第七章　ペストにおけるウィーン女たち

　そのときペストは五月だった。

　ウィーンの急行列車が最上級の造りの鉄道線路上を、低気筒の機関車と共に、まるで少なくとも上流の遠戚、ペテルブルグ＝ニース間の急行列車にならってやろうと思し召したかのようにもったいぶったセキをしながらペスト駅に入ってくる、長い特別客車はすぐ止まり、絹で内装され、金で飾られ、電灯のついたコンパートメントからはロシアの大公たち、ポーランドの大貴族たちとチェコの億万長者の製造業者たちが降りてくる―ウィーンの急行列車は五月、ウィーンのカフェのゴミども、疑わしき存在、とりわけ不道徳な婦人たちを運んでくるのに、満載でペストにやってきたのだった。

　ペストでは競馬レースがあったのだ。

　華麗なる鉄道の車両からは『警察官報』に載っている、絵に描いたような犯罪者タイプがとび降りた。抜きん出たエレガンスで装ったスポーツマンたち、彼らは冬の数ヶ月間ロナッヒャー・ホール(現在もウィーンにある多目的ホール)で生活の糧を探し、暁にはカード賭博のカフェに身を潜め、場合によっては一人の老花売り女と宿泊所を確保しておくのである、株式仲買人たちと断固たる顔のポン引きたち、赤ら顔たちとウィーンのアスファルト道路上の追いはぎだけが育成した独特な口ひげ、髪型、ネクタイ、大きな茶色いかばんに入った白いスパッツと巨大な望遠鏡。エナメル皮のローシューズか、オレンジ色のかかとの高いくつひも付きの靴が完璧な自信とともにペストのアスファルト道路に足を踏み出す。小指には指輪、そして盗人たちの専門用語でレルヒェンフェルドなまりを飾りたてる。彼らはウィーンのカフェで賢さと魂の優越を学んできていて、ケレペシ通り（ブダペストの東駅から郊外に向かって東に伸びる大通り）をあざけりと共に見つめる。

　女たちはもっと妙だ。彼女たちは白いブラウスとシンプルなスカートの愛好者たちだ。丸いジラード帽あるいは大きな羽をつけたいわゆるレンブラント帽は彼女らの頭にとても良く似合う。灰茶色の髪をきちんとくしけずり、顔色は今冷たい水でゆすいできたかのように赤い。青い目とバラ色の唇をしている。歯は白く、早くに太ってしまう。上機嫌でことに及んでは着実だ。スポーツ・ウーマンたちはあらゆる身なりの良い男の求愛を屈託なく受け入れる、彼女らの愛人たちはカフェ「ハプスブルグ」の得点記録係りであり、ペストにはただ勝つためだけに来るのだ。

　「青猫」¹と「フローラ広場」がブダペストで一番上品な盛り場だったころ（後にショモッシ・カーロイ^２が世界で最も美しいオルフェウムを建てた）ウィーン女タイプが真の職人芸を代表していたのである。太った、豊かな胸と子豚のバラ色の皮膚にも似た容貌のレディたち、彼女たちはビールかフランス製のシャンパンしか飲まなかった、心なく冷たく男たちの羽をむしり、抱擁の間もつじ馬車御者マックスのことを考え、突然ブダペストを去ってしまうのだった。王通り（ペスト側の５区内で、いわばベルヴァーロシュを取り囲む同心円の外側にある一画）の音楽喫茶（そこではエドワード七世がまだウェールズ公だった時代にチャールダーシュを踊ることを学んだのだった）には彼女らのうち一人か二人の老いた、だが粋な着こなしの見本が残っていた、彼女はブダペストで運を手にするのにしくじったのである。

　ベリツァイ・カフェではカローラ・ツェツィーリア^３の夕べがあった、夜会服姿の伯爵と男爵たちが（言わば「青猫」内の生活の最後の噴火として）そこに通い、シャツ姿のブラウおじさんが大富豪ラザロヴィッチとビリヤードに興じた、彼の後を忠実な金貸しハルトマンとレフコヴィッチが日夜一歩一歩追っていた、彼らはアル中患者のように若い億万長者のシャンパンをガブ飲みした。ペストの夜にはクモッフ（フランチーク・クモッフ　チェコの作曲家　１８４８〜１９１２）とライナ（ライナ・フェレンツ　１８６１〜１９３３　演劇評論家　多数のオペレッタの台詞の翻訳をてがけている）による「淑女たちの大隊」のワルツが反響していた、それをオルフェウムの舞台で八十人の美しいタイツ姿の娘たちが踊ったのである。カローラ・ツェツィーリア（老いたユダヤ人の仲買人たちと若い伯爵たちは彼女に一様に熱狂した）は軽騎兵の隊長の制服で華麗なる軍を率いた。夜「黒鷲」でこれを上演しようとこの大隊はナジヴァーラド（現在のルーマニアのオラデア）に特別列車で運ばれた、トリノから首相が死んだ^４という急報が来たときには、おそらくすでにヴァーラドの家々では旗が高く掲げられていたのだろうが。ツィツェレには頭からかかとまで届くほどの豊かな長い髪があった、彼女は結局はナジヴァーラドの人々を狂わせることは出来ず、公演は中止された。キュリー嬢とフェダーク嬢（キュリー・クラーラとフェダーク・シャーリ、当時人気を博したオペレッタのプリマドンナ第二章の注参照）は大プリマドンナかもしれないが、まだかなりナイーブに見えた頃のツィツェルちゃんを追ってペストで燃え上がったほどの大規模な熱狂を聴衆に呼び起こしたことは一度もない。老人たちにたずねてみたまえ、アメリカに引っ越した株式仲買人たちに、老いぼれた紳士たちに、そしてライナ・フェレンツェに「淑女たちの大隊」で国の三色旗を広げてみせたカローラ・ツェツィーリアとは誰だったのかと？まだ半ばまではドイツ人の町だったペストの夜が熱狂して喝采したのである、オルフェウムの前でつじ馬車屋たちはばんざいを叫び、音楽が鳴り響きながらうなった・・・どちらがより美しかったのか？「淑女たちの大隊」か今日流行の「舞い落ちる木の葉」か？ああ、昔の指揮者たちははにかみ屋だった。いつかブダペストの歴史を書く者は、ショモッシ・カーロイとカローラ・ツェツィーリアの人物像について非常に多くのことが書けるだろう。彼らがこの町にドンちゃん騒ぎをすることを教えたのだ。ブダペストでは間違いなく今日もフランス製のシャンパンが飲まれている、地上に金持ちの食通たちと軽薄な女たちが生きている限り、この品物は常に人気があるではないか。あのころ、五月、競馬レースの頃、カローラがが黒いストッキングの脚をベリツァイ・カフェの大理石のテーブルにのせると、ファンの騎士ブラウ・ディオゲーネスが敬意の念と共に歌姫のエナメル靴からシャンパンを飲んだ、バッチャーニ・エレメール（第六章　訳注４参照）とセメレ・ミクローシュ（第六章　訳注８参照）はまだ若い殿方であり、大きな灰色のひげのムンツィ（ムンツィ・ラヨシュ　有名なジプシー楽団のリーダー）はフランスの歌を演奏し、そしてショモッシ氏はそこで客人たちと一緒に楽しんでいる。愉快な男でアイデアマンのラントシュはペストで最初のエレガントなレストランを開業した、そこのキッチンでは朝まで火が落とされることはなく、安く楽しむことが出来たー大胆な事業に乗り出してやろうと思っている男はすぐ失敗しもする、彼はブリヤ＝サヴァランのレシピに従ってアヒルのスープを煮たのだが。如才のないレストラン経営者たちは酒場を建てた、それらは夜半以降にならないと開店されず、酒場「墓地」では朝十時頃にリタイヤした金持ちのドラ息子たちが、シュトラッサーが牧童風に演奏してみせた歌で楽しんだ、そしてコーシャの仲間はビールの樽をテーブルに置かせた。五月の日中リゲトのレストランにモーニの足の早いだく足チームを駆り立てるのが（御者、馬、用具がウィーンのプラター公園の夢を見ていた）、ピアニストをベッドから引っぱりだすのが大流行だった。赤毛のフリードマン（アドルフ・フリードマン　１８９６年の建国一千年祭にヴァーロシュリゲトに建てられた複合娯楽センターの店長）は星のついたベルトを腰に巻き、セクラ（イェヌー・セクラ、辛らつなジョークで知られたジャーナリスト）とともにペストを世界都市であると宣言し、その盛り場はサンフランシスコのペースで建てられ^５、ニグロのダンサーたち、国際的な芸術家たちがペストに集められた、すなわち「大昔のブダ城だ！」と人々は言った、そして彼らの構想には東西のあらゆる華麗さが現われていた、そして今まで隠れていたペストの社交界、秘密で愛人をやっていた女たちが、口をぽかんとあけて見とれる町の前で突然、春の花々のやり方で全てを占領してしまった（女達を征服する友人、パトロンにしてグルメたる英国王の親族のカピー隊長殿は、上品なモロッコ皮で装丁され金色の鉛筆で書かれたメモ帳を、彼女たちの住いの表札と名前でうめていった、そして愛しいシュヴァルツ・ミツィが二十年代以前はどこに住んでいたかはこの図書館で間違いなく見つけられる）ヴァシュヴァーリ・パール通り（�X区　国立歌劇場付近）でつんぼのフリッツおじさんは豆スープを煮ていた、そして彼の「ナイトクラブ」では午前中、肺病のブライトナーのピアノの周りでつじ馬車屋たち、カジノ会員の紳士たちと夜の娘たちが一緒に踊った、彼は歌の中のわいせつで軽薄な言葉をぞくぞくするほど変化させていった。彼の耳まで裂けた口の黒い空間からはあばかれた昔の墓の闇が凝視していた、そしてしばしば彼の肺からは楽しみの盛り上がりの最中に血が流れ出した（この間家では病気の夫人と病気の子供が待っていた）血まみれのどんちゃん騒ぎと情熱的な呑み助たち、酩酊に人生を求める紳士たちとほとんど動物のレベルまで落ちぶれたウィーン女たちの時代、フィフィが抜け落ちた犬歯を蜜ろうそくのかけらで補填したとき、気ちがいのグレーテがためらいつつ服を引き裂いたとき、ミツィが毎朝自殺したがっていた一方で、この時期遠いフランクの地でロデレールとポメリー社（両社とも仏の老舗のシャンパン・メーカー）の紳士たちは、ペストでは五月であり、競馬レースがあることをしっかり承知していたのである。億万長者の娘、赤毛のフライシュテッドラー・フローラは俳優やつじ馬車屋の恋人たちをシャンパンの丘で実った黄金で入浴させた、その前に彼らの求愛を受け入れられただろうに。一夜一夜財産がシャンペン、花、音楽に使い果たされたペストのどんちゃん騒ぎの英雄時代から、ウィーン女たちの酩酊した鋭い金切り声がわめきちらされた。

　オルフェウム！

　かつてこの言葉はわれわれが若き紳士だった時代、なんと暖かく、音楽的に、ほとんど酔わせられるまでに響いたことか！われわれは女性ダンサーたちと公爵夫人たちを見た、

紳士たちの白いシャツが光り輝き、花の香りがバラ色の電灯の中で輝くホールを満たした、桟敷には大公ウラディーミルが、一階席にはいかさま貴族がすわっていて、短いスカートのフランスのスーブレットがステージでさえずり、はげ頭で生気のない顔のボーイたちが葬儀屋のうやうやしさでクーラーに入れたフランスの丘陵のワインを運んだ、そしてオーケストラ・ボックスからはオルフェルム音楽があだっぽく響くのである。広い世界が、パリが、ニースが、一夜のためにわれわれのもとを訪ねてきた。それからツェツィーリアは出て行き、全てが出て行く。ウィーンのリングには彼らのうち一人か二人の経営するタバコ屋あるいは帽子屋があった、彼らの思い出はペストには五月にしか、昔の時代お祭りといわれた春の競馬レースどきしかもどってこない。

　そんなとき新聞は、外国の上流社会がブダペストに到着したと書きたてるのである。

　ホルバート嬢は競馬レースにまだ一度も行ったことはなかった、少女時代にはシュガール通り（１８８５年からはアンドラーシ通り　）でアンドラーシ・ゲーザ伯爵（大地主で鉄鋼産業の大資本家　１８５６〜１９３８）の巨大な狩猟馬車を、銀行家ヴァールマンの赤い車輪の、軽いつじ馬車を見ていた、それはこの紳士がウィーンから運ばせたものだった、そしてブラシュコヴィッチは四頭立てでやって来た。十分から十五分の間にびっくり仰天している人々の視線の前を、ハンガリーの上流階級が走り抜けていった。新聞記者でびっこのネスメーイは人生の監督のように、鋭く巨大な頬ひげ姿で熱心に身体を前にかがめ、そしてあらゆる知人に松葉杖で挨拶した。つじ馬車屋たちはまるで全員が（外国での）レースで勝利したかのように楽しみながら短い尾の馬たちを御していた。女たちのヴェールはさわやかに翻り、男たちはチェックのズボンを膝まで引っ張りあげていた。

光り輝く美しい広い世界！

　ウルバノヴィッチ夫人は砲兵通りの淑女たちに新たに援助を与え、不幸なレゼダのあらゆる雄弁はムダだった。女優たちは新しい春服にたどりついた後（ホルバート嬢は燕尾型のコートと共にチェックの服を縫わせた、シルヴィアは青と白のまだらの絹紬の少女のようなドレスを選び出した）あるレースの日の午後つじ馬車を呼ばせた。

　「淑女方、平日の競馬レースに出入りするのは夜の集金係りと夜の蝶たちだけですよ」レゼダ氏は憂慮した。

　しかし女優たちは笑いながら編集者にうなずいてみせた。

　「私たちと来るのが恥かしいのなら、いらっしゃらないで」クラーラが鋭く言った。

　憂愁の男は従容として運命に従った。

　「名誉にかけて」彼は口ごもった。「私はもうヒモになったかのような気分です。女性の知り合いを市場に連れていくのですから」

　令嬢たちはもちろん何はさておき伯爵夫人たちに関心があった。レゼダ氏は彼女らに顔を知っている何人かの貴婦人を指差した。若い伯爵夫人たちはパステル画のようにひじかけ椅子に腰をおろしていた。彼女たちは上品で、驚くほど美しい肌、衣装、手袋、靴で温室の植物のように赤いひもで囲まれた区画に腰をおろしていた。伯爵夫人たちは一体どこで、好みから言っても形からいっても市民階級の婦人たちの帽子とはいつもあれほどに異なる帽子を買っているのか？手袋職人はおそらくアンドラーシ伯爵夫人のためには特別製の手袋を縫っているのか？そして閉ざされた宮殿の空気のなかで芸術品、絵画、アジアの絨毯と苦労のない年月に囲まれて成長する淑女たちは本当に、他の人間の婦人たちとは異なっているのか？下着のばら色の刺繍の花、そして靴のリボン、髪のさわやかなウェーブと、最高に可愛く、最高に富裕なユダヤ女ですら真似することの適わぬ目の光は一体どこからきているのか？その肉体の柔軟さ〜年配の女性たちですら〜あたかも何世紀も通して洗練された血の混合の成果であるかのように！「青い血だ！」昔の小説家たちはこう言った。そして市民の男は青い血の女たちと近くで知り合うことなど決してないだろうとため息つくのである。

　あるカーブ地点で（というのも令嬢たちは、何一つ逃すまいと絶えず歩きまわっていたからである）、黒い髭と白い帽子のアルヴィンツの顔が競技場に現われた。怠惰な、ほとんど飽き飽きしたというような歩みで近づいてきた、腕の中で望遠鏡を冷淡にゆり動かしていた。

　「行きましょう！」レゼダ氏は神経質に言った。

　ホルバート嬢はしかし立ち止まり、アルヴィンツィの目の中心に微笑みかけた、そのような微笑みは緊張をカモフラージュするために、百戦錬磨の高級娼婦か全く罪のない女たちの顔にしか現われないものなのである。

　アルヴィンツィはまるで記憶の中を捜すかのように当惑してこの淑女を見つめた。

　「今日は、アルヴィンツィ！」ホルバート嬢は人を誤解させそうなウィンクと共に言った。「私のことを覚えてらっしゃらないのでしょう？でも私はあなたを忘れはしませんわ！」

（レゼダ氏は恥ずかしさのあまり大地の下に沈んでしまうと思った）

アジアのハーンは白い手袋をした手で帽子をもち上げた。

「初めてお目にかかります」全く納得しておらずに彼は言った、そしてそそくさとした、質問の一瞥をレゼダ氏に投げた。

レゼダ氏は肩をすくめて、ついでに歯の間でささやいた。

「マダム・ルイーゼのところで・・・パーティーで・・・」

　アルヴィンツィは不機嫌に微笑んだ。ハンカチを取り出して、胃病の苦しさからセキ払いした。

「そうでしたね・・・すぐ何か良いチップを差し上げましょう・・・」彼は最大級の愛想の良さとともに急いで続けた。「レディ達は間違いなく勝利することがお好きだ、たとえ私の言葉に耳を傾けてくださっても、聞き入れては下さらないのだが。競馬レースでは勝つということは出来ないのだ。ですがやはりゲームの楽しみにあずかれるよう、いずれチップを何枚か差し上げましょう。お許しいただけるならの話ですが・・・ごきげんよう。もうスタートですので、急いでいるのです」

彼は素早く帽子を上げると、いいかげんにホルバート嬢の手をとり、賭率表示機に通じる階段に姿を消した。あらゆるところで群集がうやうやしく道を開けた。彼はここで最高の掛け金額でゲームするのである。この競馬レースの町ではアルヴィンツィが王様だった。

レゼダ氏は赤黒い顔をしてホルバート嬢の腕にしがみついた。

「わが魂よ」彼は激情のあまり押さえつけた声で言った「あなたはまるで村娘かなにかみたいにふるまってます。どんな靴職人でも一座の娘役を知っているキシュヴァールダ（ハンガリー北東部ウクライナ国境近くの町）にいるとでも思ってらっしゃるのですか？われわれはペストにいるのですよ、わが魂よ、ここでは男たちに話かけたりはしないものなんです」

「本当に、アルヴィンツィはとても無礼でしたわ」クラーラはまじめに答えた。「私ばかでしたわ、認めます。私あの変わった人に頭の中ですっかり夢中になっていたのです、出あったとたん彼の方でもすぐ私だとわかるのがまったく自然だと思えるほどに・・・ごめんなさい、レゼダ」

だがレゼダ氏は許さなかった。

「この競馬場で周りを見てごらんなさい」彼は厳しく続けた。「この大勢の目立つ帽子の、妙な服を着た，断固とした表情の女が見えますか？あれはみんなアルヴィンツィか彼と同じ位のサイフを持った男たちと知り合おうとしてここにきているのですよ。だが彼女らだって誰かに話かけたりする勇気はないのです」

「私なんておばかさんだったのかしら！」クラーラは涙を浮かべて苦くささやいた。

　鋭いベルの音が響いた。

　群集の中を粋な帽子と、赤いベスト、白いひげの老紳士がこのグループの方へ近づこうと苦労していた、彼は茶色いマントを着ていた、そして傷のついた散歩用ステッキで合図した。

　「お嬢さんや！」

　彼はアルヴィンツィの秘書、シルヴェステル氏だった。

　彼はたくさんあるうちの何枚かの茶色いボール紙片をホルバート嬢の手に押しつけた。

「首長がよこしたんだよ」彼は急いだため、息を切らせながら言った。

「お元気、シルヴェステルおじさん？」クラーラは表情を和らげてたずねた。

「急ぐんだ、急いでるんだよ。まだＸ伯爵夫人に切符をあげなくてはならないんだ、お年よりのＢ男爵令嬢と未亡人のアーブランディ夫人にもね。レースはもう始まっているんだけれどね」

　「どうして受け取ったんです？」レゼダ氏は陰鬱にたずねた。

　ホルバート嬢はボール紙片を興奮して見つめた。

　「十フォリントだわ。十フォリント三枚。6番ね。ほら見て、早く、レゼダさん、どの馬が６番？」

　「アルヴィンツィの馬ですよ。イグナーツです」

　荒々しい叫び声が突然レース場を満たした。まるで期せずして数千の人々が発狂したかのようだった。人々はベンチや椅子にとび上がった。馬の名前をさけんだ。目を見張った。女たちはヒステリックに金切り声をあげた。

　「ここからじゃレースは全然見えませんよ」レゼダ氏は言った。「向きを変えましょう、淑女方。アルヴィンツィ氏は階段の踊り場に座っています。いずれ彼の顔からイグナーツがレースに勝ったかどうか判断するとしましょう」

　アルヴィンツィ氏はジョッキー・クラブの会員用にとってある席に座っていた、そして馬たちのレースに注目しているときは、間違いなく世界で一番優秀な望遠鏡が彼の目の前にあるのだった。

緊張して注目している間、彼は身体をこわばらせて背もたれに身をもたせていた。

彼が突然身を乗り出した、あたかもエネルギッシュな動作がレースの結果に役立つだろうといわんばかりに。

　ゴール直前の最後の数メーターで彼が高みから駿馬たちの疾走に注意している間、望遠鏡は手の中でほとんどピンと張っていた。

それから彼は望遠鏡を目から離した。

幸福な、子供っぽい幸福な、勝利に満ちた微笑が陰鬱で、悲しい顔に現われた、まるでクリスマスの天使がレース場で鐘をならして歩いたかのように・・・隣にいた人々は彼に手を差し伸べた。

　「イグナーツ！」千もの咽が吠え立てた。

　「勝ったわ！」ホルバート嬢は無我夢中で、ほとんで涙あふれた目で叫んだ。「イグナーツ！愛しいイグナーツ！」

　「悪魔にさらわれちまえ！」レゼダ氏がぶつぶつ言った。

　ホルバート嬢は勝利の駿馬が引かれてきたとき、白い囲いにかけ寄った。白い手袋をした手で幸福に小柄な鹿毛の馬の方に向かって拍手した。

　「イグナーツ！」彼女は愛しげに、やわらかく言った。

　ホルバート嬢がこの午後、どれほどアルヴィンツィ氏と再び会いたかったとしても、それはもはや彼女には適わぬことだった。

　「一体アルヴィンツィはどうして避けたの？」くたびれほこりだらけになって家に向かったとき、ホルバート嬢はたずねた。

　レゼダ氏は不機嫌に頭を振った。

　「お嬢さん、覚えておきなさい。お礼を云いに来る人間とは最も不愉快な存在です。人間はそういう人にはどうしていいかわからないのです。どのみちアルヴィンツィには古いジンクスがあるのです、かなり大きな額をどれかの馬に賭けるときは、貧しい知人や友人たちの間で馬券の配当を分配するのです。とはいえ彼は何人かの知人のために、彼自身が賭けた位、他の馬にも賭けてあげているのです。彼がわれわれを幸運な知人のうちに数えてくれたことを喜ぶんですね」

　「素晴らしい人だわ」

　「それ以上ですよ、あなたに二百フォリントもうけさせてくれたんですから（彼が支援しているお年寄りの貴婦人たちのように、あなたが勝利を祈ってくれるようとね、あの人たちはレースのある日の午前中はフランシスコ修道会の寺院にアルヴィンツィの幸運のために祈りに通っているのですよ）、ある消息通の知人から聞いたところによると、彼自身は十万フォリントをイグナーツの勝利で回収するのです。これがアルヴィンツィの尽きることがないと信じられている財産の源なのです。だから彼はモンテ・クリストと呼ばれるのです」

　クラーラは手を打ち合わせた。

　「私、崇拝するわ」と言った。