第三章　インドでの不作

　緋色の郵便馬車の持ち主、アルヴィンツィ・エドゥアルドはハンガリーで最も古い家系に祖をさかのぼることが出来る¹。ラヨシュ大王（ハンガリー王ラヨシュ一世　１３４２〜１３８２）のテメシュヴァール（現ルーマニアのティミショアラ）辺境伯や昔の副王たちの後裔たるアルヴィンツィ・ドゥ ジェネール・グート-ケレドは、ブダペストで最も誇り高い人間だった。首長の羽を帽子にさしていた建国の祖先を誇りにしていて、もし国民が再びラーコシ野（ブダ側を流れるドナウの支流ラーコシュ細流沿いに広がる平地で、１２８６〜１５４０年身分制国会の開催される会場となった）で王を選ぶとすれば、生まれからいっても王冠への権利は彼の物となるだろうことも誇りにしていた。グート-ケレド一門出身の息子たちが王城の司令官や高官だった時代、ホーエンツォレン一族はまだヤギ飼いだったのである（後のプロイセン国家の君主となるホーエンツォレルン家がブランデンブルグ辺境伯の称号を得るのは１５世紀になってから）。さらにモスクワのある歴史学者の意見によれば指導者グート-ケレドは明らかに遠い東方の国、ドン河の地方を支配し、氏族全員が馬の背で行き来していたあの王の幹から出ていたのである。（アルヴィンツィ氏は満足の印として一群れの家畜をモスクワの教授に送るようご希望あそばされた、牛飼いたちはすでに馬の背に揺られていく長旅に出る支度を整えていたが、それから気まぐれなアルヴィンツィは考えを変えた。アルヴィンツィはディアス・エルマノシュ・Ｙ株式会社というハバナの会社に葉巻を百本、地球上最上にして最高級品の葉巻を注文し、それに金縁の手紙をつけて先生に送った）アルヴィンツィ・エドゥアルドは若き日々はもちろんオクスフォードで送った、それからパリのオーストリア・ハンガリー大使館にやってきた。彼は３３人の先祖を式武官の位を得るための審査に行進させた、もっと少数でも充分であったろうに。３３人の昔のバナレット騎士殿（自分の旗下に臣下を従えて出陣できる騎士、上級の武士・豪族）と城主らは、パリの大使館員の外交官用フロックコートに式武官のボタンが二つつくようにとウィーンの宮内庁へ出頭した。（アルヴィンツィ氏は確かに夢で見た、テメシュヴァールの高官ミクローシュが棍棒で城門をどんどん叩くのを。「我らは請願するためではなく、われらの権利を要求するために来たのだ！」と）ローマではある驚くべきイタリアの伯爵夫人がキルギスのタタール・ハーンの孫に恋をした、だがこの恋人は悪しきじゃじゃ馬であることが明らかになった、彼は「高貴な人々のクラブ」でたった一晩のうちに大奥様たる母親がラベンダーの香りがする洋服タンスに、もしもこの家に何か問題が生じた夜のためにと隠してあった十万フォリントを失った。あっぱれな婦人は涙一滴こぼさず、その頃では巨額な財産に相当した十万フォリントを（すなわち三つの王城県をこれで購うことが出来たのである）落ち着きはらって息子に送った。「わが子よ、私たちには今もうこれ以上のお金はありません」彼女はそれしか書かなかった。アルヴィンツィ・エドゥアルドはかくてイタリアの伯爵夫人の手の代わりに、常に持ち歩いていたヒンズー教の神像を再び手にとった。彼はセント・ペテルブルクに引っ越した。しかしアモールはこの若き外交官を追跡してきた、そして美しく、悲しげなロシアの踊り子が夢見る目をわれらがエドゥアルドに止めた。この踊り子にはフランス大使も熱をあげていた、トラベラーズ・クラブに立会い人たちが集合した、トラベラーズで紳士たちは絹のシャツを住いから運ばせただけで、ただちに決闘したのである。フルーレ（フェンシング用の細身の剣）をカジノのコサックが砥ぎ、火で鍛え、上品なクラブのフェンシング・ルームでアルヴィンツィの細身の剣がフランス大使の胸に心臓から指3本ほど上のところにめりこんだちょうどそのとき、おそらくアレクサンドル・ネフスキー通りでは、踊り子がオペラ座に馬橇を走らせていて、陽気にそりの鈴が鳴っていた。紅い血のすじ、青ざめていく顔、よろめく膝、そして死の太陽が北方の光をフランス大使の額に送ってきた。ニース行きの急行列車が一時間後には出発し、セント・ペテルブルクから３ヴェルスト（古いロシアの単位、１ヴェルストは１０６６．８メートル）のところで鉄道会社の茶色いコートの召使たちが夜食のテーブルの支度をしていた。アルヴィンツィはたっぷりと美味しく食事をとった、やがて安心して寝台車の寝だなで眠った、ウィーンのバルプラッツの外務省では大使館員の旅券を返却出来るかどうかほとんど待っていられなかった。彼はブダペストに帰国した、外交官活動は充分だと思ったのである。古い「黄金の鷲」ホテル²に宿泊した、そこにはすでに大学生時代も居住していたのである。すなわち、当時は一部屋だったが、現在は二部屋に、彼の従卒もそこで寝泊りして夜は着物を脱がせ、手足をさすり、覆い、そしてふるさとウング（現在のスロヴァキアとウクライナ国境にあるウジホロド付近）で、大昔の故国でしたように、おやすみなさいを言わなくてはならないからである、そこでは最初の定住のときから大地、野原、小川がアルヴィンツィの手に残っていたのであるが、ウングの猫柳は鳴り、謎めいたクルツ（１７〜１８世紀のハプスブルグ家からの独立戦争に参加した農民や逃亡兵出身の兵士）、放浪の愛国兵が行き来し、国境地帯の山々が雪山の妖怪たちのようにそのあたりに立っているのだった・・・「黄金の鷲」ホテルで村の牧用犬を飼うことが出来ないとは何と残念なことであろう、それはアルヴィンツィ・エドゥアルドに夜吠え立てたであろうに。

（『照明』誌の編集者の価値ある話がこの部分にさしかかったとき、ホルバート・クラーラ嬢はほとんと聞こえないほどのため息をついた。「ああ！」）

　老作家シルヴェステルは二、三日すると「黄金の鷲」ホテルをノックした。

　シルヴェステルはまだ鵞ペンでシルヴェステルと名を書いているような老作家だった、そして自殺したバラージュ・シャーンドル（作家１８３０〜１８８７）が遺言で彼にマントを贈ったことを最も誇りにしていた。彼は廊下でまず召使のヤーノシュをつかまえた、彼は、アルヴィンツィがズリーニ・イロナ³について鼻高々なのと全く同様、貧乏貴族の先祖について鼻高々だった。

　「首長はお目覚めかい？」

　「ドアの前で咳払いしてみて下さい。われわれはご老体のことはそのせきでわかりますから」

　シルヴェステルは咳払いした、それに対して中からくたびれた、冷淡な「それで」が響いた、しかしそれは声の持ち主に長い演説を述べるほどの努力を要させたらしかった。

　「閣下、おはようございますと申し上げにきました」シルヴェステルが言った。

　アルヴィンツィはベッドの端に座っていた、彼はセント・ペテルブルクを去って以来、いつもベッドの端に座った、足にはサンダル、紅いガリバルディ・シャツの上に東方の君主たちが着るような絹のカフタン。頭には丸く白い帽子、その下からは注意深いが、いくばくかのメランコリーをたたえた黒い目がじっと注視していた。霧、雲に包まれている遠方を見つめるとき、プスタ（ドナウ川の東側にあるハンガリー大平原、および西側の小平原のところどころに見られる降雨の少ない荒地、樹木のない草原、多くは放牧地に用いられる）の騎士はこんな凝視をする。アルヴィンツィはそこでは父祖が王だった東の方を見つめた。フランスの新聞が足元に横たわっていた。シルヴェステルは「ジル・ブラス」をかかげた。

　「今夜、「ジル・ブラス」という寸劇をマダム・ルイーゼのところで上演します。私が書きました」

　首長はうんざりしてモロッコ皮のサンダルを見つめた。

　「短い寸劇です」シルヴェステルは繰り返した。

　「本当に短いんです」後から付け加えた。

アルヴィンツィは頭を上げた。シルヴェステルに誇り高い注視を投げた。

　「それで？」

　「閣下！お怒りにならないで下さい。ご覧になっていただきたいのです」

　アルヴィンツィは立ち上がって肩をすくめ、部屋を横切ると、考え込みながら隅にある瀬戸物のストーブの焔に見入った。

　焔は瀬戸物の雪のような白地の中から生き生きした紅さで輝いた、アルヴィンツィは一、二本のまきを取り上げた、それはウングの森から運ばせたもので、その木で彼の祖先たちたちは暖をとったのだった、そしてそれを火にくべた。非常に上品だが、力強い手をこすり合わせた。彼は女性の手よりもむしろ剣を、馬の手綱を喜んでとったであろうきゃしゃな指をじっと見つめた。それから絹のガウンのポケットに指を伸ばし、何枚かの金貨を取り出した。手の平に金貨を横たえると、静かに、うんざりして言った。

　「イギリスは最も控えめな国家だ。彼らのビーフは金そのものと同じように優秀だ。イギリスの金貨は最良の金貨だ。実際に額面価値と同じ価値がある。さあ、シルヴェステル、ためしてみろ！」

　彼は何枚かのビクトリア女王の顔が刻まれたターラーを老作家に手渡した。金貨は手品師の素早さでシルヴェステルの紅いチョッキのあたりに姿を消した。

　「ジル・ブラスは！」彼は礼の代わりに急いで言った、もし礼を言われると、アルヴィンツィは贈り物を取り返したからである。

　「いずれ見せてもらおう。もし他の用事が出来なければ、マダムのところにちょっとお邪魔しよう」

　「パーティーになります、閣下。ソアレーです！」

　「知ったことか。ちゃんとしたハンガリー語があるのに、外国語を使うな。こんな作家たちがいるから、この国は幸せになれないのだ。私の叔父で詩人のアルヴィンツィ・ジェロモシュの時代には純粋な言葉のために大きな注意が払われていた。ともかくマダム・ルイーゼに、われわれの古い友人によろしくと伝えてくれ」

　作家は（その顔はチョッキの紅さといい勝負だった）、踊り子がヴェールを直すようにマントを直した。（彼はいつもマントで歩いた、バラージュ・シャーンドルのマントで。アルフレード・ミュッシャもかつてこのようなマントをもっていた）

　アルヴィンツィは白い小さな籠を地面から取り上げた。中には南国の果物が入っていた。「今日ナポリから届いたものだ。われわれの女友達は美食好みだ！」と彼は言って、奇妙な微笑みを浮かべた、まるで東方の君主が女たちの愚行に微笑むように。（概して彼の小屋は骨董屋のようだった。床には壁にもたせてたくさんの古い絵が横たわっていた、しかし首長はカンバスの背に押されたサインから一つ残らずわかっていた。古い剣、ピストル、アジアの敷物やヒンドゥーの神像の数々。簡素な、ほとんど兵士のようなベッドの上には小さな銀の十字架、すなわちマリー・アントアネットがそれに最後の接吻をしたのだった。ベッドサイド・テーブルには短い、ブルドックの頭のような胴太の小さなピストル。古い、小さなお祈りの本、それを使ってある中世のフランスの王女がお祈りをした。文字は色あせ、飾り文字だけが、高貴なフランドルの紅さで読み取れた、そして第１ページには、あたかも血で書かれたかのように明るい茶色に退色した文字「１５５７年ノエル（仏語のクリスマス）、ヘンリー」と。そして上品な装丁にはモンモラシー一族（フランスの名門貴族の家門、中世数多くの将軍、高官を輩出した）の翼あるファロー鹿の紋章が印刷されていた。他の場所には高名なジョッキーたちと競走馬のパステル画、それを買うのはほとんどダービー卿本人に劣らず馬好きな英国紳士たちだけに限られていた。ベッドサイドテーブルの引き出しには、ラブレターとちっぽけな投げ捨てられた手紙の間で金貨が黄色く光っている。カタリーナ・メディチが細かく砕いたバラ香料と男性の体のある一部分を模した長いヒンドゥーの神像、その醜く紅い顔はあふれんばかりの冷笑と共に世界をのぞきこんでいた。壁にはアルヴィンツィ一族の誰かがテメシュヴァールのパシャから受け取った戦闘用投げやり、そして書き物机には世界のあらゆる地方から来た電報と手紙の数々があった。首長は終日ベッドの端に座っていたが、世間で起きていることは何もかも知っていた。異なる大使館で送った年月のもとで大勢の知人、友人を得ていたのだ。

　シルヴェステルがコートの下に籠をかかえて部屋を離れようとする前に、突然アルヴィンツィは活気づいた。彼は素早く立ち上がり、テーブルから長い封筒を取り上げた。

　「おっと、シルヴェステル、まだ君に渡すものがあった。まだ秘密事項だ。イギリスの植民地省では今、インドの作物の収穫高をまとめている。さて、インドでの今年の収穫は不作だったのだ。この報告は来週にならないと公式に発表されないだろう。君はもう知っている。君の秘密を売るのだ」

　それから彼は手紙を手から落とした、疲れてベッドに座ると長い間冬のたそがれに見入った。憂鬱そうな線が細い唇のまわりに攻め寄せてきた。

　「もう夜か！」彼はそっと言った、シルヴェステルが部屋を出て行ったことに全く気づいてすらいなかったからである。

　兵士のような生真面目さで従卒が部屋に入ってきた。

　「何かあったか？ヤーノシュ」

　「着替えをいたしましょう、閣下。夕食はもうカジノに予約しておきました」

　アルヴィンツィは無頓着に足を伸ばし、まるで着替えのときを遅らそうとするかのように、わき腹を下にして寝そべった。

　「今日は何を注文してあるんだい？ヤーノシュ」

　「フリーズ・メロン、ポーランド風スープ、ソースをかけた七面鳥と子牛肉です。サラダは閣下がお作りになります。ボルドヴァ夫人がフリッターを揚げます」

　「フリッター！ヤーノシュ、覚えているか、故郷のウングで祖父のところには一人、料理女がいた。彼女はなんと素晴らしいフリッターを揚げたことか。じいさんたちはどっさり食べたものだ！」

　「世界中でウングの料理人が最高です」ヤーノシュは真剣な説得力をこめて言った。「ローマでは、大奥様がわれわれの後からリプカ夫人を送ってくださるまで、どれほどひどい昼食を食べたことやら」

　アルヴィンツィは考えこんだ。

　「なあ、ケレーク、リプカ夫人はどこに行ったんだ？」

　「寡婦になったとき、バイノーツィ老旦那のところの御者と結婚しました」

　首長は過去に見入った。

　召使はゴムの浴槽を部屋の中央にすえ、お湯を運んできた。アルヴィンツィはトルコ風にあぐらをかいて座っていた。突然ベットからとびおきると、長い、ぞんざいな文字で何かの思いつきを一冊の本に書きとめた。ある年号とある名前であった。それから召使が着替えさせるのを許した。

　彼は目と顔を拡大して映す鏡でじっくりと調べ、干草の香りを絹のタキシードにふりかけ、スマートな靴をはいて何度も足の具合を試してみた、ベッドにのっている財布、新聞をポケットにつっこみ、そのせいでタキシードがふくれあがった。短い、鉄をかぶせた山椒のステッキを手にとり、そしてわきの下にシャンパンのフラスコをかかえた、それは修道院のミサの本のように古く、高貴に見えた。ヴェネチアの公爵の地下室から出たものだった。巨大な、旅行カバンほどの大きさのタバコ入れに、医者が霊薬を調合するような注意深さでそれぞれ別の箱から葉巻を詰めた。キューバ共和国大統領の署名のある、枢機卿のような帯のついた葉巻は、あたかもアルヴィンツィ氏がハバナで最初のタバコ栽培者でるかのように潤沢に部屋の中のあちこちにちらばった箱の中に横たわっていた。「アルヴィンツィ葉巻」はブダペストの人気商品であった。最高値、最上品、最も高級な葉巻を意味していた。

　この葉巻をカジノの饗宴の後、新聞記者たちや公爵たちはポケットへ押し込んだものだった。これらは、アルヴィンツィ氏の昼食の上品で心楽しい思い出であった、それらをまさにティハニーのヤギの蹄（バラトン湖畔で見つかる貝の化石）のように保存するのが慣わしであった。時折葉巻はさらに贈り物にされた、すなわちかかりつけの医師、批評家あるいは判事に・・・アルヴィンツィの一本のガラス管に溶接された葉巻は約2年間ブダペストをまわり続けた、ある酔っ払いのニグロの踊り子が吸ってしまうまで。ペストの富は減ってしまった。

　ある昼食の後ちょろまかしのチャンスを逸した大公に、召使のヤーノシュがハヴァナをコートの中に押し込んだ。

　「何だね？」皇帝の兵士はびっくりしてたずねた。

　ケレーク・ヤーノシュは好意的にさらに彼が将校のコートを着るのを手伝った。

　「どうぞお持ちください。後でお宅であがるのによろしいでしょう・・・」

　・・・それからアルヴィンツィは一束の未処理の手紙を拾い集め、ゴムひもでくくった後、内側のポケットに押し込んだ。夜、カジノのソファで横たわって(通常千フォリントの紙幣を昼食の支払いに両替し、執事が銀の皿でおつりを差し出した後で)、アルヴィンツィ氏はその新聞、手紙をとり出した。広い皮のソファは手紙、電報で覆われていた。彼は金色の鉛筆で手紙の隅に覚書を書いた、シルヴェステル用に明日書かれるべき返事への指示だった。夜は長く、まさにそのためにカーライルの本もわきの下にすべりこませてきたのだった。投げ槍の夜に関するものと、女たちの革命に関する本を。

　「もし私が朝にならないともどらないようなら、五十ペンゴー（１９００年以前のハンガリーの通貨、フォリントに相当する）やろう、ヤーノシュ！」彼は王侯貴族にふさわしい気まぐれから言った、そして暖房の効きすぎた、葉巻の匂いのする、お湯と干草の香りの部屋を〜そのような個室でリシュリー公爵が重要な国家書類を調査したのかも知れない〜彼らの帝国を宿屋の小間使いたちが引きついだ。血の気のない顔の部屋係りの婦人が白いエプロン姿で、控えめな女らしい鬘をつけた顔で、赤い絨毯の上を静かな歩みで入ってきた、彼女は「今日は」と言うと、鍵束を低くかちゃかちゃいわせながら姿を消した。

　首長は立ち上がり、微笑んだ〜おそらくアヴィニオンでドーデの法王も、踊るプロヴァンスの女たちを見送ってこんな風に微笑んだのであろう〜そして、ぐったりして言った。

　「ヤーノシュ、もしあの聖女を誘惑出来たら、金貨五枚やるぞ。ヴィクトリアポンド一枚だ！」

　彼は後からワインのフラスコを持ってきた召使にそう言った。

　そして一瞬の快活さ、目に魅力的な微笑が現われた。

　「シルヴェステルなら」彼は疲れているが、いささか調子を変えた声で付け加えた「シルヴェステル氏がそれをやるなら金貨十枚をやろう。彼にそう言っていいぞ」

　彼は葉巻と香水の臭いのする馬車の内部に〜それは足の長いロシア馬をつけて終日ホテルの前でうろうろしていたのだが〜まるでとても遠い旅に出るかのように、腰を下ろした。

コートに身を包んで、やわらかい帽子を額まで引き下ろした。足元にワインのビンを置いた、その黄色い泡を夕食の傍らクリスタルのグラスに注ぐのである。

　「おやすみ、ヤーノシュ」

　馬車のドアが閉まる。馬たちは長い歩幅のはや足で「黄金の鷲」ホテルから五十歩ほどのところにあるカジノ（同じ通りにあったネムゼティ・カジノ〔国民カジノ〕）に向かって走り出す。

　（「ああ！」再びホルヴァート嬢が言った、そして熱でもあるかのように手を額に当てた）

　シルヴェステルは夜「黄金の鷲」ホテルで地方の紳士たちと楽しんでいた。ラディッチュ（ラディッチュ・ベーラ　１８６７〜１９３０　ジプシー楽団のリーダー兼第一バイオリン、作曲家）が音楽を演奏し、興奮したテンポでの宴会は真夜中まで続いた。（この赤いチョッキの老紳士は女たちとの戯れよりも、詩歌で始まりやがて大騒ぎに転じる楽しみの方が、痛飲の方が好きだった。マダム・ルイーゼ、又の名をドンナ・ジュアンナ（それどころか「白い椿姫」とも呼ばれていた）は、いつもの訪問者たち、伯爵たちや公爵たちがこれを許せば、自分の宮殿に俳優たちと作家たちを集めた。文学の夜会でこのドンナ・ジュアナは一人で短い幕を演じ、天才的な女優であることが判明した。彼女はある古いロマンティックな小説のページの中から切り抜かれたのだ・・・いずれこの「白い椿姫」についてはもっと話そう、今はただ彼女が「ジル・ブラス」という情景で二人の男と女の役を一人で演じたことだけを、そして客人たちの間で作家のシャラモン・エデンがサルセー（フランシスク・サルセー、仏の劇評家１８２７〜１８９９）の言葉でこの家の主婦の芸術について評価を述べたことだけにしよう。シルヴェステル氏はそれまでにはもう逃げ出していた、ペスト県の警察長官ダプシーが「黄金の鷲」ホテルで自分のためにジプシー楽団に演奏させたというニュースを聞いたからである。リスニャイ・カールマン（リスニャイ・ダモー・カールマン１８２３〜１８６３詩人）やベオッシ・ラースロー（

第二章１８ページ参照）が晩にうろついて、そしてヘッケンアシュト（ヘッケンアシュト・グスタフ書籍販売業者、出版者、印刷業者１８１１〜１８７８）の印刷所(商売敵の印刷所)の鉄板をステッキで叩き鳴らしていたあの時期と全く同じように雪嵐がベルヴァーロシュ（ペスト側のドナウ河畔に面した地区で、現在のブダペスト５区、高級商店街やレストラン、ホテルや市庁舎が集まっている繁華街）の上空でうなり、ガス灯がびっくりして踊り、理髪店の看板はカタカタいった。シルヴェステルはバラージュ・シャーンドルのマントにくるまって、雪嵐から大きく息を吸い込んだ、そしてそうすることでじきに香水と、椿姫たちのパーティーを忘れるのに成功した、そこでは作家たちが、現代の作家たちが夜会服でお茶を飲んでいるのだ。「黄金の鷲」ホテルに着いたとき、彼は小さな縁折れ帽をはすにかしがせ、そしてペスト県のある古く騒がしい歌を思い出した（まさにこれのためにこの宴会は長時間に及んだのである）

　シルヴェステルが友人、同盟者にして忠誠を尽くす主たるアルヴィンツィ氏のところで農奴のようにへりくだって報告したとき、すでに昼は過ぎていた。

　「閣下、私は作夜、必要以上に飲んでしまいました」

　首長はストーブの前に立っていた、そして長いパイプを慎重にまじめくさってふかしていた。遠国の島々の植物の濃密な、褐色を帯びた白い煙とエクゾティックな香りが部屋を満たしていた。煙の渦の中に幅広い帽子をかぶったスペインの農場主、青々としたタバコ畑、ニグロの女たちを見ることが出来た、港からは今や3本マストの船が出る、風が白い帆をふくらませ、そして青い飾りのついた葉巻の箱と共に遠い海へおもむく。（遠い海の産物は特別な箱に入ってわれわれのもとに届く。風変わりな人物像のついたお茶かイチジクの箱を見たことがない人が誰かいるだろうか？まるで幻想の地からやってきた荷物は遠い国の奇妙な特性をおのが自身と共にもたらすかのようだ。中国の竜と日本の芸者、キューバのコーヒー〜それからは港の香りがする〜とらくだの背で運ばれたアジアの敷物、すなわちどれも人間が自分の部屋で大旅行のことを考えるのにふさわしいのである。

　首長は長々と葉巻を吸い込んだ。赤い絹のシャツと金糸で刺繍されたベストがホテルの窓ごしに差し込む冬の日差しできらめいていた。

　「私は酔っ払いは好かん！」彼は軽蔑して言った。「それどころか夜の間、インドの不作の年は私を安らがせてくれなかった。これは非常に重要なことなのだ、シルヴェステル。イギリスの宝庫及び食料倉庫の不足に影響を受けるのは、貴族たちとビール醸造業者たちだけではない、ヨーロッパの商業もだ。ボンベイで何トンの米を船に積みこんだかに、地球全体が関心を抱いていると言えるだろう・・・午前中は輝かしいお天気だった、そして私は町でちょっとした散歩をした。ある人を見かけた・・・特別な、すみれ色の目をした娘を、彼女はまるでやって来る春の前触れのようだった」

　シルヴェステルはすぐにマントをわきにはねのけた。

　「マダムにすぐ知らせましょう。すみれ色の目を手に入れなくては。閣下のご命令だと」

　アルヴィンツィは煙を見つめた。

　「だめだ」彼はためらいつつ言った。「彼女はわれらの女友達の情愛深い手には向かない。誰か別の、全く人間離れしている誰かなのだ。英国の芸術家の高貴な筆から生まれたパステル画のようなのだ。情愛深さと優美さのみで出来ている。すらりとしていて、力強くとほっそりしている。もし私がウェールズで英国の友人たちのところで彼女と出会っていたのなら、猟犬たちを使う猟の後で、アン女王時代風のとある宮殿のホールでなら、おそらく彼女を見てもそれほど驚きはしなかったろう。赤みがかった金髪の髪が、夏の小麦畑の日差しのように輝いているのだ」アルヴィンツィは本当に真剣に付け加えた「私はあの令嬢の大の崇拝者になったと言っていい」

　老詩人は、似たような状況のもとでならあらゆる良き友がそうなるように興奮していた。

　「彼女について詩を書きましょう」

　「いや。彼女はそれに向いてはいない」静かにアルヴィンツィが答えた。「間近に迫った三月のように若く、それなのに彼女の顔色を思い起こせば、人は古い宝石を思い出すのだ。特別な石やばら色の赤で燃えさかる黄金、聖ルイの王冠がそんなのから出来ている。あるいはアルプスのある夏の朝を、周囲の赤く染まった雪の処女峰、下の深みでは高山の谷間の湖水が青色になり、森で赤いすずらんの花が開いている」

　「詩が完成しました」シルヴェステルは叫んだ。

　アルヴィンツィは手をふった。

　「いや、あの淑女は君のペン向きではない、シルヴェステル。君はマダム・ルイーゼに役を、ダプシー警察長官には酒宴の歌を書いてやれ。私の先祖ミクローシュ三世はルイ王の時代ナポリ首相だった。かの令嬢はむしろナポリ王妃にふさわしいと私は思う。魔女的だ！見かけてからというもの、忘れることが出来ない」

　「なんという名前ですか？」シルヴェステルがたずねた。

　「クラレンス・・・少なくとも私はそう名付けた、道で遠くから後を追ったとき。老いた婦人がつきそっていた、そしてミカド通り（「ミカド庭園」というホテルがあった今日のヴァシュ通りか？）で二人は姿を消した。われわれが中世のマドリッドに生きているのでないのが残念だ、そこなら私の現在の状況では何人かの剣を振りまわす友人が助けになったろうに。輿が夜の闇の中で立ち止まり、私はクラレンスを急いで奪い取るだろうに。サンタ・エルマンダーの連中（聖兄弟団、中世カスティリヤの自警団）をわが友たちがトレドの優れた剣で食い止めてくれるだろう。

　「閣下、最良のトレドの剣よりわれらの女友達、マダムの舌はもっと雄弁ですぞ。たくさんの春のすがすがしい小さな花を彼女はすでに白髪の紳士たちの腕へと導いたのです」

　「私はまだ若いぞ、シルヴェステル。そしてこの偶然の冒険の花、蜜、香りを金貨でチャリンチャリンいう手で引きずり下すのが、自分自身にふさわしいこととは思っていない。シルヴェステル、私は君に理解出来るであろうよりもずっとクラレンス嬢を尊敬しているのだ。そうとも。尊敬しているのだ。これが正しい表現だ。例えば、もし彼女の教育、将来について私が考慮することが出来れば、私は本当に幸せだろう。」

　「そのことなら上手くいくと思います、閣下！」

　シルヴェステルは翌日ブダの山々の間をうろついた。ヤーノシュ山⁴には一つの大きな石とかん木があった、そこで彼は自分を癒すのを習慣としていた。ここで草に横たわり魂を清め、ミューズと恋をし、その収穫を数知れぬちっぽけな紙切れに書きとめた、そのようなもので詩人のポケットはどれもいっぱいだった。彼はヤーノシュ山での隠者生活の後、ほとんど清められ、若返り、人々の間へと戻っていった、すなわち彼はそれ以上は飲まず、博打をやらず、酒宴の歌の代わりに長編歴史小説を書き、そしてブダで地元の人の関心を支えに小さな新聞を作るのである、それは一年に少なくともほぼ八百ペンゴーほどになるはずだった。彼は自分の帽子をはすにかぶり、口笛を吹きながら山を降りてきた。

　「食料品店はこれ以後は広告欄に出してやることで支払おう」ブダの新聞の構想が頭の中で展開している間、彼は考えた。

　彼はようやく三日目に「黄金の鷲」ホテルのドアをノックした。

　「貴いお方（１９４５年以前に三〜五等級公務員、勳受賞者、大貴族の家系出身者に対して用いられた呼称）は？」召使にたずねた。

　「もう着替えられました」

　首長は部屋の中で出かける準備をすませて立っていた。その顔にちらりと静かな微笑みが浮かんだ。

　「シルヴェステル」やわらかな声で彼は言った。「もしその気があれば、一緒に来てもいいぞ」

　彼らはある老いた公証人の事務所で馬車から降りた。公証人の看板は、まるでトルコの占領時代から壁にかかっていたかのように古いものだった。

　狭く細い事務所、そこで成長してほてい腹になったファイリング・キャビネット、ふくれた書き物机と戸棚がその周りを、あたかも国中の何かの印紙を貼った書類がここに蓄積されたかのように、聖書的な潤沢さであふれさせていた、そして遺言書類は棺桶と蜜ろうそくの臭いを広めていた、公証人の書記たちにはわずかばかりの肉を自分の身につけるほどの余地もないほどだった。

　公証人は反対に太ってメガネをかけた人物だった。彼はかつて夜になるとケムニッツエル・ハウス（ベルヴァーロシュ内のデアーク・フェレンツ通りとヴィガドー広場の角にあった「英国女王ホテル」の前身、豪華な内装で有名だった）でビリヤードにふけり、すぐにシルヴェステルと知り合ったのだった。

　「私もプチブルになったものです」公証人の機先を制そうと、老作家は言った。それから彼らは注意深く隣の部屋に足を踏み入れた。

　黒いフロック・コートを着た紳士、彼は退役軍人協会の会長（その頃ペストでは退役軍人たちをジョークの対象にすることが流行っていた）のような灰白色のスペイン髭をはやしていたが、それと一人の怯えた眼差しの、ふじ色のスカートの婦人が籐編み細工の長いすの膨大な書類にすっかり占領されてしまっていない部分に座っていた。

　市民階級の婦人たちは葬儀のとき、結婚式のとき、さらに比較的大きな売買契約の際も、ほぼ同じ表情をしている。人は、彼女らの顔がいつ泣き始めるか笑い始めるか決して予測出来ない、両方ともありうることなので。スペイン髭は反対に教区委員にふさわしい儀式ばった態度と真剣な、力のこもった声でアルヴィンツィを歓迎した。

　「今日は、貴いお方」

　それから腰を下ろし、髭をなで、フロック・コートのボタンをはめたり外したりした、まるでどうしてこの儀式ばった機会に退役軍人の剣を手にとれないのか、それだけに頭を悩ましているかのようだった。

　書き物机の傍ら、中央にひかれた椅子には、リラ色のヴェールのついた帽子、上品で、簡素な服をつけ、手袋をはめた手を組んだクラレンスが腰を下ろしていた。すみれ色の目、金赤色の髪、弓形の曲線の脚、小作人たちとの契約に書名するためにたまたま公証人のところに来た王女のような上品なしぐさ。

　シルヴェステルは、アルヴィンツィが敬意を込めてえしゃくする間、すぐ彼女の手にキスした。一瞬の沈黙。市民階級の婦人はハンカチを取り出した。

　太った公証人は急いで読んだ。

　「私の事務所において報告いたします。シュトゥンメル・ペーテルとシュトゥンメル・ペーテル夫人、１区（ブダ、王城）の住民は・・・俳優養成学校の生徒、未成年のシュトゥンメル・ロッティは・・・他方アルヴィンツィ・エドゥアルド（ドゥ ジェネール・グート＝ケレド）、皇帝および王の式武官にして地主は・・・

　シルヴェステルは呆然として壁によりかかった。

　公証人の証書には東方の王たちの孫であるアルヴィンツィが、今日から婚約者とみなされるシュトゥンメル・ロッティ嬢の教育について、将来について配慮し、その両親の年収を保証し、まさにそのために彼らは娘を純潔に、無垢に育てなくてはならないということ以外は何ものっていなかった・・・令嬢の希望により彼女は舞台の道に進む・・・

　署名が続いた。

　シルヴェステルはこの機会ほど震える字を書いたことはなかった・・・

　アルヴィンツィは婚約者の方に歩みよった、そしてその手にキスした。

　「ということでクラレンス、私の許嫁であることを忘れないで下さい」

　「忘れませんわ」静かな声が答えた。

　アルヴィンツィはポケットへ手を入れ、モンモラシー家の小さなお祈りの本を取り出した、この翼あるファロー鹿の紋章のついた小冊子を。これでとっくの昔スミレの花になったフランス王女たちがお祈りしていたのである。

　「さあ、許嫁への贈り物です」

　殿様は老人たちの手を取った。

　「シュトゥンメルさん、あなた方のお子さんを清らかに育てるのですよ。私はいずれときどきあなた方をお訪ねするようにします。行こうか、シルヴェステル」

　「鷲」ホテルで彼は再び東方のカフタンを身につけた・・・白いストーブの中の焔の具合を整え、寒そうに手をこすり合わせた。彼は考えこんだ、そして時折夢の中で人間が夢に向かって話すような声で、そっと言った。

　「私には誰もいない、としばしば思っていた。目的もなくムダに生きている。政治には嫌気がさしたし、この社会も大して好きではない、私は一人になりたい。今は少なくとも時々話しをする誰かが出来た。彼女の運命は私の運命に結びつけられる。クラレンスはすみれ色の目の中に私の幸運の星を抱いているのかもしれない。フランス語と英語を習わせよう。美しく良い本を彼女に読ませよう。あの少女にまだ多くの喜びを見出せるかもしれない。何にせよ、ことの全てが非常な慰みを約束している。明日から警護を始めよう。シルヴェステル、毎日秘密でブダからペストへとそしてペストからブダへとクラレンスの供をして、しかしそのことを彼女に知られてはならない。君は彼女に、自分の二つの目同様に気をつけるのだ」

　「もちろんです、閣下」

　一時間後には召使のヤーノシュが部屋に飛び込んできた。

　「貴いお方、船乗りが来ています」

　「どんな船乗りだ？」

　「ええとあの将校です。船の将校です」

　「お前はバカだ。彼は船長殿だぞ」

　「やっぱり船乗りです、海を行くのですから」肩をすくめたヤーノシュは答えた。

　引退した船長はいつも最大の感動をもってアルヴィンツィの前に身をかがめた。首長の黄金は恩給を大幅に補ってくれたのである。彼にはあるドイツの泥棒騎士のような髭があった。髭はとんがって前に突き出ていた。

　「船長」アルヴィンツィは始めた「あなたが信頼出来る男であることはわかっている。私の秘書で古い友人シルヴェステルはここ数日普通でない振る舞いをしている。どうかシルヴェステルに注意していて、そのことを私に報告してほしいのだ」

　船乗りはかかとを打ち合わせて、何枚かのありがたいポンド金貨と共に去った。

　ヤーノシュは再び部屋の中に突進してきた。

　「鈴を鳴らされましたか？」

　「ヤーノシュ、あの船乗りに注意しなくてはならない。彼が一日中何をやるのか興味があるのだ」

　「そういたします、貴いお方」

　夕方マダム・ルイーゼの秘められた小さな宮殿の前でアルヴィンツィの馬車は止まった。

　軒の広い家（それにはバラ色のカーテン、電灯でまばゆい窓と花をつけた日本の盆栽がそなえつけられていて、ベルヴァーロシュのある古い通りに身を潜めていた）は、アルヴィンツィが馬車から降りたとたん、静かに、ほとんど目配せ一つで門を開いた。

　優しい顔の、控えめで、夢見る眼差しの、軽い白い絹を身につけたエレガントなレディがアルヴィンツィを、どこかの首長を迎えるように深く腰をかがめて迎えた。

　「何なりとお申し付け下さい、モンテ・クリスト様」

　（この家では全ての訪問者に仮名があった。本名は女主人だけが知っていて、召使の前でも、客人たちの前でも口にされることはなかった）

　「親愛なるわが友ルイーゼ」アルヴィンツィ氏は寝椅子に腰をおろしながら言った、そこでは毎日午後になるとハンガリーで最も裕福な、銀色の頭のバナレット騎士が居眠りする習慣だった、というのも彼は本当にここでしか眠れなかったからである、ルイーゼ夫人が「小新聞」からニュースの見出しを読み上げている間、公爵はその見出しにコメントし、そして彼が居眠りしている間は、彼の役割をルイーゼが果たすのだった「灰になったお針子」と言って。この娼婦がなぜ注意していなかったのか、興味があるのは悪魔くらいなものでしょうね・・・

　「何なりとお申し付け下さい」へり下った感動をこめてマダムは答えた、というのも誰も彼女のようには人間たちを理解してはいなかったからである、そして左右の小さなサロンに通じる白い両開き戸を〜そこで王たち、枢機卿たちと大使たちが花模様の絹のクッションの上でくつろいだものだった〜注意深く閉じた。

　「親愛なるわが友ルイーゼ」再びアルヴィンツィは本当に真剣になって始めた、そして青白く、黄色い顔に特別な動揺が現れた「私が子供のときから召使のケレーク・ヤーノシュはそばで仕えてきた。召使のケレーク・ヤーノシュが何をしているのか問いただすだけの重要な理由があると思う。水を一杯頼む！」

　銀のお盆にのせた水をマダムは差し出した。そして注意深く、二本の指を下唇に当て自分の前を見つめた。

　アルヴィンツィは手でつかめるだけのヴィクトリア金貨を銀のお盆に載せた、そして快適そうに、満足して寝椅子から起き上がった、それにのっているクッションはルイーゼ夫人が自らの手で刺繍したものだった。

　・・・それまでずっと夢見るように沈黙していたホルバート嬢は、編集者の手を握った。

　「ねえ、そのマダム・ルイーゼって誰なの？誰でも彼女を訪問しているの？私、たずねてみるわ」

　レゼダ氏は肩をすくめた「あなたがそうなさるとは思えませんね。マダムはおそらく受け入れはしないでしょう。彼女は面識のないものを家に入れたりしないのです」

　「それじゃもしあなたが保護者として連れて行って下さったら？」へり下った眼差しでクラーラがたずねた。

　レゼダ氏はそのときだけは否定的に頭をふった。

　「マダム・ルイーゼは本当に楽しませてくれる女性です、ですが女たちは彼女の家に通うことを自慢にしたりはしません。もちろん、私が言っているのは、まだお嫁に行きたいと願っている女性たちのことです」

　「変なの」クラーラはつぶやいた、そして考え込んだ。

　レストランの楽団はウルバノヴィッチ夫人の内に、もし弦の弓が好み通りに引かれると、いつも黄金の腕輪を指揮者兼第一バイオリンにほうってやるような気前のよいパトロンを予期したかのように、おおいに奮起していた。演奏家、ボーイ、馬車の御者たちにはまるで特別な言葉があるかのようだ。しばしば一つの手の動きで何かが顕れてしまう。乞食や盗人たちは、境界線を示す標石のところで十字に組んだわらしべで町全体の特徴を言い表す。ジプシーのリーダー兼第一バイオリン奏者はすでに、ウルバノヴィッチ夫人の関節に陣取っている太い黄金の鎖以外の何者のためにも演奏してはいなかった。様々な歌が次から次へと続いた。空想的で美感に訴える音楽、頭のおかしいアメリカ人たちの歌とフランスの歌。たとえホルバートの貴婦人が一度として目をとめなくても、ジプシーたちは毅然としたままだった。しまいにはモスクワ・ワルツのメロディが背後で試され始めた、シンバルの後ろにいる口髭を染め、目を腫らした第二バイオリン、彼の顔には疲労困憊が浮かんでいた、まるで何世代にもわたって夜明かししてきたかのように（おそらくすでにラーコーツィ⁵陣営で彼の先祖の誰かがフルートを吹いて夜明かししていたのだ！）

　実際ウルバノヴィッチ夫人は頭をあげた、そしてジプシーの方を見つめた。

　彼女は昔このワルツを聞いた。槍騎兵たちはフェヘールヴァール（セーケシュフェヘールヴァール、ブダペストの西南にある都市）に駐屯していた。将校の舞踏会だった。隊長はヘンリクという名前だった。

　令嬢たちは古いワルツに同じように物思いにふけっていた。「冬だ、鈴を鳴らすそりが雪のモスクワの通りを疾走している、雪に覆われた屋根の下、ここかしこで寺院の金色のきのこがきらめいている、そして銀色の爪のそりのおおいの下では女たちの鋼色の目に測り難い憂愁が見える。プーシキンが決闘から血に染まって運ばれていく・・・それともフランスの大使館員か・・・タタールのハーンだ、すなわちアルヴィンツィ・エドゥアルドが今大使館の前でそりに乗り込む、そして駅に向かって走らせる。尾の長い馬たちは疾走し、雪の降る中に姿を消す・・・駅では急行列車の華麗な茶色い車両がすでに電灯のキラキラと輝く照明で照らされていて、そして車室は皮のトランクの良い匂いでいっぱいだ」

　舞台女優であるホルバート・クラーラが、モスクワ・ワルツを聞きながらこうしたことを考えていたのを察するのは難しいことではない。

　レゼダ氏は何日かすると個人的に『照明』誌を女優達の住まい、砲兵通りに持って行った。シルヴィアは通りから編集者に気がついて、狭い玄関で待った、そこには壁の一枚の鹿狩りの絵以外に入る場所はなかった。かけくぎは高いところにあった、まるで帽子たちが玄関の上側の窓から通りを見たがっているかのようだった。そもそも誰も女優たちのところにやってはこなかったのである。

　シルヴィアは赤と白の水玉模様のリンネルの普段着を着ていた、彼女の腕と首は剥き出しで、髪は一回だけねじってまげに結ってあった、そしてすがすがしい香りがその胸から流れでていた。小さなエナメル靴はほとんど耳をすましているかのように短い服の下から覗いていた。

　「持ってきて下さったの？」オペレッタ歌手はとてもあたたかくたずねた。「もう載っているのかしら〜私の足のことは？」

　「マドモアゼルは、私の新聞がおそらく毎日刊行されているんだろうとお思いなのでは？全然ちがうのです。週刊誌に過ぎず、それもいつもというわけではないのです。もしわれわれがまだ出版を続けていければ、いずれおそらく最新号でマドモアゼルの足について考えを幾つか花火にしてを並べられるでしょう。

　「お手間をかけて本当にごめんなさい」シルヴィアは答えた、そしてレゼダ氏の肩に手を置いている間、ほとんど彼の首を抱きしめた。さわやかな顔からは、冷たい水と健康が、白バラのうてなから流れる朝露のように、良い匂いをさせて流れ出た、そしてその顔がレゼダ氏の悲しげな顔にあたかも偶然のように触れた・・小さな玄関で赤い普段着の下で足を広げて立っている間、空想にふけり遠い夢を見る目は、再びその小さな靴に、金の矢のついた、ドロンワークのストッキングに男の眼差しを導いた。

　「知っています、知ってます」笑いながらレゼダ氏は言った。「あなたはたいそうかわいい足をお持ちだ」

　『しょうめい』シルヴィアは文字を一つずつ分けて発音しながら言った、まるでどの文字にも特別な敬意を表しているかのように。それから新聞を取ると、戸棚のてっぺんに投げた。

　ホルバート嬢は下着をつくろっていた、シルヴィアは編集者の肩ごしにさけび声をあげた。

　「クラーラ、キュロットをしまって！」

　クラーラは最初仰天して一、二枚の白い衣服をスカートの下に押し込んだ、それから再び取り出した。

　「あんたは狂ってるわ、シルヴィア。レゼダさんは私たちのキュロットになんか興味ないにきまってるじゃない、もう充分に見られてしまったわよ。そうでなくてもこのキュロットは、まともな市民階級の奥さんが着てるようなやつよ。でなきゃ女学校の生徒たちとか・・・一枚だって刺繍なんてついてないわ、だっていつか誰かに着てるところを見られるのを意識したものじゃないからよ」

　レゼダ氏はしかし彼の習慣に反して非常に生き生きとして突進した、そして問題になっている女物の下着を大きな関心を持って手に取った。

　「素晴らしい、もうずっと前から刺繍のついた下着にはうんざりだったのです。穴があけてあって、赤と青で刺繍された小さな葉っぱがあるようなのに憧れていました。そして腰でリボンを蝶結びにするようなやつに」

　これに対してクラーラはやっぱり編集者の手から衣服を取り上げた。

　レゼダ氏は髪をかき乱した、そして通りで五月のダンスを踊る学生のように帽子を床に投げた。

　「女優たちの家。ああ、かつて女優達の家を訪ねることが出来たらとどれほど望んだろう。まだ、全員が古い時代の過ぎ去った女性たちであるように、絹に包んで心臓の上に帯びたパステル画の数々、昔スピネットで響いていた歌、空想にふける眼差しのデーリ夫人たちであるかのように崇拝していたときは。花、手紙、巻き毛をはさんだ、金色の縁取りのついた日記帳はどこです？詩集はどこです？金色の花束のついた赤い表紙のキシュファルディ（キシュファルディ・カーロイ１７８８〜１８３０詩人、短編作家で劇作家）のおとぎ話は、そして中にはある名前、ある昔の伯爵夫人の名前がある。白い靴下を履いた細い靴底の絹の靴、膝の下でしゅすのリボンがひらひらしている、丸く、ゆっくりとなだらかに曲線を描くすね。大きな花のスカート、それは庭のめずらしい植物の上のガラスのかさ覆いのように、腰で結んで貴重な宝を隠している。小さな帽子、それはばら色のリボンであごの下で結んであり、その下でカーブしている無数のへびのような巻き毛、淫乱な大きな目、薄化粧した顔、磨り減った旅行用長持ち、そして幾つかの乾いた花束と色褪せた古い劇場のプログラム、かつては女優たちをそんな風に考えていました。一体全体この古いパステル画のうちどれ位が残っているでしょうね？」

　クラーラは歯の間に糸をくわえた。ミシンを示した。

　「そこで私いつも縫い物をするの」

　シルヴィアはピアノの蓋を開けた。バラ色の円形浮き彫りから白い巻き毛の羊飼いと羊飼いの少女が前を見つめていた。彼女は白い、敏捷な指を鍵盤の上を走らせた。

　「ここで私はいつも夢を見ていたの」

　レゼダ氏はしかし、もう昔から出来上がってしまっていたらしいこの雰囲気から自分を引き戻そうとはしなかった。

　「女優というのは、淑女がた、特別な人間です。どの女優も女神あるいは小説のヒロインたり得る。有名な喜劇女優、あの老ロチャレク夫人だって、緑色のスカーフを身にまとうと、特別で素晴らしく見えた。とはいえただの緑のスカーフ一枚だったんですよ・・・妙ちくりんな色と型の服、コート、帽子と羽、それらはまるで女優たちのため特別に生産されたようだ、そうでしょう？女優たちがその服装によって市民の女性たちよりもより興味を引くような存在になるためのものなのでしょう？メイクした顔と、女優が身につけるあらゆる種類のヴェール、チュール、リボン、すなわちそれは男たちを狂わせるため、ほとんどそのためだけにあるのです。人が、どの女優の人生にも起こるあの神聖なる崇拝を、あがめている諸役を、役を学ぶための長い夜、戦い、そして苦しみ、放浪、貧困、恋そして美しい思い出を考えてみるのにはほんのちょっとの想像が必要なだけなのです。女優たちとは世界で一番興味深い女性たちです。神様の孤児の娘たちですよ」

　クラーラはそっと笑った。

　「乳搾り女にはときどき掛売りを断られるわ。それに食料品屋のご機嫌をとっておかなくてはならないのよ」

　シルヴィアはしかし輝く目を、赤い顔を熱心にレゼダ氏に向けた。ピアノをたたき「ホフマン物語」の恋の歌を感情を込めて歌った。

　音楽の間クラーラはそっとたずねた。

　「さ、私たちの友人はどうしてますの？モンテ・クリスト伯爵は？私はまだ相変わらず、彼と知り合えるほどの幸運にはあずかれないのかしら？」

　「本気でお望みなんですか？」レゼダ氏は顔を曇らせてつぶやいた。

　クラーラは編集者の顔をなでた、そして母親ぶって言った。

　「坊や、それじゃあなたはまだ私がわかってないのね？私が望まなくても、私を誘惑することが出来るとでも思ってるの？それがモンテ・クリストさんであれ誰であれ？もしいつか誰かのものになるのなら、あなたのものになるわ、カズメール」

　レゼダ・カズメールはすでにほぼ三十才の男性だった、この頃は穴の空いた靴で歩いていた、かつて千ペンゴー相続したときは、12枚の乗馬ズボンを持っていたのである。かくて彼は人生で平均的人間よりも多くのことを試していた。しかしやはり・・・すでにずっと賢い男たちでも女の手練手管は網へと引き寄せたのであった。『照明』紙の編集者はクラーラに撫でられて赤くなった。

　「それじゃ今夜」彼は素早く決心すると言った「マダム・ルイーゼがパーティーを開きます、そして私はあなたをパーティーへ連れて行く許可をもらっています」

　ホルバート嬢は立ち上がり、急いでレゼダ氏の額にキスした、しかし彼は悲しげに地面を見つめていた。

　「あなたをモロッコの市場で売りとばすに等しいことです」

　「かまわないわ」

　「災い、嘆き、不安の火種を私はあなたの魂の静かな炉に投じるのです。あなたは堕落するでしょう。ひょっとしたら上に、ひょっとしたら下に、それは同じことです。あなたは伯爵夫人になるかもしれないし、街の女になるかもしれない」

　ホルバート嬢はこれにはもう答えなかった。彼女は洋服ダンスの二枚の扉を同時に開けた。

　おそらくこの瞬間どちらもピアノと歌が急にやんだことに気づいてすらいなかった。決して最後まで歌われることのない歌というものがある。

　シルヴィアは青ざめて唇を引き結んでいた。

　「フェードラで着た青ビロードの衣装を着なさいよ」少したってからシルヴィアがそっと言った。

　レゼダ氏はしばらく悲しげにうなずきながらクラーラの神経質な、喜びに満ち溢れた支度を見ていた。彼の顔には皮肉な微笑みが浮かんでいた、やがて彼は足をのこぎりで引かれたかのようにそっと笑い始めた。おののく声で、だが上機嫌な動作で叫んだ。

　「それで老いぼれのペチコートはもうペストに飽きたんですか？」

　返事をもらえるまで、彼は質問を二度も繰り返さなくてはならなかった。

　「ウルバノヴィッチ夫人ならキュルトシュをドラーバ河畔の猟に招待したわ」堅苦しくシルヴィアが答えた。

　「雄いのしし狩にね」クラーラが割り込んで叫んだ。