第八章　夢とカード

　春だった、そして砲兵通りの淑女たちにレゼダ氏は毎日午後、詩と小説を読んできかせた。

　女性を追っかけるとき詩人たちの助けを借りるのは、編集者レゼダのおなじみのやり方だった、恋人たちのことでは（ヘンリー一座ではサーカスの曲乗り女性、地方のとある古いお菓子屋ではウェイトレスの女の子、そこでは窓でゼラニウム色のカーテンが揺れていて、リキュール・グラスに花籠の模様が入っていた、そして心臓病だった商人の未亡人、彼女の目にはしばしば死に対する憧れが驚くほどに映し出されるのだった）彼は大部分バイロンかプーシキンの詩のおかげを蒙った。彼はビーダーマイヤー期¹の若者のように、上等な装丁の詩の本をポケットに入れて持ち歩いた、そして淑女たちと二人きりになることが出来たときは、荒々しく性急に、あるいはゆっくりと夢見ながら彼女らの耳に適切な節を読みあげたのだった。女性たちはしばしば手にキスすることを許したし、またあるときには軽く彼の額をなで、親愛なるレゼダと呼び、彼女たちの花を詩集のページの間で押し花にし、それから編集者を出て行かせるのだった、彼は頭を垂れてブラブラ歩きして自殺したハインリッヒ・クライスト（第６章訳注２参照）のことを考えるのだった。レゼダ氏はこんな風に恋を生きていたのである、そしてかの商人の未亡人の寝室まですら行き着けなかった、彼女はというと東方の夢か何かのようにふさふさとした金髪、長いまつげ、くっつきあった眉毛の太り気味の女だった。彼女の素晴らしい脚の靴下止め代わりのリボンだけは思い出せた、それは薄いリラ色だった、そして彼は思い出に一枚の小さなハンカチーフをもらった、それは家でクッションの下に突っ込まれた。レゼダ氏の私生活を検討すると、女性たちはこの夢見がちで悩める若者から最終幕で遠ざかってしまったと思わざるを得ない。彼は、女性たちのうなじにある、聖なる生活を送る尼僧をも狂わせることが出来るあの個所にキスをすることに決して成功しなかったのである。彼の指は手までしか達しなかった、そして雨天に女性たちがくるぶしを見せると彼は、彼女たちの背後でほとんど恥らってしまうのだった。商人の妻は〜もう一度そして最後にこの太った婦人に触れよう〜ある夏の午後、花壇でたった一枚の薄い普段着を身につけていた、そして日陰となる場所では日光は服の下の隠された形をかなりあらわにした。レゼダ氏は心臓をドキドキさせながら次々と花の名前をたずねていたが、思い切って目を完全に開いたりは決してしなかった。婦人は二、三度日の当たる場所へ出て行き、風が服の中にふきつけるのを許した、そして短い袖の普段着でしばしば腕を髪のまげまでもち上げた、その間服はほとんど肩まですべり落ちた・・・「それでこの青いのは、リシュパン（ジャン・リシュパン　仏の詩人、劇作家１８４９〜１９２６）の詩みたいなのは、なんというのですか？奥さん」

　というわけでもしレゼダ氏が（彼は夜ベッドの中では最高に断固たる青ひげであり、あらゆる知り合いの女性を裸にし、その咽首にすらかみつくように口づけした）春の午後砲兵通りの小さな住いで、そこでは二人の若い女性の香りが花瓶の花の香りと混じり合い、長いすの刺繍のあるクッションは女の髪の匂いがし、ベッドカバーの下からは女の夢がほとんど隠れてくすくす笑いしていて、そして朝使われた小さな赤いスリッパの耳から、タオルのシワから、くしから、柔らかいふさのついたショールから、恋にふさわしい二人の若い女性の良い匂いが流れでていたのだが、すなわちレゼダ氏がびっこのバイロン卿の詩を読みきかせ、人生の賞賛に捧げられたある五月の午後がまるまるレーモンルトフの「現代の英雄」の賛美に過ぎ去ってしまったとしても驚くことはなかった。

　「明日はボッカチョを持ってきますよ」毎晩レゼダ氏は悲しげな微笑みを浮かべて脅すのだった。「フローレンスの友人たちと不品行な花嫁たちはおそらくわが淑女たちに影響を与えるでしょう」

　「お持ちになって、あなた」シルヴィアは夢見ながら答えた。

　しかしレゼダ氏はこの世界で最も美しい本を持ってくる勇気はなかった。おそらく女優たちの道徳心を案じたのである・・・

　別の日に彼は狭い玄関の部屋で、軽い服の下の少女の肉体の優しく盛り上がった、暖かい部分を感じたほどシルヴィアに近づいた。シルヴィアは露に濡れた茶色い目で〜それは半ばユダヤ人の、半ばジプシーの目だった〜落ち着きはらって、感じやすい若者を見つめていた。

　「失礼」レゼダ氏は口ごもった。「そんなつもりでは・・・」

　だが彼はその日の夜（一人で）シルヴィアの靴下までも脱がせ、そして少女の肉体で見つかる宝を、髪のふさふさ加減から、柔らかさから正確に算定した。

　再び午後であった、そして窓辺の花瓶の中の花々がその葉を太陽に向かって伸ばし、ハシドイは白い花の房とともに優しくおののいた、純潔な少女が天に向かって送ったため息が教会の香の煙のついた丸天井でふるえつつ上向きに高く上がっていくように。シルヴィアのふさふさした、スペインのセニョーラたちのようにカールしている黒い髪に、日差しは火の小さな矢を降らせ、それは窓際の彼女がすわっているピアノの傍らでこっそりと髪の房を輝かせるのだった。襟元の広く開いた服の首には柔らかい綿毛があり、彼女が憂鬱なハンガリーの歌をほとんど聞こえない位の口笛で吹いている間、口元の小さな青い産毛にはまるで冗談のように憂鬱な考えが腰をおろしたかのようだった。レゼダ氏はツルゲーネフから「猟人日記」を読んだ、そして「シチグリ郡のハムレット」の嘆かわしいおとぎ話を強調した、すなわちページをめくるとき彼はシルヴィアからクラーラへと目を上げた、あたかも彼自身が最大限の不幸を達成したことを喜んでいる例の夜の客人であるかのようだった。

　シルヴィアは口笛を中止した。

　「これっていつまで続くのかしら？」彼女はたずねたが、レゼダ氏の方もクラーラの方も見ていなかった。

　クラーラは（またもや下着を修理していた）見上げることなく肩をすくめた、レゼダ氏は句読点まで読んだ後、本を閉じた。

　「何かききましたか？シルヴィア」彼は礼儀正しく前かがみになりながらたずねた。

　シルヴィアはため息をついた。

　「あら、何もきいてはいないわ。何もきけっこないじゃない、今生きてる人たちの中で誰にも答えることなんか出来ないんですもの・・・私が知りたいのは、どうして私はこの砲兵通りにいて、何が地方に女優として契約するのを引き止めているのかということよ？ペストにきたとき、私たち今や素晴らしい、愉快な社交生活が始まるんだと思ったわ。少なくとも私はいつもこっそりと思っていたの、もし平凡でもなくて、美しく才能があって賢くて気立ての良い私がペストに身を落ち着けたら、何か途方もないことが起きるんだって。そして何も起きなかった。一日がそれ以前の日々の続きで過ぎていく。朝ベッドに日が照りつける、でも私は寝たままでいる・・・起きるのが恐いのよ、だってまた退屈で、長い日が始まるのだってわかってるんですもの。起きた後やっぱり何か、何か予測出来ない、途方もないことが起きるだろうと思っている間は横になってるわ・・・誰かがやって来る・・・それとも私が喜ぶような一通の手紙を受け取るだけかもしれない。レゼダ氏が午後一冊の詩の本を持ってくる、その中でついに私は一篇の詩を見出す、それに私は一生こがれてきたのだけれど、そのうち一行だって知らないのよ・・・メドゥヴェ（ハンガリー語で熊の意）という名前のある男の子がカールヴァーリア広場できかせたの、私は十五歳だった。それからメドゥヴェとは合わなかったわ、そしてどうしても考えてしまう、その詩が思い出せない。ときどき私は思うわ、私は魔法にかけられていて、それから解放されるのは、昔聞いた詩を再び思い出したときだけだと、そして私は心の中で新たに唱えるの、あのときカールヴァーリア広場で・・・」

　「一体どんな種類の詩なんです？」レゼダ氏はまじめにたずねた。

シルヴィアは痛ましげに頭を振った。

　「わからないわ。夢の中でさえ思い出せないのよ、時折夜、いわば半分だけ眠りこんでいるようなとき、子供時代のもう思い出せないようなことを思い出すの。突然、一枚の絵みたいに、一曲の歌みたいに、私の魂の中の情景が現われるの。最近はあの身体のひん曲がった手回しオルガン弾きのチェック模様のオーバーを思い出したわ、彼は私の子供のときうちに中庭に弾きに来ていたの。あの頃私たちペストにやってきたんだわ〜お母さんのことはもう思い出せないの〜お父さんの方だけよ、短い葉巻を注意深く半分分けにしてるときのね、もう一本残るようにって。でもメドゥヴェがきかせたあの詩は決して思い出せないでしょうよ」

　「メドゥヴェは誰だったんですか？」礼儀正しいレゼダ氏は関心を持ち続けた。

　「それすらわからないの」シルヴィアは不機嫌になってぶつぶつ言った。「ある小さなお菓子屋さんだったわ、そこで私たちホイップクリーム入りのコーヒーを飲んでたの、鳥かごにはクロウタドリがはいってたわ、『フルフル』っていうフランスの新聞が釘にかかっていてメドゥヴェは・・・私がはっきり思い出せるのはそれだけ。彼の目すら覚えていないの。彼は、私の人生の幸せのように遠くに行ってしまったの。もしあの詩を思い出せば、メドゥヴェを見つけられるだろうと思うの、十五歳のときのそうだったように幸せになるだろうって」

　「かわいそうに」レゼダ氏は同情して言った。「いずれ私がメドゥヴェを捜してあげましょう」

　シルヴィアの上品で、青白い鼻は怒りのあまりいささか赤くなった。

　「レゼダさん、あなたってほとんどスキャンダル並にいい人ね」

　ホルバート嬢はそっと笑いだした。

　「私はこう思うんだけれど、メドゥヴェはいさえしなかった。あなたはいつかそういう夢を見ただけなのよ。若いときに私ある隊長の夢を見たの、私はもう決して純潔ではないんだと思ったくらい。目がさめているときは決してその隊長には会えなかったわ、彼は毎晩青いドルマン（胸に飾り紐のついたハンガリーの騎兵服）とエナメル皮のブーツで訪れたの。レゼダ、あなた娘たちとの夢は決して見たりしていない？」

　上品な若者は白い手を穏やかにふった。

　「あなたたちの夢を」彼は苦い皮肉をこめて言った。「毎晩私には二人の妻がいるのです。あなたたちです」

　シルヴィアは不機嫌にほお杖をついた。

　「どの女もいつかは幸せだったのよ。一人は不幸になったから幸せ，もう一人は心にある面影を抱いているから、彼の出現を信じているの、三人目はいずれ誰かを失うのを待っているから・・・私は何も待っていないし、何も信じてはいない。前に一人のスロヴァキア人のシャツ売りがうちの庭に入ってきたの。私は、このシャツ売りのところにお嫁にいけば、もっとずっと幸せになるだろうって思ったわ。きれいな白いズボンをはいていたわ」

　レゼダ氏はそっと、ホルバート嬢は声高に笑った。

　「あんたには笑われたくないわ、クラーラ」シルヴィアはとがめるように続けた「この世にあんたより頭のおかしな女なんていたことがないんだから。誰か、不可能に、アルヴィンツィ・エドゥアルドに恋をしてみたらいいんだわ！あと足りないことといったら、あんたが毎晩彼のためにお祈りすること位なものよ」

　ホルバート嬢の額は赤くなった。

　「私が誰のために祈っているか、あんたにはわからないわ」

　「あんたお祈りなんかしたことないじゃない」

　ホルバート嬢は縫い物を置いた。

　「私いつだって・・・夜ベッドでお祈りするために心臓の上で手を組み合わせるの、そして通りのガス灯の明かりで何か見えたりしないように目を閉じるの。そしていつも心の中でこれだけを口ごもる「神様、キリスト様、マリア様！人生でいつも今のように幸せでいられますように。決して今より深い恋に落ちることはありませんように。二度と会えないのと同様のあの人以外の恋人はできませんよう。決して彼のものにはなりませんよう、そして決して彼が私の手を取ることがありませんように！彼が私を見ることがありませんように、私のことを考えることがありませんように・・・私だけがいつも恋していられますように、尼僧たちが聖騎士ゲオルギウスに対して感じた恋に決して幻滅することがないのと同じように、私も決してその恋に幻滅しませんようにって。毎日道楽者の夫か愛人と掴みあうより、この方がましだし素敵なんじゃなくて？」

　シルヴィアは強情に頭を振った。

　「私たちのプロンプターだったペーテリ夫人が今まで見た中で一番幸せな婦人だったわ、そうはいってもご主人は毎日酔っ払っていたのよ、そして午後は女郎屋にパイプをふかして台本を写すために通うのよ。あの人たちはいつもつかみ合いをしてたし、貧乏で苦労してたし、お腹を空かしてたわ！・・・それでもあの奥さんはやっぱり幸せだったよ、だってもしペーテリが寝込むと、ベッドのわきに座って、彼の呼吸に耳をすますことが出来たんですもの。ということはあの奥さんの恋人が伯爵だろうとただのシャツ売りのスロヴァキア人だって完全に同じことなのよ！」

　「だってあのプロンプターはあの優しい気ちがいの奥さんに、彼は女たちのところに通っているんじゃない、彼の器官はアヘンみたいな女郎屋独特の雰囲気を求めているだけなんだ、と信じさせることが出来たからなのよ。あそこでしか役の台詞を正確に写せないんだ、あそこでは夜酔っ払いたちが踊っていて、ピアノをガンガンたたいているのだけれどね。時折あのプロンプターは、十歳の息子まで連れて行ったのよ、そしてその子はそこで絨毯に横になっておとぎ話を読んでいたの。ペーテリはぶち殺されてしかるべき人間だったわ！」クラーラが厳しく言った。「一座では誰一人彼に話しかけなかったわ。一体全体まだ午後のうちからイェルサレム通りに通ったりするものかしら？」

　「間違いなく」レゼダ氏はほがらかに答えた、この成り行きが彼の気に入ったからである。「もうそういうろくでなしのやつには習慣になっているように、家にいるとやつの頭や、目や、背中は痛みだすんでしょう。奥さんの方から「もう行ってらっしゃい、坊や・・・でも早く帰ってきてね！」と言ってくれるまで、こぼしてぐちっているんですよ」

　シルヴィアは不機嫌になってぶつぶつ言った「それじゃアルヴィンツィとプロンプターのペーテリの間には何の違いもないじゃない。クラーラの恋する人だって外人の女たちの後をうろうろしてるわ」

　ホルバート嬢は初めは笑っていて、やがてまじめになった。

　「坊や」彼女は感動した声で言った「私の心のことはほうっておいて！私はとうとう誰かに自分なりのやり方で恋することが出来たことで、本当にとても幸せなのよ。私は一生ずっと靴下を編んで、靴下の編目にあらゆる考えを、憧れを、夢を編み込んでいるあの婦人たちのようなものなのよ。そしてあの人たちは、崇拝している男がパイプをふかすかワインを飲むかしているお隣の家に行こうとして、編物を止めることは決してないの」

　小さな口論は湖の水面の波紋のように静かに過ぎ去った。馬車が家の前で止まって、ウルバノヴィッチ夫人の好戦的な声が廊下に響いたとき、レゼダ氏はあっぱれなチェルトプハーノフとその友人（ツルゲーネフの「猟人日記」中の短編「チェルトプハーノフとネドピュースキン」の主人公）について読もうと本を取り上げたところだった。

　ホルバートの未亡人はかつて以上に満開だった、灰色の生なりの絹のマントの裾が翻って後からついてきた。三本の黄金のキジの羽が帽子のわきに刺してあった。

　「たった一日だけ、一時間だけペストに来たのよ、子供たち。くにでは、家では、サヴァ河畔（サヴァ河、スロヴェニア、クロアチア、セルヴィア北部にまたがる河）で製材所を建てていて、私は朝から晩までそこにいなくてはならないの、私の目の前でかすめとられるからなの。前は木くぎまで盗まれたわ・・・でもトリーチ夫人をたずねなくては」

　女優たちはお世辞を言いながら裕福な貴婦人のマントをなでた。

　「おばさんなんて素敵なのかしら！」

　「ほれ、からかわないの！去年の帽子、去年の服よ！こんな私みたいな田舎の女には最新流行を知る必要はないの。私がペストの公務員の奥さんたちと違うのは、いつも一番上等で一番高いものを買うというところだけだよ。それだと手袋一揃いだって何年も痛まないでもつの。だって私は一度に１ダースの手袋を買うんだもの。さあトーリチ夫人のところに行きましょう、夜の汽車で家に帰りたいからね」

　「そのトーリチ夫人て誰なの？」

　「あれこれきかないで、彼女についてはもう全て、私のお隣さんの、私のズリーニ・ミクローシュ²が話してくれたの、私は彼と毎晩電話でドラーバ河をはさんで話してたんだよ。そのお隣さんは春に大変な苦境にあったのさ。材木取引が不振で、銀行からは貸し付けを取り消されてしまい、弁護士たちは競売の話を持ち出した、お隣さんは将来にすっかり絶望してしまったの、そうはいってもスイスの時計みたいにきちんとした人なんだけどね。うちの田舎では商人はときどき理由もなしに破産するのよ。サヴァ河の中の岩みたいに商売が停止してしまうのさ。河の中の石を動かすにはたくさんの水がいる。砂金獲りのお百姓だってときどき何ヶ月もサヴァ河のじゃりをムダに洗ってるわ、一粒の金だってふるいには残らない。またあるときには川は狂ってしまい、そして山々から一掴み位の金を運んでくる。私たちのところの商人さんたちは、何をしようと、もうどうしようもないんだとわかってるのよ。熱病が過ぎ去るのを待たなくてはならない・・・天意がもうそう定めているというなら、場合によっては平静に破産する。お隣さんはどうやってかは知らないけれど大きな苦境の中でブダの占い女、トーリチ夫人の方を向いたの。キリスト教徒でカトリックなのでサダゴーリアのラビ³に助言を求める手紙を書くわけにはいかなかった、占い女ですますよりなかったのね。１，２通の手紙をやり取りしてから、お隣さんは内緒でペストに来て、そしてその女性を訪ねたのさ。何があったのかはわからない。私のお隣さんは悲しみにくれた頭を突然高く上げた、エセーク（現クロアチアのオシィク）の銀行からのお金にありついた、ほったらかしの店を調べてみる、そして五月にはもう何もかもちゃんとしていた。それ以来問題はこれっぽっちもない。肝臓すら痛まない、ときどき起きる持病だったのに」

　ウルバノヴィッチ夫人は令嬢たちが身支度して、出発する準備が出来ているのにすら気づかないほど、熱中してしゃべっていた。

　「大きな馬車で来たのよ、座席が四つ、全員に場所があるわ」未亡人は言って、レゼダ氏の頭にまで帽子をかぶせた。

　占い女はブダのもう馬車では行けないような場所に住んでいた。急斜面の小さな山の路地で、秘密めかして門を閉ざした家で、おそらくまだトルコの占領時代だったら（１５４１〜１６９９　いわゆる国土三分割時代にオスマン・トルコによってブダペストを含む中央ハンガリーは占拠されていた）新しい建物だったろう、曲がりくねった廊下の奥では、カーテンのかかった部屋でトーリチ夫人が腰をおろしていた。髪を後ろになでつけた、落ち着いた眼差しの婦人だった。顔はなめらかでピンク色だった〜かつては多分美しくさえあったのだろう。彼女は話しかける前に、舌で唇のはしをしめらせた。

　「奥方様、ご商売のことで私の忠告をお求めなのでしょう？」数秒ほど黒い、聡明な目で見上げた後、彼女はたずねた。「どうぞ私の隣にお座りください、他の方たちが私の申し上げることを聞く必要はありません。」

　ウルバノヴィッチ夫人は待ちかねて、いささか緊張してトーリチ夫人の隣に場所をしめた。婦人は落ち着いて、真剣に彼女の顔に見入った。

　「さあ、どうなさいました？」彼女は声を低くしてたずねた、あたかももう随分昔からウルバノヴィッチ夫人を知っているかのようだった。「恋をなさっているのですか？」

　「それもあります」未亡人は当惑して答えた。「でも商売の方が大事です。どういうことになるかわかりませんし、何が起きるのかわかりません。ある取引に莫大なお金を投資したの、今は夜も眠れません」

　占い女は無関心に頭を振った。

　「恋をしている。失礼ながら、いつもそうなのでしょう？どうぞ恥ずかしがらないで、ここには白髪の伯爵夫人たちだって自分の大きな問題を抱えてやってくるのですよ。この間もあるおばあちゃんがここにきました。孫の学校友達に恋をしたのです。そのために嘆く必要はないのですよ。私たちはみな人間です。そして恋は、誰が何才かは問いません。恋は人の後を追って教会にだって入って行くのですよ，お祈りの間も不意打ちしてくる、夢の中でもあるいは誰にも関係ないことの間にすら・・・ただ恥じるのだけはおやめなさい。ここにはペストからとても偉いレディたちさえやってくるのです。たくさんの方がもうこの家で幸福を見つけられました」

　落ち着いて、声を高くすることも休止することもなく占い女は話した、二つの黒い目がこの間すでに探りつつ女優たちとレゼダ氏の上に止まっていた。

　「それじゃ言って、どうなるのか？」ウルバノヴィッチ夫人がたずねた。

　「いいですか、それは私にはたずねないで下さい、私は予言女ではありませんから。予言する女はみな嘘を言っているのです、そして人々が彼女たちのきちがい沙汰を信じることで生きているのです。私には長い人生を通して経験してきたことしか言えません。それ以外一言もなし！あなたはいつもご自分の心の声にだけ耳をすませていらっしゃい、そうすればどんな取引でも幸運がやってくるでしょう。あなたは裕福な奥さんです、毎日のパン同様に身も心も必要としているものを、ご自分から奪わないで下さい。あなたは勤勉で、まめで、善良な奥さんです。健康的で、活力をお持ちです、ただご自分が必要としているものを自分から奪うのはおやめなさい、そうすればどんなことにも幸運がやってきます。それ以上のことは私はあなたに言えません。さて、お嬢さんがた！金髪のお嬢さん、どうぞ近くにいらっしゃい！」

　ウルバノヴィッチ夫人はもう一つ二つ質問したかったのだろうが、トーリチ夫人はすでに彼女から視線を外していた。彼女は立ち上がり、クラーラに場所を譲った、クラーラの方ではいくばくかの当惑と共に椅子にゆっくりと座った。トーリチ夫人は素早い一瞥を娘に投げた。

　「あなたはあなたが愛している人のものになるかどうか、それを言ってほしくて来たんですね」

　「いいえ」クラーラは答えた。「私はけっして彼のものにはなれないとわかっています」

　「どうぞ口応えなさらないで、お嬢様。トーリチ夫人をだますことは出来ませんよ。私のところには通りにだって一人で出て行く勇気のないような聖なる娘たちがやって来るのです、ところが彼女らの心には悪魔が住んでいるのです。恐がらないで、あなたは他の人たちと少しも変わるところがない。きっとあなたはその男にご自分を与えるでしょうし、そして明日か明後日にどうなるかは考えないでしょう・・・でもそのことを考えるのはおやめなさい。あなたは決してあなたが愛している人のものにはならない。この件全てを頭から追い出してしまう方がいいでしょう。あなたはまだ若いし、それに美しい娘です、あなたのことを本当に愛していて、考えることといったら全てがあなた、という人はあなたからそれほど遠くないところにいます。その人を愛しなさい、そうすれば恋ではとても幸せになれます。黒い髪の小さなお嬢さん。あなたにはカードを見てあげましょう」

　彼女は机の引き出しから角がすり減って、色の褪せた一揃いのカードを取り出した、まるでまだルノルマン⁴がこのカードから未来を予測しているかのようだった。シルヴィアにその束を切らせ、そして考えこみながら積み上げられたカードを見つめた。それから寄せ集め、新たに混ぜあわせ、切らせ、そして左から右に色褪せた人物像たちをきちんと並べた。シルヴィアは微笑みながら奇妙な図案を見つめた、それらには砂時計、ダンサー、死神と老人が次々と現れた、真の運勢占いカードだった。

　「全てが」トーリチ夫人は考え込みながらささやいた。「全てが近くにせまってきています。妙だわ、まるでもう今日のことのよう、日が沈む前に、その人の手にあなたの未来、幸せが完全にまかされている人にあなたは出会う。お嬢さん、私はあなたにカードが示すことしか言ってあげられません。非常に近いうちにあなたは幸せになります、誰かがとてもあなたのことを考えているのです、そしてもう彼は道の途上です・・・旅に出る、来る、遠からずここに来る」

　彼女はカードを急いでかき集めた、まるで秘密めいた人物像たちがそれまでだってすでに非常にたくさんのことを漏らしてしまった、とでもいうようだった。長いひもでゆっくりと無言でカードの束をしばった。引き出しをしめ、客人たちがまだ部屋の中にいることに驚いて目を上げた。

　ペストの住民たちは無言で遠ざかり、その後ウルバノヴィッチ夫人はテーブルに一枚の紙幣を置いた。トーリチ夫人は金に手を出さず、お礼も言わなかった、頭でうなずき、そして動くことなく自分の席に留まった。

　狭いブダの路地を、そこにはおとぎ話に出て来るような古い家々があったが、一行は無言でぶらぶらと下っていった。まるでみなが占い女の言葉を考えていたかのようだった。レゼダ氏だけが、自分の内でそっと笑っていた。

　小さな広場に一軒の古くて小さな喫茶店があった、そこは小さな井戸がひとつ入る位の広さしかなかった。彼らは喫茶店でおやつにした、ホイップクリーム入りコーヒーとクーゲルロフをとった。シルヴィアはぼんやりして周囲に視線を走らせた。

　「私いつかもうこの喫茶店に来たことがあるわ」彼女は言った。「でもいつのことだったかもう思い出せないわ。この黄色い絹の椅子はあのころはまだそんなにすり減っていなかったし、コーヒーはもっと上等だったわ」

　「ここはブダでは有名な喫茶店だったのですよ。ペストの恋人たちがここにデートにやってきたのです」レゼダ氏がもぐもぐと言った。「ここには恋が住んでいて、古い鏡に幸せな顔が見入っていたのです。当時晴れやかだった顔はどれほどしわだらけで、この世にあきあきしていることか、輝いていた目はクモの巣だらけになっているかもしれません。この小さな喫茶店も、全部のページが埋められた一冊の思い出のノートのように、擦り切れてしまいました。たそがれ時になると、黄色い絹の椅子であれほどの無意味なこととあれほどお上手を互いに言いあった後、恋人たちのカップルはペストに帰宅する、小さな喫茶店では明かりが消される！人生では何もかもがこんなものです」

　「鳥かごと中の黒つぐみだけがどこにも見えないわ！」シルヴィアはがっかりした。「それに『フルフル』だってこのどこかにかかっていたのよ、着飾ったパリの淑女とフロックコートの紳士たちの写真入りの！」

　すみの一枚の新聞の背後には黒い服の、もの静かな若者がそれまでゆったりと腰をかけていた。今や縮れた頭ときれいに剃った顔が見えるようになった。顔には立派なめがねをかけていた、そして青白い、悩める額を慎重に一行の方に向けた。

　シルヴィアは一瞬黙って感動し、ほとんど涙に濡れた眼差しでこの青白い若者を見つめた。それからそっと秘密めかして笑い始めた、そして幸せそうに隣人にうなずいてみせた。

　「メドゥヴェ！」彼女は叫んだ。「こんなところで何をしているの？メドゥヴェ」

　若者は赤くなった、そして彼はテーブルから立ち上がった。

　「もうずっと前から君を見かけていたんです、でも声をかける勇気がなくて！」メドゥヴェは柔らかく、恐がっている声で言った。「会えなくなってから、ずいぶんきれいになったね」

　「そしてあなただってなんて変わったのかしら！でも悪い方にじゃなくてよ」

　自己紹介から一同は指揮者のメドゥヴェと知り合ったことが明らかになった。

　その指揮者は本当にまじめで、言葉少なな若者だった。シルヴィアは反対に早口に、陽気にぺちゃくちゃ喋った。

　「今日の午後、あなたのことを話していたのよ。いつか喫茶店に行ったことを覚えてる？・・・どこで暮らしてるの？何をしてるの？あれから、私たちが会わなくなってから、どこにいたの？」

　メドゥヴェはどれにもほとんど答えられなかった、非常に物静かな若者だったからである。驚きながら目で見つめるだけだった、そして時折髪をなでつけるのだった。

　「メドゥヴェ、親愛なるメドゥヴェ！」シルヴィアは言った。

　晩方、帰宅したとき、帰り道でレゼダ氏は皮肉にシルヴィアに質問した。

　「さあ、わが君、もう詩は思い出せましたか、あの古い詩は？」

　女優はそっと、媚びるように笑った。

　「ええ。でも誰にも言わないわ」