第五章 緋色の郵便馬車現る
レゼダ氏が女優たちの小さな住いに現われたとき、そしてまるで通りで偶然見つけた、といわんばかりに軽蔑した動作ですみれの花束をクラーラとシルヴィアに差し出したとき、
ホルバート嬢は深く物思いに沈んで古い下着をつくろっていた〜彼女は物悲しいときは、常にそうするのだった〜。
「何か変わったことは？」彼はたずね、使い古した下着に気づくと痛ましく唇をかんだ。（彼は、こういうときには家に問題があるのだと知っていた）
シルヴィアは編集者の肩に手をのせた
「私たち昨日は劇場に行きましたの。人形劇ですわ。イタリアの陽気にピョコピョコはねる人形と、舞台の背景では子供のおもちゃ位の大きさの小屋の窓がきれいに灯っていましたわ。まるで雪山の雪飾りが家々を縁どっていたみたい・・・とても楽しい晩でした」レゼダ氏が『照明』紙に未だ彼女の足のことを書いていないとわかった後で、シルヴィアがまじめで思慮深い声で言った。
クラーラは、思いがずっと遠くをさまよっているかのように、しばらくの間黙って針を引いていた。（縫い物をしているとき女たちが何を考えているかは、大方神のみぞ知るのである）子供の服のつくろいでも、夫のシャツの修理でも、孫の靴下をかがっているときでも、彼女たちは間違いなく様々なことを考えている。女たちは十五才になると、縫い物、つぎ当てを口実にたぶん、夜、孤独にコーヒーハウスで座って大理石のテーブルにあらゆる種類の形を描いているときの男達と全く同じことをしているのである、そして彼女は今心臓病患者位の大きさの目を上げた。
「アヴィニョンの法王たちのワインをもう一度飲みたいわ、レゼダさん！」彼女は静かに言った。
夢見る編集者はこのやさしい暗示を理解した。彼はクラーラが何かとても愉快なことを言ったかのように笑い出した。
「昔の法王たちはもうみんな死んでしまいましたよ、そして多分アヴィニョンでは決してワインが作られたことはなかったでしょう、ひとえにあなたに敬意を表してあの嘘が考えだされたのでしょう。あなたが高位の教会の長の、ほのかなピンク色の顔をした、白い服の法王たち、そして赤い服の枢機卿たちの賛美者であることを、誰かが漏らしたかのように・・・」
「本当、あのワインの色は枢機卿の衣みたいだったわ。それにあの味ときたら！間違いなく昔の司教の指輪が中に溶かしこまれていたのよ・・・レゼダさん、あのすてきなモンテ・クリスト伯爵にまた会いたいわ！」
編集者は一本の短いたばこの吸い殻を口にくわえていた、それはすでに唇を焼いていた。かくて彼は奇妙なしかめ面をし、手の平で燃えるタバコを受けた。
「ご命令のままに」彼は火傷した唇をさすりながら言った。「もしもついにアルヴィンツィ氏があなたの光栄なお熱ぶりに気がつくとなれば、それは私の最大の幸福となるでしょう。あのような洗練された社交界の紳士のこととて、おそらくはあなたにうやうやしく一、二時間さいて下さるでしょう。ハンガリー第一の紳士は、女たちの希望を常にかなえたがっています、エステルハージ公爵夫人も贈り物で喜ばす習慣なのです。そして大貴族たちの居住区の年老いた伯爵夫人たちに花束をあげるのは、もう彼位なものです。誰に対しても注意を払い、親切で、中世の君主のようにめんどう見が良い人間というのは彼のことです。わかっていますが、我らの友人バールトゥファイ・レンケのことも月給で後援しています、一人の亡き友人、気の毒なＷ・リチャードが、あの盛りを過ぎた女優と幾分かのかかわりがあったというだけのことなのですが」
「すばらしいわ」ホルバート嬢は本当に真剣に言った。「日に日に彼のことをますます尊敬するようになったわ。彼とはまだ一言だって交わしてないっていうのにね。それに前のときだって、六十番通り（ベルヴァーロシュにある現在のコシュート・ラヨシュ通り）で自分の馬車から私に気がつきさえしなかったのよ」
「ということはあなたはもう彼を待ち伏せしたんですね」レゼダ氏は叫び、そしてピエロのように両手を打ち合わせた。「わが信仰にかけて、王女さま、古い諺は本当だったのですね、男は悪魔よりちょっとだけ美しくなくてはならないというやつは。アルヴィンツィは美男子ではありませんよ」
「あなたにはわからないわ、レゼダさん！私が思うに、ズリーニ・ミクローシュはあんなふうだったかも・・・」
「あなたはウルバノヴィッチ夫人の直弟子ですね。しかしそれは今はもうどうでもいいことです。どうぞ服を着替えて下さい、内緒ですがどのみち、あなたの崇めるアルヴィンツィと再び会えるような場所にお連れしようという考えでやって来たのです。私は中世の狂人みたいなものです。釘のついたムチがないと気持ちよく感じられないのです。行きましょう」
それまでナプキンにオレンジの種で様々な姿を並べていたシルヴィアは、あきらめの声で話しかけた。
「私の方はまた家で残っていなくてはならないの？」
「どうして？私たちと一緒に来ていいわよ！」クラーラは半ば背を向けて、そっけなく言った、そしてこっそりとレゼダ氏に一瞥をくれた。
シルヴィアはまだしばらくオレンジの種を分類していて、それからテーブルから立ち上がった。
「わかってるわ、クラーラ、私が行くのがありがたくないのね、それでも私やっぱり行くわよ。あなたが終いには何かばかなことをしでかすなんておことわりよ。レゼダさん、窓の方を向いていて、着替えましょう」
着替えには長くかかった、淑女たちは習慣に反して今回は互いの着替えを手伝わなかったからである。
「オーバーシューズも持って行った方がいいですよ」だしぬけにレゼダ氏が言った。「外の野原ではまだ雪解けしてますから」
「それじゃ私たちどこに行くの？」同時に二人の娘が叫んだ。
「今アルヴィンツィ・エドゥアルドが滞在しているところへですよ。ブダザールです」
女性たちは二方向から編集者にかけよって攻撃した、しかし彼は笑って防御した。（そして片方の目だけが茶化すようにウィンクした）
「そんなにぎょっとする必要はありません。ブダザールは山の間にある小さな市町村です。そこにアルヴィンツィ氏の別荘があるんです。毎年この日に彼はそこに滞在します、一日だけね。朝から晩まで。三月三十日にです。お天気は充分にうららかです。私が思うに、健康上の視点からもブダの山々でちょっとした散歩をするのは快適でしょうね」
「私はいつも散歩したりなんかしないのよ、レゼダさん」クラーラがふくれ面で不平を言った。
レゼダ氏には、時折片方の半分が泣いていて、もう片方が笑っているように見える特別な顔があった。彼は笑っている方の顔をクラーラの方に向けた。
「とてもよい慰みになるでしょう、ミレィディ。私が一生の間いつも、あなたが快適な気分でいて下さるよう努めてきたことはご存知でしょう」
彼らは橋の向こうで馬車鉄道に乗った。
長い、大型クロワッサンとビールの臭いのする車両が、まだブダの山々の間を走っていた。運転手はときたましか警笛を鳴らさなかった、「妖精イロナ」停車場では長々と待たされた。一方通行なので対向車を待たなくてはならなかったのである、そして乗客たちはみな酒場になだれこんだ。御者がすでに夏になってから支払うつけで飲んでいる間、車掌は修理中の九柱戯場で何回かの投球を試みた。どこもかしこも日光と春のうららかさに満ちていた。まばらな広い葉しかつけていない木々はほとんど灰青色だった、そして一匹の小さなぶちの犬が森の道を上機嫌に走っていた。
「春だわ！」シルヴィアが言った、そしてかさの先で柔らかい地面にたくさんの穴ぼこをあけた。
ホルバート嬢は幾ばくからの疑心を抱いてレゼダ氏の二表のある顔を見つめた。
「まだモンテ・クリスト伯爵の宮殿は遠いの？」
「じきあそこに着きます」秘密めかした男は答えた。
上の方から馬車鉄道がやって来た。長い車両はほとんどくたびれて「妖精イロナ」停車場の前で止まった。
「この車両が恋人のカップルたちをブダの山々の間へ運ぶとき」レゼダ氏の意見であった「この馬たちは夏の間どれほどの恋を、幸せを、嘆きを、喜びを引いて走るのだろう？六月の日曜の午後草に横たわるため、遠くから手回しオルガンの音が聞こえる、そしてそいつが、厳しい両親の家からピクニックにとおびき出した一人の少女に、墓まで忠実でいると、初めての偽りの誓いをたてるために。「緑の狩猟」亭でビールを飲み、あらゆる種類の花を家に持ち帰るために！試してみたことのない者は、生きるということが何なのかわかりもしないだろう。ペストでの学生時代、私はブダの山々の間で女友達全員を誘惑したっけ」
「たくさんよ」ホルバート嬢が言った。「育ちのいい娘なら森で横になったりしないわよ」
レゼダ氏は笑った。
「とんでもない！夏の日々、日曜の午後は、人間冬には考えないことがどっさりと可能になります。ひとえに自由でこそ恋は美しい。喜劇役者のボルチ夫人をおぼえていますか？彼女は冬だって、膝まで達する雪の中で、デブレツェンの墓地へ若い斉唱者たちとともに散歩に通ってましたよ！」
馬車鉄道の終着駅から先、約十五分、レゼダ氏が突然手を唇に当てるまでちっぽけなグループは歩いた。
「静かにしましょう、淑女方。フランスの小説が始まります」
森の道から石を投げたほどのところに古い小さな夏の住宅がそびえていた。少しの間は大きな木々に隠されていた、コケむしたへぎ板の屋根だけがそびえたち、それは何か古いさし絵のように尖んがっていてやはり幻想的だった。去年の枯葉が道端のみぞを埋め、そしてバラの木がまだ茶色いわらのコートをまとって庭に立っていた。大きな木々はこの地から逃げ出そうと密かに夜を待っているかのように、思いに沈んだ沈黙と共に家の周囲に立っていた。背の高い子割板の囲いが庭を囲んでいた、そして避暑用別荘は神秘的に、ほとんど見捨てられたように庭のすみに身をひそめていた。夏の朝、小さな露のベルが太陽が近ずくのを告げるとき、ここでの目覚めは素敵なものであろう。だが夜はどれほど言葉に言い尽くせぬ緊張に満ちていることだろう！風、雨、稲妻が、数知れぬこの世のものならぬ神秘な存在のように、見捨てられた家の周りを徘徊しているのである。おそらく野生の獣たちが山々から出てきて、夜の闇の中で家の周囲をうかがっている。悪の道を行く秘密めいた人々がドアのノブを、窓のかんぬきをしきりに試している。雨が幽霊のような歩みで屋根を歩き、用心深く閉ざされたよろい戸が叩かれるときは、木の小板はおそらく死神の手で揺さぶられている。こんなに長い夜の日々に、一匹の忠実で勇敢な猟犬と一丁の良き武器はどれほど落ち着きをもたらしてくれるだろう！たとえこのような夜の謎に対して役に立つかどうかは別としても？
今はまだ太陽は森の後ろにあった、そしてその黄金の筋をこっそり青い木々の間の見捨てられた庭に送り届けていた。
突然庭の小道で草がザワザワし、ちっぽけな小枝のポキッと折れる音が聞こえてきた、沈黙に突然とって代わるざわめきで彼らの心臓はほとんどおののいた。おそらく何か途方もないことが今すぐにも起ころうとしている。人殺し、野生の獣か謎に満ちた森の霊たち・・・ホルバート嬢は心臓の上に手を押し付けた・・・
森の道、明るみの中で今や突然一人のフロックを着て、シルクハットを被った白ネクタイの男性の姿が現われた。日中の明るさの中でその顔は羊皮紙、すなわち古い図書館で足萎えの館員が保存している古めかしいペルガメンのように青ざめていた。黒い髭と生気のない、ほとんど悲しげな眼差しは夢見ながら庭のかん木の間をさすらっていた。
彼の右側にで、白い花嫁衣裳で、プラチナブロンドの髪にオレンジの花輪、長く白いヴェールとひじまで届く手袋の間に小さなお祈りの本を抱えた一人のほっそりした女性の姿が歩調正しく歩いていた。
彼らは無言で並んで庭の道を、リラ色のかん木と寒さに弱いバラの木の間を進んだ、まるで今、午後の散歩をすませようと小さな宮殿の下に長く伸びる古い地下納骨堂から起きてきた死者たちのようだった・・・
白い花嫁のヴェールは道のカーブで早々と姿を消した。
レゼダ氏は優しく、ぶるぶる震えているホルバート嬢の腕を後ろからとった。彼は何も言わなかった、夏の別荘から彼女を連れ出しただけだった。
シルヴィアはすぐに女友達のあとを追った、ときどき謎めいた夏の別荘の方を振り向きはしたが。
彼らはしばらくは無言で進んだ。
「一体、あれは何でしたの？」ホルバート嬢はたずね、額をぬぐった。
レゼダ氏は答えなかった。シルヴィアはうわの空でパラソルで地面を突き刺していた。
「妖精イロナ」停車場の酒場で窓のわきに彼らは席をとった。レゼダ氏は温めたワインを注文した、午後はすでに涼しくなり、淑女たちは森の散歩ですっかり寒くなっていたからである。
彼らがワインをすすっている間、突然ムチを鳴らす大きな音が「妖精イロナ」の前で響き渡った。
四頭の長い尾のくり毛の馬が素早く、巨大な、多くの点でかつて人々がそれでハンガリーを旅した郵便馬車に似た緋色に塗った馬車を引いていった。馬車の窓のよろい戸は半分まで下ろされていた、郵便馬車の御者の尖った帽子を被った老御者は酒場の前で馬にムチを入れた。巨大な車輪は、ゆるやかに降りてきた春の夕暮れの中できしりながら緋色の郵便馬車と共に消え去った。
「アルヴィンツィ！」クラーラはほとんど恐れながら言った。
レゼダ氏は皮肉に微笑んだ。
「ああ、それじゃあなたはフロック姿の彼がわからなかったんですね。多分ヴェールの下のモンモラシー嬢すら見えなかったんですか？」
「ええ、彼女だったわ。大歌劇場の踊り子ね」シルヴィアが今や真剣に言った、そしてワインをかき混ぜた。「あのお嬢さんは劇も歌も試してみたけど無駄だったので、今度はとうとう舞踏に身を捧げたのよ！それならもっと運をつかめるかもしれないわ」
「まあ、でもそれじゃこの森での特別なお散歩は何を意味しているの？フロックコートに、花嫁衣装で？私たちの知り合いは狂人なのかしら？」ホルバート嬢は叫んだ。
「ことは非常に単純です。夏ごとに老モンモラシー夫妻、すなわちパパ・シュテュンメルとママ・シュテュンメルはコテージに住むんです、それはアルヴィンツィが贈り物として買ってあげたものです。冬の三月にはアルヴィンツィは令嬢と婚約記念日を祝うのです。あの淑女はあれでも非常に幸福なのかもしれません。この件から結婚はまず生まれないでしょう・・・」レゼダ氏は答えた、そして非常に尊大に微笑もうとあそばした。
ホルバート嬢はまだずっと「妖精イロナ」の窓から薄青い森の国道を見つめていた、まるで緋色の郵便馬車が〜彼女のために〜いつかもどってくるのを期待しているかのようだった。
「行きましょう」レゼダ氏は不機嫌に言った。「お祝いはもう終わりです」
ホルバート嬢は黙って手袋のボタンをかけた。
「ああ、もしいつか私が花嫁衣裳で古い庭の小道を散歩させられたら・・・きっとご先祖たちの肖像画も宮殿の壁を飾っているんでしょう。一体モンモラシー嬢は白い衣装でご先祖さまたちの前で立ち止まるのかしら？花婿のお母さんの物だった古い十字架に口付けしたのかしら？そして古い家具と話をすることが出来るのかしら、そして婚約記念日に部屋の隅にあるピアノで「ローエングリン」の行進曲を弾くのかしら？一族のとっくに亡くなった女性たちの視線が粘りついた古い聖人の絵の前でお祈りするのかしら？そして過去の老主人の孤独な一人酒に伴奏音楽を提供した、古めかしいオルゴール時計のネジを巻いたりするのかしら？いいえ、ロッティは時計のネジを巻いたりしないわ。でも私ならネジを巻くのを忘れないでしょうよ」
ホルバート嬢はそう言うと、昔の貴婦人の憂いに沈んだ歩みで「妖精イロナ」酒場を出た。そして馬車鉄道で腰をおろすとき、自信をもって誇り高い微笑みとともにレゼダ氏の肩のかなたを見つめた。
「私なら古い時計のネジを巻いたでしょう」彼女は言うと、寂しげに微笑んだ。
レゼダ氏は肩をすくめ、ほとんど泣きそうに答えた。
「あなたときたら、ロマンティックなオペラの公演を見た後で恋に熱くなった、ヒステリックなペストのユダヤ女のように話すんですね・・・」