第九章　オネーギン

　さて、恋が冷めればミューズが現われた！

　私はふたたび自由になって、韻律と感情、思考の結合を探し求めるようになる。

私は心晴れやかに筆を走らせ、

書きかけの詩のかたわらに、

われを忘れて、女の足のいたずら書きをすることもない。

わたしはなおも憂いにかられてはいるが、早くも涙のしずくは乾いてしまった。

　　　　　　　　　　　　　　　　　（プーシキンの「エウゲーニイ・オネーギン」から）

　レゼダ氏はブダに、王城に住んでいた、そして毎晩家に向かうとき、しばしば昔の王たちと、彼らが石の壁から歩み出てくるときに出会った。レゼダは学生のマントを羽織ったマーチャーシュ王あるいは気難しい黒い髭のジグモンド王（ハンガリー王　１３８７〜１４３７　ルクセンブルク王家の出身、妻マーリアはハンガリー王女で１３８２年にハンガリー女王位についてからは摂政として共同王位についた）の前では上品に帽子を持ち上げ、亡霊姿の昔の王たちが、秋の夜の霧の中から、青ざめた月の銀から、そして古めかしい塔の鈍く反響する鐘の音から織り出された影が、壁にそって再びどこかに消えていくまで、砦の傍らで頭を下げて立っているのだった。またあるときは耳をそば立てて一つ一つの深い眠りについている通りで立ち止まった。あたかも大地の下から、王城の下にある地下室から、アーチ型の地下道から酒宴の騒音が聞こえてきたかのように。深みからは遠くの笛の音が聞こえた、青銅製のワインの器がぶつかりあって音をたてた、そして楽しんでいる人々のワインの味のする歌は、夜の戦場をゴトゴト音をたてて走っている汽車で遠方の戦いに運ばれていく歩兵たちが歌っているように聞こえた。昔のどの王のつわものたちが城の地下室での酒宴の結果残されていたのか、誰にわかろう、地下室のドアは外から閉じられ、入り口の丸天井は崩れ、全てが永久に道を閉ざしていた・・・。また別のときには頭巾のついたマント姿で宮廷の腰元たちが、おしの夜に彼のわきを通り過ぎていった、そして彼女らの歩みは墓場の風のようにひっそりとしていた。一人か二人の靴のかかとは金だった。マントのすそがレゼダ氏の肩に触れていった、しかし彼は決して、毎晩亡霊となって現れる古い時代のレディたちの後をうかがう、などという騎士道に外れることを自分に許しはしなかった。黄金のかかとの靴は秘密裏に、城の曲がりくねった通りにそってどこかの古めかしい家まで女主人たちを運ぶのだった、そこではすでに何世紀も前の時代の騎士が待っているに違いなかった。彼の真夜中の散歩がペストの若者たちの散歩とは異なったものになるよう、多分われわれの憂いに沈む主人公はそのために、王城で住居を借りたのである。レゼダ氏は謎と夜を愛していた。

　彼はかつて、大平原（ハンガリー大平原　カルパティア盆地内のドナウ川の東側にあるハンガリーの中央および東部の平原をそう呼び、ドナウ川の西側にある北西部の平原を小平原と呼ぶ）と北ハンガリー地方の町では陽気で実際的な若者だった、彼はそこで早く過ぎ去ってしまった青春時代を送ったのだった。彼はケーシュマールク（現スロヴァキアのケジュマロク）の「蜜の庭」屋ではビールのジョッキの傍らで、他の連中と一緒に学生たちの歌を歌った、そして白い英国のパイナップル型ヘルメットを、かかとの高いパンプスと太いステッキを身につけていた（その片端をオーバーのポケットにつっこんでいた）。シュトルツ・ヘルミンに恋をしていた、ケーシュマールクの学生全員がシュトルツ・ヘルミンに恋していたからである、そして彼の最初の決闘はまさにこの愛しい淑女のため人民公園の人気のないダンス・パビリオンで行われた、テケリ・イムレ^１の時代からのものである湾曲した、生死を分けるサーベルで二人の上半身裸の若者は交戦した。青春の神は、死を呼ぶ風を切る音とともにぶつかりあう刀に注意していた、そして指貫ほどの血だけがパヴィリオンの床に残された、そこは最近シュトルツ・ヘルミンのリボンで飾られた白い靴がポーランドのポルカの音楽で踊った場所だった。この決闘はしかし評判の事件になった、そして勝者たるわれらの主人公がヘルミンからご褒美（一度のあだっぽい微笑み、暖かい握手か前もって彼女の唇が口付けした花という形で）を得ることが出来る前に、厳しい教官室が高校からこの決闘の関係者たちを追っ払った。ヘルミーナの青い目と陽気な笑いは鉄道の車輪のきしめきの中で長い間レゼダ氏についてきた。そうはいってもこれまで彼はホラティウス以外内容のある詩人を読んだことはなかったのであるが。

大平原の町のギムナジウムは緑の木々の間に立っていた、そしてアーチ型の窓、開いたアーケードで、学問の殿堂というよりはむしろいくらかあだっぽい狩猟用宮殿に似ていた。比較的若い教授たちは年長の学生たちと近くの温泉に一緒にどんちゃん騒ぎをやりに通った。図画の先生で詩人でもあるグロー・ピシュタのためなら、どの学生であれ喜んで人生を犠牲に捧げたであろう。レゼダ氏はもちろんこのどんちゃん騒ぎに加わった、二輪馬車で競争し、ジプシーたちと兄弟の杯を交わしたが、決してセレナードをやりに窓の下に行くことはなかった。彼は悲しげに、秘密に満ちた厭世感情を抱いてこの大平原の小都市を行き来した、変装した嘆きの国の王子のように。かつてのケーシュマールクでの勇士の決闘のことは誰にも話さなかったが、じきに北ハンガリーからの手紙がやってきて、それからレゼダの罪が明らかになった。そして北ハンガリーの世界観によれば、一人のより良き運命をたどる価値のあった若者の人生行路をあやうく真っ二つにするところだったその行為は、大平原のティサ地帯では我らが主人公を最も高名な若者に押し上げたのだった。ハンガリー史の先生ポルヴスキー・パールはヤゲロー一族（ハンガリーにおけるヤゲロー家出身の王は、ウラースロー�T世1440〜1444, ウラースロー�U世1490〜1516、ラヨシュ�U世1516〜1526がいる）についての輝かしい講義（堅固なハンガリー人たちを育ててきた昔の地方のプロフェッサーたちだけに出来るような）を終えたとき、勇士たちは歴史上にだけ存在するのではなく、我らの周囲でざわめく生活の中にも存在するのだと、ほのめかした・・・（後にハンガリー文学の先生ポルヴスキー・パールも同様に、ベッシェニェイ近衛隊長^２の素晴らしい一生の歴史に、今日でも詩人たちは、われらと共に、われらの傍らにいるし、そしてわれらの見るところでは彼らの才能は発展していると付け加えた・・・そしてその詩人とはまたもレゼダ氏だった、恋に失望した後は彼が詩人の行路に踏み出すことをご希望だったからである。こんな風に当時先生たちは若者たちを教育したのだった！）

　悄然たる憂いに沈む若者は、マリア・テレジア時代の騎士のように礼儀正しく上品だったのだが、一人で遊生林で、庭園下でぶらつくのが好きだった、そして人気のないモルゴー墓地かあるいはブイドシュ森林のはしばみのかん木の下で偶然に恋人たちをうかがうことができたときだけ、その顔を晴れるのだった。他の町同様，その町の紳士淑女たちは恋をしていたし、それどころか恋には喜んでさらに何かを犠牲に捧げた、というのももし何か問題になったら、娘たちを許すならわしだったからである。

　それは特別な町だった。ハンガリー人とスラヴ人の抱擁から生じた住民が砂だらけの丘陵の間に住んでいた。着飾った誇り高いティルパーク人（ニレジハーズとその近隣に住むスラブ系の民族グループ）は素晴らしい四頭立ての馬車をかり、婦人たちはスヴァトプラク（モラヴィア帝国の首長　〜８９４）の宮廷の貴婦人たちのように華やかに絹を身につけ、男たちは高貴な体躯の、勇敢で道理をわきまえた、経済的で誇り高い種族だった、あたかも彼らもドン河畔からやって来たかのようだった。丘にはロシア寺院が立っていた、そこではウング、ベレグ（現在のウクライナ領ベレゴボ一帯か？中世にはハンガリーのベレグ王城県だった）から南下してきたギリシア正教徒たちが歌っていたし、その娘たちは歌に出て来るような金髪で夢見心地にさせてくれた。ティルパーク人たちはマルティン・ルーテル派で、ハンガリー人たちは聖母を信仰し冠婚葬祭を行っていた。ユダヤ人たちのネギぼうず型の塔の下でブーツ姿で狩猟用のムチをもって行き来する若者たちはすでに存在していた、彼らはジプシー楽団のリーダー、ベンツィの額に百フォリントを貼り付けたりしていたが、婦人たちはまだたった今レンベルグ（ウクライナのリヴィフの古いドイツ語名）のゲットーからやってきたばかりのようだった、ほとんど通りに出ることもなく、もし誰かが現われれば、男たちは彼女を見て狂ってしまった。素晴らしいユダヤ女性たち！君はタバコ屋の夫人の目の中にアンダルシアの星空を見ることが出来るだろう、他方薬剤師の夫人はまるで千夜一夜の世界から出てきたかのように物憂げでもの静かだった。ドクトル夫人の髪は金色でカールしていて、彼女の濃い眉毛、首のうぶ気と隣人のところに行くときは肩に投げかけるスカーフは、ユダヤ人たちの家の上を通過するときの、クラッコーのヤゲロー家の塔の鐘の音を君に思い出させることだろう。

　放浪のレゼダ氏はある日獣医の若い妻ベルタと知り合った、彼女はエステルのように美しく、スザンナのように道徳堅固だった。陰鬱な若者の孤独でグチをこぼさない生活はベルタを感動させた、彼女は娘時代ペストの女子寄宿学校で一年を過ごしてもいた。十六才の早くに成長してしまった若者は、おそらくいささか彼女の興味を引いたのだ、彼はトルコ人を打つための剣を持ってあるケーシュマールクの令嬢のために戦いに行ったのだ・・・ティルパーク人たちの町ではベルタは上流界の淑女だった、彼女の服は生地をパリのボンマルシェから取り寄せたし、靴のフランス風のかかとはペストの靴屋の腕の見せどころだった、そして青白い、上品な顔にはまるでその考えがどこか他の遠くをさまよっているような憂鬱が宿っていた、それにベルタはつい最近できたルジョニ兄弟の百貨店のウィンドーをのぞいたことすらなかった。フランス語が出来たし、それを器用に会話に混ぜた、そしてお気に入りの作家はモーパッサンだった！町の図書館では〜それはゆがんだ肩でそばかすのあるローゼンフェルド嬢たちが主宰していたのだが〜何週間も前に「Rocambole」と「冷血漢」は予約しなくてはならなかったのだが。彼女は『パリの流行』と『週』の予約購読者だった。ペストでの娘時代ヘルタイ・イェヌー^３と知り合った。というわけで彼女は教養があった、キリスト教徒とユダヤ教徒の淑女たちは、日中彼女が散歩道を一人きりで散歩しているときばかにしていた。彼女はピアノでチャイコフスキーのロマンスを文句をつける余地がないほど弾きこなし、夜にはペストのオペラのことを考えた、そこではいつか「ウィンナ・ワルツ」というバレーを見たのである。彼女の爪はフランスの王女のようにつややかで清潔だった、そしておそらく日記も書いていた〜だがそれはもう町の淑女たちのか弱い怒りをかきたてるためだけにやっていたのかもしれない。スポーツのためにも町の近辺で長い散歩をする習慣だった、小さな真珠母の握りのピストルを長いマントのポケットに入れている間も、その手から黄色いカバーのフランスの本が欠けていたことは決してなかった。

　レゼダ氏は長い散歩の間その婦人のお供をした、そして大抵はこの厳しい女性の傍らを無言でぶらぶらした、彼女の靴はわずかな痕しか散歩道に残さなかった。レゼダ氏をこの時期から身近で知っている人なら、ほとんど間違いなく言っただろう、遊歩森と町はずれの散歩で、この上品な貴婦人の傍らで、早熟な若者はロマンティックに最初の恋人シュトルツ・ヘルミンのことを考えていると。とはいえ学校で学んだ詩人たち以外、たった一行の韻すらまだその心に鳴り響いたことはなかったのだが。

　ある夕暮れベルタは〜彼らが遠くの風車まで散歩したとき、そして道の途中でさすらいの歌手を聞いたとき〜学生にこう話しかけた。

　「坊や、あなたはあまりに教養がなさすぎるわ。いつかお髭が伸びたら、そしたら結婚すべきときがやってくるわ。ヘルミン嬢はそのときまでにはもうお嫁に行っているわ、そして汚いわんぱく小僧たちをお風呂に入れてるわよ。あなたは新しい女性の征服にその頭を使わなくてはね。ねえ、その人に気に入られたいと思うような一人の女性に、あなたは何を言うことが出来て？」

　レゼダは肩をすくめた。

　「私は気に入られたくありません」

　「坊や、あなたばかみたいなことを言ってるわよ」ベルタは本当に真剣に言った。「この地上にはお互いの気に入られたいからこそ男と女がいるのよ。女たちはそのためにこそ鳥の羽を帽子に刺すの。あなたに私の図書館から本を一冊あげるわ。それから少しは人生を学びなさい。でも読むとお約束してね！」

　「約束します」勇者たる少年は若干の躊躇の後で言った。

　夜、窓ごしにベルタは（このとき彼女の口では細い、端が金色のタバコが煙をあげていた）モロッコ皮で装丁された一冊の本をレゼダ氏に渡した。本の題名は「エウゲーニ・オネーギン」である。学生は何日もこの本のページをぱらぱらやることすらしなかった、この頃遺言書を書いていたからである。彼は母親の遺産について〜それは存在しなかった〜遺言した。お気に入りの猟犬たち、馬たち、所領をすべてケーシュマールクの少女に遺贈した。手元に信頼のおける老いた召使が一人もいなかったことは残念だった、彼に馬で書類を届けさせることが出来たであろうに。こんなに重要な書類を郵便に委ねることはおぼつかなく思われた。

　三日め、彼はベッドに横たわって本を開いた、そして（最初のページの）詩人の年譜でプーシキンが決闘でハンサムな親衛隊将校に撃ち殺されたことを読んでからは、知りたいという関心から長くかかると予想される詩作品に取りかかった。

　オネーギン！おそらく人気のない森林のベンチで、矢が突き刺さった女のハートと名前の頭文字の落書きの間で、まず「エウゲーニ・オネーギン」を再び読むためにこそ、もう一度若い生徒になってみるのもよかろう。モスクワに旅し、そしてバレーに拍手し、タチヤーナの手紙を受け取り、そしてネヴァ河畔を散歩するために。若き日にはわれわれはみなエウゲーニ・オネーギンなのである。そしてレンスキーの悲しい墓の塚で誰が涙を流さないでいられたろうか？

　ベルタは良い選択をした。オネーギンを読んだことは、突然新しい世界の奇蹟をレゼダ氏の前に開いてくれた、彼は人生の目的を選んだ、詩人になる、新聞記者、シャーンドル・プーシキンになると決めた、そしてこれら全てをある晩、燃える額とほとんど溢れんばかりの心でロシア詩人の韻をふんだ行を読んだとき、決めたのだった。翌日、彼らはちょうど古い墓地の方に散歩していた、レゼダ氏は勇敢にそして涙をうかべた目でベルタの黄色い手袋をした手を捕らえた。「タチヤーナ！」と彼は言った。

　婦人は若者の濡れた目をなでた。

　「あなたを目覚めさせてあげられてうれしいわ、坊や。『だが急ぐまい。生きること感情を誇張することを・・・』そっと待つのよ。あなたは夜いずれ新しい詩人の本を窓のところで見つけるでしょう、そして新しい奇蹟の世界と知り合うでしょう」

　「愛しています」

　「それじゃもう愛すること、征服すること、勇敢になることもオネーギンから学んだのね、愛しい人？」婦人は微笑みながら答えた。「ああ、あなたは素晴らしい生徒だわ。あなたがアルフレード・ミュッセのように、いずれいつか私のために死にたいと思って下さるといいのに。それじゃ夜に本はその場所に置いてあるから、今はそのことでこれ以上話すのはやめましょう」

　レゼダ氏がベルタの好意のおかげで読んだ2冊目は「ドンビー父子」だった、作者は英国の物語作家ディッケンズで、彼より美しくそして深い洞察を持って英国を、ロンドンをそして英国の若者と老人たちを、ウェールズの草原の上で輝く霧を、そして英国婦人たちの心の中で繰り返しとびまわる、羊毛のようにフワフワした雲を書いたものは誰もいなかった。レゼダ氏はほとんど涙で大切な女主の手をぬらすところだった、そしてオロシュ（サボルチュ-サトマール県、ニレジハーザの区域）のぶどう園に向かって散歩しながら、彼らは小さなドンビーの人生と死を最初から終わりまで詳しく話した。

　「あなたはミス・フロレンスです、奥さん」レゼダ氏は感動して口ごもった。

　「小説のヒロインだと見立ててくれてありがとう」ベルタは陽気に答えた。「町では流行を追っかける淑女だとバカにされているのに」

　レゼダが読んだ３冊目はアンデルセンが書いたもので、童話だった。そしてこの日から彼らは、特別な敬虔の念をもって道すがら、町外れにある古い風車の傍らを通り過ぎ、そしてこれまで気づきさえしなかった古い雨どいをすべてじっくりと観察した。

　４番目の本はボッカチオの短編集だった・・・そして突然美しい小説が途切れた原因を作ったのはフロレンスだった。

　レゼダ氏はある夜〜五月だった〜通りからベルタの寝室に通じる窓を開けた、ボッカチオが助言したように。つま先だちで、手探りしながら部屋の中を近づいていった、そこでは低い呼吸が暗闇の中で聞こえていた。ベルタが寝ている場所は前もって知っていた、そしてすでにベッドから立ちのぼる婦人の臭いを感じていた、そして淑女の柔らかい呼吸がコウシンバラの花輪のようにレゼダ氏の頭の位置にあった。

　暗闇の中でこのときある低い声が響いた。

　「そこにいるのは誰だ？」

　レゼダ氏は窓にジャンプした、途中で椅子を、テーブルをひっくり返し、電灯の高く舞い上がる光が彼の道を照らしてくれた、だが獣医にもだった、彼は逃げる色男の後からリボルバーの銃弾を送った。弾丸はレゼダの耳の脇を風を切ってかすめた、あたかも死神が終わりのない弦で長い音を奏でたかのように、そして夜のうちに彼はわずかな私物を荷造りし、町から逃げ出した・・・オックスフォードから外交官の行路からそして全てから、それはレゼダ氏の裕福な両親が息子のために計画していたものだったが、突然四散する夢となり果てた。

　これがレゼダ氏の青春の物語だった、彼はこの晩からさすらいの、そしてほぼ無職の詩人となった、地方の新聞記者となり後にはブダの住民になった〜あの夜に対して目覚めた愛だけは、秘密に満ち謎めいたものへ魅力は常に青々として新鮮なままだった、彼は読むだけの価値のある本はすでにすべて読んでしまっていたのだが。

　獣医夫人のベルタとはほぼ一年というものレゼダ氏は文通した。大方彼の昼間は、ある涼しい、丸天井のある薄暗い月決めの部屋から女性たちに手紙を書くことで過ぎていった、そこはかつては監獄か修道士の独居房だったかもしれない。書き物机にはロココ風の足があった、インクには金粉を混ぜ、名前を僧院長のように署名した、そして封筒の裏にはリラ色の封ろうに昔のある法王の紋章を押した。時折彼は、ベッシェニェイ近衛兵の名前で淑女たちと文通するときは、鵞ペンで書いた、またあるとき騎士フランケンシュタインとして地方のある令嬢と手紙を交わしたときは、赤い飾り文字を羊皮紙に描いた。彼はオネーギンがタチアーナに書いたように書いた、千夜一夜の商人シンバッドのように書いたー彼はフランス王アンリ三世でありヴィズィヴァーロシュ（ドナウ河畔のブダ側にある区域、現在はブダペストの１区と２区とに分けられていて、北側部分が２区にあり、南側部分は１区の王城の丘とドナウ河にはさまれた区域）の私書箱「ナヴァールのマルグリット」宛てに書いた。時折夕食すらとらなかった、そしてそれらを女性たちに書いた手紙に署名出来るようにと、美しい偽名を考え出すのに頭をひねるのだった。サポヤイ・ジェルジ^４の署名を模倣するのには特に成功をおさめた、それはある古文書で見つけたものだった。彼はタバーン（ブダ側の現在の１区、王城の丘とゲレールトの丘にはさまれた地区で、王城の丘の南斜面には、当時でさえ古い建物が多く残されえいたが、現在は全て取り壊されている）と王城のロマンティックな淑女たちと長い長い手紙を交わした、愛しい女性たちの中のたった一人とすら個人的に知り合うことなく。夕方または夜半に手紙を、開けっぱなしのままの窓や門やドアの下にすべりこませ、やがて郵便局に秘密を委ねた、そして彼が心に浮かぶ感情をそれぞれ昔の時代の騎士の名で通訳しても、女性たちは決して腹を立てなかった。ある小さな小間使いイザウラとだけは問題があった、彼女は読み書き出来なかったのだ。

　ベルタはとっくに夜半の訪問を許していたーこの世に、こんなことを許さないような女がいるだろうか？彼の手紙を私書箱ボルネミッサ・ジュジャナの名宛てで地方の郵便局へ送るよう求めた、そしてひんぱんにレゼダ氏にこう書いた、彼女はおおむね彼に対しては母親か姉のように感じている、弟が女王の宮廷で奉公している間、彼女は昔のトランシルヴァニアの館で家政をみているのである。本を送った、そして本の中で彼女自身が大きな楽しみと共に読んだ箇所にしるしをつけた、時折一筋の髪、またあるときは一本の鉛筆が、遠い地方都市にいるあの美しい目がどこで考え込んでいたかを示していた。こんな風にしてレゼダ氏までサッカレーやドストエフスキーと知り合った。スペイン人の中ではセルバンテスとペドロ・アラールコンに楽しませてもらっている一方で、ベルタはフランス作家たちの中でモーパッサンを崇拝していた。Ｅ・Ｔ・Ａ・ホフマンと驚くべきチェホフは一緒にブダに到着した、そしてテニスンの「国王物語詩集」は多くの手紙の交換の機会を与えてくれた。こうしてベルタは遠くからレゼダ氏を教育し、教養を深めさせた、彼女が夫と共にペストに来て、聖霊降臨祭（復活祭後の第７日曜に始まる１週間）の午後女王の宮廷で騎士たる弟を捜すとある日書いてくるまでは。レゼダ氏はこのとき家から逃げ出し、夕方遅くまでブダの山をうろつきまわった、草に寝ころび、泣いて、詩を作り、自分自身をひどく不運だと感じ、自殺を考え、そして夜爪先立ちで月ぎめの部屋に入った、そこは彼の手紙では常に、驚くべき騎士たちの間として書かれていた、ここで彼は黄金色の絹のマントと深紅の帽子で散策したものだった、すみには真夜中にハイドンの教会音楽を演奏する大きな時計があった、そして古いひざつき台の上には中世の十字架がかかっていた、そこでは彼はベルタのために祈る習慣だった・・・（多分レゼダ氏は恥ずかしさのあまり家から逃げた、あるいは彼自身の意見では一番愛していた人と会う勇気がなかったので家から逃げ出した、それほど奇妙な人物だったからである）・・・テーブルには一本の黄色いバラが横たわっていた、それはベルタの伝言だった。―それから彼らは二度と手紙のやりとりはしなかった。

　夏だった、そしてレゼダ氏は王城からペストに、中庭では葉の茂った木々の立っているヨージェフヴァーロシュ（ペスト側にある現在の８区、ベルヴァーロシュのある５区の外側、労働者階級の居住区だった）に引っ越した、そして平屋建ての家々で窓は毎夜開いていた、そこでわれらの主人公は立ち止まって、眠っている女性たちの呼吸に耳を傾けた。午後には時折カフェに通い、孤独に、知られることなく新聞の背後に隠れ、ボーイをギャルソンと呼んだりしている間、お針子の娘たちと親しくなった。文通は完全に停止した、美しい偽名はもはや思い浮かばなかった、見知らぬ女性たちと城の砦の下でデートすることはなかった、そしてもはやブダの令嬢たちを、いずれ彼女たちを静かな家から逃亡させると脅かすことは二度となかった。生身の女性たちと知り合いになることに憧れた、そして胸の病のお針子嬢とその女友達の小さな帽子作りを日曜の午後喫茶店に連れて行った、だがああ、もう単純な女性たちのグループの中では幸せとは感じなかった。悪魔的な女性たち、オルフェウムのレディたち、シャンソン歌手たち、フランスのスーブレットたちの姿が彼の夢の中でとびまわっていた。カナダからブダペストにやってきた踊り子たちのことを考えた、そしてサーカスの女曲馬芸人を見た、彼女は駿馬が、舞台の上から響いてくる音楽のリズムにのってダンスのステップで動いている間、鞍から微笑みかけてきた。社交界が彼を誘惑し、そしてオルフェウムのプラカードの前で長い間立ち止まった。夢遊病患者のミス・フローレンス、あるいはスペインの踊り子フラスキータ・セーナが夜にはレゼダ氏を楽しませてくれた、どこかで彼女たちに会ったことすらなかったのだが。彼はこのミスを容易に、ある古いスコットランドの狩猟用宮殿のホールに、赤みがかった金髪のとても上品な顔に目をきらきらさせている女性たちの間に置いてみた、彼女の細い腰には間違いなく赤い乗馬用外套がぴったり合い、そして、このセニョーラがセヴィリアの女性たちの心とろかす優美さとヘレスのワインの焔をわれらが孤独な夢見る者の心に送ってくる間、サーカスのむちがその手にはあった。そしてこの後間もなく彼は、ホルテンシェという名前のある花売り娘と知り合うことに成功した、彼女のために夜をオルフェウムのカフェで過ごし、そして明け方、比較的人気のない通りでは彼女から花かごを引き受けてやって、このユダヤ娘を家まで送った。粋な庭師たちは、驚異的な女性芸術家たちの名前をバラやリンゴやナシにつけたりしていたが、彼女たちの中で、明け方ある人気のないカフェーに陣取って、婦人はコーヒーを、男はプラム・ブランデーを注文しているとき・・・上流社会、ロシアの大公たち、ヒモたち、金をばらまく横領者たちについてレゼダ氏に語ってきかせたのはホルテンシェだった、・・・

　「それでバレーでは何かニュースはあるの？かわいい人」レゼダ氏がすでにいささか容貌の衰えているホルテンシェにたずねた。

　再び月日はとびさり、われわれはレゼダ氏をある絵入り新聞の小さな事務所で発見する、そこで彼は明け方燃えるような空気の、鉛の臭いのする牢獄で、濡れたゲラ刷りの添削をしている、新聞記者だと名乗って時折劇場の切符にありつき、コーラスの最前列で歌っている緑色の服の妖精に恋をする。「カフェ・ニューヨーク」^５に通い、オーナーであるコーヒー王ヒルシュ一家から助言を求めた、批評家になるべきか詩人になるべきか？ヒルシュ氏一家はその時期まだ文学を崇拝していた〜そんなふうに私の祖父はかつて物語った。

　地方で知り合いだった女優たちがやってきたとき、レゼダ氏はペストでそんな風に生活していた、そして彼は砲兵通りで美しい小説と詩を読み聞かせた、それはかつてベルタから贈り物にもらったのだった。彼はベルヴァーロシュ（ペスト側のドナウ河畔に面した地区で、現在のブダペスト５区、高級商店街やレストラン、ホテルや市庁舎が集まっている）に住んでいたが、もし女性が一人窓から星々を、夜半の天空の雲または月を見ていないかと、夜半開いた窓の下で立ち止まるのだったーだがレゼダ氏が家に向かってブラブラ歩いていたとき、誰一人決して窓から遠くを眺めてはいなかった。復活祭の朝にブダペスト中で彼だけが一人で開いた窓に向かって、ファウスト式に登る太陽に挨拶しようと詩を自分自身の内で唱えながら立った、買ってくれるものなら、彼は喜んで魂を悪魔に売ったかもしれない。

　ブダのケーキ屋での出会いの結果の一つとして、レゼダ氏は決してチェルターパノフとその友人の素晴らしい物語を読みきかせることはなくなったし、静かで純潔な午後には終わりがきた、そうした午後小さな住いではほとんど小説のようにベルヴァーロシュの塔の時計の音を聞くことが出来たし、春の日には部屋は花瓶の花々と令嬢たちの香りが一緒になって満ちていた。シルヴィアはすでに午後早くに着替えをした、そして自立した淑女として、付き添いなしに家から出て言った、手袋のボタンを階段でかけた。ホルバート嬢は一、二日女友達の不実を嘆いていた。

　「一体彼女はどこに行ってるのかしら？」彼女はレゼダ氏にたずねた、彼はまるで家で死人がでたかのように首を垂れて来た。

　レゼダ氏は答えなかった、不満を表すだけで、痛ましげに肩をすくめた。彼は部屋の中を行ったり来たりした、そしてときたましか笑わなかった、まるで誰かに尖った短刀で心臓を刺されたかのようだった。

　「どこに？」ホルバート嬢は繰り返した。

　レゼダ氏は皮肉に高笑いした。

　「あなたは私にそれをおたずねになるのですか？あなたの方こそ女友達の秘密をもっとよく知っているはずではありませんか、それにマドモアゼルはほとんど女性に属していますよ、そして女たちは多分お互いを理解出来るのではありませんか？ストリンドベルグは正しい、女たちとは奇妙な小さな獣で、彼らを人間のうちに数えてはいけない。堕落し、純潔の境界線を捨てるには、彼女たちにはたった一回の目くばせ、合図で充分である。再び彼女たちを奴隷状態に投げもどすために、男たちは女たちを罰しなくてはならないのです。もし私次第なら、女性の二人に一人はペストで火あぶりにさせます・・・

　「シルヴィアのせいで？」クラーラはたずねた、そしてこっそりとレゼダ氏を見つめた。

　「シルヴィアのせいでもあり、他の大勢のせいでもあります」レゼダ氏は激しく答えた。「それじゃあなたのお友達は変で、お笑いぐさじゃないというんですか、あなた？彼女はある愚直な指揮者と会っています、彼は多分生きることも、生きるということの意味も知りません。シルヴィアは彼に会ってすぐ、これまでの安らぎに満ちた静かな生活をひっくり返してしまった・・・彼女は、まるで道を踏み外してみたいと思し召すペストの女性たちのようにブダのケーキ屋に通っています、彼女たちは兵士か長い髪の音楽家を待っていて、そして城壁の下の人気のない静かな通りでカーテンを閉めた馬車の中でころがるのです・・・恋とはとても美しいものです、ただそんなにお笑いぐさな、不器用なポーズでやってほしくない！ブダに赴く淑女たちが顔に結んでいる厚いヴェール、頭のてっぺんからかかとまで新品で、香水をかけた下着と新しい手袋、すなわちどれも罪の道具でしょう？もし誰かペストのマダムが新しい靴下で橋を渡ったら、ゲレルトの丘の下で火あぶりに処せられるという法を作らなくては。ブダのケーキ屋への、冒険の馬車のドライブへの、バカな兵士への、半気ちがいの楽師たちへの淑女たちの好みは失せるだろうと、私にはわかっています・・・シルヴィアは以前は決してばら色のリボンをシャツに結ぶことはなかった！」

　ホルバート嬢はびっくり仰天して頭を振った。

　「どうしてご存知なの？あなた」

　「ばら色のリボンが家になかったからです。なぜそうするのです？あのばかな指揮者の気に入られたいのですか？あのメドゥヴェとは誰で、何者です？能無し、ぶきっちょ、スカートの狩人じゃありませんか。間違いなくあのときも、誰かヒステリックな令嬢をケーキ屋で待っていたんです、彼女を音楽で、芸術でそして酔狂な女たちを惑わす他のもので目をくらませてやろうと。親愛なるクラーラ、ここで何とかしなくてはなりません、われわれはシルヴィアが一人の気ちがいの気まぐれで、ブダのケーキ屋の吐き気をもよおす雰囲気で破滅するのをほっておくわけにはいきません、そこでは甘ったるいモーツァルトの音楽が時計から流れていて、そして黄色いタペストリーの中ではロココ風の伊達男たちとレディたちが腕を組んで散歩しているのです〜これら全ては小さな婦人たちに人生の平土間で足を踏み外させるためのものなのです」

　クラーラは声高に、口を大きく開けて笑った。

　「あなたは最高に愉快な人ね、レゼダさん」彼女は叫んだ。「いつかある知り合いがあなたについてこう語っていたわ、あなたはマルティン・ルターの宗旨からカトリックの信仰に移りたいと思ったとき、マーリア通りのイエズス会の修道院に行って、そこのびっこの庭師に教父になってくれと頼んだって。さあ、あなたはまたびっこの庭師の方を向いているんだわ・・・一体私に、ブダのケーキ屋とシルヴィアのお散歩が何の関係があるの？間違いなく彼女は、私たち二人よりもずっと幸せよ。愛していて、恋をしていて、美しい春の午後ブダで腕を組んで散歩する以上に、大きな幸せがあるかしら？そこでなら人は知り合いと出くわす心配はないのよ！古い家々、カーブしている通りが、そんなにも大勢の同罪のお仲間のように目配せする、そしてタバーンでは祭壇の五月の花々が聖処女への敬意から花開いているとき、寺院は午後も開いている、そして花々の香りが香と混じって、そして静かな教会の後列のベンチで永遠の誠実を誓うことが出来るのよ。あなたは多分まだ一度だって人気のない、静かな寺院に恋人と腕を組んで行ったことがないでしょう、そしてそんな風にしてどのマリア像も表情をやわらげて励まし、そして大きな髭の聖人たちが褐色になったキャンバスからほとんど前かがみになるのを見たことがないでしょう、後列で互いに隣会って若者とそのレディが膝まづくとき・・・あなたもう教会に行ったことがあって！」

　「行きましたよ」腹を立ててレゼダ氏が答えた。「ロークシュ礼拝堂（ロークシュは伝染病患者の守護聖人）で暗い初春の早朝、咳こんでいる憂鬱げな尼僧たちで身廊外陣が一杯になったとき、彼女たちはたぶんあのとき死にかけている人の傍らからやってきて、そして彼のため急いでお祈りを唱えていたのです。私はいっときそこへ通いました、私も死にかかっていたからです、そしてその尼僧たちが私の目を閉じてくれるようにと希望しました。いったいどうしてシルヴィアは尼になろうとしないのでしょう？」

　ホルバート嬢はそっと立ち上がって、レゼダ氏の肩に手を置いた。長々とその顔に見入った。

　「お話したいことがあるの、レゼダさん。私たちここでお互いに不平を言うのはやめましょう。外には日光と春があるのよ。あなたは通りに出る、そして私は着替える、それから私たちは散歩に行く、もしそうご希望ならブダに。誰も見てないところで、そこで私が私はあなたと腕を組みましょう」

　レゼダ氏はクラーラの手にキスした。女優は両側から彼の顔をなでた、それにレゼダ氏は皮肉に笑った。

　「あなたにいくつか告白しなくてはならないことがあるの、坊や」クラーラはいささか心動かされて言った。「私は罪人です。カルヴィン派の教育を受けました、カトリックの婦人たちのようにイエズス会に懺悔しに出かけることは出来ません。後であなたに全てを懺悔します」

　レゼダ氏は青ざめた。

　「何があったのです？」

「びくびくしないで。何一つ起きはしませんでした。赤い色がお好き？赤い帽子を頭に被るわ」