第八章　ペストでは思い出の記録帳は流行遅れ

 

　レゼダ・カズメールはこれ以後、他のときにもクローンプリンツ・イルマの散歩のお供をした。

　イルマはヴァーロシュリゲト（ペスト側１４区にある広大な市民の森公園。劇場、動・植物園、サーカス、温泉等各種の娯楽施設がある）の湖で、一枚のおぼろげな映像のようにスケートをした。レゼダ氏は岸で石炭ストーブの横に座って、散歩用ステッキで雪の上にあらゆる種類の図案を描いていた。大抵は絞首台と鍵だった。

　軍楽隊が「リップ・ヴァン・ウィンクル」のワルツを吹奏した。氷上での最良のワルツの踊り手は、白い椿姫ことＰ・Ｒ・夫人[１]だった、ある若い作曲家が「氷の女王」という題名の音楽作品を彼女に捧げ、そしてカジノでは若い伯爵たちが彼女のためにシャンパンのびんで互いの頭を血まみれにしていた。（注意深い読者よ、かつてのペストのこのロマンティックな「つまづいた淑女」～当時はまだこの表現、すなわち「道を誤った女」にもヘリオトロープのパヒュームのような魔力があった～のあとを今日捜したもうな、現在彼女は肘掛け椅子に鎖でつながれ、日記を監修し、そして「大ナポレオン」という名のペイシェンス・カードで退屈を追い払っている）。

　紳士たちの間でも名声高いフランスのカドリールの監督がこの時期ハンガリーの首都で活動していた、彼らは夜のヴィガドー・ホール（都のコンサート・ホール、ベルヴァーロシュのドナウ河畔にあり、周囲を高級ホテルに囲まれている）のシャンデリアの下でペストの淑女たちにダンスを指揮する一方で、午後にはヴァーロシュリゲトのスケートリンクで短いオネーギン・コート、窮屈なトナカイのズボン、あるいはだぶだぶズボンとエナメル皮のブーツでアイス・ダンスを跳んでいた。（年配の淑女たちの間では大勢が、ロホンツィ・ゲデオンのことを覚えておいででしょうね？後には新たなスターたちがやってきて、「氷上族」は彼らのことですらすぐ忘れてしまった）

　すでにかつてのザッヒャーの息子が～母方の名前でバールツィ・イシュトヴァーン（

前書きの　訳注２参照）といったが～市長候補となっていたが、ペストには古風で魅力的でロマンティックな臭いがあった。

　アンドラーシ通り（ペスト側の都心からヴァーロシュリゲトまでのびる大通り）をシュガール通りと呼ぶ住人たちはまだたくさん生存している、そこはゴミの山や放棄された地所の間で東洋の奇術師カラ・バシが古いペストを楽しませていた、ドナウは１８７７年以来氷結することはなく、そしてブダの住民たちは冬の季節にも自宅にとどまり、「ベルビュー」が流行中で、あるオルフェウムはショモッシ[２]と呼ばれていて、ダンゼル伯父さんの盛り場から娘たちが「降りて」くるのだった。

　だがすでに、昔の時代は忘れられつつ、新しい世界がそこにあり、ヴァーツィ通りの散歩道への登場は生死に関わる一日の使命であり、ここで最新のかげ口が討議される、そして女性たちは新しい帽子を、かなり不品行なレディたちは活きの良い崇拝者を見せびらかす。

　紳士たちはすでにカーロイ・イシュトヴァーンの流行、すそをまくり上げたズボンと短靴を、ほとんど身につけなくなっている、ゲートル、とりわけ明るい色のがたいそう制覇している。

　サパーリ・パール伯[３]はひどい雪嵐の中をジャケットと絹の靴下で散歩している、だがまだ老アラピ・シャラモン[４]の冬のコートなしの、たそがれた姿もミューゼウム円形通り（ペスト側のⅤ区を取り囲む半円形の通りのうちラーコーツィ通りとカルヴィン広場に挟まれた部分）に毎日現れる。

　　美しい女性たち（昔そうだった）は、フォリニャーク将軍夫人あるいはエルジェーベト王妃と比較されると、小躍りして喜ぶ（とりわけマールク・ラヨシュ[５]が「ふるえるポプラの落ち葉」という絵を描いてからは）、一方では若者たちはすでにフェダーク・シャーリ（１８７９～１９５５　　オペレッタ歌手）のファンである。モノステリとクズミク（当時ヴァーツィ通りにあった婦人服の仕立て屋）という名前はまだ女たちの夢の中で響いている一方で、チャーサール氏（俳優のチャーサール・イムレか？１８６４～１９３３エレガンスと美しい話し方で観客を魅した　　　　）とシルマイ氏（俳優で劇場支配人のシルマイ・イムレか？１８６０～１９４５恋人役のヒーローとしてスタートしたが、民衆劇とオペレッタでも成功した）たちがじょじょに退場していく。

　思い出の記録帳は流行から姿を消し、文房具屋たちはロンドンの肖像写真を客たちに提供している、カジノ周辺の衣装は色とりどりのスコットランド製の生地だ。一番気難しいレディたちは厩舎の臭いのパーフュームを熱望し始めている。ペーチ・アンドル[６]の赤いカーネーションは色褪せ、イギリスの女性ダンサーたちがオルフェウムのカローラ・ツェツィーリア[７]のテーブルで跳ねとび、ミス・マリー・ハルトンには大勢がファンがいて、フリードマン・アドルフ（１８９６年の建国千年祭にヴァーロシュリゲトに建てられた複合娯楽センターの店長）は破産した人間の絶望を抱え、いかにして新しい生活を始めようかと頭を悩ましている。

　ブラシュコーヴィッチとラザレヴィッチ（前作「緋色の郵便馬車」に出てくる１８８０年代のブダペストのナイトライフで蕩尽した億万長者）の縞模様のズボンをはいた太った馬車の御者たちはすでに零落し始め、ある日ムンツィ・カーロイ（有名なジプシー楽団の第一バイオリン奏者兼指揮者だったムンツィ・ラヨシュか？前述のショモッシ・オルフェウムの温室で演奏していた）は鍵をあけわたし、それ以後は流行のフランスの小唄を何年も温室で演奏した。

・・・ペストでは外国風の新しい世界が生まれた、あらゆる人間には工業と商業の臭い

がし、アスファルトからはファンタスティックな弁護士の一団が生えてきて、そしてイカサマを誇らしげに胸をたたいて仕事と呼ぶ、膨大な新しい照明がともされ、そして最も貧しい人々でさえ電話を持っている。ランゲルマン金鉱はすでに忘れられ、クンヴァーリのタルヘイムの鉱山株式会社はまだ冒険的な道に乗り出していない。ハーシュとドイッチュのもとで地面には亀裂が生じ、新聞会社、家、工業会社はよろめいている、一方ではチャーサーという名の絶望したマーラマロシュの営林官がピストルの弾で、ほぼ国の例外を享受していた、百万長者の会社社長の一人をあの世に送る[８]、この後に没落が急速に続き、旧世界の百万長者たちの間からホットスパーとワイゼンバッヒャーをひっさらっていく。

かくて新しいペストの神々に場所を明け渡すために、偶像たちは倒れる。若いショッスベルガー男爵もこの時期株式市場に現れ、そして委託売買人のブルームに私財全てを支払う。コブラーク・モールはまだマーリア・ヴァレーリア通り（ペスト側５区ベルヴァーロシュのドナウ川沿いのドゥナ・コルゾー（遊歩道）と平行して走る奥側の通り、以前の名前はアパーツァイ・チェレ・ヤーノシュ通り）で栄光の頂点に立っている。ヒルテンシュタイン・アーコシュは逆にパリに引越し、その地の株式市場でドイツ帝国の市民の金を何度も投資しては利を得ている。

新聞とその他の商売を経営している人々の間でも、ほとんどアメリカ式の競争が起きている。カフェは三ヶ月ごとにオーナーを変えている。一人の人間が大まじめに、一年間の間に四つのカフェを買って売り飛ばすことで財産を作っている。協同組合はまだクライアントから最後の一滴を搾り取ろうとつとめているが、すでに死の判決は目前である。

株式市場ではクラウス・シモン[９]の名が再び挙がり始めた、そして証券取引所の投資家たち、ちっとも保守的でない人々は、彼の成功について熱狂しながら語っている。

ゴールドシュミットはヤンキーたらんとして、口ひげをそり落とした、そしてフランスの尼僧たちは、無信仰に打ち勝たんとハンガリーに逃げてくる。政治的な問題はとことん人々を騒がせ、首相を始めとして誰もが利殖に頭をしぼっている。

「商売！」

この言葉はトランペットの音のように響く。多くの金をもうけること！そのためにカフェの床を掘り返すのだ。精神病院を拡張し、ケチュケメーティ・ヴィクトルは五十万を盗み、シュラーニは新聞を引き継ぎ、もっと大きく組織する。ウンゲルライダー[１０]はすでにキラーイ通りのカフェで幻灯機のフィルムで客人たちを楽しませている真っ最中だ。テクラはオルフェウムから嫁に行き、そしてマジャール通り（ペスト側現在のⅤ区、マダム・ルイーゼのモデル、ピリシ夫人の家があった）に名高い家を建て始めた。トゥルフ・カロリン[１１]はペストから姿を消した、この町にはもう知り合いがほとんどいなかったからである。フォドル・オスカー[１２]はオルフェウム業で失敗した。ヴィドル[１３]もすでに、失敗した劇場経営の収支を正そうと連発式のピストルに何度も弾をこめている。

これは荒涼たる、慟哭する、絶望した、満足していない、そして破産の瀬戸際に立たされた町だ。師自らが外国をさまよっている間、ここの誰もがショモシュコーイ・ゲーザになりたかったことであろう。人々は税金にあえぎ、そして誰一人として信用がない。現金には聞いたことのないような価値がある。商売への投機は、相場が驚くほどはねあがった現金以外にはねらいをつけさえしない。

「どうなる？われわれはすぐ破産してしまうぞ！」と人々はため息をつく。

「今日の商売と商業の悪い関係が最も強力な企業を動揺させているのだ」と経済学者たちは主張する。

投機事業では明白な恐慌はないが、誰もが生活はもうこのままでは続けられない、生活は希望もなく耐え難いと感じている。高利貸しですらペストでは時代遅れであり、金のない紳士たちはハルトマンとレフコヴィッチ（前作「緋色の郵便馬車」でブダペストのナイトライフに顔を出す高利貸したち）のことを同情しながら持ち出す。

すでにペストの生活はほとんど開ききった窓の窓際で続いている。

あらゆる住民について、何コロナ持っているか、おめかけさんたちがいくら月の手当てを、女優たちならプレゼントをもらっているか、友人たちはいくら借りているか、ゲームはどの位の戦利品を、そして妻はいくら家計費をもらっているか、わかっている。

地方だけがペストの情報事務所を働かせている、全てを知るペストっ子たちは、恋の告白の最中でＸ氏がＨ女に何を言うかさえ知っている自分たちこそが地球上で一番賢い人間だと信じている。夜はカフェで「バーコッフ」（一言の言葉を当てるゲーム、ゲーマーの質問に対して出題者は「イエス」「ノー」「わかりません」しか答えられない）というゲームをやっている、それは、参加者たちがある考えだされた一言を当てることから成っている。ひところの成果によればソマハージとドクトル・イェリネクがチャンピオンで、彼らは自分たちの行きつけのカフェから客演に連れ出される。

首都では、定職の仕事を誰もやろうとしない。人々は新しい道で幸福になってみようと、古い仕事をほうりだす。その道を行く者たちは予知能力がほしかったことだろう、円形広場に押し寄せた人でいっぱいになってしまうので。カフェではきちがいだけがただで話している。高名なラントシュによって導入された盛り場では従業員の女たちはあらゆる一つ一つの言葉の後に特別料金を計算していた、それは知らずに迷い込んだ客につけられたのである。（「お嬢さん、元気かい？」これは夕食一回を意味した。「どこの出身だい、お嬢さん？」「あなたはどちらから、パシャシュさん！」これは十フォリントとられる）恋の女周旋人たちは、ちょうど男の周旋人たちのようには、その神経を無駄に労したりはしない。

町では、目的もなく、敬意からあるいは親戚関係ゆえに挨拶したりするものは一人もいない。レストランの主たちとボーイ長たちでさえも支出総額しだいで自分たちの場所から挨拶を「届ける」。ある種の盗人用語が町では流行していて、ホルバート・ルイスという名の若者が外国の放浪からもどった後、初めてブダペストで取り入れた。金は「たばこ」と名づけられた、誰もが町では「リンク」になりたがった、そして上流階級の淑女は、「メス」語の秘密を明かしてもらおうと崇拝者に期待した、その後リポート街では淑女たちはもうそれ以外の話し方で話すことさえ出来なくなった。

ナーダーシュ・シャーンドル（１８８３～１９４２ゴシップ紙『ペストのメッセンジャー』の編集者でオーナー）は『ペストのメッセンジャー』誌を開始し、その暴露記事で町でかなりの問題を起こした、「リンクの人々」と「リンクの女たち」はこんなとき眠れずにペストの「たいまつ」を待つのだった。

セメレ[１４]がウィーンのジョッキー・クラブで数百万に届くマッチ（試合）をポーランドの伯爵に挑んでいる間、ドゥンジェルスキー・ジョルジ（セルヴィアの大地主で大富豪）はバートリ・カフェ（

ペスト側の現在のカルヴィン広場にあった）の（ポルトガル産の）緑色のワインの傍らで膨大な総額を失った、セメレはそこから勝者としてもどってきた。

バールツィ・ジュニアは市長になりそして昔のやるべきことを継続した。すなわちペストに新しい学校を建て、危険を犯し、カジノの胴元にバンコをかける覚悟（バカラ・ゲームで親と同額を賭けるという宣言、かけ声として用いられる）で首都の社交界のキャリアに着手し、その間ベルギー王のコンゴ書状を待つ跡取りたちのような税金を課した[１５]、それにもかかわらず彼の歩みには幸運がお供していた、そして町の一番美しい淑女たちの手の平は、彼の額が滑らかであるようにと熱中していた。彼はピアノを弾き、歌い、踊り、祝杯の辞を述べ、女優たちを家まで送り、花束を贈り、誕生日を省いたりせず、仲人するのが大好きで、良い本を美しく装丁し、ボールをけり、そして郊外の町の先生たちの夕食でスピーチをした。すなわち彼の手の中では、町の大いなる発展を意味するものは全て、価値あるものとなるのだ。彼がそのキャリアにおいてたった一つだけ省略した環境があった。彼はボランティアの消防士ではなかったのだ。

新市長と時代の雰囲気があのペストの生活の流れのような、絶望した、アメリカの鉄道が競争するスピードを思いおこさせるテンポを命じたことはありうる。人々は一日に三～四時間寝た。赤いトランプ・カードと労働者の生活は毎晩、朝まで続いた。仕事の遅番たちは、朝カフェでは掃除しているからと安心したくなどなかった、その間、最も勤勉な早起きたちは、クライアントたちが横になる前に見つけようと朝食をとりに「エルディ・ワインセラー」（現在の国立歌劇場をはさむ左側の路地を入ったところにあった。１８９６年オープンしたホテル・レストランだがその厨房で有名、深夜遅い時間に開店し、作家や俳優、出版業者たちのたまり場だった）に通っているのだ。ナイーブな外国人たちとねたんでいるオーストリア人たちは、ブダペストはこの大陸の一番放埓な都市であり、堕落ぶりの点ではパリもブカレストも凌駕していると言った。とはいえここでは、盛り場での楽しみに加わり、夜の女たちの周りで走り回り、朝まで協議して大理石のテーブルに数字をいっぱい書き込み、豆スープを朝食にとり、そしてサウナを訪れているとき、みんなただもうけたかっただけだったのだ。これが都市の生活だった、そして賢い人々は慣習に順応するのだった。

幾人かの商売人は深夜どきだけその店で見つけることが出来るのだった。

名高い家具製造者、マグナーシュ・エルザ[１６]のボーイ・フレンドには温室に「とっておいたテーブル」があった。有名な被告側の弁護士たちは深夜一時までカフェで座っていた、編集者たちとリポート区の紳士たちは夜明けに歌劇場通り（６１ページの文中訳注参照）をずっと歩いていくのだった。良い仲介者あるいはまっとうな商売人は電話番号の代わりに、同業者が夜間の時間に向かう習慣の場所の名前をメモ帖に書き込んだ。深夜一時以降は最も常識あり、最もきちんとした人々は話し合いを続けるため、そして熱いお茶を飲み干すために、オルフェウムに現れた、その間ヴェレシュ・エレク（有名なジプシー楽団のリーダーで第一バイオリン、ムンツィなどと一緒にショモッシ・オルフェウムの温室で演奏していた）が、地元の習慣通り夜の八時以後は酔っ払っている一人の地方の紳士のためにオペラ・アリアを演奏していた。

有名な（大物の）集まりはカフェからカフェへとさまよった、この人たちは卵とブラック・コーヒーを前にして一口も食べず、プリンセスサースタバコをすい、二クロイツァーのチップをボーイにやり、そしてやってきたときよりもっと控えめに家に帰るのだ。アンドラーシ通りのいわゆる軽い女たちのカフェで文学、音楽、絵画、銀行設立、会社について鋭い目つきの若者たちが話し合っている、その間国防軍の曹長がその場所に非常に苦労して入り込んできた、ガンブリヌス（同名のレストランが現在もあるが同じものかどうかは不明）で女たちが酔わせたのだった。この「深長靴の連中」は新鮮な水以外は決してボーイに注文しなかった。この町には常識ある、商売の世界というものがあり、多分この時期余分なポケット・マネーを持っているのはわずかな人だったからこそである。

パリの例にならって内装されたキャバレーはほとんど失敗している、一杯の飲み物に五十クロイツァー請求されるからである。

ペストは、転落のふちにいる（パトロンに捨てられた）上流階級のおめかけさんのようなものだ。信用は全て細々と先細りである。この熱にうかされた、我を忘れて続いていく生活の終わりがどうなるか、誰にわかろう！

（男性住民の内、監獄に収監されたことがあるか、競馬コース、証券取引所で葬送の鐘を鳴らされた人々は大方、まだカミソリで口ひげをそっていた、ヒゲなしで、いわば人に気づかれることなく、忘れがたい金もうけの場所に現れたいと思し召しだったのだ。だがもう口ひげをつけて都市を行ったり来たりするのは俳優だけ、というときが近くに来ていた、あたかも口ひげの消失が、昔のペストが今のペストになり始めた境界を意味しているかのように）

 

レゼダ氏はクローンプリンツ嬢と共に市民の森公園の氷からブダに向かう帰路には大抵、アンドラーシュ通りをとった。彼らは公園では腕を組んで行った、イルマは非常に柔らかで暖かい鹿革の手袋をもっていて、彼女はそれをときどき右手からはずし、そして血のように赤いルビーと馬の蹄のような硬い石の間にレゼダ氏の口が住み着くのだった、まるでそれが世界で唯一の女の手であるかのように～、一方別の機会にはある横丁の路地に、見捨てられた門の入り口に向きを変えた、カズメールの靴の紐がほどけた、そしてそれは彼しか結ぶことが出来ないとイルマに言ったからである。

レゼダ氏はこの町ではほとんど誰でも知っていたが、原則として誰にも挨拶しなかった。

「ペストには、その中の誰がまともな人間なのかわかっているのは神様だけという位」彼は不機嫌に女友達に言った「それほどたくさんのろくでなしが住んでいるのです。昔の盗賊業界の人間だったラーダイはアンドラーシ通りで一山当てたようです。しばしば、この町にはきちんとした人はただの一人もいないのではないかと思えます。ブダペストは気まぐれども、博打打ち達、大言壮語の連中、片手の小売商人、偽の証人たちの町です。市街電車で周りを見回すと恥ずかしくなります。だからいっそ歩いていくとしましょう。ここの人々は秘密屋ではないことが幸いです。ジプシー達のように、通りで大声でけんかしています。お互いについて一番素晴らしい中傷を見つけてやろうとする疑いの目がどっさりです。もし、住人たちがここでお互いについて話していることが本当なら、この町全体を刑務所に入れなくてはならないでしょう」

「ブダの人間だってちっともましなわけではないわ」イルマが意見表明した。

「だがより控えめです・・・ペストの人間がどんなだか、ご存知でしょう！裁判所が証拠不十分で無罪放免にしたジプシーの盗人みたいなもんです、そして今やうぬぼれて当局との有利なコネのことを自慢しているのですよ。ここでは誰もが頭を高く上げています、隣人の方が自分よりずっとひどいろくでなしだと思っているからです。ここの男たちは、貧しいきちがいとだまされ易い女性たちを考えなしに裏切るのです。彼女と会っていた家のことだって、しゃべってしまうのです。あの手合いの女性たち、この病気のめす犬たちが、何らの大いなる寛大さに値すらしないのは本当です｡彼女たちは噂の種になるのが好きなのです。サロンに座って、恥知らずにも崇拝者たちの不誠実を嘆いてみせるのです。互いを傷つけ合い、元気付け合い、心を決めるのです。悪いお手本とは、かくも魅力的です！この町ではきちんとした女性というのはほとんど白いカラスみたいなものです」

「決して見かけることがない！」

「その通り。しかし芝居のプレミエや、レストランや、お菓子屋でころがっている連中は、もしまだ火あぶりという素晴らしい習慣が残っていたとしても、それから救ってやろうとする男はこの町には一人もいないほどに呪われています。アオサギの羽の誇らしげな連中、何も言わないような顔をして裾を引く連中、傲慢な貴婦人たち、そして気難しい上品ぶった連中、偽の潔白な連中、そして嘆いている連中、退屈している連中、そして何もかもしゃべってしまう連中、すなわち服なしでは、男たちが女という性全体に幻滅してしうような連中なのです。ペストの男たちに女友達を、心の女性たちを、秘密の知人たちを交換してみようという気がまだあったとしたら！もちろんほとんど全ての流行の淑女も、彼女らのためならどれほど疲れ果てても気にしない男、それが何人であれ、その手から手へと、わたって行くでしょうよ、ただ彼らも午後は長いすから起き上がらなくてはならないし、言葉を十語学ばなくてはならない、そして暴力的になるか従順になるかしなくてはならないのです」

「あなた本当にそう思って？」

「昔は、よく知られているペストのモンドたち（仏語の「社交夫人」）の周辺をうろつくことをたっぷり試してみました、自分のポケットの中のように知り尽くすまでです。もうほとんどわかっていると思っていました、彼女らはいつ本当のことを言うか、そしていつ靴や、そねみや、うぬぼれ、心の中の出来事のために苦痛を覚えるか、いつ後になってから家で一人で、怒り狂った演技のあるいは正直な涙を流すか、いつ一人きりにされたとき暗闇の中で笑うか、いつ長いブダでの散歩で靴のかかとが磨り減るか、そして家で横になる前にそれを長いこと見つめているか、そしてもしいかなる理由もなしに一人の男が笑いものにされて、マルギット橋の向こう側でのデートをしてもらったら、どの女友達に仕返しに苦痛を与えてやりたいと思うか、いつ恋が実際に彼女らを楽しませるか、そしていつちっぽけな目的のために男たちの信頼と弱さとを利用するか・・・・だがしょせんこれらはありふれたことにすぎません」

「彼女たちは決して恋することはないの？」

「そうとは言い切れません。彼女たちは恋をし苦しみます、だが決して自分でそう信じたいとおぼしめしているほどに、ではないのです。恋とは彼女たちの心の中ではほとんど、新しい帽子への熱望のような欲求なのです。女友達にはもう新しい春の帽子がある、まだ四月になったばかりなのに・・・だから新しい帽子のためにどれほどの戦いが起きることか。ペストの帽子屋の夫人のメモリアルは大層興味深いものになるでしょうね。現在はすでに、刺繍付きの下着もほとんど同じ位重要です、とはいえペストの社交界の女性たちは娘時代にはまだ、家では長いファスチアン織りの下着をつけていたのです。下着は赤でした、そして青いひものついた三角形の形でした、罪のない腰にひもで結ばなくてはならなかったのです、そしてゴム製の靴下止めは、ももが太くなると擦り切れました。コルセットは、十フォリントで新しいのを買うよりは、キラーイ通り（ペスト側の５区内で、いわばベルヴァーロシュを取り囲む同心円の外側にある一画）で最良のコルセットの芯を買おうと、まだ何度もつくろっていました、そして綿のシュミーズが、完全に短いかあるいは完全に長いか、それはその少女がどの地区の生まれか次第だったのです。ヨージェフ区の女たちは二枚の下着で、黒いのを一枚、赤いのを一枚で若い時代をすごしたのです、一方都心区だと聖霊降臨節（復活祭後の第七日曜に始まる一週間のうち特に最初の三日間）の頃はもう、夏は体を涼ませようと、ファスチアン織りの下着を脱いでしまったのです。レゼダがまだ若造だった頃は、そんな風だったのです」

「そして今は？」イルマは笑いながら言った。

「ペストではずいぶんと建築工事がありました、石工の親方たちは市長の良き友人でした、通りはいつだってほこりとゴミだらけで、モルタルをかき混ぜ、石を砕いていました。女たちは服が工事のほこりでほこりだらけにならないよう、散歩に行くことも出来ませんでした。ほこりだらけの状態では何週も着ていることは出来ないと、メリヤス編地は姿を消しました。ファスチアン織りは洗濯するとなかなか乾かないのです。かくてもっとふわふわの布地、ボタン、新しい種類のコルセットが流行しました、縫い合わされた下着、軽いシャツ、さまざまなペチコート、絹の靴下、学校では先生たちは未だに清潔な手にだけは注意していますが。ファスチアン織りのスカートのお嬢さんたちが嫁に行ったとき、売春婦たちはもう公共の場でも、舞台の刺繍付の長ズロースをはいていました、そしてペチコートが一番大きな音でサラサラなる者にことは一番上手くいくのです。古めかしい靴のキュッキュッと言う音の代わりに、スカートがものを言います、そして注意を引くのです。お天気が雨だと見せるべき物があるものだけが、思い切ってスカートを上げてみせます。私はある若い女性をおぼえていますが、彼女はしめっぽい日々いつもアンドラーシ通りを散歩していました、たったひとつ刺繍のある長ズロースをもっていたからです。ある嫁さんは他の嫁さんの長ズロースにそのヴァリエーションを見かけました。そして最初のあやまちというやつは、一度ならず新しい下着を誰かに見せずにはいなれなかったため起きたのです」

「恋は？」大方のヴィズィヴァ(水の町)ーロシュの娘同様、強情だったクローンプリンツ・イル

マは何度も繰り返した。

「日中の山猫のように眠っています、夜は目覚めているのかもしれません」

「心中する人たちは？」

レゼダ氏はこの質問にきっちり答えようと立ち止まった、そのとき大きなムチの音と共に緋色の郵便馬車が彼らの横を全速力で走り去った。アルヴィンツィは、ある死せるスペイン王のごとく身をこわばらせて馬車の内部に座っていた、だが閉じた目でもたちどころに歩道の端を一人の淑女と連れ立ったレゼダ氏に気づいた。（冒険家のレゼダがブダペストの地から発掘した女性たちは、常にアルヴィンツィの興味を引いた、彼はあるときは一番遠い郊外の地区から町に新しい娘たちをおびき出し、しまいには彼女らが道を踏み外すのをほうっておくのだった。またあるときは帽子の箱を持った一人の少女の後を四階まで追っていくのだった。やがて音楽学校の周りでうろうろし、ケレンフェルド方面（ブダ側の現在のＸＩ区）に向かう雷のなる国道で一人の小さな幼稚園の保母を待ち受けるのだった。やや疲れたアルヴィンツィは、レゼダ氏が価値のないメスとかかわりあったりしないし、平凡な異性を、狐がわなを避けるようにうんと遠回りしてでも避けることを熟知していた。レゼダ氏にはもちろんカメレオンのように色を変えるだけの頭があって、飽きのきた女たちのことだけは人前で公表した、紳士が新しい靴を店で買ったとき、古い汚れた靴を通り抜け可能な建物で脱ぎ捨てるようにだ。真の女たちのことは安全な場所に置いておき、内緒で彼女らに食料をポケットに入れて運んだのだ）

アルヴィンツィは口笛を吹いた、これに四頭の黒鹿毛はふち飾りのついた馬具をじゃらじゃらいわせて、大気中に足を高くあげて止まった。ギゼラ広場（現在のペスト５区の側繁華街のヴェレシュマルティ広場）の貸し馬車屋から憲兵服に衣替えした御者は、緋色の郵便馬車のドアを開けようと、御者席から右手でぶら下がりつつ、古い習慣に従って頭から青いひものついた丸い小さな帽子を引っぱりおろした。

レゼダ氏はこの間、クローンプリンツ嬢を背後に立たせ、えりつきの田舎くさいコートのボタンを外したほど仰天していた。

アルヴィンツィは、豹のような怠惰な歩みで近づいてきた。

「ブダの乗り合い馬車に乗ってください」最後の瞬間になってレゼダ氏は手配したが、イルマはその場にとどまり、それどころか否定しがたい関心とともにこの退屈した、それまでは地面から目を上げることのなかった紳士に注目していた。彼はほとんど閉じた目で質問した。

「何か変わったことはないかね、尊敬するわが友よ？体の具合はいかが？ペストのお友達のみなさんは何をしているのかね？」彼は言葉をむとんちゃくに放ちながらこう言った、その間黒テンの帽子を淑女の前で高く持ち上げた。

彼は目を開けた、荒野の夜のように黒かった。