションの上でお行儀よく休息していた。

　「一体愛しい淑女たちは何をしているのだろう？」彼はまるですでに長年この家に出入りしてきたかのように、そして遠かれ近かれこの家の住人と親戚であるかのように自問自答した。

　（母と娘はこの家の浴室で信頼のおける対話を続けていた、昼食後は常にここで一緒になり、その日の出来事について低い声で考えを交わすのだった）

　「彼、何かの役に立つと思って？」ヴィルマお母さんは尋ねた。

　イルマはセッケンで手をこすっていた。

　「もしお父さんが知れば、多分もどってくるかも・・・」

　「いつもお父さんね！もうあの年寄りのことはほうっておきなさい、シャシュ山から決してもどってこないわ。あそこでなら快適なんだもの。あの人はもう孤独と普通の生活とを取りかえるなんて出来ないんでしょうよ」

　「この間ここらへんで見かけたみたいなの。角の、ライオンのところで長い間立ち止まって、そして家を見ていたわ・・・・」

　「それはグラーツィアース・ガスパールだったのよ、レゼダのお友達の。私もたそがれ時の年寄りは目に入ったわ・・・」ヴィルマお母さんは答えた。

　「雪がずいぶん降ってたし、もう暗かったわ。見間違えたのかもしれないわね」イルマはため息をつきながら答えた。

　ヴィルマお母さんは悲しいテーマに長く留まるのを好まなかった。出発点にもどった。

　「あなたの意見はどう？・・・この親切な男は私たちに何を期待してるのかしら？」

　「多分、あなたに恋してるのよ、ママ・・・それとも私に？」

　ヴィルマお母さんは娘の髪をなでた。

　「あなたが好きなのよ。わかってるわ。だって夕べだって、自分の代わりに眠っているあなたにキスしてくれって頼んだもの」

　「それは礼儀からかもよ。もし私にいかれてるんだったら、まっぴらだわ。あのタイプのおセンチな男は、あっさり私に冷たくされるわよ」

　「イルマったら、やめて」

　「よくわかってるでしょ、ママ、私にはあんな涙もろくて、感じやすい、空想的な男はあわないわ、もし私の機嫌の悪い日だったら、彼二十四時間以内に井戸にとびこむわよ。私に、心が痛むと言ってすぐグチるような人をどうしろっていうの？初めのうち、冒険家で、さすらいの騎士で、ろくでなしで、断固とした強盗みたいに振舞っていた間は、かなり興味を引かれたわよ。私の首を絞めて、足を無理やりこじ開けるような暴力的で下品な男が好きだもの。私は心を捧げる人に、主を、神を見たいのよ、私のように特別であってほしいわ。そして私の足元に膝まづこうなんて決して思いつかないでほしいわ、私はけっとばしてやるでしょうからね。腫れた頭で、胸から血を流して町を走りまわることになる可哀想な人が今から気の毒だわ、つまるところよその人たちに災難を愚痴るんだわ、涙のせいで近づいてくる馬車が見えなくて、御者たちは彼をひいてしまわないよう気をつけなくてはならないの。多分飲みすぎて死ぬか、怒ってカフェ「黄金の銃弾」の集金係と結婚するかだわ。彼女には気の毒ね」

　イルマは話している間、冷たい水で顔をすすぎ、ゴシゴシとタオルでふいた。

　ヴィルマお母さんは静かに、きっぱりと頭を振った。

　「娘や、私はね、むしろあのレゼダは危険な冒険家で、とても用心して扱わなくてはならないと言いたいわ。ずるくて、頭が良くてそして予測がつかないのよ。あいつは私にお前をくれといったりしないわ、良くても盗んでいくわ」

　「あいつが」イルマはあざ笑いながら叫んだ。「あいつが私の服のすそにキスするところが見たいの？あいつはケーキ屋でおやつを食べる市民で、パイやキャラメルやクリームの名前を全部知ってるわ。ヴァニラを飲んで、女性用のタバコを吸うわよ。小説を読むのは、市民階級の女性たちにはどんな嘘をつけばいいか知るためだけよ。ヤギひげをつけていなくてはならなくてメーメー鳴くのよ。間違いなく父親は床屋だわ、つまり座り方からわかるのよ」

　信頼のおける対話は終わりを告げた。

　（クローンプリンツ家の淑女たちはサロンで腰を下ろした。イルマはピアノの前に。ヴィルマお母さんはもう何年もの間、家に客人が来たときには、ある小説を読んでいた、その題名は「アイヴァンホー」だった）

　カズメールは驚いて目を見開いた。彼は、見知らぬ家で眠ってしまい、さまざまな家の物音だけでどこで寝ていたか判断出来た若い頃のように、よそから来た闖入者のように三十秒ほどレースのカーテンを見つめていた。（時折中庭では手回しオルガンがまわっていて、巨大なバレル・オルガンが門の下でガタガタと揺れ、オルガンの持ち主たちは順序正しく三つの小唄を演奏していた。またあるときには、盲人が中庭の井戸に背中を預けて、中庭近くで紙に包まれた硬貨が左右に揺らされ鳴っている間は、ハンガリーの憂鬱な恋の歌を歌っていた。小さなジプシーの子供たちが苦いヴァイオリンで音楽を弾いていた、そして空っぽの住まいで室内塗装業者が楽しみながら歌っている間、子供らの黒い目は燃える注視で台所に押し入るのだった。若くて退屈していたとき、レゼダ氏が１７番地で、ある外国に逃げたシャンソン喫茶歌手の孤児たちを養育していた歌劇場通り（５区現在の国立歌劇場の両側面にある二本の通りのうち左側の通り）では、こんな風だった。

　外ではそっと誰かがピアノを弾いていた、夢を見ているものにほとんど聞き取れぬメロディーを弾いているかのようだった。

　「モシュコフスキー[２]だ」カズメールは考えて、そしてこのメロディーを知っていることを喜んだ。「俺はやはりちゃんとした家にいるんだ」

　イルマは外に一緒に散歩に行こうと提案した。

　「外ではひどい雪よ。こんなときに部屋にじっとしているなんて出来ないわ」

レゼダ氏は娘の要請に同意した。

　「あとでまだあなたが一度も行ったことのないブダの通りにご案内してよ、あなた様。私はいつも一人でうろついていたの。山の斜面に、点灯夫をびっくりさせてやろうと、私がつけている照明があるの」

　ヴィルマお母さんは寝椅子の中央に座っていた。

　「夕食にはもどってこなくてはだめよ、カズメール」彼女は母親ぶって声をかけ、レゼダ氏の頭をなでた。「あなたガーリックとキューリのサラダ付のコールド・ポークはお好き？」

　イルマは家事に口をださない習慣だったが、今は暗い目を上げた。

　「ママ、脂っこい昼食の後は、むしろレゼダさんには小さなソーセージを差し上げたらいかが？」

　「むしろロースト・ビーフのオニオン・フライ添えを作りましょう」ヴィルマお母さんは対抗した。

　淑女たちが夕食のことでけんかになる前に、レゼダ氏はイルマに散歩の支度をするよう提案した。イルマは、男物のように小さなペルシア子羊の皮の帽子に頭を押し込み、毛皮のコートに飛び込んで、通りに出てからやっとそのボタンをかけた。彼らはある山の曲がりくねっている小道に向かった、そこでは家々はおとぎ話の中のように小さかった。窓はウエストまでの高さしかなかったし、そしてある場所では老いたおっかさんがざわめく降雪に見入っていた。いつか、ここで家々がもっと大きかった頃は、間違いなく若かったのだ、そして窓をノックするためにドナウから製粉所の職人たちがやってきたのだった。

　「腕をとるのをお許しください」レゼダ氏は人生で何度もそうしたように、そっと口ずさんだ。

　「どうぞとって、ブダの散歩ではそれが習慣だわ。ブダに冒険に来るときのペストの女たちときたら、自分たちの町で家にいるときよりもずっと不品行なめすブタだわ。どいつも紳士たちと見捨てられた通りに隠れたときは、何か新しい、めずらしい、例のないことをやらかそうと思っているのよ。私何度も車のカーテンを下ろした後ろから覗き見するか、口をきかない秘密の入り口へすべり込んで、彼らの現場を押さえたわ。あなた、ラーツ温泉（ブダ側タバーン地区にある古い温泉、第３章２３ページに出てくるルダシュ温泉とちょうど道路をはさんだ向かい側にある）についての本を書けるわよ」

　「ずいぶん手厳しいですね、親愛なるイルマ」

　「そうかもしれないわ」彼女は落ち着いて言った。「私はもう子供を一人この世に生み出したもの」

　彼女は帽子の下からレゼダ氏をチラリと見た、だがすぐこの芝居を後悔した。冷淡に、口をひき結んで男の隣を進んだ、そしていくばくかのあきらめと共に地面に、全てがより白くなっていく雪に見入った。

　「それで子供は？」どうにか押さえつけた声でレゼダ氏はたずねた、うんと冷淡になりたかったのだが。（ゆっくりと首吊りの縄が彼ののどで引かれた、そして腎臓には陰険な塊が現れた、そのせいで彼はすぐ雪上に倒れた）

　イルマは緋色のレンガの倒れた囲いを見つめた。

　「子供はうちの庭に葬られているの。生まれてすぐ死んでしまったのよ」

　レゼダ・カズメールは、いまだかつてないほど大またに踏み出した。

　彼はこのおそるべき午後も終わりになりますようにと、自身の内で静かなお祈りを唱えた。

　グラーツィアースの酒場に逃げて、そして一生二度とそこから外へは出ない。こんなことの後でどうしてそれ以上人間に興味が持てよう？女たちにはまだ彼に何か言えるのだろうか？彼女は、耳を傾ける価値のある声をどこで見つけるのだろう？ああ、いいとも、立派な市民になりたかった、軽薄な生活様式から、下らぬ冒険航路から、シニシズムと人生への軽視から別れたいと希望していた。運命をどうしても変えられないので、夜は横になり、信仰の祈りをつぶやき、晩は考えることもなく眠るブダの人たちのような人間になりたかった。

　四十歳代に近づいていた、そしてすでに人生について何もかも聞き尽くし、知り尽くしたと思っていた。日常生活の、無関心な、考えることのない生活様式だけが彼にとっては驚きとなり得るだろう。市民たちの太って脂ぎった、砂糖漬けの、かかりつけの医者と話し合う生活様式が・・・

　彼らは山の裏面に苦労して登った、そこの小さな散歩道は、酔った人々が虚空に落下しないように、薄っぺらな囲いで隔てられていた。下ではタバーンの雪山の屋根瓦が、深い中庭が夜の眠りにつき始めた、まるで夜おとぎ話の中のどこか遠くへ泳ぎだしていくかのように。ある胡桃半分位の大きさの敷石の中で一台のミシンが音が聞こえる程度に回っていた、そしてある小径では小さな黒い犬が、塔の背後の軍服のボタン大の、青ざめた月に向かってほえていた。

　イルマはマッチをすり、深遠のへりに立つ木の柱の灯油ランプを、大層な専門知識をもって点火した。

　「今本当のことを言ったのだと、名誉にかけて言ってください」レゼダ氏は突然口を切った。

　娘は災いを告げる方の目を、長い、秘密めかした睫毛の下からちらりと走らせた。

　「本当のことを言ったわ」彼女は直裁に答えた。

　「それでは、いずれいつか」レゼダ氏はこわばった声で続けた「私をとても好きになって下さる、完全に信頼して贈り物を下さる、そうでしょう、その途方もない出来事はどんな風に起きたのか、話して下さい」

　「話しますとも・・・いずれ私にひどい夜が続いた、水差しからいつも誰かが水を飲んでいた半年間全てをお話しましょう。子供でした。でもそのことは長い間わからなかったのです」

　イルマは手を後ろに組んで山の斜面の小径で立っている間、そっとうなずいた、そして冬の青さに見入った。

　ラーツ寺院でおちあう影らはすでに大気の中を出発していた、そしてブダの上空で見はらし難い、黒いマントを広げていた。

　降雪は、一定の時間が過ぎた後の口づけのように、少なくなっていた。

　銀青の煙が煙突から翻った。雪の中を大きな長靴の、シューバを着た、白霜の口ひげの人物が頭を振りながらぶらついていた、まるで夜に誰かを、ブダの小さな家から誰かを連れ出そうというかのように。多分咳をしている老人をあるいは肺病のお嬢さんを連れて行くのだ。

　「冬に町でこの人を見かけることはほとんどないの」イルマはぼそぼそと言った。「病人たちは柱廊で吊られたうさぎのように、凍り付いているの。春だともっとひんぱんにタバーンを行ったり来たりしているわ。あれはブダの墓地の墓穴堀りだといわれているの」

　「私のために来ているのかもしれない、あのくわでもうわかりましたよ」レゼダ氏はうなった。

　クローンプリンツ・イルマは毛皮を広げた、そして新鮮な冬の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。その顔は、中で一軒の家が燃え上がり、そして窓がまわりを照らし始めたかのように赤くなった。

　「死について話すのはなんて臆病なことかしら」彼女はまるで目に見えない人々に、夢に沈む山の斜面の敷石たちに言っているかのように、叫んだ、そこでは大勢の人が大当たりのくじか何かのように、死を待っているのだ。「死とは、人生が不良の子供を置いておく、暗くて小さな僻地なんだわ。私は猫一匹だって、こいつは死ななくてはならないと思って自分の部屋から放り出すのはいやだわ、だって死は、人が最大の大騒ぎをする屈辱的で、ちっぽけで、取るに足りない、重要でない恥ずべき出来事のような忌まわしいものではないからよ」

　「生きなくてはならない！赤く、日差しの中で、雪だまりで、静かな部屋でそして深い地下室で。ただ生きるということは、食べる、恋をする、良いことを考え健康的に眠ることなんだわ」

　「それをどこで学んだのです？」レゼダ氏は肩越しにたずねた。

　「私は月をずいぶんと眺めたし、星々はよい友達なの」クローンプリンツ・イルマはすらすらと答えた。「長い夜に自分は一番不運な人間だと感じたとき、うちの中庭の窓に座って、そして朝まで星空を見ていたわ。なんて驚くべき旅をしたのかしら、東洋のおとぎ話の「船乗りシンバッド」は、一枚の木の葉の上を這うカタツムリだったのよ。確かに私は修道院で教育を受けた娘風に、明けの明星や月やピカピカ光る星々に、どうして私は生きているのかとたずねたりしたわけではないわ。長い間彼らを見つめていると、私はいつも安らかになったわ。人生で、叙情詩人たちのように大きな目立つことをするのは許されないのだ、と気づいたわ。この偽者の床屋見習いたち～あるいは多分かわいそうなびしょぬれの小鳥たち～は、あらゆる針のチクチクから生と死と謎を探し出そうと理由を鍛え上げるわ。雨の午後、山か人々の間に散歩に出て行けないときは、彼らの本を読むのは好きよ」

　レゼダ氏はブダの紳士式の崇拝を続けた（ここは何より粗暴になりたかったであろうに）

　「お気に入りの作家は誰です？」

　「あなたに言いたいことがあるわ、多分すぐには信じっこないことです。私は、その本を書いた作家たちの名前を一度も見たことがないの。なぜ私の思い出を余計なことで混乱させるの？本が楽しませてくれるか、私が投げ捨てるかよ？詩人たちって雪男みたい。現実の生活の日光の中で解けてしまうのよ。目立とうとしてトランクに入って旅した仕立て屋のツァイトゥングみたい・・・

　「冷たい魂よ」レゼダ氏はもぐもぐと言った。「もし詩人たちがこの世にいなければ、ひとりの女が靴を脱いだときには、それだって愉快でないことになるでしょう、！彼らが、女の髪、肩、足の裏と靴下について、あらゆる類の麻薬的な嘘を口にし、歌い、泣くのですから」

　「そうだからといって、どの女も入浴するわけではないわ」イルマはさばさばと言った。

　レゼダ氏はあきらめなかった。

　「彼らはおのが魂を、考えを、特別な感性を名誉だと見なしています。世代から世代へと、大衆の耳へ、一人の女のため死ぬことは高貴で目的に通じることだと、吹き込んで鍛えてきたのです。一人の女の考える世界を通してするのとは違うやり方で人生を把握するのは無駄なことです。その気まぐれはすなわち運命です、その好奇心は遅延を許さぬ命令です、そのため息は、聖地の奇蹟のオリーブの木をたずねての出発です、その涙とは人殺しです、その抱擁は災いをもたらすか天国であるかです・・・詩人は女ゆえに喜んで獄に入ることは、すなわち最も尊い行為なのだと歌いあげます。詩人たちの憧れは盲人たちの渇きに満ちた敏感さに似ています」

　クローンプリンツ・イルマは頭を下げた、そしてそっとカズメールの腕を握った。

　「一番幸せなのはだまされ易い男たちです、そしてあなたもその一人ですわ、大事なお友達。何人かの男は決してお尻の殻が取れないのだ、といえますわ。それじゃあなたに申し上げますけど、私の読んだものの中で何よりも感動したのはホルバート（旧ハンガリー領クロアチア　　）の盗人トレンク・フリジェシの物語で、絵画の中では牢獄の壁に白墨と爪で描かれたの見たあの絵です。たとえばヴァーツ（ブダペストの北約１５ｋｍのところにある、ドナウ川右岸の町）の監獄で壁に描かれた、墨でなすりつけられていた、まるでとうもろこしの芯みたいに子供を腕に抱いた、パイプをふかしている女性を決して忘れません。牢屋の見学は、私の最大の楽しみでした。それ以来生きることが好きになりました。自由に生きるのが、雪を踏みつけるのが、雨が首筋に流れこむままにしておくのが、そして霧を噛むのが」

　レゼダ・カズメールは敵意を抱いて娘を見た

　「子供の父親は誰だったんです？」彼は長い沈黙の後でたずねた。

　「興味あって？あるブダの医者です」イルマはぶっきらぼうに答えた。

　「それで？」

　すでにほぼ暗くなっていた、まるで人々の罪が夜に町から去っていくかのように、白い煙の、銀青色の影が曲がりくねっている通りを上向きに這い登っていた。

　「それで？」レゼダ氏は歯をガチガチ言わせながら繰り返した。

　娘は顔を背けた、まるで彼女が話しているのではなくて、声が暗い山の、多分ファルカシ野（１１、１２区ブダ側にある大きな墓地）の後ろから聞こえてくるかのようだった。

　「家ではロヒッチュ（現在のスロベニアのロガーシュカスラティナ市ミネラルウォーターの生産やリゾート温泉で有名。第一次世界大戦前はオーストリア領でドイツ語名はロヒッチュ・ザウアーブルン）に温泉につかりに行くといいましたの、そしてそこで事を待つために夜、彼の住まいに行きました。誰も私と一緒にはいませんでした・・・彼だけです。いつか私、彼が子供の首をしめる夢を見ました、子供はその後、私が帽子の箱に入れて家に運んでいきました、そして中庭に葬ったのです」

　「なんてことを」カズメールはつぶやいた。

　「それじゃ今は、まだその気がおありなら、母のところに夕食に行きましょう」

　「行きましょう」レゼダは答え突然立ち直った。

 

　夜、門が閉ざされる前にレゼダ・カズメールは入り口の階段でシカの枝角から作られたポケット・ナイフを落とした。ドイツ人の召使の娘の手の中で鍵が二度まわった、錠がカチカチ鳴ったが、門は閉まらなかった。十五分後には月の光に照らされた中庭にカズメールは立っていた。

　雪が照らしだしていた、そして月は輝いていた。クローンプリンツ家の中庭には昼間の明るさがあった。

　レゼダ・カズメールはこの夜、ほとんど死者たちに魅せられて中庭の中央に立っていた、そこには井戸の残骸、大理石の水盤と鉄管があった。苦痛に噛まれて赤くなった目で彼は、まるであの、秘密に満ちた小さな土饅頭を探してでもいるようにあたりを見回した。古い墓場、壁に彫られた石版、寺院の入り口に横たわる墓石が彼の想像の中を行き来した。子供の墓には花瓶の花しか飾られていないのが見えた。中庭で彼は何かそれらしきものをそのまなざしで探した。

　突然背後でピシリと雪が音をたて、二本の燃えるような腕が彼の首に巻きついた。

　「私の唯一の人、私のきちがい、私の夢、私の憧れ」クローンプリンツ・イルマはつばめの巣のような暖かい声で始めた「あなたが家の屋根の上で這いまわらなくてはならないのなら、ここで見つかるとわかってたわ」

　レゼダはやなぎの葉のようにおののいた。

　二本の腕は彼の首をしっかりと捕らえていた、娘の声は魅力と憧れのため息をついた。

　「私の話したことの一言も真実ではなかったの。あなたを試したかっただけなのよ。あなたの苦しみは私には喜びだったわ。あなたが私を本当に好きなのかどうか、知りたいの」

　中庭の中央には雪の山が立っていた、月がそれを垂直に見下ろしていた。レゼダ氏はもっとよく見えるように、娘をここに立たせた。

　イルマは軽い夜着を聖書の女たち風に翻した。古い寺院の絵の中のマグダラのマリアのような青白い顔だった。二本の腕を広げ、そして軽い煙のかかる美しい空を見つめていた。（まるで月がパイプをふかしているかのように）

　「誓うわ、私はゆりのように清らかです」

　彼女は膝をがっくりつくと、雪の丘に腰を下ろした。

　レゼダ氏はその隣に膝まづき、永遠の真実であるかのように、何度もイルマの唇に口づけした。

　娘が姿を消したとき、彼は雪の中で彼女が座っていた場所に口づけした。雪は暖かかった、そしてすずらんの香りがした。