配役
ラースロー セレーニ・ゾルターン
ヨラーン Sz. ヴァルシャーニ・イレーン
ヤーノシュ フェニヴェシュ・エミル
悪魔 ヘゲドゥーシュ・ジュラ
エルザ P. ガジ・マリシュカ
シェイェミ・ツィンカ ヘゲドゥーシュ・ジュラ夫人
アンドラーシュ ジョーゾー・ラヨシュ
招待客たち
１９０７年４月１０日、ブダペストのヴィーグ劇場で初演
著作権はモルナール・フェレンツ、１９２８年ブダペスト
ヘゲドゥーシュ・ジュラへ
第一幕
（場面はヤーノシュの住まい、アトリエの隣の部屋。下手奥に舞台側に向いた仕切りカーテンのかかったガラス戸。開けると、アトリエが見える。上手から背景に切られた隅には玄関に通じるドア。下手前方にドア。背景の二つのドアの間にはアンティックな箪笥。箪笥の前には模様付きのクロスのかかったテーブル、彫像や花びん、肖像画で一杯。テーブルの左右に椅子。下手の一番奥にアンティックな戸棚。下手舞台前方には壁にぴったりついたテーブル、もう一つのと同じような形だが、少し小さめ。テーブルの傍らには壁際に椅子。下手の戸棚とテーブルの間の床の上には衣装掛け、カラフルな衣装、ショールがたくさんかかっている。下手前方に大きな、金色に塗られた、直立する教会の木製のろうそく立て、十二個の白色電球がついている。下手前方にはシートがかかっている幅の広いソファ、その上にはカラフルなクッション。ソファの前には小さいが、低くはない小テーブル。その上には灰皿のセットが置かれている。ソファの前には右側にクッション。上手、背景のドアの前にはついたて。上手の舞台前面には、火花のような赤熱がもれているフランス風ストーブ。ストーブの前には聴衆と背を向けて、非常に大きな王座のような、赤い黄金色の肘掛いす、その背もたれは坐っている者を完璧に隠してしまう。王座の隣には、左側に低いトルコ風の椅子（背もたれのないスツール）本が乗っている。部屋の壁には多すぎるほどの額に入った、あるいは額縁の無い絵、スケッチ等。壁にはカラフルな織物、教会の法衣。石工像、頭部像、怪物たち。天井からは非常い飾りの多い、むしろダンス・ホールに似合いそうなシャンデリアが下がっている。午後三時）
第一場
ヤーノシュ、アンドラーシュ、あとでツィンカ
（舞台は一時的に空）
ヤーノシュ （帽子と冬のコートで入ってくる、これを脱ぐ）アンドラーシュ！－アンドラーシュ！
アンドラーシュ （アトリエから入ってくる）
ヤーノシュ どこをうろついてたんだ？
アンドラーシュ どこも、旦那様。
ヤーノシュ ドアが開けっ放しだぞ、誰でも入ってこれるじゃないか。（アンドラーシュアトリエに駆け込みビロードの上着を持ってくる。その間アンドラーシュはアトリエにいる）今日の新聞はどこだ？（見つける）さて、何がのってるかな？（アンドラーシュ入ってきて上着を着るのを手伝う、ヤーノシュ煙草に火をつける）洗濯屋は燕尾服にアイロンをかけてくれたか？
アンドラーシュ 一時間したら届けにきます、旦那様。
ヤーノシュ よし。（彼に金を渡す）ここに１コロナある。衣料品店に行って、燕尾服に合わせて白いバチスト布のネクタイを買ってきてくれ。見本に古いやつを持っていくといい。（アンドラーシュ出発する）待った。ベッドに硬いＹシャツとカフスとカラーの支度をしておいてくれ。真珠のカフス・ボタンを捜して、あそこの上の引き出しの中のマッチ箱に入っているから。待った。その１コロナは返せ。（そうする）ここに５コロナある。バーティー用の白い手袋、サイズ八号のやつを２、３セット買ってきてくれ。後でちゃんと報告するんだぞ。出かける前にアトリエに行って、ステージにヴェネチア製の椅子を置くんだ。三時頃ラースロー夫人がいらっしゃって、肖像画のポーズをするから。その後はもう誰が来ても僕はいないと言うんだぞ。（その間ソファにどっと身を投げ出す）こっちに灰皿をくれ。（そうする）行っていいよ。
アンドラーシュ あのう、旦那様。
ヤーノシュ なんだい？
アンドラーシュ ツィンカが来ています。
ヤーノシュ どこだ？
アンドラーシュ 中のアトリエです。
ヤーノシュ 帰らせろ。必要ない。（新聞をめくる）
アンドラーシュ （ガラス戸のところへ行く）お嬢さん（手で合図して追い払おうとする）今日はモデルはいりません。
ツィンカ （入ってくる）今日は。（返事がない）今日は描かないの？
ヤーノシュ 描かない。（新聞をめくる）
（アンドラーシュ、アトリエに入る）
ツィンカ （悲しげに）ごきげんよう。（振り向く）じゃ明日は？
ヤーノシュ 明日もだ。
ツィンカ ごきげんよう。（目をぬぐう）あなたもう私が好きじゃないのね、あなたもう私が好きじゃないんだわ。
ヤーノシュ また始まったな。
ツィンカ もう秋からずっと好きじゃないんだわ。あなたが風景画を描き始めたとき、私すぐわかったわ。好きだったときは、私のヌード像を描いてたんだもの。私知ってるわ、風景画がくるとき、それがどういう意味なのか。
ヤーノシュ お前はおばかさんだねえ、ツィンカ。
ツィンカ わかってるわ。服を着てるときのモデルはみんなばかよ。
ヤーノシュ おとなしくお帰り。
ツィンカ 帰したらいいわ、帰したらいいわ。おとなしく家に帰るわよ。もう一週間ずっと私いつも服を脱ぎもしないで、ここから出ていってるのよ。それじゃ私って一体何なの？（わっと泣き出すが、すぐに止めた）いいこと、私にはみんなわかってるんだから。
ヤーノシュ そうかい？
ツィンカ 私を見て。ほら私のことを見て。あなたは結婚するんだわ。私の目を見て違うって言える？
ヤーノシュ 違うよ。
ツィンカ それじゃ、あなたはいつまで私の目を見てそう言ってられるのかしら。あなたはトート・エルザという名前の娘さんと結婚するんだわ。お友達の奥さんのラースロー夫人がこのおはなしのお膳立てをしたんだわ。私の目を見て・・・だけどムダね、だってあなた私の目を見ながらでも何だって言えるんだから。
ヤーノシュ その話し全部、どこからきいたんだい、天使さん。
ツィンカ そのラースロー夫人のようにきれいで、若い女の人なんだわ。ご本人があなたと仲良くする代わりに、あなたを結婚させるのよ。あなたにはわかってるんだわ、だって私はそれでも気にしなかったでしょうしね。あなたは私のことなんか、ちっとも愛してないのよ。いつだって風景画を描いてるんだから。
ヤーノシュ それじゃ今、僕にどうしろっていうんだい？
ツィンカ （彼の首を抱く）何も。私みたいな、貧乏なヌード・モデルは何も期待出来ないのよ。あなた方が結婚したいというんだったら、私たちモデルはどんなことだってやってやれるわよ、そうなればやっぱりあなた方はお得意様を失くしちゃうのよ。せめて「愛してるよ」位言ってよ！
ヤーノシュ ふうん。
ツィンカ 鼻歌まじりね。私の昔の愛人のナーライは、もっと上手に鼻歌を歌ったわ。
ヤーノシュ 誰だって、自分に出来るようにしか歌えないじゃないか。
ツィンカ それだってモデルが相手だからこそ出来ることよ。私もう、絵描きさんたちの愛人のことはわかってるのよ。始めは「愛しい人、大切な人、わがフォルナリナ1、わがフォルナリナよ、なんという背中、なんという胸、なんという輪郭」。そして後になると「お前の肌は黄色だ、お前の肌は黄色だ」－それからもっとすると「今日は時間がない」。それから風景画とパチン、終わりよ。愛してる？
ヤーノシュ （微笑んで）うん。
ツィンカ もしあなたが紳士なら、お嫁さんにするって今約束してくれたでしょうよ。いい？、ナーライは紳士だったわ、いつだって約束してくれたもの。彼はけちんぼじゃなかったわ。私たちの間にはそれすらないの？私に飽きたの、飽きちゃったの？
ヤーノシュ もしお前に飽きてるなら、もうとっくにお前と別れていただろうさ。おいで、僕の可愛い、飽きちゃったちびさん。（キスする）お行き、天使さん、家にお帰り、お行き、お行き！
ツィンカ 明日も来なくていいの？あさっても？
ヤーノシュ うん。
ツィンカ それじゃもう二度と私のヌードは描かないのね？
ヤーノシュ あとで夜にお前のところに行くよ。どっちみち十一時にはラースローさんのところのパーティーに行かなくちゃならん
ツィンカ でもそれじゃ私の部屋でどうやって描くの？何も見えないわよ。まだガス管だって引いてないのよ。石油ランプしかないもの。
ヤーノシュ （ドアのところで）じゃ後で二人でフーフー吹いてやろう。じゃあね！
（アンドラーシュ入ってきて、アトリエへと部屋を横切る。ツィンカ退場。ヤーノシュ消えてしまった葉巻に火をつける、長いすのところへ行き、再び新聞にとりかかり横になる。鋭い呼び鈴の音。突然飛び上がる。いささか緊張して声をかける）
ヤーノシュ アンドラーシュ！
アンドラーシュ ただいま！
（アンドラーシュ舞台をつっきり、入り口を開けて出、開けたままにする。ヤーノシュ、ネクタイを急いで直す。新聞を置く。葉巻を灰皿に押し付けて消す。髪を整える。入来者たちの前に行く。アンドラーシュは外に残っている）
第二景
ヤーノシュ、ラースロー、ヨラーン
（ラースローとヨラーン登場）
ヤーノシュ よくいらっしゃいました。やあ。（挨拶がかわされる）
ラースロー （急ぐ）君、僕はただ妻をここに連れてきただけなんだ。急いで事務所に引き返すよ。
ヨラーン （あたりを見回す）それじゃあなたのところはこんな風なのね？
ヤーノシュ 変わってるでしょう？ガラクタの山さ。
ラースロー 始めは僕ら、今日肖像画を描き始めるのはよそうと思っていたんだ。今まで六年間待てたんだから、明日まで待てないこともないだろうしね。でも彼女今夜のパーティーの準備でこんなに神経過敏になってしまい、それで僕が連れて来たというわけさ。これが僕らの新築祝いの最初のパーティーだって知ってるかい？
ヨラーン しかたなかったのよ、あなた、お返しはしなくちゃ。
ラースロー 僕らとしてはもううんざりだけれどね。ひけらかしは好きじゃないんだ。僕はロンドンでフリーボディーのところで商売の勉強をしたんでね。彼は九億持っててもパーティーなんか決して開かなかったぜ。この虐げられたペストだけはそうしなくちゃならないんだ。いつ彼女を迎えに来たらいいかな？
ヤーノシュ 最近は暗くなるのが早いんだ。四十五分もすればもう絵の具を塗ることも出来なくなる。
ラースロー それじゃ？
ヤーノシュ （自分の時計を見る）四時頃に。
ヨラーン （一枚の裸体画を指す）この絵は誰？
ヤーノシュ モデルです。
ヨラーン 誓ってもいいわ。これは今階段を降りてきた人だわ。
ラースロー え、シルクのツィンカ？それじゃ見てみなくちゃ。（絵の方へ向かう）正確には見る必要もないな、時は金なりだ。願わくは、君ももう今となっては、このツィンカなんかとは終わりにしなくちゃならんよ。君だって、僕らがこのパーティーを開く理由の一つなんだよ。だろう？
ヨラーン 確かにそうね。今日はあなた決定的にトート・エルザに恋をなさるんですから。
ヤーノシュ 最高の心づもりをして行きますとも。あなた方は僕をと殺場に連れていくんですよ。結婚に！結婚に！
ヨラーン 私どんなに幸せになるかしら！
ラースロー そして僕も。そしてあの娘も。そして君も。全員が。
ヤーノシュ 僕もそう願ってる。あの娘さんはとても優しいんだ。
ヨラーン 彼女なら・・・
ヤーノシュ もしもう一言言わせてもらうなら、僕は崇拝さえしているよ。でもそれは夜になってからそうなる予定さ。
ラースロー 僕は行くとするよ。ぼくのところの連中は一分おきに電話してくるかもしれないからね。フィウメ2からのとうもろこしの件で。（ヨラーンにキスする）四時頃に迎えに来るからね、君。安心したまえ。ジェルボーが全部片付けてくれるさ。何も心配しなくていいよ。じゃあね、君たち。
ヤーノシュ 奥さんをここに置いていっていいのかい？
ラースロー 正直なところを言おうか？こんなに急いでいるのは、また考え直して連れて帰りたくなるのが恐いからさ。
ヨラーン 焼いてらっしゃるの？
ラースロー 嘘を言おうか？それなら、ノーだ。もし滑稽になるのが恐くなければ、こう言うだろうな、「君たち、自分自身に気をつけるんだよ」神のご加護を。（退場）
第三景
ヤーノシュ、ヨラーン
（ヤーノシュ、ラースローを送っていく。もどってくる。ドアを閉める。敷居のところで無言で立ち止まる。ヤーノシュがもどってきた瞬間、ヨラーン激情的に身を震わす。今や額に手を当てる）
ヤーノシュ どうしたの？
ヨラーン （神経質に、そっと笑う）な・・・何も。
ヤーノシュ （優しく）何かにびっくりした？
ヨラーン （答えない）
ヤーノシュ さあ！
ヨラーン （神経質に、混乱して、まるで彼を怖れているかのように）そうね、今アルフレードが出て行ったとき、私まるでどこかに置き去りにされたみたいに感じたの。
ヤーノシュ どうして？
ヨラーン ママがドレスデンのペンションで出ていったとき、こんな感じだったわ。今私はここで一人きりで外国にいるんだって。今は自分で考えなくちゃ。私は・・・あのね、六年間一度だってここに来たいとは思わなかったのよ。（辺りを見回す）まるで魔女の台所か何かみたい。骨董品、変わった動物たち、頭像たち・・・あなたはまるで魔法使いみたいにこの中に立ってらっしゃるのね。主人がここにいる間は、気づきもしなかったわ。でも彼が出て行ったとたんに、この頭像たちはみんないっせいに私のことを見ていたのよ。（身震いする）
ヤーノシュ 神経質になることはないさ。この部屋はアトリエにつながっていて、僕が描く御婦人方はみんな、ここに来るんだ。
ヨラーン （落ち着いて）それでここにいらっしゃるご婦人はみんな、あなた描くの？
ヤーノシュ いや。
（間）
ヨラーン 主人が何と言ったか、お聞きになった？
ヤーノシュ 聞いたよ
ヨラーン 私が彼の妻になって、そしてあなたが私たちの、もの静かで尊敬出来る良いお友達になってこの六年、彼一度か二度はこのことを冗談の種にしたわ。でも今の声から、冗談を言う気分じゃないのが感じられたわ。
ヤーノシュ 彼は焼いてると？
ヨラーン いいえ。でも私は初めてここに来たんだわ・・・あなたのところに、あなたと一緒に、一人きりで。
ヤーノシュ 六年間というもの僕らはこの問題を蒸し返したりはしなかった。今、あなたの方からもち出してきたんだから・・・でももう何週間も、このことが僕らの間で話しに出るだろうって、感じてはいたよ。
ヨラーン 六年間私たちがその件については一言も話さなかったことは、なんて素晴らしい、甘くて静かな平安だったのかしら。潔白な良心って、生ぬるい温泉みたいなものね。こんな風に～人間はそれにつかっているんだわ。（ジェスチャーで、目を閉じて、人間がどんな風にぬるいお湯につかるかやってみせる）
ヤーノシュ 火曜日に初めて「僕が肖像を描き、君がここに来る」という話しが出たとき君は赤くなった。それから僕の方を見た。それまでとは違うやり方で
ヨラーン その話しは止めましょう。だめ、だめ・・・
ヤーノシュ 僕のことを恐がらないで。もし僕以外の人間なら、あなたの言葉にびっくりしたりはしないだろう。でもこんな風に。今こんな風に・・・・一度、潔白な間柄のままで・・・全てを考え直してみるのは、どんなに素晴らしいことか。七年前だ。僕はご主人の家の家庭教師だったし、アルフレードがあなたと結婚しなくてならないという話が初めて出たときも、そこに居合わせた。あれはあの日の晩のことだった、あの日の午後に僕たちが・・・
ヨラーン （つつましく手を手に重ね、弱々しい非難をこめて）ヤーノシュ・・・
ヤーノシュ 僕らはお互いにキスした。僕らは子供だった。そして僕は落ちぶれた貧乏な少年で、アルフレードと妹たちに絵を教えていた・・・そしてあなたの方は僕以上に貧しかった。娘たちの小さな学校友達で、百万長者の家にお茶にやって来ていた。僕らは互いに見つめあった、大きな、金持ちの家で、僕達二人は、偶然やって来ていた二人の貧乏人。物乞いの少年と物乞いの少女だった。僕らは互いを理解した。それからある日聞いたこともないような幸運があなたに差し出された。アルフレードが死ぬほど好きだ、と告白した。
ヨラーン 翌日のことだったわ。
ヤーノシュ あの口づけ、初めての子供っぽい、純潔な口づけの翌日。金色に輝くシャンデリアのあるサロンで二人の物乞いが一瞬二人だけになった、この瞬間を一度の口づけが満たした、一度の貧しい、悲しい口づけの、今ではもうその思い出さえ冷め切ってしまった口づけから二十四時間後のことだった。
ヨラーン 冷めきってしまったのね、ヤーノシュ。私たちは道理を良くわきまえた人間になった。それからというもの私たちがそのことについては話すことはなかった。（彼女はこれをいわば、もう続けてくれるな、と哀願するように言う）
ヤーノシュ そうとも。あなたはアルフレードと結婚した。貧しい公務員の娘がアパートの日陰の部屋からアンドラーシ通りに、ラースロー邸に移った。そして一年後に僕があらわれた。僕はいつだって愛していた。でもそのときはもう苦しみと、あきらめを抱いてだった。そして僕があなたのところへ行き、一人でいるのに出会ったとき、僕ももう名士だった、もう賞だってとっていたし、人に知られた人間になっていた、金が腐るほどあり、あなたの方はといえば、頭のてっぺんからつま先まで絹に、ダイヤに包まれ、ご自分の御殿の中で立っていた、僕らがお互いに見つめあったとき、やはりかつてのちっぽけで、若い物乞いの二つの眼差しが出会った、でもそのときは・・・もう僕らは口づけはしなかった。
ヨラーン ヤーノシュ、やめましょう。
ヤーノシュ これでもうお終いだから。あれから六年が過ぎた。僕はご主人の友人になった。僕らは毎日顔を会わせた。そして僕らの間に一言も、一回の眼差しが交わされることもなかった。僕は一度として描きましょうかと提案する勇気はなかった、恐れていたからだ。あなたも感じていた。その上ご主人もだ。それで僕もそれをあきらめた。この世にまだ他にもこんなお話があるだろうか？僕はこのことで自分を恥じたりはしないさ。
ヨラーン （彼の手を取る）私の愛しい、尊敬する良きお友達。
ヤーノシュ （優しく）さあ、安心した？もう恐くはないね？
ヨラーン 主人の声が私をおびえさせたのよ。彼も、私たちがどんな風だったかおおかた知ってるわ、そしてそのことでは決して、決して余計な心配はしてなかったの・・・でも私達がここにやって来てしまったことは、彼のことも困惑させたのよ。六年間私たちが来ることはなかった。そして今・・・私はここにいる。そしてそのことが余計な心配を呼び起こしてしまったんだわ。そして私は、考えなくてはならないことが恐いの。それにおびえてしまったの。それが恐かった、だって私たちにはもうお互いを恐れる必要はないんですもの。私たちはもう愛し合ってはいないし、私たちにとっては、この思い出にひたってみるのも結構なことだからよ。でしょう？
ヤーノシュ そうとも
ヨラーン だって私たちが愛し合っているなら、あなたは結婚しないでしょう。私違ってて？
ヤーノシュ おっしゃる通りだ。
ヨラーン そしてあなたは結婚なさる。私にはわかってるわ、結婚なさればあなたは幸福になるって、そして私も幸福になることが、あなたにはわかってらっしゃる。だって結婚なさるようにって望んだのは私ですもの、私があなたにきれいで、賢い奥様を手に入れてあげるのよ。
ヤーノシュ そうとも。
ヨラーン 今は・・・考えるのはよしましょう・・・（無理に微笑みを浮かべて）・・・何も。いいこと？（勇敢に、堂々と、手を差し出す）
ヤーノシュ いいとも。（強く、男らしく手を握り返す）そして・・・
ヨラーン そして本題にもどりましょう。私たちは何も話さなかったし、何も起きなかった。今日は、芸術家の先生。私、肖像を描いていただくためにやって来ましたの。
ヤーノシュ （声の調子を変えて）昨晩記憶を頼りにあなたの肖像用のスケッチを作成しました。もうたくさん描いたんですよ。でも今はもうすっかり違って見えるよ。
ヨラーン どうして？
ヤーノシュ わからない。昨日はあなたの外見しか見ていなかったんだ。でも今はここで・・・また内側から見ている。今はあなたの眼差しはダイヤモンドの炎のように輝いている。
ヨラーン お願いだからヤーノシュ、私たちもう終わりにしようって一致したじゃない。
ヤーノシュ そんな急には出来ないさ。後で・・・だんだんと・・・よそう。
ヨラーン （開けっぴろげに、誠実な真剣さで）私はここに来るべきじゃなかったんだわ。
ヤーノシュ そしたら僕はあなたの顔を捕えることが出来なかったろうな
ヨラーン ヤーノシュ、絵の具を、パレットをお取りなさい、もう私たちここにいるんだから、始めましょう。のりこえなくちゃ。
ヤーノシュ ごもっとも。のりこえよう。
ヨラーン じゃ始めて。私は何をしなくちゃいけないの？
ヤーノシュ まず最初に帽子とコートを脱いで。（彼女の背後にまわり、帽子ピンに手を出す）
ヨラーン （逃げる）後で自分でやるわ。（互いに見つめ合う）私から何か脱がそうなんて・・・いけないわ。（沈黙。帽子をとる）
ヤーノシュ 髪に香水をつけている？
ヨラーン 私？全然。
ヤーノシュ じゃこれは・・・髪の自然の香りか・・・僕はあなたのすぐそばにいたんだな。
（沈黙）
ヨラーン 今度は研究中？
ヤーノシュ そう。ご主人はバストサイズの肖像画をご希望だった。
ヨラーン そう。それは彼の所有物になるんだし、注文を出すのは彼よ。私だったら帽子をかぶって、外出着を着た全身像の方がよかったでしょうね。
ヤーノシュ 彼は夜会服を着た半身像をご希望だ。肩にショールをかけて。これは確かに甘ったるいな・・・でも彼にはそういうのでなければならないなら・・・（洋服掛けからショールを外し）もう幾つかトルコ風のショールを選んでおいたよ。
ヨラーン それで？
ヤーノシュ それで上半身像だ。首は何もつけないで。
ヨラーン そうね。
ヤーノシュ それで・・・急ごう、暗くなるから。ここにスカーフがある、この箱にピンが入っている・・・僕はそれまでアトリエに行ってるから。
ヨラーン それまでって？いつまで？
ヤーノシュ あなたが・・・肩を出せるように・・・ブラウスを脱がないと・・・
ヨラーン どうして。
ヤーノシュ （困惑して）家にいるときみたいになるように。このドアは閉めておくから。（玄関を閉める）こんな風にと。僕はアトリエに行ってその間このドアを閉めておくよ （敷居のところに立つ。アトリエを覗き込む。そっと）ふう～・・・雪がずい分降ってるなあ。（女性に注目する）
ヨラーン （困惑して）降ってる？
ヤーノシュ すごく。（間）
ヨラーン だめ・・・だめ、やめましょう、むしろ多分・・・多分明日・・・それとも・・・今はちょっと気分が良くないの・・・（これら全てを言いにくそうに言う。今や急に安心して）そのときはメイドを連れてくるでしょう。
ヤーノシュ （敷居のところで）そしたらご主人がたずねるだろうなあ、どうしてって・・・その上、もしここでこのドアを閉めたら。（覗きこむ）ずい分降ってるなあ！もしこんなに降るなら、こんなに大粒の雪が・・・これが光を隠してしまうなあ・・・でも問題じゃない・・・少なくとも貧乏な連中は雪かきでかせぐさ・・・（これら全てをそっと口ごもりながら言う。その間あるときは女の方を見つめ、あるときはアトリエの大きな窓の方を見て言う、その間にゆっくり、困惑して、入り口の柱をいじくりつつ，そっとアトリエに引っ込む、そして今度は注意深く、ゆっくりドアを外から閉める。
ヨラーン、それまでアトリエのドアの後ろに立っていたが、無言で自分の前を見つめ、今度はぶるっとおののいてそこを見つめる。そして困惑と戦い、そこまで行き勇敢にドアを閉じる。ゆっくりと前にもどってくるが、ブラウスの首のボタンを外し、おじけづいて胸を開けたブラウスをかきあわせる。座る。座って新たに再開し、ゆっくり全部のボタンを外す、だが脱がない。ショールの間で吟味する。一枚を選び出す。それから一人きりだと感じているもののように、安心して、ナイーブに、ブラウスを脱ぎ大きな王座の肘掛けにかけようとする。そこに達し手を伸ばしたとき、悲鳴を上げて、とびのき、ブラウスをとり落とし、急いで胸、肩をショールで覆う。大きな王座からニヤニヤしながら悪魔が立ち上がる）
第四景
ヨラーン、悪魔
（悪魔は三十五～三十八才位のスマートでハンサムな浅黒い人物。その顔には古典的なメフィストヘレス・マスク的なところはわずかしかない。顔の皮膚は浅黒い。髪は尖って結われている。まゆはいささか斜め。衣装はエナメル革の靴、黒いズボン、ルダンコート、スカーフ。申し分のない、最新流行のエレガンス。ズボンはとても細い。靴は長くつま先が尖っている。コートは腰のところで細くなっていて、鐘のような形）
悪魔 失礼ですが、奥さん。何かお忘れ物ですよ。（礼儀正しくブラウスを拾い上げ差し出す）
ヨラーン （びっくりして見つめ機械的に彼からブラウスを受けとる）
悪魔 お許し下さい・・・昼食をすませてからここにやってきましたので・・・ヤーノシュはここにはいませんでした・・・私は待っていて・・・それからこの大きな椅子で眠ってしまいました。（目をこすって）ちょうど奥さんが服を脱ごうとなさったときに目をさましてしまったことをお許し下さい。
ヨラーン （ぞっとして憤慨して）ちょっと！あなた！
悪魔 （そっけなく）わかっておりますとも、奥さん。これでは中傷ですな。あなたがここにいらしたのは・・・
ヨラーン 肖像画を描いてもらうためですわ。
悪魔 私はかつて妻をある歯医者のところでおさえました。彼女も中傷は我慢なりませんでした。そして名誉を守るために、悪くもない歯を一本抜かせさえしたのです。
ヨラーン でも私は・・・
悪魔 （親切に）あなたのおっしゃる通りであることはわかっております。ですが―私が望むなら、思うに、私が望むなら、答えはノーです。あなたのおっしゃる真実は耳を傾けるべき姿をまとってはいませんな。裸の真実です。少なくとも―半分はすでに裸です。
ヨラーン （憤慨して）なんでこんな聞くに堪えないお話を我慢しなくてはならないのか、わかりませんわ、あなた様。ここで私をびっくりさせた見知らぬ方が・・・（ガラスのドアのところに走り、開ける）ヤーノシュ！
第五景
ヨラーン、悪魔、ヤーノシュ
ヤーノシュ （敷居のところに現れる。びっくり仰天して悪魔を見つめる）
悪魔 （突然、短く）やあ。
ヤーノシュ （驚いて彼のところに行き）・・・や、・・・やあ。
悪魔 （急いで）もう僕のこと忘れてしまったかな。モンテ・カルロでだ
ヤーノシュ ああ！
悪魔 あの興奮の日々に。（ハイになった日々に）
ヤーノシュ もうわかった、わかった。秋に、僕がルーレットで有り金全部すってしまったときだった。僕の後ろに一人の暗い眼差しの人物が立っていた・・・（指差す）・・・君だった・・・僕はぎょっとした、だってその前には君は元締めの席にも座っていたような気がしたので・・・そして僕がすってしまったときは、君はニヤニヤしていたようだった・・・でも思い出した・・・君は僕の後ろに立っていて、僕が全部すってしまったとき、そっと１マルク金貨を僕の方へさし出した。
悪魔 君は返してよこした・・・ほしそうな顔で。
ヤーノシュ それから・・・
悪魔 それから受けとった・・・抗議したそうな顔で。
ヤーノシュ 五分間のうちに僕はそれで全部取り戻した。その上さらに二万フランまでもせしめた。あのマルク金貨には魔力があったんだ。まだ覚えている・・・君がわたしてくれたとき現れたんだ・・・君の手の熱で熱かった・・・ほとんど燃えているかのようだった。
悪魔 それから君は返してくれて「夕食でも一緒に」と言ってくれた。僕の方は「残念だが、晩にはスペインに旅発つんだ。でもいつか君が僕を必要とするとき、お故郷に君を訪問しよう」と。それで今・・・僕はここに来たのさ。
ヤーノシュ （すでにもっと平静になって）そうとも。神がおつかわしになった3。
悪魔 失敬、自分でやって来たんだよ。
ヤーノシュ そうだね。（困惑して彼を見つめる）
悪魔 暖炉のわきの椅子で眠っていたんだ。
ヨラーン （ぎょっとして）でも・・・私たちが主人と一緒に来たとき、・・・私はっきり覚えているけど、椅子は空っぽだったじゃありませんか。あそこには誰も座っていなかったわ！
悪魔 （反対されるのを我慢出来ない声で）それならおそらく私が間違えたのでしょう、奥さん。
（死のような沈黙。彼らは悪魔を奇妙な面持ちで見つめる）
ヤーノシュ （困惑して）どうぞかけてくれたまえ。ご紹介しよう・・・君は・・・君の名を本当に・・・
悪魔 名前はその当人がいないときだけ重要なのさ。そんなときは名前は一つの字で書かれた顔だから。しかしその当人がここにいるなら、どうでもいいことだ。選びたまえ、コヴァーチ、サボー、デュランド、マイヤー・・・余計なことさ。仮にコヴァーチ。お望みなら、ドクター・コヴァーチ
ヤーノシュ （非常に困惑して）ドクター・コヴァーチ
（悪魔、ヨラーンの手にキスする）
悪魔 他の状況下なら今帽子を被って出ていくんだが。だが分別がこの苦痛に満ちた瞬間、君にぴったりついていることを義務として命ずるのでね。（座る）
ヨラーン 私今もまだドキドキしてるわ・・・（突然新たに憤慨する）考えてもみて、ヤーノシュ、この方ったらとんでもないことを・・・
悪魔 （突然）ご主人はずっと前に亡くなられたのですか？
ヨラーン いいえ、違いますわ。私は寡婦じゃありません。
悪魔 離婚なさったので？
ヨラーン いいえ。
悪魔 侮辱されたとき、あなたがある第三者に訴えるというのがわからないからです。これは夫の領分です。（ヤーノシュへ）だがもし君が命じるなら、君の言う通りにするよ。（椅子からシルクハットを取り上げる）だがこういう場合奥さん・・・それは自白も同然ですよ。
ヤーノシュ その意味ありげな言い方はどういうことだ？それって何だ？全然わからん。あなたは・・・君は突然僕のところへ現れ・・・どこから入ってきたか、いつ入ってきたかすら僕は知らない・・・冷気が僕の背中を走り回り・・・まるで誰かの何か・・・この言葉を言わずにはいられない・・・現場を押さえたといわんばかりにふるまう。
ヨラーン そうよ！そうよ！
悪魔 私は出て行こうにも行けないので、今自分と戦っているのかもしれませんよ。
ヨラーン 一体どうして？
悪魔 なんせそれは、「お二人だけにしてあげます、お楽しみの邪魔をしてしまって失礼」ということになるでしょうから。私がここに留まっているということは、私が何も良からぬことを想像したりはしていない、ということの証明です。
ヤーノシュ 僕の方ではそのご好意を受けとるわけにはいかないね。
悪魔 （黙って身をかがめる）
（苦痛な間・・・）
悪魔 ならばもう何の問題もないね。話題を変えよう。―雪が降っている。（沈黙）
（女はアトリエのドアの横で口を開けて立つ）
悪魔 春の展覧会に何か作品を準備しているのかね？（沈黙）
ヤーノシュ （いやいやながら）多分・・・出品するよ
（沈黙。悪魔、煙草に火をつける）
悪魔 かまいませんか、奥さん？
ヨラーン （これで突然我にかえり、いきなりアトリエに入って行って、ドアをバタンと音をたてて閉める）
第六景
悪魔 （間の後）激しい気性の女性だね。美人だが。
ヤーノシュ （そちらの方を見もせずに）そうだよ。
悪魔 ご亭主を愛していないのは残念だが。
ヤーノシュ （突然彼の方へ向きなおる）
悪魔 どうしてわかるのかって？困ったとき、彼女の頭に浮かんだのは君だったからわかったのさ。
ヤーノシュ （シガレット・セットを不機嫌にテーブルに投げつける）
悪魔 彼女は亭主を愛していない、ということは亭主は俗物か、あるいは天才だろうな。この二つは愛されないものなんだ。女は一階は好きじゃない、誰かが人生の窓に這い上がってこないか、心配だからだ。高い階も好きじゃない―
上がるのが大変だからね。彼女らの理想ときたら・・・（手で中間の水準を示す）・・・二階さ。
ヤーノシュ （時計を神経質に見、アトリエのドアの方へ行く）
悪魔 （くつろいで椅子の一つにどっかり腰をおろす、大きな煙をはき冷たく言う）僕は彼女の肩をもう二度も見たよ
ヤーノシュ 何だって？
悪魔 最初はパリのルーブル美術館で見た。そのときはあるアプロディテ像の肩だった。あんな風だろう？
ヤーノシュ （居心地悪そうに）知らないよ。
悪魔 （身を起こす、邪悪な皮肉で）見てないのはどっちの方だい？
ヤーノシュ アプロデティーのなら―見たよ
悪魔 それじゃ僕を信じたまえ、僕は両方とも見ることが出来る幸運に預かったんだから。アルカメーネス以来、あんな肩を創りあげた彫刻家は一人しか知らないな。
ヤーノシュ 誰だって？
悪魔 申しぶんのない環境。あんな小さな、柔らかいラインはよっぽどうまい物を食べてる女性の肉体にしかないさ。あの女は憶万長者の女房さ。
ヤーノシュ （新たにいらいらしてアトリエのドアの方へ行く）
悪魔 彼女今、着替え中かい？
ヤーノシュ （神経質に）そうだよ。
悪魔 アトリエには鏡があるかい？
ヤーノシュ ある。
悪魔 それじゃ彼女はまっとうな女性だな。
ヤーノシュ （ぽかんとして彼の方を疑わしげに見る）
悪魔 鏡の前でも服を着るのにこんなに時間がかかるのは、こういうことに慣れていないということだ。
ヤーノシュ 僕はあのご婦人には何の関係もないが、今のは悪趣味だ。
悪魔 （立ち上がる）それは非難の意味で言ったのかい？
ヤーノシュ （攻撃的に）そうだよ！
悪魔 （座る）それなら君はまっとうな人間だ。
ヤーノシュ （ぽかんとする）
悪魔 こういう状況でこれほど底なしに間抜けなふるまいが出来るのはまっとうな人間だけさ。
第七景
前景の二人、ヨラーン、後でアンドラーシュ
ヨラーン （服を着て登場、悪魔の方へは一顧だにせず、ヤーノシュのもとへ急ぐ）何時？
悪魔 あと十分すれば現れますよ。
ヨラーン （怒りっぽく）誰がですって？
悪魔 ご主人ですよ。
ヨラーン （ぽかんとする）それじゃあなたはあの椅子で、眠ってさえいなかったんじゃありません？
悪魔 とんでもない。ただ「何時？」というのはいつも夫を意味していますのでね。そして女性の予感はいつもきっちり十分前に夫を感知するのです。もしこの十分間がなければ、離婚する女性の数は野の草より多くなるでしょうな。
ヨラーン （帽子を手に取り）それじゃこの話題に終わりは来ないんですの？
悪魔 私はすでに別の話を始めていましたよ。お天気について、展覧会について。ですがヤーノシュがこの主題に戻ったのです
ヨラーン ヤーノシュが？
ヤーノシュ 僕？僕は一言だって・・・
悪魔 （口をはさむ）だがひと動作で言ったよ。飛び上がった、時計をみてあたふたとドアのところへ行った。かわいそうに恐れたんだ。
ヤーノシュ 一体何を？
悪魔 （ヨラーンに）あなたがまだ服を全部着てしまわないうちに、ご主人がやって来てはちあわせするのを。そしてその心配はもっともですね。
ヨラーン もうまた・・・
（同時に）
ヤーノシュ 一体・・・
悪魔 まあ、まあ、まあ。言わせてくれたまえ。何が起きるね？ご主人が入ってくる。こう言う「さあ、やって来たよ、取りかかった絵を見せてもらおうか！」絵―そいつはない。―だろう？ヤーノシュは筆を取り上げてさえいない。ご主人はびっくりする。―黙り込む―愕然とする。―なんだか妙な圧迫を喉元に感じる。言葉はなかなか出てこない、そしてこう言う「でも・・・何も・・・描かなかったのなら、それじゃなぜ服を脱いだんだい？」その瞬間を想像してみたまえ。三人気まずそうにお互い顔を見合わせている。ヤーノシュが何か言うが、そのときはそれはもう何の役にもたたない。まずいことは何も起きなかったが、それでもトラブルだ。それが何だか、おわかりかね？それは一見どう見えたかという見た目だ。人間は悪事にはもっともらしい言い訳を考え出すが、見た目というやつは膠のように貼り付いている。君が何を言おうと、まずいことになる。君がどちらに向かって動こうと、ますますはがれなくなる。そしてそんな瞬間というやつは夫の心のなかに永遠に根をおろしてしまう。（ヨラーンに）私が遭遇したこの妙な状況を通じて、彼の立場になってみましょう。あなた方はご一緒に家に帰られる、そしてご主人は途中一言も口にしない。そしてもしあなたが「どうして黙っているの？」ときくと、もう彼の心臓からは血が滴っている。まだ「馬車で行きましょうよ」としか言っていないとしてもです――これもまずい、これも呪わしい、疑わしい、苦痛だ、彼はその背後にも何かを探す。
ヤーノシュ だがもしそうだとしても・・・僕らは二人きりじゃないだろう？ここには君がいるんだ！
悪魔 （意地悪に冷たく）そうとも。ここには、一言言えばあなた方をこの見た目から引っ張り出してあげられる僕がいる。だが僕は、妙な気まぐれ屋で、ほとんどいやな奴といっていい性質でね、自分でもわかっているように、一言も口を開かないでいることだって出来るんだ。苦痛な沈黙だ。それからこう言う。「失礼、残念ながら私だってまずいときにやって来てしまったんです」帽子を取り上げて――静かに出ていく。さらに必要なら、口ごもりもする。
ヨラーン それは何の冗談ですの？あなたがおっしゃっているのは、侮辱じゃありませんか！
悪魔 疑いの余地なくそれですな。ですがまだこれで終わりではありません。私は、もし今ご主人が入ってきたら、まず一筆の線もないことを確認してから――彼に許しを求めるような、非のうちどころのない人間なのです。
ヨラーン なぜですの？
悪魔 なにしろ私は偶然、不本意ながらあなたが服をお脱ぎになるところを最後まで見届けてしまいましたのでね。
ヨラーン （びっくり仰天して）あなたは一体どなたなんです？
悪魔 しかるべき瞬間にやって来た誰かですな。どこからやって来たのでもなくどこへ行こうとしているのでもない。（やたらと強調して）私はここにいるのです！（テーブルをたたく）
ヨラーン そのドンというのはどういう意味ですの？何がお望みですの？あなたはそのろくでもない見た目とやらに固執してらっしゃる・・・五分間でわかりましたわ・・・そして私の喉元に手をかけてらっしゃる。
悪魔 これは単に敬意の印です。他の美しい女性のところだったら、五分たっても、そこに手をかけたりはしません。
ヤーノシュ （激昂する）もう我慢ならん！（身動きすることなく、頭をそびやかせて立っている悪魔のところに行く）
（この瞬間アンドラーシュが入り口から静かに入ってきて、ただちに声をかける）
アンドラーシュ （入り口のところで立ち止まる）洗濯屋から燕尾服を届けてきました。ですが旦那様の燕尾服ではありません。
悪魔 いいんだよ。寝室に持っていけ。（アンドラーシュ動く）
ヤーノシュ でも僕のじゃないんだったら。
悪魔 （片手でアンドラーシュに行ってよいと、合図する。アンドラーシュ出て行く。もう片方の手でアンドラーシュの方へ行きかけたヤーノシュを引き止める）行かなくていいよ。それは僕のだ。僕の燕尾服さ。
ヤーノシュ どうして・・・
悪魔 トランクの中でしわくちゃになってしまったので、プレスさせたのさ。洗濯屋にここに届けさせんだ。着替えなくちゃ、なんせあるお美しい女性のパーティーに今夜招待されているんだ。ヴァーロシュリゲト並木道65、シェルレンブルグ伯爵邸だ。
ヨラーン （びっくりして）でも伯爵は・・・もうそこに住んではいませんわ。大使館書記に任命されましたもの・・・その別荘を売却されたんです。私どもが買ったんです
悪魔 知ってますよ。パリで彼と話しました。
ヨラーン それでしたらあそこには今私どもしか住んでいませんわ・・・パーティーは私どものところのです。
悪魔 あるいは・・・私はまた間違えたようですな。おそらく私は招待されていないのでしょう？
ヨラーン （頭を下げて、小さな声で）そんなことありません。招待されてますわ。
悪魔 奥さん、あなたはさっきお尋ねになりましたね。何が望みかと。これが望みです。ありがとうございます。
（間）
ヨラーン でも主人が・・・
悪魔 ご主人は私に夢中になりますよ、私はフィウメから来て彼のために素敵なニュースをお持ちしたんです、アメリカ産のとうもろこしが湯気を上げています、船上でしけってしまったのです。
ヨラーン （突然興味を抱いて）アメリカ産のとうもろこしが湯気を上げてるんですって？
悪魔 やはりご主人を愛しておいでですな。湯気が上がっているのをお喜びとは。
ヨラーン 喜んでますわ。私どもはだって・・・（つつしみ深く）・・・値上がりを見込んで強気で投資しておりますの。
ヤーノシュ 湯気が上がっている、というのはどういう意味だい？
悪魔 それはね、奥さんの尊敬すべきご主人が相場で何万フォリントももうけ、この湯気のニュースで奥さんは、頼んでおいた新しい香水を買ってもらえるだろう、ということさ。
ヨラーン それじゃあなたは私が新しい服を頼んでいることだって、ご存じなんでしょうね？
悪魔 （女の帽子を指さして）帽子が新品なのはわかります。これに合わせて何か新しい服をお頼みになるべきですな。
ヨラーン あなたは多分ご結婚なさってるんですわね？
悪魔 いいえ。ですが、だからこそそういうことに目がいくのです。妻というのは、そうでなくても片眼鏡のようなものです。エレガントな装飾だが、ない方が人間よく見える。
ヨラーン どうしてそうおっしゃるんですの？
悪魔 あなたがヤーノシュを結婚させたがっているからです、私はといえばそれを思いとどまらせたいのです。
ヤーノシュ しかし・・・ちょっと・・・
悪魔 （さえぎる）黙りたまえ。芸術家は結婚するものじゃない。女は「死のときまであなたのおそばにいます」と誓う。翌日には一歩踏み出し、君の前に立つ。
ヨラーン でもそれは本当の女ではありませんわ！
悪魔 おっしゃる通りですな。ですが本当の女というのはいつも一人しかいません、他のやつの女房です。
ヨラーン まあ。なんてシニカルな考えかしら。
悪魔 違います。実際的なだけです。人間一人をもう食い尽くしてしまったようなトラは、その背中に乗ってしまうにかぎります。やつが誰かの喉元にくらいつくまでは、ずっと待っていなくてはならんのです。これ以外のやり方で原始林にわけ入る価値はないのです。
ヨラーン でも最初の男が、夫が強かったら！もうトラを調教してしまっていたら。これを何といいます？
悪魔 それは猛獣使いといいますね。そしてそいつは金のために、病身のトラと一緒に檻に登場するんです。
ヤーノシュ 何もわざわざトラたちの中に行く必要はないだろう。家に残るさ。
悪魔 だが君はもう家に残ってはいないじゃないか！芸術家になったとき、そ
してそのため暖かい定職、快適な市民モラルと固定給をそこに置いてきてしまったとき、君はもう家から出て来たんじゃないか。君はもう原始林の中だ！
君はもう戦わなくてはならないんだ。君は夫になってはならない！ああ、もし・・・（声の調子を変えて、二人を指しながら）こんな風に二人揃っていると、君らはなんて似合いの二人だろう。
ヨラーン （立ち上がり、額に手を当てて向きを変える）
（ここから先の情景は最後までほとんどすっかり暗くなり、暖炉だけが赤い光でスツールに坐る悪魔を照らしだしている）
ヤーノシュ まじめに頼んでるんだが・・・
悪魔 （さえぎる）君は目覚めなくては、これは人生のカギで、君らには秘密になっている。君は炎に、才能に満ちている・・・この女性は炎で石炭だ・・・
ヤーノシュ 今度こそほんとにまじめに頼んでるんだ・・・君の目を見ると、心がおののく・・・やめてくれ・・・何も言うな。僕らは六年間というもの平穏に・・・
悪魔 （ここからは小さな声で説得調、暖かいつぶやき声で、ほとんどささやくように話す。二人の憤慨を身振りでなだめて、ますます情熱的に話す、ますます熱くなる）君が何と言おうと、君の目が僕の言うことにうなづいているぞ。「こいつは嘘を言ってるんだ」なんて思うなよ！僕は君らの目と話しているんだ。目とは人間の潔白さの着実な明かりだ。もう全てが嘘で暗くなると、そのおののく小さな光が密かにまたたくのさ。
ヤーノシュ いちいち僕の言葉をさえぎるな！六年間僕らはお互い平和に暮らしてきているんだ。ヨラーンは僕にはかかわりないし、僕は・・・僕は・・・ふつうの・・・ふつうの・・・僕は・・・
悪魔 （突然）今さえぎらせてもらうが、君はそのために何を犠牲にした？
（沈黙。ヤーノシュ頭を垂れる）
ヨラーン 何でもお見通しのようだけれど、この件について何をご存知なのかは知りません。でもたった一つの良からぬことしか考えつかずにヤーノシュを中傷する者は、堕落した魂よ・・・
悪魔 それじゃこの考えは良からぬものですか？良からぬはずがない！これは素晴らしいもので、非常に暖かく、君らのこの悲しい人生から得られる輝かしい喜びの全てが、そこから光を放っているんだよ。ただそのためには君は支払わなくてはならない、役にも立たないけちんぼうの群れよ！君がワインを飲めば、それで破滅するだろう。だが酔っている間は、小さな白い天使たちが君の心に音楽を奏でてくれる。君は支払うが、それだけの価値はある。君らの歯は砂糖ですり減る。だが甘かった。一番美しい歌を作った詩人は、その中で死んでゆくだろう。ワインをけちり、小唄を、女の唇を押しやるのは、貧乏人の徳というものさ・・・燃え上がる最後の瞬間の獣脂ろうそくが教えてくれる、一筋のちっぽけなぬくもりのためなら、そして一筋の小さな明かりのためなら滅びるだけの価値があるのだと。人生は、それを堪能するためにあるのだ！沸騰しなくては、燃えなくては、他者をとことん踏みにじらなくては！わかってる、わかってる、最低な話さ。偉大なる教理はこう言っている、互いを愛せよと。だがそれには君らはまだ若い、君らの憐れな、たかだか数百年万年の歴史ではね。だからこそこの教えには禁欲主義者か、殉教者か嘘しかなかったのだ。嘘は言うまい。勝利の世界とは、親切で賢い最低の人間たちのものだ、僕を見たまえ、世界は僕のものだ、そして僕がここで君らの耳にささやいていることは、誰にとっても秘められた宗教なのだ・・・これは火の洗礼も、水の洗礼もくぐり抜けてはいない・・・わかるかね？君。愛し合いたまえ。柔らかなビロードを着て歩きたまえ、甘いワインをどっさり飲みたまえ、互いに口づけして酔いしれたまえ、わが子たちよ、酔いしれるのだ・・・
（鋭いベルの音。誰一人として動かない）
ヨラーン （恍惚としてたいそう小さな声で）主人だわ。
悪魔 （不機嫌に大きな音をたてて膝をぴしゃりとやる。立ち上がる。邪魔されて腹を立てた人物の、うって変わった冷たく皮肉な声で）とうもろこしか！
（アンドラーシュがドアを開け、ラースローが登場。アンドラーシュその後から入ってくる。ラースロー敷居の前で立ち止まる。ヤーノシュとヨラーン立ち上がる）
ラースロー 少し遅くなってしまった。ボーイどもとどっさりもめ事があったし、フィウメの連中はいまだに電話してこないんだ。君達、灯かりもつけないで座ってるのかい？
（アンドラーシュ壁をトンと叩く。燭台に灯りがともる。アンドラーシュ退場）
ラースロー （悪魔に気づき）失礼します、ラースローです。
悪魔 （何事かつぶやく）
ヨラーン 変わった方なのよ、この方には検死官がはしごをかけることになるでしょうね。
ラースロー 光栄です。
悪魔 私は絞首台で最後を迎えるだろう、とおっしゃりたいんですか？いいや。私は火葬の信奉者でしてね。あれはすばらしい。一度ベルリンのある一家が全員一枚の紙袋に収まっているのを見たことがあります。非常に感動的でした。
ラースロー （礼儀正しく笑う）とっぴなお考えですね。（周りを見回す）
さて君達、絵はどこだい、どこなんだい？興味しんしんだよ。見せてくれたまえ。
ヤーノシュ 見られないんだ、ないんだから。
ラースロー それじゃ君描かなかったのかね？（時計を見る）一時間半たってるぞ。
ヤーノシュ うん。
（間）
ヤーノシュ 暗くなってしまったし、とりかかろうとしたときに・・・
ラースロー でもそれじゃ・・・暗くなる前は？
悪魔 （進み出る）私が原因です。私がやってきて、話に時間をとられてしまったのです。ですが奥さまが気をつかって、私の突然のお邪魔に報いて下さいました。今夜のパーティーに招待して下さったのです。
ラースロー そうですか。それは嬉しい。
悪魔 空手ではうかがいませんよ。昨日フィウメで私はとうもろこし王たちと話しました。
ラースロー 知ってます、知ってます、問題がおきました。アメリカ産が湯気をあげてます。
ヨラーン （びっくりして）じゃそれは私たちにとっては良くないことなんですの？
ラースロー たしかにまずいんだ。下落を見越して弱気売りをしてしまったことを、人生で初めて君に秘密にしていたんだ。
ヤーノシュ 弱気売りをする人、って何をするんだね？
悪魔 人を呪わば穴ふたつ、ということさ。安心していただきましょう、アメリカ産のやつはしけってはいません。
ラースロー 湯気をあげてはいない？
悪魔 ええ。
ヨラーン でもさっきはそうおっしゃったじゃありませんか・・・
悪魔 あれはある船の煙突の煙でした。私はただ「とうもろこし丸」という船とある船のとうもろこしを区別出来なかっただけなのです。4
ヤーノシュ 君の知らせはどうも怪しいな。
悪魔 そうらしい。それじゃ僕が目撃したものは、もう全て隠されてしまったんだな？
ラースロー あなたはご商売の方ですか？
悪魔 違います。ですがそのためしばしば悪い場所、悪いときに取引をしてしまいます。
ヤーノシュ （さえぎる）十一時頃にならないと僕は行けないよ・・・
（ラースローと話す）
ヨラーン （悪魔に）私今すぐあなたとお話ししたいのです。二人きりで。（周りを見まわす）でもどうすればいいかしら？
悪魔 どうすれば？こうすればいいんですよ。（ラースローに）何かちょっとしたものをご覧になりませんか？ヤーノシュが昨日奥様を描いた木炭のスケッチを見ましょうよ。
ラースロー どこです？
悪魔 アトリエです。
ラースロー （アトリエに向かって歩き出す）だが君はなんで今日は全然描かなかったんだい？君らは何をしてたんだい？（ヤーノシュと一緒にアトリエに去る）
（女は彼らの後に続く。最後が悪魔。悪魔は敷居のところにやって来ると、ヨラーンを呼びとめる）
悪魔 私は残っていますから、出ていらっしゃい
第九景
ツィンカ 失礼します・・・
悪魔 先生をお探しですか？
ツィンカ （緊張して）ええ。
悪魔 玄関で待ってなさい。今はここにお得意様がきてるから。（あとを押しやり、追い出す）とにかく座ってなさい、彼らはすぐ行ってしまうから。（戻ってくる）
第十景
ヨラーン （急いで）あなたと二人きりになりたかったのは、申し上げたいことがあったからですの・・・
悪魔 そりゃ嘘です。
ヨラーン 何ですって？
悪魔 何をおっしゃろうとも、あなたはご主人が悪いときにやって来たことを感じてらっしゃるので、それで私とお話しになりたいのです。そのことがあなたを苦しめている。
ヨラーン でも信じて下さいな・・・
悪魔 そんなことを女性が言うものではありませんよ。
ヨラーン でも私が本当の事を言おうとしてるんだとしたら！
悪魔 もし本当のことを言おうものなら、そのときは欺くんです！あなた方女は胸を張って嘘をおつきなさい、そうやってわれわれはまだどうにかお互いを理解しようじゃありませんか。
ヨラーン でもそれじゃしまいには、私はあなたがお望みのことを考え、言うということになるんじゃありません？
悪魔 私たちはそこまでは行ってません、残念ですな。私にどうしろと？
ヨラーン 今夜は私どものところにはいらっしゃらないで、とお願いしたいのです。
悪魔 ふむ。
ヨラーン 今の二分間で一息つくことが出来ましたわ。私は幸せでまっとうな女です。そのままでいます。あなたの軽薄なお声、お言葉、考え、そして何かの目的に向かって進む隠された力にうちのめされました。あなたがおっしゃったことに興味を引かれたのだ、ともう私は気がついています。でもありがたいことに、私の大事な、善良な主人がご高説半ばにベルを鳴らしてくれました。ちょうどよいときに来てくれたんですわ。
悪魔 私の言いたいことは最後の山場にさしかかっていたのです。私はあなたのお顔を見てましたよ。はは、マダム！あの瞬間われわれ三人は一致団結してましたな。
ヨラーン お願いですわ、やめて下さい。
悪魔 どうして？もう―恐くなったんですか？
ヨラーン いいえ（無愛想に、格式ばって）どうぞ、今夜は私どものところにはおいでにならないで下さい。
悪魔 お伺いするでしょう。
ヨラーン それじゃ主人がいらっしゃらないよう、お願いしたら？
悪魔 ご主人は来るように、とおっしゃるでしょう。
ヨラーン それでは私が主人の前でおいでにならないように、と命令したら？
悪魔 こうしましょう。申し上げておきます。もし今日午後、ここでご主人の前でもう一度ご招待いただけないなら、私は出かけていったりしません。ですがもしもう一度ご招待してくださるなら、伺うでしょう。
ヨラーン （安心して）これで話しはつきましたわね。今度はご親切でしたのね。私も少しは安心することが出来ます。
第十一景
（ヤーノシュとラースロー、アトリエから出てくる。ラースローはすぐさま悪魔と話し始め、ヤーノシュの方はヨラーンのところへ行く）
ヨラーン 行きましょうか？
ラースロー うん。君、支度しなさい。
ヤーノシュ （ヨラーンがコートを着るのを手伝う）今わかったよ、あのスケッチがどれ位ひどいか。
ヨラーン そんな風に見つめないで、ヤーノシュ。
ヤーノシュ 見つめなくても、見えてしまうんだよ。
ヨラーン （手の甲で顔を覆う）私は描かせないわよ、ヤーノシュ。ここから帰りましょう、・・家へ、家へ、家へ・・・（悪魔とラースローの方へ進む）
悪魔 （声をあげる）なんですって？あなたはペストでわが友フリーボディの代理人をなさってらっしゃるんですか？
ラースロー お友達ですか？
悪魔 二十年来です。今度だってロンドンでは彼らのところに泊まりましたよ。（渋い顔をする）問題があるのを・・・ご存知ですか？
ラースロー 面白い！そんなことをおっしゃるのはあなたで三人目です。
悪魔 息子の方のフリーボディーが、フロイリー・ラヴァリンの娘の一人と結婚するのです。フロイリー・ラヴァリン商会については、破産直前なのがヨーロッパ中で知れ渡っているというのに。
ラースロー 知っていますとも。（愕然として）あそこの娘と結婚する？
悪魔 そのことはまだ問題とまではいかないでしょう。ですがどうやって株式を再建するかというと・・・ですがこれはやたらと長いお話ですし私には今差し迫った用事がありましてね。（出発する）
ラースロー （引き止める）ぜひお願いします！非常に面白い！おわかりでしょう、私の心からの言葉です。
悪魔 いつか改めてお話ししますよ。
ラースロー それじゃ今晩・・・私どものところへいらっしゃるんですよね
悪魔 そうだ。言って下さってよかった。（ヤーノシュを見る）ちょうど今奥様にお詫びしていたところです。私は行けないのです。さっき気がついたのですが、イギリスの総領事館に行かなくてはならないので。
ラースロー それは明日の朝ということに。
悪魔 （許しを乞う動作で）早朝出発します。
ラースロー 私はこの情報が要るんですよ。実力行使に訴えますぞ。お前、来て下さるようお願いしておくれ。
ヨラーン （困惑して）でも大切なご用がおありなのに。
悪魔 それは・・・大切なといっても非常に大切というわけでもありません。大した犠牲ではありません・・・
ラースロー ほらごらん！
ヨラーン 犠牲を払っていただくのは全く本意ではありませんわ。
悪魔 （額をぴしゃっと叩く）ああ、申し訳ない！今気が付きましたが、イギリス領事はペストにいさえしなかったのです・・！というわけでもし奥様が・・・
ラースロー さあ、ヨラーン！（帽子をとる）
ヨラーン （降参して）それじゃ・・・お越しいただければ私ども光栄ですわ。
悪魔 失礼、奥さん。よく聞こえなかったのですが。
ヨラーン 私ども光栄ですわ。
悪魔 （音をたてて足首を合わせる）ありがとうございます。
ラースロー （ヤーノシュに）君は先に他の場所によってくるのかね？
ヤーノシュ ある画商のところへね。
ラースロー 君は結婚するために来るんだよ・・・それなのに・・・・画商かい？
ヨラーン （興味を引かれて）それ何のことですの？
ヤーノシュ それはそのお・・・あの・・・
悪魔 しっ！（間）ノックの音がしなかったかな？
（全員が注目する）
ラースロー 聞こえませんでしたよ。
悪魔 今またした。多分その画商でしょう。（入り口を開ける）ああ、あなたか。どうぞ。（ツィンカを中に入れる）
ツィンカ 今晩は。
ヤーノシュ 今晩は。
悪魔 （ラースローにちいさな声で）気をきかせるとしましょう。行きましょう。（ツィンカこわばってヨラーンを見つめる）
悪魔 画商です。
ラースロー やあ。（悪意をこめて笑い、前を通りすぎる）
悪魔 （ヨラーンに）あなたはお笑いにならないので？
ヨラーン いいえ。
ヤーノシュ （アトリエの方を指す）どうぞ、お嬢さん、すぐ行きますから。
悪魔 どうぞ？お嬢さん？こりゃいい。
ヤーノシュ ご機嫌よう。
ヨラーン （無言で頭を下げて出発する）
悪魔 （その前に立ちはだかる） 今私、ご招待に感謝しています。私は彼らのところに戻ってきますよ、知りたいのでね、非難の余地ないように、ここにこうやってコートを忘れていきます。（ヤーノシュとツィンカをふり返って見つめているヨラーンの手にキスする。ヨラーン退場）
アンドラーシュ （悪魔を手伝って、彼に手渡されたコートを着せる）もし、これは主人のコートです。
悪魔 口を閉じろ！（退場。アンドラーシュその後から頭をふる）
第十二景
ヤーノシュ、ツィンカ
ヤーノシュ なんで来たんだい？何の用だい？僕はお前のところに行くから、と言わなかったかい？
ツィンカ （泣きそうな声で）あなた今お得意様の前で恥じてたわね。
ヤーノシュ だって後で行くって言ったじゃないか。どうしたいっていうんだ？
ツィンカ 私下のカフェに入ったの、そして考えてみたの・・・やっぱり・・・優しいヤーノシュ・・・（しがみつく）・・・結婚しないで。
ヤーノシュ お前、僕のカラーをしわくちゃにしてしまうぞ。
ツィンカ ね？私さっきはまだ平気だったの。だけど今、あの人たちがここに来たのを見たとき、この話の何もかもにすっかり心を奪われてしまったの。結婚しないで。
ヤーノシュ （心を動かされて）さ、お前、いつまでも泣くのはおやめ。みっともないじゃないか。（彼女をさすってやる）
ツィンカ （おだやかに）私ってすごくおばかさんでしょう？
ヤーノシュ そうとも、そうとも、お前。今は感じよくなったよ。わかるだろう、お前がそんな風にきれいなおばかさんだと、僕はこんなにお前が好きなのさ。この結婚のことは後でゆっくり話すとしよう。さあ、おいで。もう行かなくていいよ。ここにお前がいてくれるというのも悪くない。コートをお脱ぎ。ほら。（途中まで手伝う）僕はお前のボーイフレンドだし、お前は僕の・・・僕の・・・僕の・・・僕の・・・
第十三景
前景の人々、悪魔
悪魔 （音をたてずに入ってきて、話の続きをとる）・・・僕の・・・僕の・・・僕の・・・コートをここに置いてきてしまったのだがね。君の間抜けな召使は君のコートをよこしたのさ。（脱ぐ）さてさて僕はいつも君が女性たちを脱がせているときに、やって来るらしいね？
ツィンカ 何ですって？（コートを取り返す）それじゃこれもそうなの？
悪魔 これは何ごとだね？僕がいるのは婦人洋裁店かな？
ツィンカ （わっと泣き出して退場）
ヤーノシュ、悪魔
ヤーノシュ えらく手際よくやってのけたね。
悪魔 礼を言われているなら、どういたしまして。
ヤーノシュ （そっけなく）後で君のコートを持ってこさせるよ。引き止めはしないさ。
悪魔 あのコートの洋服かけは裂けていてね。君の召使が今縫っている。出来上がれば、ここに持ってくるさ。ひどいもんだった！
ヤーノシュ 何が？
悪魔 あの女性がどんな風に亭主の腕にしがみついたかさ。まるで何かから奴のところに逃げてきたといわんばかりだった。
ヤーノシュ 僕のところから、と言いたいんじゃないだろうね？
悪魔 なあ、君。あほうになるのは楽しいかい？
ヤーノシュ 君と言い合いする必要はないさ、だけと賢明な君がわからないとは不愉快だね。あの女性とは六年間というもの毎日会ってきたけれど、おかしなことは一度も、一度も考えたことすらない、そのう・・・一瞬だって・・・お笑い種さ。
悪魔 彼女を見つめればいいのさ。君が望みさえすれば、彼女は君のものだ。ただ手を伸ばしさえすればいい。そして彼女は君の幸運を、幸せを意味している・・・大いなる人生を、君が出発するのをさぼっている人生さ。他の人間なら一生をかけてあんな女のために闘う、君はといえば偶然見つける。偶然見つけたお宝だ！
ヤーノシュ 偶然見つけられなかったお宝さ。
悪魔 去年、秋、九月六日に――まだ日付まで覚えている――ある身の毛がよだつような事件が僕の身に起きた。僕は夏服を取り出した、秋物を前に出した、そして着替え中にある秋物のベストのポケットの中に金貨を一枚見つけたのさ、いつからかわからないが、そこに隠れていたやつを。おや――僕は言った――棚ぼたで見つけた金貨だ！僕はしげしてと眺め、ひねくりまわした――いつこいつをポケットに忘れたんだろう？そして見ていると、あっという間に手から落ちた。どこかに転がり落ちた。そこで僕は探すのにしゃがんだ。探した、どこにも見つからない。そいつがこんな風に跡形もな消えうせたことが僕をいらいらさせた、僕は探した、どこにもない。僕は三十分も、四十五分も探した―ない。何かがすでに僕を傷つけ、駆り立てていた、今や僕はもう歯をくいしばり、怒りながら探していた、僕は家具をひっくり返したことにも気がつかなかった――ない。僕は召使を呼んだ。僕らは、晩まで一緒に探した。もう僕は汗をかいていて、手は興奮のあまり震えた、僕はあの金貨を見つけ出さなくてはと感じた―だが何をしようとムダだった。そのとき僕は突然飛び上がり、召使をどなりつけた「お前が見つけてポケットに入れたんだ、ろくでなしめ！」召使は怒って、乱暴に言い返してきた。僕はぶん殴ってやりたかった―僕は目をきらりと輝かせピストルを取り出した。リボルバーに手を出した。（ポケットからピカピカするリボルバーを取り出し、ゆっくりとテーブルに置く）このリボルバーでこれで、ほら・・・わかるだろう？このリボルバーで、金貨一枚のため、必要でもなかったもの、あのときまで知りもしなかったもの、僕が見つけたもの、あのときしかなかったもの、あのときしか存在しなかったもののためにあやうく人間を殺すところだったのさ。あれは僕のものだった。
ヤーノシュ （いささか困惑して）僕なら・・・僕なら・・・見つけた金をチップにやるさ。
悪魔 僕だってそのためにやるつもりだったのさ。だが転がっていった！そして目の前から転がっていってしまった物の後から、僕らはついて行くのさ！それを追いかける！それが男というものじゃないか！そしてもしいつか君の前から転がっていってしまったら、君だって偶然見つけた君の金貨の後についていく！そしてそれまでは偶然見つけた金貨、汚れた金貨だったものは、美しい、輝かしい金貨に変わるのだ、そいつはキラキラ光る、そいつは愛しい、そいつは必要なのだ！
ヤーノシュ 偶然見つけた金貨のためにリボルバーに手を出すなんて！
悪魔 いずれあの小さな女性も君の目には高価なものとなるだろう。いずれ君は感じる、彼女が翼を与えてくれたかもしれないのに！彼女は暖かい、様々な面を見せる！彼女の沸き立つ息づかいには最高に美しい熱情が燃え立っているのだ！もし転がっていったら、君は言うだろう「俺は偉大な人物になれたかもしれないのに・・・芸術だと？とんでもない！ますます心地良く、死んでしまいそうなキスをしてくれる、君の愛人の好意のおかげなのだ。（ヨラーンが身につけていたショールが彼の手に現れる）これがあの美しい、甘い胸にかかっていたショールだ。
ヤーノシュ （小さな声で、感傷的に）まるで小さなクッションのような胸なんだ。
悪魔 彼女の目は眠っているしゃく熱だ。ベールで覆われたダイヤモンドのようだ。
ヤーノシュ （小さな声で繰り返す）・・・ダイヤのようだ・・・
悪魔 君らは似合いの二人だ。そのことが素晴らしさを引き立てる。彼女が美しいことが君を満足させるんじゃない、君がハンサムなのさ！
ヤーノシュ （大層いらだって）君は僕を狂わせてるじゃないか・・・君はここで悲劇の料理をしている・・・僕を破滅させる・・・黙れ！！
悪魔 また怖がってるな！出し惜しみか！人生はパ～っと消費してこその宝だぞ！
ヤーノシュ だが・・・なんでそんなことを言うんだ・・・どうして・・・なぜ・・・（途方にくれて）・・・君は誰のまわし者なんだ？
悪魔 （陰気になった顔で）誰もまわしてないよ。僕は自分でここにいるのさ。
ヤーノシュ 違う。なあ！違うんだ！偶然見つけた金貨などいらない！僕は何年もの間彼女の近くに通った、今だっておそらく彼女の横を通り過ぎてしまうさ！（彼女には注意しない？）
悪魔 （いきなり）そしてもしやがて君の目の前から転がっていってしまったら？もし他のやつが持っていってしまったら？
ヤーノシュ （憤慨して）一体誰が？
悪魔 （勝ち誇って）僕さ！
ヤーノシュ 君が？？
悪魔 今晩だ！今夜だ！一晩で僕のものにしてみせる！僕はやりたいように彼女と遊ぶ！彼女、僕が連れて行くところにやって来るぞ。はは！六千年というもの僕にはこんな愛人はいなかった！
ヤーノシュ （びっくり仰天して）何だって？
悪魔 僕の愛人さ！彼女は、僕が思うがままになる！今夜あのサロンに、シャンデリヤの下、香水の中へ、大勢の暖かい息づかいの間に来い、そして一人の女性がどんなふうにまいってしまうか、最後まで見届けるんだ！
ヤーノシュ たくさんだ！
悪魔 そしてそのとき君も来るのさ！君は君の宝物の後を追っかける！そして君にはいつだって、彼女がどこで過ごしたかわからない、僕のところにいたのさ！ヴァーロシュリゲト5で君はカーテンをおろした馬車を見かける。君の心臓はドキンとなる「この中にいるのは誰だろう？」誰だかわかるか？僕らがいずれそれに乗るのさ！そして通りの角では君の前を、二人の互いに身を寄せ合う人間が逃げていく。君は驚く「やつらは誰だ？」われわれさ！そしてわれわれはあらゆる馬車に乗っている、あらゆる暗い通りでわれわれは二人でこっそり逃げていく、―突然灯りが消えるどのカーテンの向こうでも、われわれが抱き合って、燃える部屋から君を、君のびっくりした目を見下ろしているのだ、そして僕らは身を寄せ合って君のことを笑うだろう、甘ったるく、ぬくぬくと・・・・
ヤーノシュ （最高に逆上して）たくさんだ！！
悪魔 （同じ調子で彼の耳に攻撃をかける）僕らは君のことを笑うだろう、悲しい君を、チャンスを逃した君を、そして彼女はもっと笑うだろう、男にくすぐられたかのように、甘く、悲鳴をあげながら。
ヤーノシュ （ほえる）きさま！（リボルバーにとびかかる。悪魔は電光石火の早さで彼の手を押さえる）
（ヤーノシュ首を垂れる。ゆっくりと悪魔の手から自分の手を引き抜く。それから、悪魔も手をピストルから離す。ヤーノシュは地面を見つめる。この瞬間
アンドラーシュが物音をたてずに悪魔の背後にコートを持って現れる。ドアは開けっ放しになっていたのである。今度は悪魔がコートを着るのを手伝い、ドアの方に向かって立つ。悪魔をシルクハットを手にとる。テーブルに向かって
進み、そこからゆっくりリボルバーをとる。手に持っている）
悪魔 （非常にそっと、悲しげに微笑み、父親のような暖かいゆったりとした声で）ほら、君。君だって手を出すのさ・・・偶然見つけた金貨のためなら・・・このリボルバーに・・・
（シルクハっトをかぶり、ヤーノシュから目をそらさない。ヤーノシュはじっとつっ立ち陰鬱に地面を見つめている。悪魔はゆっくりとドアの方へ行く。敷居のところで振り返る。目が一瞬輝く。それから姿を消す。アンドラーシュはそのあとからそっとドアを閉め、主人のかたわらに立つ。一瞬の間。それから突然幕）