柱上のシメオン
（または「神よ、われら二人どこへたどり着くかわかるでしょう」）
三幕の劇
１９６０
シャルカディ・イムレ作
飯田緑訳
目 次
柱上のシメオン ５
作者シャルカディ・イムレについて ６６
劇評「柱上のシメオンたち」 ６８
〈登場人物〉
キシュ・ヤーノシュ
マーリア
ジュジ
ヨーブ
バーリント
サボー
アンタル
ミュラー
郵便屋Ⅰ
郵便屋Ⅱ
運送屋Ⅰ
運送屋Ⅱ
夫
妻
現時点の出来事
第一幕
第一景
巨大で殺風景なアトリエ。中には戸棚、テーブル、肘掛椅子、むき出しのソファ・ベッドがある―すなわちマットレスは床に敷かれていて、開いた窓の下でそれに人が寝ていて、そこからはひっきりなしに煙、騒音、すすが流れ込んでくる。その他の点でもこの部屋は完全に、そして申し分のない乱雑さを呈している、何一つあるべき場所にはなく、近くにある安楽椅子の一つには男と女の服が投げ出されているが、床の上にも服が散らばっている、あちこちに転がっている靴、灰皿、タバコの箱。一隅には画架が壁に立てかけられており、他方には互いに積み重ねられた絵、パレット、テーブルの上にはコップとグラス。床に敷かれたマットレスにはヤーノシュとマーリアの二人が眠っている。ヤーノシュは芝居が始まったころ目覚め、ひじをついて、タバコを探しまわり、火をつける。
ヤーノシュ (タバコに火をつけた後、もう一人が確実にすぐ目をさましてしまうことがないように、それでもやはり目を覚ますようにと口の中でぶつぶつ言う) とにかく妙な具合で君のことがわからないな。俺は困惑してるんだ。今までなら君の腰の上で近いうちの変化を測ることが出来た、きっと社会学者が社会の腰でそれを測ることが出来るようにね。われわれの共通の問題のバロメーターだと思っていたんだ、もちろんそれからおのおのの問題のバロメーターなんだとも気がついたよ、俺のものであるこの肉体は危険を発見することにかけては、俺よりずっと敏感だから。寝てるのかい？(わずかな間、女は返事をしない、ヤーノシュは掛け布団から這い出して、テーブルのところに行き、ビンを見つめ、一本から少しばかり注ぐが、すでにもうわずかしな残っていない、満足しきれずに飲み干し、戸棚の中の別のビンを捜す、見つけ出し、そこからも注ぐ、それも飲み干す、そしてパジャマ姿ではだしで肘掛椅子に坐る、たばこの灰を押し付ける、その間もこうしたことをやりながらブツブツ言う) 君の皮膚の下のかすかな振動の強さについ今しがた、目がさめたときに注意してみたんだ、俺にはもうえらくはっきりとわかるんだよ。その振動で、月の何日かのうつらうつらしている状態、まどろんでいるうちにやらかした裏切り、満足していないことが・・・人が時計を見て、そして特に論理的な頭の体操なしでもすぐに今何時かわかるようにだ。秋にはボートのピクニックで君の腰の振動は確実にコーヒー味だった、そして荒れ狂うどん欲さをほのめかしていた、それが俺に向けられたものではないことも感じていた・・・今朝方俺は何かの未知の知らせを受け取った・・・人間が時計を見る、そして時計は何も示さない、あるいは示す、時計の針は消えてしまったのではない、狂ってしまっただけで、針は二本の代わりに四本か六本ある、そして十本全部同じ長さで、時々一本か二本は消えてしまう、それでいてそれ以外のやつは急いで前へ進むか後戻りするかだ。寝てるのかい？
(女は返事をしない。ヤーノシュは頭を振ってさらにブツブツ言う) それからもう俺の手で君の腰に質問を繰り返すのはだんだん意味のないことに変わった、その気がなくなったのさ。寝てるのか？(間) それからというもの俺は禁欲的な苦行について考えている。柱上のシメオンを覚えているかい？ほぼ三十年間一本の柱の上で身動きせずにいた、あのあっぱれな奴を。たった今この人物の全てが非常にわかり易いものになった、思うに、今ではもう他の誰よりもよくわかってるな。
(間、新たに飲む) もし奴が日記か、伝記か長編小説を書いていたら、柱の上での経験を文章にする時間があったら、少なくとも俺たちはもっと彼を尊敬するだろう、もし奴が人類を価値のあるものとみていたら、世界で一番興味深いやつの発見についてわれわれが知っていたら。この存在しないノートは禁欲とか不能とかいう言葉、mentis clarissimae vitae1とかあるいはまさにopus salubritatis2のような表現、そしてどれもかたくなに現実逃避、浄化、最終的な意味での思い描いた天上の純潔さの救済を待ち望む概念でいっぱいだろうな。だが一体何からの救済だ？
マーリアは今ひじをついて起き上がる、彼女もタバコを手探りで探す、見つけ出すと火をつけ、それから立ち上がる。パジャマ姿でさまざまな服を集め始め、一、二枚を見つけて、それらを持って浴室に引っ込み、ドアを開けっ放しにする、そして水を出しっぱなしにする、シャワ－の水音が聞こえる、この間ずっと彼女は一言も口をきかない。ヤーノシュの方はかまわず、浴室のドアに向かって彼女に話しかける。
このシメオンも何かを待っていた、ただ何をだ？彼には欠けていたもの、そして手にいれたかったものだ。一時的な欠如感ということもある・・・全ては神経の問題だ。ペネローペには鋭敏な神経があった、二十年たっても正確にわかっていた―オデュッセイスがいなくても、確か二十年だ―だからといって決して消えたわけではないと、そして彼女は正しかった。(飲む) だが俺にはそもそも足りないものなどほとんどない・・・さし当たり挙げることも出来ない位だ、何もない、そもそもこの住いだって完全に不必要だ、というのも中にあらゆる種類の家具があって、そしてこいつらはきちんとしていないからさ、そしてヴィンツェ夫人が整頓しようと掃除に来ても、もっときちんとすることはない、ところが部屋はすっかり臭くなる、ヴィンツェ夫人の臭いでいっぱいになる。誰かがこのヴィンツェ夫人みたいな臭いがするものやら、まるで腐った膝頭かボスニア人の擦り切れた靴下か何かみたいな臭いがするものかどうか、俺にはわからん、だが市場の野菜ゴミの回収者だって、腐ったコールラビ（カブラタマナ）とキャベツの臭いが交じったときはそんな臭いがするさ、もちろんそれだってまだヴィンツェ夫人の臭いとすっかり同じというほどじゃない、この臭いには特別な魅力がある、俺は道に入り込むと気づくんだ。(立ち上がり、身震いする) 寒いな、俺のバスローブがどこだか知らないかい？(返事がないので、あちこちまだ転がっているのを見回す、安楽椅子の一つの背後の床の上で見つけて着る、そしてテーブルの下からソックスも見つける、それもはいてそれからサンダルを捜す、まず片方を見つけだし、もう片方を長い間探す。その間)
人がヴィンツェ夫人の臭いをよくかいでみれば、さらに「養鶏所のイタチ」という名称の臭いを発見するかもしれないな。(見つけ出した片方のストッキングの臭いをかぐ、頭をふる) その上鼻水をずるずるやり、のどをぜいぜいいわせ、鼻をすすり、醜くもある、とにかくだから好きになれなかった、長年ちょっとでも好きになろうと思って試しても、うまくいかない。もし一度、たとえ一瞬でも、千分の一秒でも好きになるのに成功すればもう、そこから先は簡単だろう、どうしなくてはならないのかもう俺にもわかるだろう・・・だがだめだ、どうしてもだめだ。
女が出て来る、すでに服を着ていて、服、靴、ストッキング、スカートを身につけているが、ブラウスは着ていない、ボディ・スーツしか身に着けていないからである、そして今や目の届くかぎりのあらゆる方向を探している。
何か食べないか？それとも飲むかい？(ヤーノシュ戸棚からパンを、それからチーズ、ソーセージを取り出し、新しいガラスびん、コルク栓をしてある魔法瓶を取り出し、試しにそれを抜き取る) このお茶はまだ比較的温かいと言えるな、そして一日を気の抜けたお茶で始める価値はある、これがコーヒーだと逆で、魔法瓶で気が抜けると炒った香りがしないし、それに本当のお茶飲みの民族、ロシア人、イギリス人、中国人はいつも長い間お茶の葉を開かせておくんだ。君用にサンドウィッチを作ろうか？
マーリアはこの間ブラウスを発見して拾い上げる、だがひどくしわくちゃなこと、それにボタンが一つ取れていることを発見する。そこで新たに下に置き、今度は針と糸を捜す、その間に戸棚の下から電気アイロンを取り出し、コンセントを差し込む。ヤーノシュは何かのサンドウィッチを作り、皿に載せて持って行く。
マーリア サンドウィッチはけっこうよ。
ヤーノシュ 君の最初の言葉は否定形だな。三十分間行ったり来たりして、一日を始める文章が、けっこうよで始まった。続きも否定形かもしれない、否定の連続だ。
マーリア あなたもう学校に行かなくちゃいけないんじゃない？七時半よ。
ヤーノシュ それが質問であれ、それだって否定形で始まってる、と言ってるんだ。七時半、本当に七時半かい？今日は学校に行くことさえないだろう、というのが俺の推測だね。子どもたちに図画を教えるのは好きじゃない、描くということは決して教えられるものじゃないし、とりわけほとんど描くことの出来ない俺にはそうだ、それじゃ何のために子どもたちに教える？思うに、もし俺が描くことを学んでいたとしても―ただそれが出来なかったということが問題なんだが、なんせ俺にも描くことが出来ない、それから教えることさえ出来ない図画の先生がいたからさ―、だがもし俺が学んでいたとしたら、そのときはあらゆる物を描いているだろうさ、美しい、透明で、明晰なものを描いているのさ、赤ん坊を腕に抱いた母親、乳を飲ませるときには、片方の胸までも美しいマルチパン色に塗るだろう。だが行くとは思えんな。君はこんなに早くどこに行きたいんだ？いつもとは全然違うぞ。
マーリア (ボタンを縫い付け、針を安楽椅子の肩に刺す) 出て行くわ。
ヤーノシュ 出て行く？(考え込む) お茶はどうだい？
ヤーノシュ いいえ、いいえ、いいえ。それじゃそうかい、そうかい・・・ここには何らかの論理があるな。いつも、君が突然出て行くのを予想していたよ。 ほぼ半年前、正確には、ちょっと待って（ちょっと考え込む）二百九日前の、三月二七日にロークシュで君は電車を降りた、そして俺はといえばたまたま乗りたかったんだ、そしてあのとき俺はそれにもかかわらず乗らなかった、それどころか君とぶらついた・・・ 翌日の朝俺はこんなことを思いついた、やがていつか君は、降りたときと同じようにロークシュで電車に乗るだろう、俺は君の後を少し見送り、それに合図をしたりもするだろう、それから暗い、霧、それからもう電車のライトしか見えない、それからそれすらなくなる、君はそんな風に出て行くだろう、と。流行のスタイル通りになるように夜に延期する気はないかい？それからロークシュでやることに？それまではつきあうよ。
マーリア いいえ、とても急ぐの。(この間アイロンかけを終了し、ブラウスを着て、スカーフを結び、安楽椅子の一つでコートも見つけて、手を伸ばさないように努める、出て行きながら言う) あなたは送って下さるなんて出来ないわ、だって私とても急いでいるもの。(出て行く)
ヤーノシュ (一人取り残される、少しの間彼女の後を見送り、それから一人でちびちびとやり、思いめぐらす) もし俺がすっかり理解しているとすれば、これできちんとするいうことじゃないか。何かの変化が俺のまわりで出来上がりつつある、明らかに俺が見落としているんだが、しかしどうすればいいんだ？通りのガチャガチャいう音、騒音は昨日か一昨日のときっかり同じだ（立ち上がり、窓を閉める）空気だって昨日と一昨日とちょうど同じように冷たいし、すすけて少しばかり腐敗の味がする、日光も、タバコも、ブランデーも、ベットも・・・マーリアは頭がいい、理由もなく、ちょうどこんな風に自分から出て行ったりはしない。（電話を取り上げ、それから置く）あ、もちろんそうだったけ、こいつは止められていたんだ、そうだ、そうだ。止められた、そしてそれが秩序というものだ。物事の本質とは、本来秩序であって無秩序ではない、そのことなら俺は充分に知ることが出来る、そして権力の所有者たちがアナーキストたちを追い詰める情け容赦のなさを証拠に提出することも出来る、自分で対してではなく、びっくりしている世間に対してだ。ここには底知れぬ相互関係があることは、議論の余地なしだ。形式はこんな風に崩壊していくらしい、そして俺にはこれを妨げる権利はない。（ノック）
ヤーノシュ 伝令がやって来て、あえぎながら言う（ドアを開けに出て行き、郵便屋と共にもどってくる）
郵便屋Ｉ すみません、ベルをどう押してみても、鳴らないんで、ガタガタやってしまいました・・・
ヤーノシュ そうでしょうね、私が鐘と舌の間に小さな紙を入れたせいなんですよ・・・
郵便屋Ｉ 鳴らないように？
ヤーノシュ 鳴らないようにです。耳がキンキンしたんでね。それほどキンキンしたわけではなかったんです、今、大して邪魔にはならないんだとわかりました。すぐとりましょう。（取る）
郵便屋Ｉ 残念ですが、そのうはっきり言えば、電話を持っていかなくてはならんのです。
ヤーノシュ どうぞ、どうせ調子が悪いんです。
郵便屋Ｉ 接続を切ってあります、あなたが払わなかったからです、お仲間さん。（あたりを見回す）あなたは芸術家か何かですか？
ヤーノシュ とんでもない、ただこんな住いを手に入れたというだけです。何か飲みませんか？
郵便屋Ｉ どうも、でも・・・どうしても電話を取り外さなくちゃならんのです、あなたが支払わない場合・・・私ではだめですが、今日のうちなら多分あなた手をうてますよ・・・お待ちしましょう、明日、そうですね？明日の午前中までならどうです？
ヤーノシュ いや、いや、どうぞ取り外して下さい。でもやっぱり何か飲んで下さいよ。
郵便屋Ｉ じゃあそいつは、どうも。つまりこれはあなたのお住いではないんですね？
ヤーノシュ 私のですよ、ただ私にはもう、何が私の物なのか正確にはわからないんですよ。ちょうどさっきそのことを考えていたんです、形式は崩壊していき、私には妨げる権利はないと・・・・
郵便屋Ｉ 妨げようとすれば、私は警官と一緒にもどって来るでしょうね。
ヤーノシュ かんべんして下さいよ。私にはその権利がないと、言ってるでしょう。
郵便屋Ｉ ないですね。でこれは一体あなたには必要なんですか？私にはわかりませんね、あなたは教育のある人に見えますが、教育のある人がどうして、私がこんなにあっさり電話を持って行ってしまうのを放っておくんですか？もちろん電話は郵便局のものですよ、ほら、「所有者は郵便局であり、あなたは前払い者として使用するためだけに所持するもので、もし壊した場合は、その代金はあなたの支出となります」とこの上に書いてあるでしょう。例えば壊したら・・・それじゃあつまるところ私は持って行っていいんですね？その間飲む。手続きをなさらないんですか？
ヤーノシュ どうぞ、どうぞ持ってって下さい。どうぞ、もう一杯。「どうぞいらして下さい、ここに一万フォリントあります」と言われるために、電話がかかてきたことなんか一度もないんです。いつだって、「これとこれをやれ、これとこれがほしい」・・・与えたいという者は決して電話しないし、いつだってもらいたい者だけがかけるんです。
郵便屋Ｉ 私もそう思いますね。私には電話はないんですが、女房はいつだって「もう必要なんじゃない」と言うんです、でも私にはわかっているんですが、たとえ電話があったとして、人間は意味がなくても電話をかける、わかってるんです、女房は毎日三度だって知り合いたちに、それ以外にきくことがなくたって、「元気？」ときくでしょうよ。そんなの意味がないと思います。それじゃ・・・それじゃ電話機を持って行きますよ。ほら、まだ撤去はしません、持って行くだけです、いずれ二，三日過ぎれば箱を取り外しに来ます、もしそれまでのうちにに手続きすれば。もしそれまでにお金が出来たら。私の見るところ、あなたは芸術家ですね。
ヤーノシュ どうぞ、ご心配なさらずに持って行ってください、あなた。もう一杯いかがですか？（郵便屋飲む、それから気の毒がりながら手を差し出し、脇の下に電話機を抱えて出て行く）
ヤーノシュ （もどってくる、送りにいったからである、そして頭を振る）面白い、今はまだ・・・ふんふん。俺の考えた通りだ。
ヴィンツェ夫人 （ノックして何の反応もないのに入ってくる。信じられないほど醜い老女）ちょっと、キシュさんや、管理人があんたから住いを取り上げると言ったよ。わたしゃ、そんなことは出来ない、だってキシュさんは誰とも上手くいってるし、きっとそんな人からは住いを取り上げたりはしないとしか言わなかったよ。でも管理人は、キシュさんは誰とも上手くいってない、だってキシュさんは率直に言って、酔っ払いのブタで、何一つやろうとしない、それどころかカモがネギしょって来るのを待ってるだけだ―と言ったね、つまるところ管理人はそう言って、そしてこんなことも言ったんだよ、もしキシュさんがこの家から追っ払われれば、自分はすごく喜ぶだろう、なんせここにはきちんと働いている人だけしかいないんだからと、それ以外にも毎日べろべろに酔っ払うまで飲んでることを別にしても、この家全体の中で、キシュさんは、何一つしない、たった一人ののらくら者なんだとも―つまり管理人はこう言ったんだよ。
ヤーノシュ ヴィンツェさん、あんたは管理人に何の用があるんだい？あんた方は話しもしないじゃないか。
ヴィンツェ夫人 でもやっぱり奴の言うことは聞こえるのさ。
ヤーノシュ とにかく坐んなさいよ、ヴィンツェさん、そして何か飲みなさいよ。
ヴィンツェ夫人 (疑いつつ) そりゃ私は飲んでもいいよ、だけどあんたが通りに追い出されないようにするためには、何も出来ないからね、それにわたしゃ良くわかってるんだ、あんたはこれまでまだ一度だって私に飲ませてくれたことはない、それどころか私が入ってくると、すぐ窓を開けてたよ・・・
ヤーノシュ そうとも、そうとも、ヴィンツェさん、でもその話はよそう。
ヴィンツェ夫人 (疑いながらもグラスの一つから飲む) わたしゃともかく昨日切符を手にいれることが出来たよ。
ヤーノシュ 何の切符を？
ヴィンツェ夫人 何の切符、何の切符だってさ。息子を見るための入場券、入場券さ。
ヤーノシュ それで思い出したよ、息子はどうなった？
ヴィンツェ夫人 今はもう何ともないね、だって昨日の午後絞首刑にされたから、それで絞首刑の切符を手に入れるために、どれほど大変だったか。どうしても私にそれをやりたくなかったんだね、これは例のないことだ、見物人がいるサーカスじゃないと言われたね・・・そうですとも、私は言ってやったよ、でもあなたが母親ですか、ご親切な方、それとも私が母親ですか？そんならもう私にだってあなたと同様、息子が絞首刑になるのを見る位の権利はあります、あなたさま。
ヤーノシュ で絞首刑を見て良かったかい？
ヴィンツェ夫人 良かないね、ちっとも良かない。あそこではあんな大勢の連中がぶらぶらして、しょっちゅう私の前にばかりでしゃばってきたのさ、私にはほとんど何も見えなかったね、一人はこんなことまで言ったんだよ、「何をうろついているんだね、この老いぼれの魔女、何が面白いんだ」、それでそいつにも私の言い分を言ってやったよ。ここには私以上にこれを見る権利を持ってる奴なんかいないんだよ。私の息子じゃないか、私がお乳をやり、私が育て、小さいころには私が首を洗ってやったんだ―かわいそうな子は洗うのがきらいでね、いつもそれが出来れば、洗う前に逃げ出したもんさ。あの子はおしまいには首のせいで世界を終えるなんて、考えてもみなかったろうね、とさ。
ヤーノシュ ふーん、こっけいだね、そりゃこっけいだ、ヴィンツェさん。
ヴィンツェ夫人 こっけいだって？どうしてだい？こっけいだとしても、私にとってこっけいなんであって、あんたも私のことをおこってるのさ・・・
ヤーノシュ おこってやしないよ・・・
ヴィンツェ夫人 同情する代わりにさ。
ヤーノシュ 同情はしないよ、ヴィンツェさん。今思いついたんだけれど、あんたは理解するために存在する何者かなんだ。あんたがいるということはわかっている。あんたの人生には目的はない、病気で、年寄りで、醜い、一日中働いていく、忙しく走り回っている・・・
ヴィンツェ夫人 ねえキシュさん、あんたは、自分はどこかもっとご立派なんだ、とこう思ってるんだろ。私にはマーリアさんのことがさっぱりわからないね。なんでいつもここにいるのか。
ヤーノシュ だけどヴィンツェさん、彼女がもうここにはいないことはわかるだろう。ふむ、だが少なくともあんたは一貫してるな。真実を捜し求めている。
ヴィンツェ夫人 それさ。(鼻をすする) わたしゃ一生の間それを捜していたよ、だから苦しまなくてはならないのさ・・・
ヤーノシュ (その間自分用に注ぐ) 確かに俺には今ではもうわかってるよ、ヴィンツェさん、わかってる（ベルが鳴る）
ヴィンツェ夫人 ドアを開けてこようかね？
ヤーノシュ お好きなように。
ヴィンツェ夫人 私には決めるなんて出来ないよ、だって私がドアを開けるか開けないかは、あんたの問題だからさ。もし開けるようにと言われりゃ、わたしゃ開けるよ。言わなければ、開けない。その間外に向かって歩きだし、ぶつぶつ言う。もし管理人だったら・・・（まもなく郵便屋ともどって来る、先ほどの郵便屋ではなく、郵便配達である）
郵便屋Ⅱ キシュさん、書留です、それに役所の書簡が一通。サインをお願いします。
ヤーノシュ 他には何も？（サインする）やあ、こいつは本当に住居管理課からだぞ。ヴィンツェさん、あんたには悪魔がついてるな。（郵便屋出ていく。ヴィンツェ夫人はついていかない、緊張して待ち構えている。）
ヴィンツェ夫人 あんたは住いを取り上げられるって、言ったろ。
ヤーノシュ 実は取り上げられたわけじゃない、一部屋だけだ。（読む。）本日をもって、玄関の入り口、浴室の使用と共に一室をメガイ・バーリントと夫人に割り当てる・・・
ヴィンツェ夫人 なるほどね、でももしあの部屋を割り当てられたら、ここだって共同使用になるだろうね、あの部屋へはここを通ってしか行けないんだから。
ヤーノシュ それは共同使用じゃないよ、ヴィンツェさん、使用権だ。
ヴィンツェ夫人 塩気？
ヤーノシュ 塩気じゃない、使用権だ。使用上の権利だ。中央の部屋は、そこを通って行き来することを許可することで、第三の部屋の役に立つ。
ヴィンツェ夫人 つまりこの部屋も住人たちの役に立つ？
ヤーノシュ 住人たちにじゃない、第三の部屋のだ。俺があそこにも住んでいた間は、使用権はなかった、同一の所有者には使用権はないからだ、だが今はもうある。
ヴィンツェ夫人 おやまあ、そいつはえらくばかばかしいね、部屋の一つは他の部屋の役に立つように、なんてまだ聞いたこともないよ。
ヤーノシュ そうは言ってもこれが事実さ。
ヴィンツェ夫人 まあ、えらくお役所式の事実だね。であのもう一通の方にはなんて書いてあったんだね？
ヤーノシュ （読む）度重なる怠慢の結果、管理局は貴下の職を懲戒のため本日をもって、消失したものとみなすことを、通達する・・・
ヴィンツェ夫人 つまりあんたは職場からも放り出されたのかい？
ヤーノシュ らしいね。
ヴィンツェ夫人 あんたには、あんたがどうしても行こうとしなかった職場があったということが、ありそうにないことだね。そして今、職がないということは、いずれ警察はあんたを引っ張ってはいかないのかね？
ヤーノシュ もしあんたがヴィンツェさん、俺には職がないことを密告しなければね。
ヴィンツェ夫人 私が密告するだなんて、そんなことは二度と言わないでおくれ。それは全くただの中傷だよ、ただ管理人が私が住人たちを何であれかまわず密告していたなんて考えついたのさ、たまたま三階のあの髭面が若い娘二人を自分のところに連れ込んだちょうどそのとき、警官が来たのさ、そのときわたしゃ警官に「ちゃんと見てくれたらいいのに」と言ったのさ、それからやつらは現場を押さえられたんだよ。でも私は誰も密告したりはしないよ。
ヤーノシュ ヴィンツェさん、俺は一言だってあんたを非難したりはしてないよ。
ヴィンツェ夫人 だけどもしもうあんたに職がないんだったら、そのままになってるあの部屋だって、あんたのもんじゃないよ。
ヤーノシュ たしかにそうかも。となるとそのときは俺はあんたにもうゴミ掃除代を支払いさえしないわけだ、なんせもし俺には法的な権利がなくなるんだったら・・・
ヴィンツェ夫人 でも確かに、今月の分はまだあんたが支払わなくてはならないよ。キシュさんや、明日すぐにでもこの家から放り出されるとしてもさ。
ヤーノシュ (引き出しから金を手探りで探す) なにかまわんさ、今ならまだ支払えるよ、それにここにまだ金がある。ヴィンツェさん、ワインももう二本持ってきてくれよ。
ヴィンツェ夫人 ワイン？
ヤーノシュ ワインさ。二本
ヴィンツェ夫人 マーリアさんもここにあんたを置いて出てった、と言うなら、何のために？私には全然関係ないけど、でもあの人がそうするのはもっともだね、私がの人の立場にいたらもうとっくにここを出てっただろうよ。一人でワインを二本飲みたいのかい？
ヤーノシュ わかるだろう、ヴィンツェさん、まさにそのためさ。もし俺にはもう愛人も、家も、職もないというなら―まだワイン位はほしいしそれもたっぷりとね。そいつを一緒に飲める友達はまだ一人二人はいるんだ。
ヴィンツェ夫人 おやまあ。(退場)
ヤーノシュ (捜し廻り、どこかでタオルを見つけ出し、それを持って浴室に入る、その間もぶつぶつ言う) 思考が変化しているらしい。人間から独立している、あるいは少なくとも独立しようと努めている。差し当たり俺の中で独立しようと試みている・・・おそらくヴィンツェ夫人の中でも？面白いのは、前と違って、今では少しも恐ろしくないことだ。ほんのわずかでもそれに意味があるなら、好きになれるかもしれない。だが何のためだ？今となってはもうわかってしまった、他のやつらとわずかでも違うわけじゃない、それじゃ何のために好きになるのだ？彼等のことが理解出来れば、充分じゃないか・・・(その間浴室に入っていく。その間新たに呼び鈴がなり、ゆっくり出てくる、すでに髭剃りを始めている、出て行きやがてまもなくヨーブと共に戻ってくる)
ヨーブ (急いで、せかせかと入ってきて進み出る、ちょうどその真後ろに来たヤーノシュにどなり返す) さ、とにかく急げよ、もうちゃんとしろよ、また家族生活の海藻の中にいる君に出くわすんじゃないかと心配してたんだ。ブダケシ3に出かけよう。
ヤーノシュ 出かけてもいいさ。なんでよりによってブダケシなんだい？
ヨーブ なんでだって、あそこで収穫を刈り取っているからさ4。アホな質問だ。なんで君は床で寝たんだい？
ヤーノシュ (シャボンを顔に塗る) 昨日の夜マーリアは、床で、開けた窓の下で寝ようという熱にとりつかれたのさ。
ヨーブ 女どもときたらひっきりなしにアホなことに頭を悩ましていやがる。床の上で、開けっぱなしの窓の下で、そして電灯もつけっぱなしにしたのかい？
ヤーノシュ 電灯？さあ、つけっぱなしにしたかどうか、そいつはよくわからん、俺が目がさめたときはもうついていなかったんでね。
ヨーブ わからないって？夜はつけっぱなしだったのかい？
ヤーノシュ 誰が知るもんか。俺は先に眠ったんでね。
ヨーブ だが君が眠る前に、この大馬鹿、おたずねしますが、睡眠に入る前に、そうするために君らは横になったんだろう、そのときは電灯はつけっぱなしにしたのかい？なんせそういう発作は頭の良い女どもならいつも予想出来るからさ。馬鹿な女どもからは何も予測がつかない、だが君のマーリアはいわゆる頭の良い女だ、彼女についてはすぐわかる、そんなことをしたのは少なくとも開いた窓という公開の場で君と寝たかったからだ、とね。八番目のカテゴリーだ。
ヤーノシュ そりゃ何だい？
ヨーブ 今しがた俺はセックスのカテゴリーをまとめたのさ。ちょうど君のところに出かけてくる前のことだ。正確で、何一つ落ちているものはない。始まりはこうだ、人間は人格のないセックスをする―これにも正確には四つの形がある、第一は、単純に取り決めのなされた金のために人間が一人の異性を買うときに―つまりそこから続けると、機械的なセックス、おなじみのセックス、複数形のセックス、見世物のセックスだ―この複数形についてもいえることだが、こいつにも八つのカテゴリー、八つのケースがある、相手が緊張をかきたてもせず､それどころか見られている、そして何を言われるか・・・だが君は今えらく間抜けに見えるぞ、この話をするのはよそう、君には全然そうする価値がない。行って髭をそれよ。
ヤーノシュ （浴室に入っていって、そこから髭剃りの間も怒鳴り返す。）そいつが全部わかったとしても、君がこんなに早く起きたということだけはわからん。
ヨーブ 俺だって全然わからんさ。君の中に何か気にくわん物がある、えらく気にくわん。（隅からギターを取り上げ、つまびく、そして歌い始める）
ベールテク5の温泉に雪が降った
そこへある士官がやって来た、馬が彼を放り出した。
私はそこへ行って、起こしてあげた、
馬に乗るのを助けてあげた。
彼は私に王冠をくれた、私は大盗賊になった・・・
大叔母がこの素晴らしい歌を聞かせてくれたのさ、彼女はいつかまだ自分が小さかった頃にクラスナベールテクでこいつを習ったのさ、そして今度の戦争中モスクワを撤退したときに、彼女当時はまだモスクワで暮らしていたんだが、カラハリ砂漠だかどこだかで、大勢の気の毒なおびえた民間人が行くとき、突然可哀相な小さな年寄りはこいつを歌い始めたのさ、自分の六十歳の年月と共にね。ほれ彼女の神経はタフだろう、どうだ？
（ヤーノシュが何も言わないので、新しいのを始める）
黒い足の花嫁
私は晩にお前のところにいた
私は求めただろうに、お前は与えてくれなかった。
男のせいで、お前は悪くいわれた・・・
君、俺は確信はないんだがね。願わくは、マーリアがここから出て行きましたようにと。当たりか？女どもはときどき、いつ誰かを捨てなくてはならないか正確に感じ取るんだ、今日の君は完全に、もし俺が女だったら考えたりしないで逃げ出しそうな様子だぞ、らい病患者にぎょっとして逃げるみたいにな。
（ヴィンツェ夫人二本のワインを持って登場）
ヴィンツェ夫人 おや、ここにはもう呑み仲間がきてるよ。もちろんマーリアさんはまわれ右するね、呑み友達がやってくるんだから。
ヨーブ 老いぼれの魔女め、回れ右、外へ進め！（脅かすように彼女の方へギターを持って進む。ヴィンツェ夫人ぶつぶつ言いながら退場。）
ヴィンツェ夫人 ご立派なこった、そう言えるね。
ヨーブ 俺たちゃすぐに窓を開けるからな。（ヤーノシュ出て来る。髭剃りをすませ、シャツと服も着ている。）君の部屋にはいつも棺おけか何かのような兆候があるが、だが今日は特にそうだ。俺はもう二度とここには来ないんじゃないか、という気がする。（ヤーノシュはこの間ワインをつぎ、彼にもグラスを一つすすめる。えらくやくざなワインに見えるな、それに俺は一人で飲むのは好きじゃないんだ。）
ヤーノシュ （打ち合わせる）君は一人じゃないだろう。
ヨーブ （疑わしげに見つめる）そいつはまだわからん。
ヤーノシュ それで君のカテゴリーによると、俺とマーリアはどのカテゴリーだったんだい？
ヨーブ いつどれというのは、あほな質問だ。最初は君の視点からは本能的なあほ達のグループだ、その第四のカテゴリーだな、すなわち君が没頭するとき、二人の人間の神経組織が同じリズムで動いていると自分自身に信じ込ませるときは、それが恋だ。それから君は賢くなって、人類の神経系統はこの問題では二種類のリズムに従って動いているのを確認する、すなわち一つは男のやり方で、もう一つは女のやり方で、それが恋だ―それはもちろん前のやつよりも少しも利口ではない。そして君はしまいには納得する、自分には恋をしようとする必要がうんとあるわけでもないと、そしてますますさびしくなる。マーリアの方では、もちろん彼女の側では事は全然別だ。彼女は君は一人の天才だ、こいつを裏切らないでついててやれば良い商売になるだろうと、自分に信じさせていた。さぞかし君は彼女に、「もちろんこれが俺自身だ―古い炎の黒い火種だ―俺の上では最後の風がうなり声をあげている―俺から去れ、呪え、憎め―あるいは俺に歓呼しろ」とでも一席ぶったろう。もし君がそらで述べ立てていないとしたら、俺の名はヨーブじゃないね、そして彼女はそれに感動した、もし感動しなかったとしたら、俺はこれ以上ワイン一杯も飲まないね。だが俺は一人で飲むのは好きじゃない。
ヤーノシュ (今も乾杯したのを目にして、冷淡に) だけど俺も君と飲んでるぞ・・・
ヨーブ 別の意味でルツィア風の女だった。
ヤーノシュ ルツィア？荒野で柱上のシメオンを訪れたやつのことかい？
ヨーブ ばかだな。そんなルツィアなんて知らんよ。ローマのルツィアのこと
をいってるのさ、カミルス6としばらく一緒にいて、あるいはカミルスでない
とすれば、もちろんキンキナトゥス7の農夫生活を甘くし、いつもちょっとした戦争にならないかと、そのときはいずれ自分の男がどんなことが出来るものか見せてくれるだろう、と期待していた彼女さ。でもそれまでは忠実に彼に麻布でくるんだ壺に入れた昼飯を運んで、簡素な白いペプラム8を着ていた。
ヤーノシュ 全然違う、俺が言ってるのは、荒野の柱上のシメオン9のところに出かけ、やつが真の苦行者かどうか確認したかったルツィアさ。短気な夫をなだめるための助言を乞いたかった。やつは聖人か何かだと信じていたが、ただの苦行者だった。
ヨーブ さあ、そのルツィアのことは確かに全然聞いたことがないな・・・
ヤーノシュ 今朝までは俺だってそうさ。この三十分の間にわかったんだ、彼女はやつを見たとき、ぎょっとして逃げ出したんだと・・・
ヨーブ 彼女は一体全体何を見たか？柱の上に一人のきちがいが立ってるのを見た、そいつは自分を見せびらかすやつだった、彼女は、やつが自殺するとおどかすのは、自分が成功を収められなかったことのためにそうやって世間に対して復讐しているのだと思った。今の君と全く同じように。とにかく俺のことはおどすなよ・・・だから俺は君と乾杯すると、一人で飲んでるんだと感じるんだ。俺は一人のニヒリストと同じテーブルについている、恋も、酔いすらも信じていない一人のニヒリストと。だけどアレクサンドリア学派10の周囲では、アレクサンドリア人の良識はまだ死んでなかったんじゃないかい、つまりそういう阿呆どもは放っておかれた、そして人々は自己破壊の脅しには驚かされなかった、彼等を聖人と名付けた、そしてそうなるとやつらは虚栄心からさらに柱の上に立ち続けた。
ヤーノシュ （わずかな間。）つまり君は、そのせいでマーリアは出て行った、と思ってるんだな・・・
ヨーブ 今の今まで、出てったなんて知りもしなかったよ。
ヤーノシュ 知らなかったものか。(間)
ヨーブ 知ってたとしても、今日の君がどんな状態でいるかからわかったのさ。(飛び上がる) おい君・・・！君が荒れてても、人類は少しもぎょっとしたりしないぞ。もしドゥナに飛び込むなら、いずれ水上警官たちが君の屍の上でぶつぶつ言うだけで、同情どころか呪いの言葉しかもらえんぞ、なんせ君は彼等にやっかいごとをこしらえたんだからな・・・お笑い草だ。
（態度を和らげて坐りなおし、静かにたずねる）どういうわけだい？
ヤーノシュ (骨を折りつつ) 昨日の晩は・・・ここに何人かいた・・・
ヤーノシュ ああ、もちろん、君も・・・なら、君も少しは原因の一つなのかもしれないな・・・
ヨーブ あほう。女どもは、誘惑されれば喜ぶだけさ。俺にはわかったが、彼女には何か問題があった、それで俺は彼女を喜ばせたかったのさ。俺は、君だって友情の奉仕だととったものと思ったよ。
ヤーノシュ うん、君の言う通りだな、ばかなことを言ったもんだ。君は何の原因でもない。（間） 何であれ・・・それじゃえーと、話してみるか・・
ヨーブ ただアダムとイヴで初めてくれるなよ。昨夜われわれはここに居た―そこから始めてくれ。
(舞台はゆっくりと暗くなる)
ヤーノシュ われわれは話し合っていた・・・俺の絵のことでだ・・・
幕、 第一景の終わり
第二景
同じアトリエだが、今度はもっときちんとしている、床の上にはマットレスがなく、人々は安楽椅子や普通の椅子に坐っている、ヤーノシュが一枚の絵を見せており、マーリアは長いす上で足を折って坐り、もたれてたばこをふかしている、そのかたわらでヨーブがマンドリンをすすり泣きのような音をさせてかき鳴らしている、常にしつこくあの「私は馬をつなぐ～悲しい柳の木に」などのメロディーを思い出したようにつまびいている。安楽椅子には一組の夫婦とアンタルが坐っている、ヤーノシュは絵の前で立っている。
ヤーノシュ 俺の人生のライフワークだ。だがそれはともかくどうでもいい。これ以上は描く必要がないことを、気づかせてくれた。
(中断して、絵を画架と共に後ろに、どこかの隅に持っていき、壁に立てかける。それからもどって来る) 今日の午前中誰かと楽しくて刺激的な会話をした、それは大体こんなことを伝えてくれた、彼は何も―そして徹底した人間だから、すぐ世界の半分を自分と同一視した―すなわち彼等は何も（大げさな動作で絵の数々、今しがた運んでいった絵の方を指さす）必要としていないと・・・さ、一杯飲もう・・・(注ぐ、注いでまわる、夫婦以外の誰も彼にあまりとりあわない。マーリアはいささか落ち着かなげに見つめている)
ヤーノシュ とっくにわかっていたんだが、議論はバカな人間としか出来ないのさ。バカどもは反論を呼び起こすし、その反論こそはまさに賢明足り得るのかもしれない・・・バカどもは本当にバカどもなんだと仮定してみよう。だが誰にやつらを選別出来るだろう、あやふやにすることは許されない。もしバカなら、完全にそして申し分のないバカにならなくては。バカなほどよろしい。
妻 (緊張して) でも・・・でもそれじゃ・・・それじゃ、そいつよくも厚かましくそんなこと言えたわね？それにそれって誰だったの？誰にそんなことを言えたの？
アンタル (老いた人物。おそらくは六十歳かもしれない。だが声、身のこなしは心地よく若々しい) そのどこがあつかましいんだね？
夫 おやおや、やっぱりですか。ちょっと待って、ねえ、とにかくちょっとストップしましょう。われわれには何かが必要ないなんて、誰に断言出来るんです？あまりに厚かましいことじゃありませんか？よくわかりませんが、まるでそいつが反論しているみたいだ・・・
妻 がさつなやつらよ・・・だからこそ、なおさら彼らに見せておやんなさいよ。だからこそなお・・・！
夫 今はその話をしてるんじゃない。そんな「だからこそなおさら」が、君、かなり重い「だからこそなおさら」なのさ。そうとも、そうとも！これは根本的な問題だ。ここには「だからこそなおさら」の余地はない！
妻 ないものですか！
ヨーブ (楽器をつまびくのを止め、妻の方に身をかがめる) 奥さん・・・ちょっと！
妻 何ですの？
ヨーブ どうぞお願いです、私と別の部屋にまいりましょう。(間、彼らは一瞬そちらへ目をやる、彼はうなずきながらつけ加える) やるためにです、もちろん。(静かになる。ヤーノシュがこの愚かさにうんざりしたかのように手を振る。夫と妻は身をこわばらせている、ヨーブはすぐ楽器を抱えなおし、そして同じ曲を爪弾き始める。耳をつんざくように、そして人をいらいらさせるように)
ヤーノシュ 君らは何の話なのか、全然わかってないようだな。
ヨーブ (一瞬止めるが、このせりふが終わった後返事を待つこともせずにさらにつまびく) とんでもない。君についての話だ。だからこそ口を出したのさ、なんせいつも君についての話であることに、飽き飽きしてるんでね。
夫 その件に関して言えば、いささかみょうな口出しでしたね。いささか、非常にみょうだった。ずうずうしいとは言わないけれど。より強い表現は使わないが・・・もちろんのこと・・・(脅すように立ち上がる)
ヤーノシュ (新たに注ぐ、その間ついでに) ほっときたまえ、ヨーブは直感で動いていて、それを信じているのさ。もちろん信ずるものに従うということは、もうほぼ乱用といっていいんだ・・・
夫 親愛なるヤーノシュ、僕はもちろんそのことは信じてるよ、でも・・・でもこう思うんだが、君はホストとしてはおそらく・・・いいかい、論理的なんだ、俺にはうれしくないことだが、論理的だ・・・
ヤーノシュ (無表情にさえぎり、うなずきおどける) それだ！ヨーブがもう何度も俺に説明してくれたんだが、論理というやつはそれを進みつつ何かを発見することの出来る道ではない、なんせその道は決して完成してはいないのだからだそうだ。もうすでに行き先があるとき初めて、われわれはそれを作るんだ。論理というやつもそうだ、すなわち何かが見つかったら、われわれはそこまでの論理的な道筋を作るのさ。つまりヨーブに対して、君が論理を盾にしても無駄なのさ。
夫 (わずかな間の後突然妻の方へとびあがり、手をつかむと椅子からひき起こし、彼女と共に急いで出発する) いいや、思うにこの集まりで僕がこれ以上何かを盾にするなんてことは二度とないだろうな。(彼らは出ていき、自分達の後でドアをバタンと閉じる)
ヤーノシュ (苦笑いし、肩をすくめる) なあ、あいつらは誰だったんだい？(マーリアにたずねるが、彼女は答えない) 君の知り合いか？
マーリア (新たな長い間の後) 妹とその夫よ。
ヨーブ (つまびくのを中止して、ほとんど大声で吠える) わかったぞ！ずっと驚いていたんだ、僕はどうしてこの子ネコちゃんにこんなこと言ってるんだろうとね・・・それじゃもちろん、あなたに似てたからなんだな、あなたに言いたかったんだ、だけどその勇気がなかった。だけど今度は思い切って言うよ。美しい僕のマーリア、先ほどの相手を間違えた提案を繰り返させておくれ、そして新郎新婦の契りに君の膝に口づけさせておくれ・・・(マーリアの足に向かってひざまずき、スカートを押し上げ膝に口づけまでし、さらに膝から上にまでする、しかしマーリアは苛立った動作で長いすから起き上がる)
マーリア あなたにはうんざりだわ、ヨーブ、行ってしまいなさいよ・・・(これら全てを実際にうんざりした声で言うが、それと同時にしっかりヨーブをひっぱたく) 行って、行って、でも早いとこね・・・(冷淡に言うが、ヨーブがまだ出て行かないので、たまたま後ろに一歩さがって灰皿を投げつける、これにはヨーブも少しばかり狼狽する。マーリアは床に置いてある、もっと大きな灰皿を投げつけるために身をかがめる、このときヨーブは気がすんだらしく、肩をすくめて、逃げ出すのでもなく全然気にした様子もなく退場する)
ヤーノシュ (笑い転げ、それから飲む) それじゃもう君の妹夫婦を呼び戻してもかまわないな。
マーリア (答えないで、長いすのすみにまたうずくまる、そこにはコーヒー沸かしが手近にあるので、それに没頭する)
ヤーノシュ 人類は今日ではお互いをかなり嫌悪してるんだな。そしてそれは正しいよ。
アンタル そうとも、成功しないということはかなり不愉快なことだ。
ヤーノシュ 何だって？(そちらをポカンと見つめ、新たに飲む) もちろん、そいつは不愉快さ。だがこの不愉快さは主として人間を根本的な真実に目覚めさせるじゃないか。古典的な革命家たちが賢くも認識していたように、すなわち人類が快適にそして成功をおさめながら生きているなら、決して革命は生まれない・・・だが成功せずにそして不快に生きているなら・・・
アンタル (頭を振って笑う)・・・そいつはもちろん全然別さ、だろう？君は君自身のささやかな革命を起こしでもするのかい？
ヤーノシュ もしもう何が何でも俺についての話をしなくちゃならんというなら、どうしてそれがいけない・・・しまいには何かをしなきゃならんのだ。もちろん、出来る限りあまり疲れないやつでなくてはならんが。オブローモフらの革命は俺にとっては一番共感出来るやつだね。こいつらは確かに誰も牢屋に送り込んだりしなかった、税の割り当てを作ったりしなかった、それに
アンタル 展覧会の選考委員会を・・・
ヤーノシュ 願わくは、そいつも作ったりしなかった。家で坐っていて、時のたつうちに、もうだんだん少しずつたるんで・・・必要とされず、衰えつつ、苦行者のようにだ、社会は彼らを養ったりはしないからな・・・そうとも、そうとも、何百万という苦行者の形のオブローモフだ、彼らの脳だけが活動している、彼らの脳は凝縮した思考でいっぱいだ、そして彼らはこの点で古典的な先祖たちと異なっている、優柔不断ではなくて、完全に決然としているのだ。これは俺の気に入る点となるだろうな。はは・・・そしてさらに彼らがその間、心理学をもっと良く知るに至っていたら。かのすばらしい学問を。こいつはその発展以降、驚嘆している人類に、宗教、迷信といった、すなわち当時の洗練された心理学と同じように、数々の発見をプレゼントしてくれているのだ。定められた運命（予定説）と自由意志の間の、生まれつき決められてしまっていることと条件反射の間の、素晴らしくも絶え間ない躍進・・・もし反射行動の条件をわれわれも作り出せるとしたら、生まれついての運命なんてなくなる・・・そしてもし他の物、環境、社会もわれわれの反射行動の条件を作り出せるなら―そのときは・・・そのときは選択の自由さえなくなる。だが例外のための欄外余白はなんと広々してるのだろう！そしてこの苦行者どもときたら・・・彼らは注意し安心してこの余白を歩き回ることが出来る、誰かに規則の引力にを引きずり込まれることもなしにだ。こいつは、こいつはまじなところ悪くない考えだ。ここから始めなくては。
アンタル 具合の悪い歯でもあるのかね？
ヤーノシュ (飲む、そして冷たくあしらう) かもな・・・
アンタル 私ならまずとにかくそいつを抜かせるだろうな。人間がわずかなりとも自分に気をつけるのは良いことさ。
ヤーノシュ ああもちろんだ・・・人間が自分自身に気をつけていれば、そんな歯科医レベルでならほとんど害にならない、・・・もし気をつけていれば、腸の具合の害にはならない、・・・新陳代謝、分泌活動上の不調・・・足の汗―全ては注意すべき対象だ、とはいえ・・・とはいえこれはすべて主として社会的な義務だ。
アンタル そうは思わんね。人間悪い歯から解放されて、仮定だが新陳代謝の諸問題からも～君はこれを挙げていたな～解放されて、二、三週間すれば、それ無しだとずっと具合が良いということを経験する、そのときは遅かれ早かれ、それ以外の不快な生活感情の原因も自分自身の中に探す方が良いんだ、と喜んで信じるだろうな。
ヤーノシュ そして悪い考えから解放され始めるのか？
アンタル それ以外なかろう。
ヤーノシュ 俺は、伝道者たちを串刺しにして喰った十九世紀末の原住民のことは驚かないね。人間から、そうあるもの以外のものを作ろうとするあの活動以上に虫の好かないものなんて、まずあるもんじゃない。
アンタル まさにそれだよ。君に忠告したいのはそのことさ、君自身から、君がそうであるのと違う物を作り出すな・・・
ヤーノシュ 個人的なことに関わる論争はやめよう。俺とはそもそも誰で、そして君は誰かというやつはね。俺はこの瞬間そうであるものであり、原住民たちもそれだ。伝道者たちは永遠の幸福のことを考えていただろう、原住民たちはちょうどそのとき暮らしている生活のことを考えていただろう、そしてそれが彼らの間で無視できない相違を引き起こす。その瞬間のことを考えてみよう。
アンタル いや、いや、君のその瞬間は少なくとももう百年はたっていて、大昔の付属物だ、そのことを考える気は全くないね。それならいっそ個人的なことに関わる論争だ・・・たとえそれだって全然気が進まないことを言わなくてはならんとしてもだ。
ヤーノシュ そんならずっと何でもわかってるふうな顔をして微笑んでろよ。ところで思うんだが、その何でもわかっているふうな微笑を、俺は君から借りるとしよう。
アンタル (立ち上がる、マーリアの方へ進む、手を差し出す) おやすみ。あなたをこの危険な人物と一緒に閉じ込めたままにしていくよ。少なくとも自分自身にとってだけ危険なんだけれどね。(わずかな間、心配しながら) 成功しないということは最悪の危険の一種だ。
ヤーノシュ (客観的に述べるが、もちろん皮肉に) ベッドでも消え去ることはない・・・
アンタル (すでにドアのところから) 決して消え去ることはない。君がどう考えようと、夜、睡眠に逃げ込むことは、君が使ったベッドの意味「セックスに逃げ込む」とまったく同じように悪いさ。それじゃ君らで決めたまえ・・・(退場)
ヤーノシュ (ちょっとした間) きちがいめ、疑う余地ないきちがいだ、やつはあらゆるたぐいの可能な人間関係を信じている・・・一人の人間は他者に対して有用にそして良きものとなる、と信じている。他のやつがパーリンカを楽しむみたいに、他人のそばにいることを、楽しんでいるんだ。
自分用に注ぐ、そして飲む。
エレクトラについての君の意見はどうだ？真実を探し求めているかたくなな黒い王女だ。黒い、黒い・・・色も彼女の一部だ、とはいえ間違いなく、頑なになってしまって自分を痛めつけるオールドミスではなかった・・・あの時代アンタルのように自信満々で世間を動きまわっていたいたとも思えん。(肩をすくめる) こういう連中は自分たちは法の実際の執行にも権利を与えられている、と感じるんだ。
むしろ遊び半分なたちだったかもしれないな、母親殺しだって彼女を考え込ませることはなかった位に。それだって彼女にとってはゲームの一つの形にすぎなかった、違うか？
マーリア (グラスをきちんと置きなおし、テーブルの上に多少の出来る限りの整頓をする、その間静かに、優しく) あなた、地獄のエネルギーで沸騰したやかんみたいに、カッカしてるのね。あなた、少し落ち着いてよ・・・(間) あなたは今、絵が審査から外される災難にあったから、宿無しになったような気がして、荒れてるわけじゃないわ・・・これ以上もう飲む必要はないわよ、空気を入れるのに窓を開けましょうよ・・・(間、ヤーノシュは返事をしない、部屋の中で肩をすくめながらぶらつく) それはそうとどのジャンルでも有名なエレクトラはとても素晴らしいわよ。（他者の狂気に話を切り替えなくてはならないことに、ホッとする）とても良い文学作品だわ。もしあなたが文学作品のことをいってるならね・・・でも描きなさいよ、多分・・・もしかしたらあなたならとてもすばらしく描くことが出来るかもしれない・・・(彼に近寄り、頭をなでる) もしそれがあなたの心を惹き付けるなら・・・！でもそれだって惹きつけられないのよね。あなたを惹きつける物って、私があなたにしてあげられること・・・手助けを少しばから超えてるんだもの。
ヤーノシュ もちろん、もちろんさ・・・(長い間の後) 女一人が与えることの出切る最大の手助けとは裸の腰さ。恋とはそもそもそれだったんだ・・・同じ触れまくる動作を新たにまた新たに繰り返したいという願望だ。だがさっきアンタルはそうしないよう勧めた。警告した。それとも違うか？(長い間。ヤーノシュ行ったり来たりする)
この裸の女の尻は、ある一定の機会にしか効かない、というのが問題なんだ、そしてそのときだってそれ自体のやり方でしか効かない。今日でもなお、俺の手が君の膝から上にむかって進んで知覚することの出来るあの道は、俺のことを挑発し、好奇心をかきたてる―だがどれほど好奇心をかきたてるとしても―好奇心というのは子どもの知識欲だ。(グラスを一つ取り上げ、床に投げつける)ところが俺は大人だ！！！確かか？ためらいつつ。確かだ、もちろんさ、確かだ。
君はもちろん今疑ってるな。俺のことを。君が正しいのかもしれない、人間が感じた物事の正しい位置を確認するには、感覚を超えた頭も必要だからだ。君にはそのための頭はあるか？あるのか、それともないのか？ところで―このエレクトラには何が起きたんだ？
マーリア (気を悪くして、驚き、疲れているが、付き合う) あなた、それじゃどうしてそんなものすごい不運があなたに起きたなんて思うの？あなたの絵が審査から外されたから？そうなってもあなたは同じあなたじゃない！・・・お願いよ、ちゃんとふるまって・・・
ヤーノシュはこの間、ぴょんぴょん跳ね回り、奇妙な道化じみた動作をする、椅子を飛び越え、さかだちしようと試みるが成功しない、倒れる、とび起きる、この失敗をちょうど確かめたかったことの証拠ととったかのように、手を振る。
マーリア お願い・・・(彼に近づき、優しくさわろうとするが、ヤーノシュは身を引き離してくすくす笑う、嫌悪をもよおさせるように、下品に大笑いする)
ヤーノシュ ええい、どうでもいいじゃないか？俺のこともひっぱたけよ、それが良くなるかもしれない。キスとびんただ―トラの檻の猛獣使いたちさ。ソーセージと食べ物―羊の皮着た大勢の猛獣使いどもめ、自分はまかされている動物よりも頭がいいという自信でいっぱいだ、そしてそいつを自分なりのやり方で幸福にしてやりたいと思い―もちろん、まず幸福に価するものになれとくる。あほうさ。それくらいならもうむしろびんただけでけっこうだ！
マーリア このろくでなし、手のつけられないばか！(頬を張る。小さな間) 我を忘れるなんて馬鹿ね。こんなこともう二度としないわ。
ヤーノシュ 子供っぽいな。あやまるなよ。
マーリア あやまったりしなかったわ。
マーリア 何も。(テーブルのところにもどって、客人たちが出て行った先ほどと同じように落ち着いて整頓を始める) 何もほしがる必要なんてないわ。ほしがるのは下手に出ることよ。(ほとんどわびるように、非常に静かに言う) 私としては、いつだってそうやってきたのよ。ちょっとだけでもいいからもっと愛して、私のことをもっと本当に良く知って、と頼んだこともなかったわ。私だって感じやすい種類の人間なのよって。あなたはこういうたちなんだ、と私は気がついてたわ。今だって気がついてるわ。
ヤーノシュ (一杯飲む、マーリアには注意していないかのように、話し始める)こんちくしょう、このワインときたら・・・
アンタルが出て行こうとしたとき、最後の一杯の手前まで飲んでたんだ。憶えているが、そのときももう俺には疑わしかったんだ・・・（グラスを手にもったまま）こいつは液体ではなくて、非常に濃厚な―あるいはおそらく非常に気体に近い―何かであるように、そんな風に俺の喉をすべり落ちた。あのときも俺はグラスを見つめて、本当にワインだったかどうか、観察しようとした。
今だって。(手に持ったグラスの中身を味見する) このグラスの底に残っているこの数滴、色と味と臭いによればワインだろう。だが俺の希望によればそうではないらしい。臭いを嗅いでみよう、すなわちワインの臭いがする・・・ルビーのように赤い、あるいはもし完全に正確でありたいなら、赤ワインのように赤い。味わってみよう・・・(注ぐ、味わう)・・・ワインの味がする。
今度はワインの中の物を形容するために、長い間新しい言葉を捜さなくてはならないだろう、今後決してこれで酔うことはないだろう、かつて酔いをもたらしたものとは別な物だからだ・・・ああ、ワインよ、親愛なる良質の赤ワインよ、これから先俺は何のためにお前を必要とするのだろう？もし必要だとしても・・・若い連中向けのジュースだ、やつらときたら幸せそうに自分の分別を飲み干してしまう。俺のこの衰えた頭には何がいる。(飲む) 構造上の変化が起きた、明白だ。これはワインじゃない、最良の場合でもワイン味の、ワイン臭をした、ワイン実体の、ワイン商品の―しかし何か別の物だ。もし構造に変化が起きるのなら、ワインの中でも起きるかもしれない―だがそれにもかかわらずこのワインは最近そうだったものと同じだ―あるいは俺の舌でも、神経組織でも変化が起きているのかもしれない、だがそれはあり得ないことだ・・・というわけでもうそれ以外の可能性はない。ワインは見捨てられた・・・！
マーリア (皿を積み上げ、ソファベッドのところに行き、マットレスをとりはずし、床に放る) 手伝って、お願い。
ヤーノシュ 喜んで。(手伝う) 一緒に眠るためなら君はなんたる超人的な力を発揮するんだ？別々に寝たいのだと、ほのめかしてるんだな・・・たった今君は本当にアンタルの言ったことに注意しなかったのか、君は注意していると思っていたんだが、彼はベッドについて言ってたな・・・
マーリア 何言ってるのよ・・・私は床に寝たいのよ。そうしたいのなら、一緒に寝ていいのよ・・・(苛立って)・・・このきちがい！さっきはキスとびんたのことを話していたじゃない、でも私わかってたし感じていたの、あなたはそのことを考えてるんじゃないって。ずっと単純よ。ベッドに入ることとびんた―びんたとベッドに入ること・・・そしてどちらか片方だけでもやってみてだめなら、そのときは社会から退却よ。一番簡単だわ。(腹を立てて) 恥だわ！(間) ワインは見捨てられたですって？そんならなんでいつも飲んでるの？あんたもその話はやめなさいよ！
でも見捨てられたものですか。あなたが自分を見捨てたのよ。(優しく近づく)あなた、自分を悪く見せようとするのはよして。それはとてもたやすいことよ、とても無意味で価値のないことよ・・・あなたの中で何が起きているのか、私にはわからない、でもいいことにはならないわ、もし私たちが一度腰を下ろして、賢明に、きちんと頭を寄せ合って相談したら、あなたはわかるでしょうね、私たちがお互いの言葉に耳を傾けるなら、この悪いごたごたを避けることが出来るかもしれないって。私が望んでいるのはこんな風なの、もし私たちがいつかちゃんと、毎日昼食も、夕食も普通に食べるなら、・・・私は３フォリント２０フィーレルのトマト・ピューレを買って、とってもおいしいトマト・スープを作るでしょうね、それに小さなダンプリングも、ペーストも入れるわ・・・もしあなたが望むなら、でもそれは一日一家族が生きていける分の十倍はかかる、そしてやっぱり私たちは落ちぶれる、飢えて、下手に出て管理人の目の前で門から逃げなくてはならない、私たちはまだ前の分のお家賃を払ってないんですもの・・・(突然) そしてあなたはみんなに借りがあるわ、あなたは、みんなに借りがある、それは愚かなことだともう気がついてちょうだい。あなたは自分を欺いているのよ、あなたは自分を欺き、あなたに起きた悪いこと何もかも他の、世間のせいにする不幸な性分なんだわ。・・・何て言ったらいいのか・・・。あなたはひっきりなしに引用してるわね、video meliora, probozue – deteriora sequor –11そして実際ひっきりなしにまずいことをしているんだわ・・・まるでその並程度の知恵しか含まれていない教訓の生きた見本になりたがっているみたい。
ヤーノシュ 人間の本性によれば自己本位なのは、完全に正常な状態さ。猿みたいにね。ゴキブリみたいにな。どいつも自分自身のやり方でだ。そして考えることだって、自己崇拝の展開以外の何者でもない。自分自身だけを崇めよ、それをお前に代わってそれほど良く、そしてこんなに徹底的にやってくれるものは誰もいないから。人間が自分自身に与えるほどの価値を―それほどの価値を誰も与えはしないからだ。自己中心的でない恋などない。あの自らを犠牲に捧げる英雄の母・・・あの・・・(手をふる) さて、だがその話じゃない。何の話だったけ？どうせ助けてやることは出来ない。何もだ。今となってはもう俺には試してみることも出来ない・・・
マーリア でも試してみるのは、いいかもよ。(一瞬黙る、それから浴室に行く。湯を出しているのが聞こえる。ヤーノシュ肩をすくめ、床を作り始める、それが終わると、新たに飲む、タバコに火をつける)
ヤーノシュ マーリア・・・！(相手は返事をしない、おそらく聞こえてもいないのである) 俺が何を思いついたか、わかるかい？(返事がない) この美しい、健康的に発展した自己崇拝は、自己崇拝抜きではどんな風になるか、ということさ。人間が自分自身をちょっぴりでも気にかけることのない、エゴイスティックな世界観さ。そのときは自分自身すら物事のゲームの駒になるのさ・・・わかるかい？(返事がない、水音がしている)
場面は暗くなる
同じ、また朝の状態、ヤーノシュとヨーブ
ヨーブ (肩をすくめる) さあ、それじゃ俺には前よりよくわかったとはいえないな。俺はいつも、君のマーリアは賢い女だと予期していた。ブダケシに来るかい？
ヤーノシュ 考え込みながら。君は俺のことひどくいやがってるな・・・まるで鼻かぜがうつるのが心配だ、といわんばかりだ・・・
ヨーブ 怪しいもんだと思ってるよ。
ヤーノシュ 性本能に裏切られるのをか？
ヨーブ そんなとこだ。倒錯行為すらもう信じていない一人の人間さ。
ヤーノシュ 気にしてないよ、俺もブダケシに行こう。
ヨーブ 君は幸運だよ。さもなければもう二度と俺とは会えなかったろう。だが・・・こうも思えるんだが・・・いや、いずれわかるだろう。とりあえず俺はもう一度君のところに来るよ。もう一度だけ・・・そのときいずれわかるだろう。たとえ・・・
ヤーノシュ とにかく行こう。俺にはもう君は必要ないとはいえ、君はどこで時間をつぶすかなんて、どうでもいいんだろ？俺にだって完全にどうでもいいのさ。
幕、第一幕の終わり
第二幕
ヤーノシュ (舞台上で一瞬、以前見ていた自分の絵を眺めているようだが、まるで見たもの、あるいはその結果にぎょっとしたかのよう、すなわち壁に向けてひっくり返す) 何でもない・・・
思考は今世紀には人間から独立し始めたらしい。数千年前には他のやつが試みた、今度は俺だ。(出て行く)
ヴィンツェ夫人 (反対側、同居人の部屋から来る) キシュさんや、ちょっと！・・・キシュさん！
ヤーノシュが来ないので、安楽椅子の一つに腰をおろす。まるで大変な仕事の後であるかのように大きな息をつく、短い時間がすぎてヤーノシュがもどって来たとき、これに出くわす。
ヤーノシュ すばらしい、ヴィンツェさん・・・ここで出会うとは？
ヴィンツェ夫人 ちょっと、キシュさんや・・・話したいことがあるんだがね。
ヤーノシュ どうぞご遠慮なく。お好きなように・・・俺は今、貴族主義の頂点である民主主義を演じてるんだが、あんたにはどうせこのうち一言だってわからないだろうけどね・・・(突然気をとりなおす) どうしたんだい、おばあちゃん・・・
ヴィンツェ夫人 (妙な顔をして黙り込み、疑わしげにキシュに注目する) 言いにくいんだけど・・・
ヤーノシュ 全然。言ってごらんよ。
ヴィンツェ夫人 あいつらの部屋はすごくさいよ。
ヤーノシュ あいつらの部屋？どこだって？
ヴィンツェ夫人 ほら同居人たちの部屋だよ。わたしゃあそこから来たんだ。(間) あの臭いはがまん出来たもんじゃないよ。
ヤーノシュ (親近感のこもったストレートさで) ヴィンツェさん、あんたがくさくしたんだな。
ヴィンツェ夫人 わたしが？ちょっと！私は何なんだい？わたしゃ・・・私を何だと思ってるんだい？なんで私が・・・私がくさくしたんだなんて思えるんだい？
ヤーノシュ それじゃ、ヴィンツェさん、何のせいでそんなにくさいんだい？
ヤーノシュ だってあの部屋には、誰も入らなかったからさ。
ヴィンツェ夫人 あのねえ、キシュさんや（声をひそめる）あの部屋で誰かがカメムシを踏み潰したのさ。(間) あれだよ、あれ、カメムシさ。踏み潰すと、臭いがねえ、臭いが・・・長い間するんだよ。
ヤーノシュ (まじめにとる)それじゃ、踏み潰した誰かというのは、俺たち二人のうち一人でしかありえないな・・・ヴィンツェさん・・・
ヴィンツェ夫人 そうとも。(坐る)
ヴィンツェ夫人 私なら飲んでもいいよ・・・(間)だけど二人のうちのどちらかにしかあれを踏み潰すことは出来なかったんだよ・・・それは確かさ。私だとは、あんた証明出来ないだろう？だって、私に何の得があるんだい？ねえ、私には何の得にもならないよ・・・ここに同居人が住もうと、住むまいと、私には本当にどっちでもいいことだよ。
ヤーノシュ 俺にとってもどっちでもいいことだよ、ヴィンツェさん。
ヴィンツェ夫人 おやまあ、もうこれからはそれを言わないことだね。やつらが早く出て行ってくれるほど、キシュさんには得になるじゃないか。つまるところ、このしょっぱい部屋で他人とぶつかるかもしれないとしたら、いずれマーリアさんが喜んでもどってきてくれるなんてことはないね・・・
ヤーノシュ ヴィンツェさん、マーリアさんはもう決して来ない、とあんた気がついてるはずだぞ・・・
ヴィンツェ夫人 どうして私が気がつくんだい？今出てったのかい？今。そんならもどって来るかもしれないよ・・・たとえそうだとしても、出てったとき、怖がってるのがわかったよ・・・あの人は正しかったね、私だってあんたと寝たりはしないよ、キシュさん、お金のためだとしてもさ、あんたがマーリアさんにも何か・・・少なくとも毛じらみを・・・あげたかどうかはわからないけどね。誰がもらう方で、誰があげる方なのか、誰にもわからないとはいえね。
ヴィンツェ夫人 わたしゃいやだね、世界中の宝物をもらったっておことわりさ・・・私の見るところでは、キシュさんや、あんたは四十年位前だって私の気にいらなかっただろう、とまでは言わないよ、でもそのときだってそうする度胸はなかったろうね・・人間、あんたといたらどうなるかわかったもんじゃないよ、あんたがまさに世界を、それともこの部屋をふきとばすんじゃないかとね・・・(間)ところでその同居人たちのことだけど、思うに、あんたよもや何とかしてやつらをいぶりだしてやろうと思ってるんじゃないだろうね？
ヤーノシュ ひょっとしてくさくしてかい？(ヴィンツェ夫人黙る。ヤーノシュもいっとき黙る、それから二つのグラスに注いで、ヴィンツェ夫人には差し出さず、自分のとただ打ちあわせる。)飲まないのかい？
ヴィンツェ夫人 (飲むが、何も言わない)
ヤーノシュ (あたかも独白のように) 子供のとき俺は一度か二度ジャムを盗んだんだ。ぶたれたよ。それから俺は、自己批判した方がいいと思いついた・・・俺はジャムを盗んで、そして自白した。それから前もって自白しておいて、その後になってからジャムを盗んだ。それは臆病なことだった、そいつはまずぶたれるのに耐えたのさ―問題はどこまで耐えられるかだと―そしてそれから立派に終わらせた仕事の成果としてジャムを喰ったのさ。(短い間) あの部屋はもうくさいんだろう、ヴィンツェさん？それともくさくなるのかい？もうカメムシを踏み潰したのかい？
ヴィンツェ夫人 (短い沈黙の後) 踏み潰したよ、たった今。
ヤーノシュ (非常に長い間の後で) それでどうしてだい？
ヴィンツェ夫人 (慎重に) キシュさんや、やつらがもし早くここから出ていけば、あんたにもいいことじゃないか・・・最初の晩あいつらがあのくささに迎えられたら、やつらはもう一晩ここで過ごしたくはなかろうさ。
ヤーノシュ (抵抗して) 風を通せるさ。
ヴィンツェ夫人 (うなずく) 風を通す？・・・でもねキシュさんや、今日はあの部屋では眠れないよ。
ヤーノシュ そのときは彼らは出ていくかい？
ヴィンツェ夫人 そうは思わないね。女房はすぐにも来るよ。亭主は、そいつは、亭主は・・・そいつは夜中頃だね。夜間の仕事をしてるんだよ。
ヤーノシュ あ、そう。亭主は、そいつは夜中にしか帰ってこないのか。それじゃどっちみち彼女は亭主を待ってるだろう。
ヴィンツェ夫人 でもあの部屋でじゃないさ！
ヤーノシュ じゃなくてここで？
ヴィンツェ夫人 ここしかないさ。このしょっぱいお部屋さ。
ヤーノシュ そしてその亭主が来たら、あんたが中に入れてやる？
ヴィンツェ夫人 そうだよ。管理人のところではもう寝てるからね。
ヤーノシュ もちろん。それじゃヴィンツェさん、あんたが亭主に、女房は自分の部屋にはいないと言うのは、実際のところ明白だな。
ヴィンツェ夫人 (小さな間) 何しろあの部屋では無理だからね。あそこじゃ人間耐えられないよ。
ヤーノシュ ふむ。つまりあんたは亭主を門のところで迎え入れる・・・(楽しむ) 女房は俺のところにいると言って・・・
ヴィンツェ夫人 (疑いつつ) ちょっと私はね、誰のことも、何かを言って迎えたりしないけど、一年間もうずっと私が門を開けてきたことは確かだよ、だって他のやつは帰りが遅い連中だって家に帰ってくるんだということを気にかけないからね。さてと？・・・私になら秘密を話してかまわないよ、キシュさん、お母さんに話すみたいにね・・・わたしゃ、誰のことも悪く言ったりしないよ、マーリアさんのことだってあんたには言いやしなかった・・・ええい、見ざる、言わざるだね・・・
ヤーノシュ 何を言わなかったんだい、ヴィンツェさん？
ヴィンツェ夫人 どうしても知りたいっていうんなら、キシュさんや、そんなら言うけど、あの人は神をも怖れぬ大変な売春婦だったよ、わたしゃ、確かならまだ十五歳だったときから知ってたよ。わたしゃある老婦人に紹介してやったよ、だってまだ初心者だったからね、醜聞をおこしたよ、もしあのとき私の言うことをきいてりゃ、彼女にとっても良かったろうに、でもバカだったんだよ。あんたには言うけれど、キシュさんや、バカだったんだよ、だけど怒らないでおくれよ、でももう二度と来ないとあんたが言っておいでだったから、言ってるのさ。もし誰かにきかれて、私が言ったんだなんて言ってごらん、わたしゃ否定するからね。わたしゃ何も言ってないよ。
ヤーノシュ もちろん、もちろん。あんたは亭主が帰ってきても、何一つ言わないだろうよ。せいぜい「こんばんは」位だ・・・
ヴィンツェ夫人 言うのは私じゃなくて死神さ・・・
ヤーノシュ 「こんなに遅く帰ってきて心配じゃないんですか？」なんて。「何を心配するんです？」－とやつは言うだろう―「お化けが出てさらっていったりしませんよ。」「あなたをじゃなくて、さらわれてもあなたには何の害にもならないでしょう・・・でも若奥さんが上で一人でいることですよ。キシュさんはもうすでに、心配すべき原因になるようなことを全てやりましたよ」・・・さあ、こんな風になるんじゃないかい、ヴィンツェさん？
ヴィンツェ夫人 私をおどかしてもムダだよ。あんたはやつらの部屋に私が何かをした、ということだって証明出来ないじゃないか。
ヤーノシュ とんでもない、ヴィンツェさん。わかるだろう、俺は今えらくたくさんの厄介ごとにつかまっている、金はない、職はない、恋人はここから出てった―周囲の状況の側につくのが人間のつとめだとは思わないかい？災いを先へと押し進めなくてはならん。この荒涼たる環境で、われわれ二人だけしか物事をはっきり見てないらしい。
ヴィンツェ夫人 その一言も私には理解出来ないね。(もぐもぐ言いながら、出て行く)
ヤーノシュ さてそれじゃこの後新しいお隣が来てもいいぞ。(タバコに火をつける) いずれ疑うことなくやって来る、誰を相手にするのかも知らずに。ふん・・・もちろん、こんな風に一人きりというのも妙なもんだ、誰かが来ればもっとましになるだろうな。もっとましになるだと？どうなってもいいのさ、完全にどうなってもいいのさ、われわれは一緒に変わった映画を演じることになるだろう。(自分用に注ぐ、飲む、その間部屋の中はひどく暗くなる) 人間もちろん世界を自己中心に見ざるを得ない、とりわけ、自分自身以外もう何も残っていないときは。戦争が勃発したとき俺は、憶えているが、ちょうどある雑貨屋でチョコレートを買っていたっけ、そしてこれら全てはちっぽけな物事は大きなやつと両立している、ということの証拠になったかもしれない・・・ところでこの証拠を俺はでっちあげなくてはならないのかもしれない・・・それも急いで、急いでやらなくてはならないのかも、なぜなら俺はゆっくりと柱上のシメオンそのものに変わりつつあるからだ、そしてこの瞬間に二十年か三十年が過ぎ去っていく、だがすでに俺がそうである柱上のシメオンが真実を見出さなくてはならなかった最後の一分が過ぎ去っていった、そのために彼は二十年間柱の上に立っていたのだ・・・(すでにタバコの火の焔だけが灯っている、部屋はすっかり暗くなる、それから声もそこで止む、タバコの火も消える、そしてそんな風に暗闇で、沈黙のうちに幾ばくかの時が過ぎる。やがて呼び鈴の音が暗闇の中に響きわたる、ヤーノシュは今目覚たらしい、長いすのわきにある電気のスイッチをパチンと音をたてて入れるからである、いささかフラフラしながら立ち上がり、周りを見回し、目をこする。ベルの音が繰り返され、彼はドアを開けに行く。ドアを開ける、ドアのところにはジュジが立っている、でも彼女がまだしばらく入らないように、ヤーノシュは彼女の前に立っている)。今晩は。進むのをためらってますね。(笑う) このドアは、あなたが入るその瞬間から、あなたのドアにもなるのです。でもまず入らなくては。そしてこのご入来は、会見にやって来たかのようですな。どうぞ。(ドアを押さえ、道を示す)
ジュジ 今晩は。(手を差し出す) メガイの家内です。
ヤーノシュ 知ってます。どうぞ、お座り下さい。
ジュジ ありがとう。これが私たちの部屋ですわね？
ジュジ (ドアを開けそして当惑してまた閉める) これ何ですの？
ヤーノシュ あなたの部屋は一日二日はまず使えないと思います。
ジュジ どうして？何かあったの？
ヤーノシュ 管理人助手が一人いまして、そいつがとても文章に出来ないような悪臭をあなた方の部屋に放ったのです。私はまだ中に入ってませんが、今しがたあなたがドアを開けるとすぐ、その通りだとわかりました。どうぞ。(アトリエへ案内する)
ジュジ でも何のことかわからないわ。何のせいでこんなものすごい・・・
ヤーノシュ それは彼女の秘密です。お坐りなさい。私は彼女に窓を開けさせたんですが、それでもあの部屋に入れるようになるまでは、まだかなり時間がかかりそうです。彼女器用にやってのけたんですな。
ジュジ でもその人何をしたんです？それになぜ？
ヤーノシュ 息子が絞首刑になったからです。
ジュジ 管理人助手の奥さんの息子が？
ヤーノシュ そうです。
ジュジ なぜ？
ヤーノシュ それは四つめのなぜですね。私が思うに、強盗殺人のためです、でもはっきりとは知りません。それ以来ヴィンツェ夫人はよそ者全てに息子の死の仕返しをしたがっているのです。それは、思うに、たんに口実です・・・ですがむしろ他人に言うための口実です。彼女自身には悪くなるための口実は必要ない。(タバコを差し出す)
ジュジ (タバコを受け取り) その奥さんお気の毒だわ、それはやっぱり・・・それはやっぱり・・・
ヤーノシュ 同情しますか？
ジュジ 今この不快さのせいでそれ以外のことが出来ると、お思い？でもお気の毒に・・・そんな無意味な、それ自体が目的の悪意なんて、ほとんど誰にとっても大した迷惑なんかにならないわ。信じられないほど、きまぐれにきこえます。
ヤーノシュ あの部屋が証拠です。
ジュジ (不快そうに笑う) 確かに充分に目で見ることの出来る、あるいはむしろ鼻で嗅ぐことの出来る証拠ですわね、それは本当です。でもこれ位まだ我慢出来ますわ。部屋は明日まで風を通しておいてそしてその人にとっては―なんておっしゃるんでした？ヴィンツェ夫人？ヴィンツェ夫人にとっては、私たちがあの部屋で快適に暮らすだろうことは、不幸のきわみになるでしょう。
ヤーノシュ 彼女はもっと先のことも考えてましたよ。
ジュジ ヴィンツェ夫人が？
ヤーノシュ ええ。そして彼女この件では私にも一役ふりました。
ジュジ 私があの部屋で快適に暮らせないようにと？
ヤーノシュ そうです。
ジュジ かわいそうな人がいずれまた不愉快なことを引き起こすことはあり得ますわ、それはそんなにむずかしいことじゃないわ。(肩をすくめる)
ヤーノシュ ヴィンツェ夫人は、それが彼女の戦略にぴったり合うので、部屋をくさくしたのですよ。あなたのご主人は夜中に家に帰って来る､それまではあなたは不本意ながらもこのアトリエにいることを余儀なくされる。さらに、私が思うに、あなたはご主人と寝る場所もおそらく今夜はここに移さなくてはならない・・・ヴィンツェ夫人はいずれ夜、ご主人を中に入れてあげるときのことをねらっています。私が大変な女たらしで、ご主人はこれ以後あなたを一人にしなくてはならないときには、決して安心出来なくなる、と大体こんなところをです。
ジュジ (せんさくするように見つめる) あなたはすごい女たらし？
ヤーノシュ きっと、ヴィンツェ夫人はご主人にそう言うでしょうね。
ジュジ (短い間の後、今度はアトリエのまわりを見回す) あなたは絵描きですか？
ヤーノシュ そんなとこです。
ジュジ そして良い絵描き？
ヤーノシュ むしろこうでしょう、私はすでに筆でもって世界を手探りしてきました。だがそれよりはむしろ頭で手探りしていたんです。
ジュジ 頭で？それで頭をぶつけたりしなかったの？あなたもこのヴィンツェ夫人に似てるんですか？
ヤーノシュ ヴィンツェ夫人には明日会えるでしょう、そのとき誰も彼女には似ていないことがわかりますよ。カモノハシみたいに、一人きりの存在です。
ジュジ (短い間の後) 私たちお互いに率直になりません？
ヤーノシュ あなたはまだ本気にしてませんね？
ジュジ そうなさりたいなら、本気にしてないのはあなたのことではなくて、このあり得ない状況のことだととって下さい。
ヤーノシュ そうかもしれません、でも警告しておきますが、噛むくせのある犬の悪いくせを甘くみると、私たちはしばしば犬ののみに用心するのを忘れますよ。それはともかくＯＫです、可能なところまで率直になるとお約束しましょう、そこから先はもうがさつと呼ばれてしまいそうな境界がありますからね。
ジュジ どこかで率直にならなくてはいけませんわ。
ヤーノシュ 一杯飲んで率直になることを始めましょう。それならまっとうに率直だし、そこには少なくとも誘惑の意図もある。
ジュジ あなたが私を誘惑するという？
ヤーノシュ 意図です。
ジュジ それがあなたの意図？
ヤーノシュ 率直さを演じようというなら、すぐ俺の意図を言おう。俺の意図の数々を。俺が誘惑したいというのはもちろんのことだ。あなたは率直さを求めた、率直ならそうでないと言う人間がいるだろうか？
ジュジ もし「出来るの？」と言ったら、私はバカかしら？
ヤーノシュ 充分にバカだね。フローレンス・ナイチンゲール風のバカだ。
ジュジ (考えこみながら) 誰なのか知らないわ。
ヤーノシュ 俺だって大して知らない。クリミヤ戦争の看護婦だった。病気の男どもを・・・負傷した、屈強な手足のトルコ兵たちを看護するために、そこに行った。彼女がストイックだったのか、それとも好色だったのか、それは今に至るまで結論のでない、そしてけっして結論出来ない議論の対象だ。俺は前者を支持するね、だが俺は女の禁欲苦行者は好きじゃない。(頭を振る) だが、だが・・・人々があなたを誘惑したがったら、そして俺のようにそれを告白するなら、そしたらこれに勝る喜びがあるか？―私はダメよ―というプライド、他人はひたすらめそめそ泣いてろ、必死になってろというサディスティックな喜び、なぜってすなわちやつらは必死になるからだ・・・かごの中のカナリヤたちは－どれも別々のかごの中だ―交尾期には、くちばしで格子を引っ張って壊すことしか出来ない・・やれやれ、つまり俺にそんなことを言いなさんなということだ・・・喜び、その心地よい満たされることのない喜びは、いずれ遠からぬ間近に迫ったご主人の到着の前に、あなたがわれわれの間の破壊的な「でもそうよ～いや違う」という荒涼たる会話をやっぱり終わらせるとき、そしてあなたが待つとき、だがご主人は遅れるので、そうなると・・・違う、違う、あなたはそんなフローレンス・ナイチンゲール風の女の似非禁欲主義者じゃない。
ジュジ (彼が話を中断したとき、心から、健康的に笑う) おやまあ・・・あなたは演繹的なやり方の失敗がわかってるはずよ。まず分類する、それから実験する。リンネだけは処罰されずにそれが出来たけれど、彼だって、人間ではやらなかったからよ。
ヤーノシュ (肩をすくめる) 俺は医者でも、切り裂きジャックでもない。―俺のあなたについてのそれ以外のせんさくはまだ当世風じゃない、とりあえずはまだ当世風じゃない。あなたは俺に率直さを求めた、それで俺は率直に言った、そして言おう、あなたは俺にとっては、一人の女性の肉体なんだと、あなたは、メガイ・バーリント夫人は、あるいはなんとかかんとか・ジュジは自分は世界についてあらゆるたぐいの考えを持っていると思っている。
ジュジ (楽しむ) つまり私はそう思ってる？そして間違っている？
ヤーノシュ 間違ってはいないかもしれない。だが俺に関しては・・・あなたに対する誘惑を間違えている・・・俺はトロヴァドールじゃない。俺は始めたいんじゃない、消えてしまうよう誘惑したいんだ。メガイ夫人ジュジ、人間的なジュジ、与えるジュジ、賢明なジュジ、教養のあるジュジが―最後にはジュジの全てが消えてしまうように、そして一個の裸の肉体以外、ぴくぴくしている裸の肉体以外何も残らないように、それは理解力もないが、その神経でもって救いがたくも、彼女が個性を持つ誰かであるからぴくぴくするのではなくて、俺がその中に呼び起こしたただの肉の喜びの状態ゆえにぴくぴくするのだ、ということに気づくんだ。
ジュジ (沈黙する) あなたってとても信じられないような人だわ。
ヤーノシュ (賛同して) もちろん。
ジュジ 私がここに来てから、今ラムは3杯めよ。
ヤーノシュ あなたのお気に添うためにだけ飲んでるんだ。同情してくれるようにと。許してくれるようにと。すなわちこんな女をうまくあしらうのはもう簡単なんだよ。
ジュジ あしらう？
ヤーノシュ だって率直さを求めたろう？文句は言えないさ、俺以上に率直な人間とは今までまだ会ったことがないだろう。俺はすぐに、あなたについて考えたことを言った。
ジュジ (不承不承) そうね・・・
ヤーノシュ 言おうか？他にも考えていることを言おうか？
ジュジ 言ってかまわないわよ。(ちょっと考え込む) ええい・・・それじゃ・・・そもそもあなたはバカなのね、違う？キシュ・ヤーノシュ。違う？それともただ自分をバカだと思わせたいの？そうじゃない？(立ち上がり、アトリエの中を見回す) 捜すわ・・・(説明するように)・・・バカだということの証拠を捜すわ・・・(突然振り向く) そしてあなたは誘惑したいんですって？私を？ジャッカルが来て、トラを食べるでしょうよ－だってジャッカルだって肉食よ、そう言ってるわ。可哀相に・・・牙があるわ・・・その体は肉食に順応したのよ。(ヤーノシュは立ち上がらない、ジュジは今突然振り返り、質問する) あなた怖いの・・・？(だがヤーノシュが微動だにしないので、これがトリックとしてはよくなかったことが明らかになり、ジュジは頭を少し振り、目に入った安楽椅子に坐る) あなたは何なの？キシュ・ヤーノシュ。あなたのことも何か話してみたら？そのヴィンツェ夫人について話した位のことを・・・
あなたはヴィンツェ夫人で生きているの？この―私がまだ会ったことがない、知らない、でも聞いてはいる―醜いおばあさんについて。
ヤーノシュ (同意して) 確かにそれも可能だ。(間) だが頼むから・・・同情したいんなら、まず乳母の着るスモックを着てくれ・・・そして手で赤ん坊の俺の頭をなでてくれ。あるいは年老いた母親たちの藤色の普段着は・・・どこだ？思春期の俺の頭をうずめることの出来る膝は？(とび上がる) 俺があなたと何をするか、わかってるのか？
ジュジ (笑う) 確かにわからないわ。
ヤーノシュ (狼狽して) 今の俺にもわからん。(間) それじゃ俺があなたを誘惑したがってるんだと、気がつかなかったのか？
ジュジ ひっきりなしに「俺にあなたを誘惑させろ」と求めているのには、気がついてるわ・・・違う？
ヤーノシュ だが・・・
ジュジ また別のときにね。いずれ後で・・・いい？あなたが外的環境を何もかも、こんなによく準備してるのでないときね・・・怒ってない？
ヤーノシュ とんでもない、ものすごくおこってるさ。どこで俺は間違えた？(ジュジは返事しないで、安楽椅子で笑いこける、ヤーノシュは彼女に注いでやり、彼らは一杯飲む、ヤーノシュはさらにぶつぶつ言う) 節約出来るんだぞ・・・たくさんたくさんの時間を。安楽椅子からソファ・ベッドまで・・・あと二，三分だ。それまで俺はおかしな話をしよう。何の話を？あなただ、あなただ、そうともあなたのことをお話にしよう、いずれ二、三時間たてば、ご主人が帰ってくる・・・ちょっと待ってくれ。
われわれは率直さを受け入れた、違うか？あなたは俺から最も率直な率直さを聞けるよ。
ジュジ 中と半端な率直さにも私はもううんざりだわ。
ヤーノシュ 決してわからないよ。(注ぐ、打ち合わせる、飲む) さ、俺が撫でると仮定しよう・・・俺は撫でる、そしてあなたの抵抗に笑う―あなたの抵抗に、だってあなたは「いえ、・・そんな風じゃなく」・・・「全然そんな風にじゃなく」・・・と望んでいるからだ。もちろんそれは、一頭の乗馬馬の考えのようなものだ、その馬は自分の内で抗議している、そして自分はありとあらゆる種類の姿勢をするために背中に乗られるのだ・・・と信じている・・・
ジュジ (飲んで笑う) そしてそうなるの？
ヤーノシュ どうなるのか行動は予測出来ない。俺にはただ行動からどんな種類の感情的影響が生じるかを前もって計算するしか出来ない。だがそれをいつでも計算することが出来る。(周りを示す) たった今あなたはきいた、俺は良い絵描きか、それともどんな類のやつかと。これがそもそも俺の名人芸だ。人間がいずれ何を感じるか、計算するんだよ。計算じゃない、感じ取るのさ。
ジュジ じゃ、私のを感じ取ってよ。
ヤーノシュ ここから始めよう、二､三時間するとご主人が帰ってくる。二、三時間すると、正確にはわれわれがここでこの血のように赤いソファで愛し合った一時間後だ。(考え込みながら自分の前を見つめる、自分の言ったことを演じながら、だがあまりに誇張されたわざとらしさでではない) ご主人がつけた電灯の光が差し込むと、あなたの目は裂け目位に開かれる。あなたはうめきながら額に、目に、口の端にご主人のキスを受ける。「おやすみ、僕の甘い、小さなお嬢ちゃん」彼はやがて心に触れた幸福にぼそぼそと言う。「愛しい人、愛しい人・・・」それから電灯を消して、むしろ闇の中で裸になる。「愛しい人」して撫でる。おお、ジュジはうめく・・・今もなおすっかり目覚めてはいない、もちろん、すっかり目覚めている、だが完全に目覚めることは許されない、あなたは自分の聖母の本性と戦う。そしてバーリントは起こさないようにささやき声で甘やかす、だが遅かれ早かれやはり起きるようにやる、なにしろ生ぬるいベッドではますます・・・この見知らぬ家で身を寄せ合いながら・・・
ジュジ 親愛なるキシュ・ヤーノシュ、もうやめたら。(少し不機嫌に) あなた悪趣味だわ。
ヤーノシュ 心理学的な生体解剖が悪趣味でなかったためしはない。一度もだ。だが聞いているのが二人だけなら、それに気を悪くする人はいない。あなたはまどろみの中で・・・そしてあなたにはよくわかっている、たった今われわれの間で何かが起きたことが・・・でもあなたは信じない、自分自身にすら認めたりしない、非力な殉教者だ・・・赤ん坊の息子をヘロデに殺させないために、三十人の兵士の強姦に耐えたユダの母親だ・・・殉教者は不在であることが明るみに出ないためにも、夢うつつなのは都合がよい。事が何かしらもっと複雑であることが、ずっと複雑であることが明るみに出ないために・・・「愛しい人は疲れてるらしい」―そしてバーリントは自分自身と戦う、そして彼の良心が言う、起こすはひどいことだと、しかし彼の筋肉はそれに従わない、ためらいつつこっそりと彼の手は愛撫にもどっていく、あたかもすでに彼も夢うつつでやっているかのように・・・あたかもそこへたどり着いたのは偶然であるかのように。そして夢うつつのジュジはすでに完全に目覚めていて、完全にそして正確に目覚めていて、早々と次に何が続くのか、良くわかっている、いずれ悔い改める殉教者として彼女も愛撫をかえすそのとき・・・そして目覚めているジュジは気がつく、あったことは全て他の人々が気にしなかったように、たいしたことではない・・・始めにバーリントを欺いたとき、それは純粋に健康のためだった、バカンスだった・・・旅だった・・・第二のそれだって大したことじゃなかった、言うだけの価値もなかった、男が来た、狼の牙をむきだして笑った、彼は言った「無理やり犯してやる」と―そして実際に無理やりだった。こんなとき人間はバカで、大声を出す価値もない、だって大声を出すことは、もし誰かがそこにきたとしても、どっちみちいつだって女の方の恥になる、男にではなくいつも女の・・・そんなら何のために大声を出す、バーリントだって知らなかった・・・
ジュジ (とびあがる) お願い・・・やめて・・・そんなの不可能よ。(間) あなたは今自分の絶望をこのとっぴな話に注ぎ込んでるんでしょう？でなきゃ何がご希望なの？
ヤーノシュ 俺には絶望なんてない。俺は禁欲主義の苦行者になった、規則正しいノーマルな二十世紀の苦行者だ、そいつはもちろん二十世紀のやり方でふるまう。だが違いはない・・・肉の、神経の喜びは苦行者にとってもう存在しない、俺にはそれを他者に贈ることしか出来ない、どうして俺がそれをしないものか。魂の喜び以外の喜びはない―それだって喜びではない、数学の問題の解答のような輝かしい証明に過ぎない。だが達成の喜びすら欠けている。(間) 全てが俺の周りで消えてしまった、俺はもう部外者だ・・・完全に部外者だ。とっくに俺のまわりから世界は消えているのかもしれない・・・ただこの消失にも奇妙な段階があって、人間はしばしば数週間、数ヶ月たたないと気がつかないんだ。
ジュジ あなたは何だか恐ろしいほど不幸で、絶望していて・・・私あなたを弾を込めたリボルバーと一緒においとくのが怖いくらいよ。
ヤーノシュ 安心して一緒においといていいよ。弾をこめたリボルバーは一日二日すれば消えてしまうだろう。吸い込まれて、なくなってしまうだろう。俺の近くにある物、そして俺の物全てと同じように。唯一何かが残っている、すなわちすっきりした頭だ。それは全てをおしはかることが出来る・・・そしてすでにおしはかっている。今は俺は何をおしはかっているか？あなたで？あなたの悪い願望は恐ろしく強いことだけはわかっている。人間が食べ物、飲み物、成功、権力を欲すように、あなたは悪に惹かれるんだ、焔に惹かれる蛾のように。何かしら寒気を感じないかい？－違う、俺が悪なのではない、だがそうなんだ。もしあなたが今俺に髪を撫でさせておくと、それはあなたにとって良くないことになる・・・それから俺はあなたの口をなでる。一本の指だけで、あたかも触れているかのように・・・あたかも人間が一本の花のはなびらを撫でているかのように。それから膝もだ・・・俺がすでに言ったように、あなたにはこれは―長い目で見れば―良くないことにしかならないかも・・・。もしご主人がもどってくれば良くないことになる・・・あなたは自分の内で思い切ってやってみようという、悪の欲求の自己正当化と闘う・・・
ジュジ 違う、違うわ・・・(ヤーノシュ彼女に近づく、長いすの前で立ち止まる、手にグラスを与える) あなたは恐ろしいほど不運なんだわ。(間) むしろちゃんとそこに坐ったら・・・お坐りなさい・・・(ヤーノシュは坐らない) －そして言いなさいよ、あなたは恋の痛手でも抱えてるの？
ヤーノシュ ないと言おう。そんなのは子供の遊びだ。あなたは互いの中に幸福と真実とを求めている、すなわちこれをあれの中に、あれをこれの中にだ。
二つはあなたにとってだけつながっているが俺にとっては違う、今後わかるはずだ、だからあなたは人生から自分に価するものしか得られないんだ。俺たちは思考へと転じた自分たち自身で世界を測らなくてはならない、柱上のシメオンがしたようにだ・・だが時代の変化が柱から飛び立つことを要求する・・・そいつに対して世界の自滅の試みの手助けをすることを要求するんだ・・・神よ、いずれわかるでしょう、われら二人がどこにたどりつくか・・・(ジュジに身をかがめる、顔をなでる、それから口づけする。うっとりしたウサギのように安楽椅子で身をかがめ、彼女はうめきつつ抗議する)
ジュジ いや、いや・・・やめて。
場面は暗くなる
第二景
同じ朝
ジュジ (今浴室から出て来る。服を着ていて、アトリエの中でまわりを見回す、ヤーノシュが出てくると出発しようとしている)
ヤーノシュ おはよう。(トレーナー姿、今起きたように見える)
ヤーノシュ フロの後で冷水シャワーかい？人間はそれで生まれ変わるのか。洗い流すなら、一夜をでなく一時代までも洗い流す。俺には新たに生まれ、生まれ変わったしなやかなジュジが見える、まるでギリシャ神話の若い女神みたいだ。一日のスタートは幸先いいぞ、すなわち思考の精神においても、万事ＯＫの精神においても、自滅する世界に対するさらなる支持の精神においてもだ。
ジュジ (笑う) いいえ、親愛なるキシュ、私にとっては朝の仕事への出発の精神においてよ。
ヤーノシュ もちろん。それも正しい、すなわち人間哲学的なそして心理学的な問題を自分のあまり近くに投げかけてはならない・・・問題はありさえしなかった―あなたが冷たいシャワーのもとで封じ込めた。ただあのばかげた虐げられた夜、ばかげた環境、二人の犯罪者の間、臭い老婆とキシュ・ヤーノシュ、部屋、新しい環境・・・終わり、終了、全ては面白くもない。
ジュジ (試すように彼を見つめる) あなたは今描き始めるの？
ヤーノシュ いや、とっくにそれは俺の仕事じゃなくなってる。少なくとも二四時間前からだ。いやむしろ四八時間かな。
ジュジ それじゃ何なの？
ヤーノシュ 俺の仕事は自由でいることだ。そして片意地でいることさ。われわれは昨日ざんげした相手に、次の日自己紹介したりはしないものさ。仕事をサボれよ、そして俺とぶらつきに行こう。
ジュジ あなた頭おかしくなったの。
ヤーノシュ それじゃ仕事の後で会おう。サバチャーグ山12に出かけよう、むしろ歩いて・・・冬の太陽が照ってて、少女が一人花を売っているだろう。松雪草だ。だがオーブダ13に行ってもいいな。ロマンチックなピクニックじゃない。そうじゃない。山の景観を楽しむのは問題外だ。オーブダの酒場は退屈だ、クルーディ14の痕跡をその中で探そう。俺が世界の一かけらを見せてあげよう、そしてこのかけらを理解することだってどれほど複雑なことかを。笑う。はりねずみの針を又平らにもどせよ、今は全部俺の方に向かって逆立って、さしてやろうとまち構えているじゃないか。ゴムボールになれよ、触れた表面から跳ね返る瞬間を待つ。そしてゴムボールとしてぴょんぴょん跳ねるんだ。ご主人はまだ寝てるね、そうだろう？
ジュジ (声を出さずにうなずき、手を差し出す) さようなら。
ヤーノシュ さようなら、四時にしよう。良くないわ、とは言わないでくれ、だってどっちみちまた会うんだと俺にはわかってるんだから。偶然がそんな風にもっていくのさ。もちろん、われわれは同じ家に住んでいる、デートする価値はない、でもやっぱり町で会おう。
ジュジ (大声で笑う) かまわないわ。でも私たちが一つ二つのことについては忘れるのなら、の話よ。おしまい、終了。
ヤーノシュ エールハヨーのエスプレッソにしよう。
ジュジ (陽気に振り返り、応とも否とも言わない、うなずいて出て行く、ヤーノシュはまだ用事がすんでないらしい、というのは後を追っていくからである。場面は一時空になる、やがてもう一つの部屋から眠そうな、パジャマ姿のバーリントが来る)
バーリント (ふっくらした、立派な体格の、快活で赤い頬の人物。三十歳位である。あたりを見回し、それから今この家を知ったかのように、慎重に浴室のドアをノックする、誰も応えないので、ドアを開け、覗き込み、中に誰もいないのが見える、湯を出し始める。水音がするとき、自分の部屋にもどっていって、タオル、せっけん、ひげそり道具一式をもって来る、この間ヴィンツェ夫人が入り込んでくる)
ヴィンツェ夫人 おはよう・・・おや、メガイさん、最初の夜はどんな具合に眠れたかね？
バーリント こんなものすごい臭いの部屋で眠れるような具合にさ。(不機嫌に、たった今よりもっと不機嫌に、この不機嫌さはヴィンツェ夫人に向けられているようにみえる) 良く眠れなかったよ。
ヴィンツェ夫人 この家でたくさんの良い夜を過ごせるとは、とても思えないね。
バーリント 思えないって？思っていることを、いつも言う必要はないですよ、おばあちゃん。とっとと教会へ行きなさいよ。
ヴィンツェ夫人 若奥さんはもう出てったね、見たよ。
バーリント その通りだよ。
ヴィンツェ夫人 一人じゃなかった、それも見たよ。
バーリント 聞こえるかい、あんたに言っておくけれど、口を閉じるんだね。
ヴィンツェ夫人 わたしゃ口を閉じてもかまわないよ。私は一言も言ってやしないよ。私はキシュさんのところの掃除をするためにだけ、ここに来たんだよ・・・そしたらキシュさんが若奥さんと階段を降りてくのが見えたのさ、それじゃ上がって行っても構わないだろう、それまで部屋を掃除しようと思ったんだよ。だってとにかくあの人は決してこんな早起きはしないもの、怠け者みたいに昼間まであのベッドで寝てるのさ・・・今度ばかりはあの人もこんなに早く起きなきゃならなかったんだね。昨日の夜だってあの人たち充分話しが出来たはずなんだよ。
バーリント あのな、このなんとかかんとかさん、聞くんだ。あんたはこれから先、俺も家にいるときは、ここには足を踏み入れるんじゃないぞ、わかったかい？そうしたいとき、キシュのところの掃除しろ、だが俺がもう一度この家であんたを見たら、窓から放り出すぞ。わかったか？出て行け！
ヴィンツェ夫人 (肩をすくめて外へ出る) 私は行ってもいいよ・・・(ドアのところでヤーノシュと衝突する) わたしゃ行かなくちゃ・・・私は今は掃除だって出来やしないんだよ、この旦那が追い出したんでね。あの人と交渉しておくれ・・・でなきゃ他の掃除婦を頼むんだね・・・(出て行く)
バーリント (ヤーノシュに気がつく) メガイです・・・これからは同居人です。おそらくいずれは別な状況のもとで会う機会があるでしょう。自己紹介にはあまりふさわしくない状況です。
ヤーノシュ あなたがヴィンツェ夫人を追い出したことが、最良の自己紹介でしたよ。(タバコを取り出し、すすめる) 俺は二年間彼女から自由になろうと試みています。うまくいかない。まるで死のように避けることが出来ない。
バーリント それじゃどうして入れるんです？どうして追い出さないんです？
ヤーノシュ (肩をすくめて、火をつけてやる) 人間が運命論者でね・・・何か飲みましょう。(びん、グラスを取り出して、注ぐ)
バーリント 運命論者？さあ、僕の方は確かにそうじゃありません。ここでまた出合ってみろ、窓から飛び去るでしょうよ。役立たずの老いぼれのけがらわしい魔女め。
ヤーノシュ そのときは君はこの家にとって天の恵みになりますね。よろしく。
バーリント よろしく、どうも・・・お知り合いになれてうれしいです、君の方では僕のことをうんと喜んではくれないでしょうね、侵入してきた間借り人仲間のことを誰が喜べるものでしょう、だが・・・お互い同居を辛抱できるようにするため努力しましょう。
バーリント あの汚らわしい老いぼれの魔女のやつは
ヤーノシュ こう言ったんでしょう、私を君の奥さんと一緒に下で見かけたと。彼女本当のことを言ったんですよ。タバコを買いに行ったんです・・・(手を振る) ただ、そういう話が跡を残さずに消え去ることはない、というが問題です。
バーリント お笑い種だ。僕の家内は何なんです？ハーレムの女ですか？他人には見せちゃいけないんですか？われわれはどこで暮らしてるんです？中世ですか？
ヤーノシュ いいですか、疑惑のことなんですが。(坐る) たった今君は頭を上げましたね、猟犬がが残った臭いを見つけてそうするように、そんな風に俺を見つめた、君の目に疑惑が見えましたよ。とりあえずまだほんのわずかな疑惑に過ぎませんでしたが、次第に強まっていくのがわかりました。まだ一時の不機嫌、いらだちにすぎません―それからもう不機嫌ではなくて不安、それからはもう不安ではなくて神経過敏、人間、物事を調べてみるまではそれは消えることがない。
バーリント 陽気に笑う・・・へえー、君は僕のことをよくわかってませんね、親愛なる友よ。僕の神経はそんなんじゃないんです。僕の神経はねえ、ロープで出来てるんですよ、あんな魔女には僕を怒らせるなんて絶対に出来ませんよ・・・あるいは出来るとしても、「必要なら、投げとばしてやるぞ」と言わせる程度です。僕としてはこの件ではあいつに自分で話をつけます。
ヤーノシュ そうですか、君は直感で動いているのがわかりました。
バーリント 直感で？
ヤーノシュ 君は物事を何か発見するかのように思いつく。ジュジと結婚しなくてはと発見したかのように思いついた―そして思いついたとき、全ての道理をもってこの必要性を導きだした。そしてやがていつか、嫉妬していることに気がつく。
バーリント (不快そうに) まさか・・・この話はやめましょうよ。こんなことを話すなんて・・・知り合って五分で・・・何て言ったらいいか・・・
ヤーノシュ (平気で) おお、一般的に言って・・・こういうことはいつもこんな風に始まるんです。ヴィンツェ夫人が何か言う、それから直感がやって来る・・・そして論理が最終的に証明する。ジュジの陽気さは裏切りの印だ。ジュジの疲れは裏切りの印だ、夕食で彼女は―いいですか、とにかく夕食のとき注意してごらんなさい―食べ物の中からあれやこれやと選んでいるが、何を食べているのかすらわかっていない、お日様のように明白な裏切りのしるしだ。そしてその原因は？忠実たれという教えには、何一つ有利ではない。われわれはなかなか会えない・・・人間はこんなときくよくよ考え込むもんです、われわれは日曜しか一緒に過ごせない、われわれの仕事は方向が別々なので共通の話題を提供してさえくれしないし、始めの頃の優しい魅力は・・・ほら、はやくも君が口をとがらすのがわかるでしょう？こんな場合始めの頃の優しい魅力についても悪い意見を持つようになるでしょう、ディオゲネス礼賛になってしまう位悪い意見を。
バーリント (立ち上がる) ちょっと、僕は口をとがらしたりしませんでしたし、このテーマを続けたくありませんね。ものすごく不愉快だ。そして僕にしてみれば、どうして君が無理強いするのか、全く理解出来ませんね。
ヤーノシュ 俺が無理強いしている？とんでもない。だがおわびしなくちゃいけませんね、ヴィンツェ夫人は明らかにもう君を信じ込ませてるじゃありませんか。彼女は信じこませ、そしてそんなのはいつも効果抜群なんです。こんなやつには太刀打ち出来ません。もし君を回復させられないと、明後日われわれが階段で会っても、君はもう挨拶してくれませんよ。
バーリント (より穏やかに) お願いですよ・・・そんなことは問題にならないと僕は保証出来ますよ。ヴィンツェ夫人だかなんだかなんか、全然気にしてません。
ヤーノシュ 今のところはまだです。だが後になって―事実がどうあれ、君は急に、なるようになれと放っておくこと以外の解決を見出すことが出来なくなる、すなわち、君はやがて悩む。嫉妬とは一般的には悩みだ、充分によくあることとはいえ、他の時なら感情のむずむずに過ぎない・・・何日も、何週間も、君は男らしい質問をすることが出来ないだろう。「君とキシュ・ヤーノシュとの間に何があったんだ？」夜になるたび、真夜中頃君が帰宅すると、やがていつもヴィンツェ夫人が門を開ける、そしていつも君は彼女の目から感じる、「僕がこっちから追っ払ってしまわなければ、今も何か言いそうだ、見ろ、彼女が何か言ってくれれば、もっとましな状態なるだろう、だって彼女は事実通り本当のことを言うのだから、君らの部屋が最初の晩くさかったことも本当だったじゃないか、キシュとジュジが翌日の朝一緒に家から出て行ったこともそうだ・・・
バーリント (落ち着かなげに) でもねえ、わからないな、さっぱりわからない。君は今、君自身を告発したいんですか、それとも僕を安心させたいんですか？後の方ならずいぶんおかしなやり方ですね、君はほとんど説得してるみたいだ・・・
ヤーノシュ なんで俺がまず説得しないでいるものですか？君に何を知らせることが出来るんです？俺は天使じゃないし―苦行者だとしても、今日一人の苦行者が何を望んでいるか、誰にわかります？その上、君が俺の言うことを、見知らぬ人間を、「自分は苦行者だ」という最初の言葉で信じるのは君の義務ですか？あり得ない。(間) 夜毎君が帰宅するとき、そしてヴィンツェ夫人が中に入れるとき、君は最悪のことを覚悟するようになる。ジュジが家にいないことを、あるいはちょうど俺のところにいることを。そして君がさっと踏み込むときそして彼女の夢うつつのあえぎ声が聞こえるとき、何かまともでないことの新たな証拠にしかならない。君が到着したのに彼女が起きないなんてまともじゃない・・・というのも確かに目覚めているからだ、眠っているふりをしてるにすぎない。もし起きても、それだってもちろんまともじゃない、だってそのときは眠っていなかった、確かにまだ眠っていなかった、眠っていてそして目がさめたかのようなふりをしていただけだからだ。そして実際に目をさまさず、もっと眠っていたとしても、実際そのときはこの目をさませないほどの疲れはどこからきたのか？
バーリント (不快そうに) こんなとっぴな話を作るなんて、なんで君は絵描きなんです？なんで探偵小説作家じゃないんですか？あるいは離婚訴訟専門の弁護士とか。
ヤーノシュ とっぴな話？これにどんなとっぴな想像が必要なんです？周知の事実ですよ。突然ジュジも煮詰まった雰囲気に気がつく。君のことをチラリと見る、君の目に疑いを見てとる、そしてどちらもまともに相手の目を見られない。写真屋にいるときのように微笑まなくてはならないとき、人間は間抜け面になる。ジュジは、君が嫉妬していると知る、そして君も、自分がそうなのを彼女がもう知っているのがわかる・・・そして君はたずねる「何を考えてるの？」。「何も」―「どうして君のまなざしはそんなに空ろなの？・・・まるで僕を見てもいないようだ」・・・「あなたのだって・・・つまりやっぱり私を見てたのね？」－「そうとも、でも僕だって、僕を見ていないことが、君の目からわかったよ。」
バーリント (立ち上がる、脅かすように) さあ、もうこの話はたくさんだ。フロの湯が冷めてしまう。お願いだから、このテーマについてはこれ以後持ち出さないで下さいよ。
ヤーノシュ テーマ？このどこにテーマがある？この全てが余計なことだと、君に知らせたいんですよ。
バーリント 僕だってそれはわかってるってもう言ったでしょう。話すことすら余計ですよ。
ヤーノシュ よくわかっていませんね。疑うことが余計なことなんです。私は何一つ秘密にしてはいません。君の奥さんは今日俺のところにいた、夜、君が帰って来るより前のことです。ヴィンツェ夫人は本当のことを言った、それじゃ疑うのをやめて、既成事実として受け入れるんですね。
バーリント (唖然としてじっと見つめ、質問する) 君は酔ってるのか？
ヤーノシュ とんでもない、苦行者なだけです。君に知らせないでおくことは意味がない。彼女に対しても私は率直だったんです、君のことをだましたくない。
バーリント (一歩踏み出し、ヤーノシュを激しくひっぱたく) 君のきたないやり口には今のところはこれ位にしてやる。
ヤーノシュ (ため息をついて) やれやれ・・・やっぱり疑う方を選ぶのか・・・(部屋のもう片方の端に行って、肩をすくめる) 望みのない、手のつけられない人だ。もちろん犬だって、長時間挑発すれば、罰を受けずにはいられないさ。
バーリント 黙れ、さもないとこなごなにしてやるぞ、このならず者！
ヤーノシュ すなわち俺の言ったようになると、君は運命づけれられているんだな。俺は何のために言ったりしたのか、またもやばかなやり方で、人間を助けることで運命に干渉しようとしてしまった。とうとうやってしまった―いつだって運命の側に立たなくてはならない、より強い側に・・・悪い側に・・・そいつに価するものを得るように人々を助けてやらなくてはならないんだ。(部屋に入る)
バーリント (ポカンとして後を見送り、憤って) ちくしょうめ、ろくでなしのヒモ野郎、これで家から追い出せると思っているのか？おあいにくだ。汚い手を使ってみろ、そんなことしても無駄さ。お前が何をしようと、そんなの無駄さ！
幕、第二幕終了
第一景
場面は同じ、日中
ヤーノシュ (安楽椅子に横になっている) サボーおじさん、あんた大泥棒だな。
サボー (年配の人物、髪が少し白くなりかけている。肩をすくめる) ちょっと、芸術家さんよ・・・無理にとはいわんよ。決めるのはあんただ。
ヤーノシュ 何か飲むかい？
サボー いいや、けっこうだ。
ヤーノシュ (短い間の後) で今度はいくらよこす？前金で？
サボー 今か？(間) 八百だ。
ヤーノシュ ほら、千だせよ。
ヤーノシュ (笑う) もちろん、これが取引というものさ、値切られるだけだが。本当だ。六百もらおうか。
サボー (金を取り出して、数える、ヤーノシュがたった今彼に注いだグラスを取り上げ、飲み干す) 仲直りしよう、芸術家さん。持ってってもいいかい？
サボー (担いで運ばないで、入り口のドアから呼びかける、すぐ二人の運送屋と共にもどってくる) 安楽椅子はいずれ最後だ。芸術家さんがまだ坐ってる。
ヤーノシュ 親愛なるサボーさん、ワインをもう一、二本俺のところに運ばせてくれないか。(部屋の中をあちこち行ったり来たりする。運送屋たちはソファ・ベッドを持ち上げる、そして運び始める)
サボー どんなのだい？俺が自分で持ってくるよ。そして一緒にやろう。いいね？
ヤーノシュ いいとも。(サボー出て行く、ヤーノシュ口笛を吹き、タバコを吸い、それからヨーブが入って来る) ふーん・・・(立ち止まる、同情することもなく、辺りを見回す、完全に客観的に) じゅうたんは俺にくれても良かったのに。
ヤーノシュ 君になんでじゅうたんが要るんだ？
ヨーブ 知るもんか。(厳粛に坐る) 俺はついに君のところへ来たわけだ。
ヨーブ 待てよ。ドアを閉めよう。(閉める) ワインを一杯持ってきたよ・・・(チェロ・ケースから取り出す、中には見た通りのチェロはなくて、奇妙な、首の長いびんが入っている) ところでこいつを一昨日思いついたんだ・・・より正確には今朝だ。もっと正確には、来る途中、バスの中でなんだ・・・(その間マンドリンを探し出してかき鳴らし始め、それに合わせて歌う)
ガチャイ・ピシュタは美しい若者だった・・・
ズボンのベルトに・・・７つめの穴があった・・・
ドアがドンドン鳴る、ヤーノシュは、ヨーブが音楽活動をしているその間にワインの大部分を飲んでしまったので、立ち上がり、あやまりながらわめいているサボーを中に入れる
サボー (声が外から聞こえる) 俺だよ、ワインを持ってきたよ・・・(ヤーノシュが彼を中に入れるとき、彼の後ろからもちろん二人の運送屋も来る。彼らは革帯をもって小型ピアノに力をふるってとりかかり、運び始める。それじゃ頼むよ・・・とめ金のついているびんを差し出す)
ヨーブ (じっと見つめ、どなりつける) 出てけ、犬め、お前の犬小屋に帰れ！－そのびんを置いていけ！
サボー だけどちょっと・・・(続けられない、ヨーブは飾りのついた手工芸品の刃の湾曲した短刀が一本かかっている壁に突進し、それをひっつかむ。おどすように彼の方に向かうからである。これにはサボーは肩をすくめて出て行く)
ヨーブ 願わくは、これ以上持って行きやしないだろうな。
ヤーノシュ まだ安楽椅子もだ。
ヨーブ 後でだ。今はだめだ。(元気にまたドアを閉める) それじゃつまり・・・思うに俺がここに来るのは最後だな・・・でもまだ言わなくちゃいけないことがある。俺はマーリアと会ったよ・・・俺が彼女と何を話したか、興味ないかい？
ヤーノシュ (肩をすくめて、飲む) 今シャーリが・・・あんちくしょう、ジュジが、俺の同居人が、今ある喫茶店で待ってるのさ。会うために、四時に行かなくちゃならん。
ヨーブ 幸運だな、だってもう四時十五分だぞ。
ヤーノシュ もちろんだ。(無言の楽しみをこめて話し始める) 彼女が会いたがってるなら、俺はどうしよう？別れることと出会うこと・・・午前中にわれわれは別れた、十二時半にはもうすぐ会うんだとしたら、一時頃別れて、二時頃新たに会うようにと彼女は望んでいたろうな、二時半頃に別れて、そして・・・・
ヨーブ たくさんだよ。
ヤーノシュ たくさんか、たくさんなのはもちろんさ。だが彼女亭主と昼飯を食った、だとするとわれわれは今しか会えない。亭主とはセックスの悩みがある・・・彼らは今、まるでこの問題の原因は俺だろうといわんばかりにふるまっている・・・そして俺が思うに、この一緒の昼食でもそのことについての話があったな。昼食の間ジュジは青ざめ、その目は隈になっている、そしてその存在全体が大きな苦痛に満ちた、吠えたてる抗議そのものだ。ジュジの苦しみをそれ以上に増すために、これら全てはどこかのレストランで、大勢の人間の目に前で起きた。三時頃、彼らは別れた、そのときジュジはこのおそるべき記憶を振り払う、その間に十年年取った人間みたいに、顔はやせこけ目はどんよりして輝きはにぶり、そしてやはりまだ一時だ、四時まではまだ恐るべき長い時間が残っていた。俺が亭主に厚かましくも何を言ったか、はっきりさせるまでは。
ヨーブ (とめ具のついたびんを拾い上げ、直接びんから飲む) 丸一時間あれば何のためであれ充分さ。ただ俺にはわからないんだが、君はこのジュジと何をしたいんだい。
ヤーノシュ (気にとめない) 彼女はある喫茶店に腰をおろした、そして俺を失ったことを嘆いた。俺は北の街角に出かけた、そしてジュジはペネロープみたいにブラック・コーヒーを飲んだ、彼女は岩のごとき強固な信念もて長年の間にますます強まった頑固さでオデュッセウスの帰宅を待った。年月はただひたすら過ぎ、ペネローペは海に臨んだ窓のところに坐って、通りは実際に海になったかのように波打った。ペネローペはタバコをふかし、われわれの恋を弔った、それはまだほとんど始まってさえいなかったし早くも終わってしまったのだ。船がときどき海に現れた、遠くから一つ一つの白い帆がキラリとひらめいいた、しばしば一隻の船が港に入りこともあったが、一隻としてオデュッセイスが降りてくることはなかった。伝令すら来なかった。(笑う) 四時五分前にジュジの生命力はおしまいになった・・・もう疲れた目をときどき入り口の方に上げ、生気を失った年配の女として恋と忠実さとを引きずっていた・・・それから四時になった。
ヨーブ 君は精神分析のためなら一時間の遅刻だって平気なんだな。
ヤーノシュ 時間に正確になるよ。(彼も飲む)
ヨーブ 時計の針が四時を指すとすぐ、ペネローペはタバコを強く灰皿に押し付け、そしてちらりと見た。彼女は神話の不正確なことに驚いた。二十年が過ぎた、そしてオデュッセイスはやはりどこにもいない。
ヤーノシュ 彼女はウェイトレスに時間をたずねた。
ヨーブ 四時はもう二分も過ぎていた。
ヤーノシュ 彼女は断固たる処置を決めた。
ヨーブ 彼女は出て行く。支払う。新たな五分間だ。
ヤーノシュ その間ドアを見つめる。もし俺が今やって来たとしたら。本来彼女は出発するべきなんだろうが、本来、通りで気がついたそのときに出発するべきなんだろうが。彼女はそのとき「ちょうど出て行こうとしてたのよ」と冷たい声で言うだろう。(間、皮肉に) 彼女は今まさに自身に対してその場面を演じて見せている、もし俺が到着したらどうなるか。もし彼女が時計を示すだけなら一番簡単だ、たった一言の非難の言葉もなく、説明を待つ。もし説明が満足すべきものなら、そのとき微笑む、そしてすべてはＯＫだ。だが満足すべきものでなかったら！もし説明が満足すべきものにならなかったら、という考えに彼女は青ざめる。
ヨーブ (時計を見て、またびんから飲む、そして立ち上がる) 今四時半だ。喫茶店にはギャングしか坐っていない、通りでは人殺しだけが行ったり来たりしている。もし男どもが通りで振り返ると、君のジュジには苦痛の臭いがする、だからこそ彼らはそうするのだ。そういうのはすっぱい臭いでぎょっとさせられる。行こう、まだ十五分はある、そしてこのワインはえらくまずい、どこかで何か別のやつを飲もう。
ヨーブ そんならここにいようが、他の場所だろうが、君には同じことだろう。
ヤーノシュ 同じことだ。(のろのろとやっと立ち上がる、ヨーブはチェロ・ケースを閉じる、留め金のついたびんを中に入れる、そして彼らは出て行く)
彼らが出て行くやいなや、サボーが二人の運送屋と共にもどってくる。彼らは空の部屋の中で立ち止まる。
サボー さてまだこの安楽椅子二つがあったな・・・
ヴィンツェ夫人 (この間入ってくる) ちょっと、この旦那が家具を運び出す権利があるという、公式の書類を見せておくれ。
サボー (ちらりと見る) あんた一体誰だね？
ヴィンツェ夫人 この家の職員さ。わたしゃそういう書類はみんな見なくちゃならないんだよ。
サボー (肩をすくめる) キシュさんは小型ピアノと、ソファ・ベッドと安楽椅子二つを私に売ったんだよ。金は支払った、持ってくぞ。
ヴィンツェ夫人 それじゃどうぞ、売買契約書を見せてもらいましょか。
サボー (手をふる) 家具に売買契約をする必要はないんだ、おばあさん・・・
ヴィンツェ夫人 そのことなら多分私の方がよく知ってるね。でも旦那さん、そんなに頭がいいなら、どうぞ見せて下さいな、家具はもう支払済みだという領収書をお見せなさいよ。
ヴィンツェ夫人 (運送屋たちに) そんならきっと、下まで運んだ物を持って上がるだけだね、わたしゃすぐ警官と一緒にもどってくるからね。
サボー 気でも狂ったのか？あんたは誰だね？
ヴィンツェ夫人 私はここでは、この家で起きること全部に責任があるのさ。領収書か契約書をお見せよ―さもなきゃ家具を元にもどすんだね。
第一の運送屋 さ、出た、出た、俺たちゃ時間がないんだ・・・
ヴィンツェ夫人 あんたには時間がないんだって？お若い方。いいとも、私は行ってもいいさ。・・・だけどいずれ警察署であんた聞かれるよ、管理人助手がこんな風に持ってくなんてことは出来ないんだと言ったときに、なんで空き巣の手伝いをしたんだ、ってね。それじゃいずれそのとき急ぐんだね・・・
第二の運送屋 もう行けよ、俺たちはたった今持ち主と話したんだ。サボーさんはやつに支払ったよ・・・
サボー 二千フォリントだ。証人が二人いるぞ。
ヴィンツェ夫人 わたしゃ、誰に支払ったのかだけが、わからないね。
第一の運送屋 ええい、たった今出てった奴にだよ。見ただろう、あんたも見えたはずだよ、階段で会ったろう。
ヴィンツェ夫人 ありゃ酔っ払いの音楽家だったよ。
サボー それはわかってるよ。もう一人の方だ。やつと一緒に出てった。
ヴィンツェ夫人 それは音楽家の酔っ払いの友達さ。あいつらがあんたに家具を売って、金を受け取ったんだね。さ、だけどとっとと元にもどすんだね。
第一の運送屋 いいかげんにしろよ、いまいましい奴め、下に降ろすんだって充分だったのに、このピアノを二階分今度は上に上げろって言うのかい？
ヴィンツェ夫人 降ろさせたやつが、上げるのも払うさ。ここには金があるんだよ。確かにね。
サボー (手を降る、ヴィンツェ夫人の方に向き直る) あるさ、もちろんあるよ。百フォリントあげようか？
ヴィンツェ夫人 (それは重要ではないというように、手を振る) 旦那は自分の金はしまっておおき・・・だけど二百フォリント惜しくないなら、言ってあげられるけど、あんたはだまされたんだよ。だってこの二つの安楽椅子はキシュさんのじゃないんだからね・・・あの人の安楽椅子二つはあの部屋にあるよ。(ジュジたちの部屋のドアの方を指す)
サボー (金を与え、肩をすくめる) それじゃそいつを持っていこう。(二人が入って行って、それからもどってくる、両方とも一脚ずつ安楽椅子を持っている。ヴィンツェ夫人はその後からよちよちとついていき、彼らの背後でドアを閉める、それから浴室のドアを開け、その錠をもてあそび始める、しばらくほじくりまわし、それから中止する、ヤーノシュの部屋に入っていき、ドアを自分の後ろで閉める)
ちょっとの間場面は空になる、それから錠の中でカギがまわり、ジュジが不機嫌で疲れて到着する。
ジュジ (着くとすぐあたりを見回し、それから自分達の部屋に行く。そこから―コートを脱いでいたらしく―しばらくすると今度はもう服でもどってくる、もう一つのドアの方からこそこそ動き回っている音が聞こえ、それにちょっと注意する、もっと近くに行き､立ち止まりそして待つ。沈黙、何秒かすぎ、それからドアが開き、ヴィンツェ夫人が出て来る)
ヴィンツェ夫人 おや、若奥さんが来たよ・・・キシュさんの方はもう出かけたよ。
ジュジ いつ？(急に困惑する) そのことだったら・・・私に何の関係があるの？
ヴィンツェ夫人 わたしゃただ言っただけだよ・・・
ジュジ (支離滅裂になり、怒る) あなたどうしてここにいるの？お掃除？いいでしょう、掃除なら午前中に出来るはずよ。それ以外に、あなたがこの部屋にいる資格なんてないはずよ。
ヴィンツェ夫人 そんなこと言っても私も言わせてもらうけど、あんたは、私がたった今もここに居たことに感謝すべきだね、キシュさんはあんた方の家具まで売り払ってただろうからね。だってごらんよ、自分のやつはもう売り払った、ここには何もないのがわかるだろ・・・それにあんた方の二つの安楽椅子まで売り払ったんだよ、でもあんた方のテーブルまで売り払いたかったんだろうけど、ともかくごらんよ・・・もしわたしがここにいなかったら、困ったことになったろうね。これじゃご主人が何と言うか、私にはわからないよ・・・
ジュジ 何ですって？あなた何をわけのわからないことを言ってるの？
ヴィンツェ夫人 言ってるとも、言ってるとも・・・ごらんよ、あんた方の安楽椅子二つが足りないだろ、それともちゃんとあるのかい？それにもし私がいなかったら、他の物も足りなくなってたろうね。(ジュジは自分たちの部屋に入っていき、少したってからもどってくる、あきらめたように手をふり、部屋の中央で立ち止まる、ヴィンツェ夫人にはほとんどかまわない)
ヴィンツェ夫人 錠だって壊れちまったよ。(浴室のドアの方を指す)
ヴィンツェ夫人 わたしゃどうしてか知らないよ。どうしてあんた方の部屋で寝られなかったかも、どうしてあんた方の安楽椅子がなくなったかも・・・
ジュジ どうしてなくなったの？これはみんなどういうことなの？この家は何なの？気違い病院なの？(突然泣き出す、そしてわめく) ここから行って・・・ここから出てって・・・出てけ・・・
ヴィンツェ夫人はヤーノシュの部屋に、ジュジは浴室に入って行く、そして湯を出す。それから舞台を横切り、自分たちの部屋からタオルとセッケンと浴用セット一揃いを持ってきて、浴室に運び込む。それから出て来る、このときヴィンツェ夫人も再び現れる。
ジュジ (ヴィンツェ夫人に前より態度を和らげる) 気にしないでね・・・私イライラしてたのよ。
ヴィンツェ夫人 イライラするのはよくないね。あんたはもう子供じゃないといっても、まだ若いんだし。まあ、いいさ・・・わたしゃあんたを怒っちゃいないよ・・・キシュさんのパーリンカで仲直りの一杯をやろうよ。(戸棚から一本のびんと、グラス二つを取り出す) 今こいつをいただいてやろうよ。
ジュジ (嫌がって) だめよ、ヴィンツェさん、何を考えてるの、だめよ。それは私たちのじゃないのよ・・・
ヴィンツェ夫人 私たちのじゃないのよ、私たちのじゃ・・・よく言うよ。さて私ら二人にいつから私たちのものなんてあったかね？もちろんこれはキシュさんのさ。二、三日前からキシュさんは全然飲まないのさ・・・
ジュジ 二、三日前から？
ヴィンツェ夫人 (注ぐ) そうさ。その前はもちろん・・・(飲む)
ヴィンツェ夫人 それもどっさりとね。(飲む) いつもだよ・・・！(自分用に新たに注ぐ) マーリアさんが午後にここに来るときは、キシュさんはいつもぐでんぐでんだったよ。ジュジをちらりと見る。だけどあんたもお飲みよ。
ジュジ (グラスを取り上げる) その人、そのせいで怒らなかった？
ヴィンツェ夫人 あいつだって飲んでたよ・・・それから来なくなったとき、二度と来なくなったとき、キシュさんはもっと飲んだ、もっと・・・それから急にやめた、全然飲まなくなった。こいつも・・・(びんをぶらぶらさせる)・・・あんたが部屋で一緒にいたときだけ、飲んでた。
ジュジ (びっくり仰天して) 私が部屋で一緒にいたですって？
ヴィンツェ夫人 もちろんさ・・・でも心配しなくていいよ、私は話したりしないよ・・・誰にも。私からは誰も聞き出せやしないよ。わかってるよ、私が知ってることは秘密にしておくよ、お墓の中に持ってくまでね・・・(ヤーノシュの部屋へしのび歩きでもどる)
ジュジ (唖然として後を見送る。ホールの中央でちょっと立ち尽くし、それから倒れそうな歩き方で浴室に入る、自分の後ろでドアを閉める)
ヴィンツェ夫人 (すこしするともどってきて辺りを見まわし、ジュジが見えないので、浴室に入り込む)
ジュジ (中から声) ちょっと、だめよ・・・開けないで。
ヴィンツェ夫人 (ドアのところに立って) それからまだこれも言っておきたいんだけどね、あのキシュさんには用心おしよ・・・
ジュジ (中から) ちょっと、どういうつもりなの・・・お願い、ドアを閉めて・・・
ヴィンツェ夫人 用心おしよ、それだけは忠告しておくよ。悪い人で、陰険な人だよ。信用出来ない。あんた方が来たとき、あんた方の部屋だってくさくした、あんたが夜自分のところに来るようにってね。そしてそうなった、それが起きた、だけどそれで満足しなかった、今度はあんたらの安楽椅子まで売っぱらった・・・そしておまけに金だってないんだよ・・・今度は職場から追い出された。だからこそあんた方の安楽椅子まで売っぱらったのさ。
ジュジ (完全に屈辱的な声で) お願い、どうかお願い、ほっておいて・・・
ヴィンツェ夫人 放っておくとも、もちろんほっておくとも・・・短い間。だけどもしそうしたかったら、お呼びよ・・・私のことは信用していいよ。あんたが午後いつも家にいるんなら、一人でいるなら、わたしゃ他の奴を連れて来てあげられるよ。お金持ちをさ。誰にもわかりゃしないし、怖がらなくていいさ、わたしゃ秘密を言いふらしたりしないよ・・・
ジュジ (声) でも・・・ねえ・・・それ一体何のこと・・・何を考えてるの・・・
ヴィンツェ夫人 いいさ、いいさ、わたしゃただ言ってるだけじゃないか、もしそう思っているなら・・・強制じゃないよ・・・だけどそうはいっても五階のクルチャールさんがもう興味を持ってるんだよ・・・あんたらはご主人とどの位一緒にいるのかと訊いたよ。それで私は言ってやった、そんなのわたしゃ知らない、知りようがない、そんなの私には興味もないしね、私にはそんなの何の関係もない、わたしゃここでキシュさんの部屋を掃除してるだけだ、とね。それからあんたがどの位ご主人と一緒にいるか、その二つに何の関係があるのかともね。わたしゃそんなのをもう見てるんだよ、亭主も知ってたし、喜んでさえいたさ、奥さんが・・・さ、だけどクルチャイさんはあんた方もそんな風なのかと訊ねた・・・あんた方はどんな人たちかなんて、どうして私が知るものかと、わたしゃやつに言ったよ。「みなが話していたよ」わたしゃ言った「最初の夜すぐキシュと一緒だった、最初の晩、ここへ引越してくるが早いか」って・・・だけどそれは話だけで、私は見てはいない、私は知らないし、私はそんな話なんか問題にしない・・・だって信用しておくれ、わたしゃ決して人様について悪いことを広めてまわったりしないよ・・・さ、泣くんじゃないよ、それじゃわたしゃあんたを傷つけたのかい？(驚いて) 泣くんじゃないよ、ほら何を泣いてるんだい？(沈黙する、肩をすくめてドアのところからやってくる、ドアが開いたり閉まったりするのを放っておく)
ヤーノシュ (今外から到着する。ヴィンツェ夫人と玄関の部屋で遭遇する)
ヴィンツェ夫人 早くお行きよ、お行き、そして見てごらんよ・・・わたしゃこんなのまだ見たことないね、あんたの浴槽に坐り込んで、それから泣き喚いているよ・・・
ヤーノシュ 誰が？
ヴィンツェ夫人 誰がって若奥さんさ、他に誰がいるのさ？他の誰が浴室にいるんだい？
ヤーノシュ (浴室に入って行く、声はそこからする) どうしたんだい？言ってごらん・・・君どうしたんだ？(間) 君、このお湯はもうすっかり冷めてるじゃないか、ここに坐り込んでると、風邪をひくぞ・・・(出て来る、戸棚から男物のバスローブを捜し出して、それを持ってもどる。その間ヴィンツェ夫人も再び浴室に入っていき、そこでぶつぶつ言っている)
ヴィンツェ夫人 (中から) ただ坐ってるだけ、ただ坐ってるだけ、涙がぽたぽた落ちっぱなしさ・・・まるでそれが何かの助けになるといわんばかりだよ・・・
ヤーノシュ (ローブを持って入り、それから少しするとバスローブを着たジュジを腕に抱えて運んで来る。見回すが、ソファ・ベッドはもうないので、残っている安楽椅子の一つに彼女を下ろす) ヴィンツェさん、あんたは出てけ・・・
ヴィンツェ夫人 行くとも、もちろん行くともさ・・・私は行くべきときは心得てるよ。ここにはもう私は用事はないよ・・・だけどあんた、ベッドに突っ込んだ方が良かないかね・・・(退場)
ヤーノシュ 君どうしたんだ？話してた喫茶店ではもう、君は見つからなかった。帰って来たんだが、もしかして君もその間に帰ってきたのか。(間) どこか具合悪いのかい？
ジュジ (そっと、絶望しながら) 言って・・・あなたはどうして荒れてるの？
ヤーノシュ (怒って笑っているかのよう、それからパーリンカのビンをジュジの口に無理に入れる、彼女は一口飲む) 君は、悲しげな殉教者みたいな調子で訊ねるんだな、円形闘技場のキリスト教徒の処女たちが答えを期待せずに、ライオンに尋ねたみたいにだ。たとえ彼女たちが何らかの答えを期待していたかもしれないとして、たまたま奇蹟が起こったとしたら、ライオンは口をきき、どうして彼女たちを食うのか説明してくれる。話をするとしたら、議論だって出来るかもしれない、そうなると完全に望みなしかかどうかは確実じゃなくなるな。
ジュジ そっと。違うわ、違うわ・・・私は完全にばかというわけじゃないわ、そうだとしても、あなたと出会ったからよ、そしてあなたが荒れてるからよ、感じるわ。どうしてなの、言って、どうしてなの？
ヤーノシュ 何がまずいのかって？ジュジ。ある展覧会の自画像さ。絵描きたちがお祝いを述べながら。「へーえ」・・・「へーえ」、まるで全てが「へーえ」みたいだ。ある種のねたみの議論の余地ない確実な印さ。
ジュジ (降参して) その自画像はこのどこにあるの？
ジュジ そのことでこんな風に話すのはやめましょう。お互いにウソをつくのはよしましょう。あなたは私たちの最初のデートに来なかった・・・そして私をあのヴィンツェ夫人に引渡した。あなたがどう説明しようと、すまいと、それは重要じゃないわ。私は説明を求めもしなかったわ。あなたが怖いわ、それだけが言いたかったのよ。
ヤーノシュ 二人の人間が安楽椅子に坐っている、抱擁し合いながら、そして両方とも同じものと取り組んでいる「俺自身」とだ。ふさわしくないよ。世間にはキシュ・ヤーノシュよりもっと面白い問題もある。キシュ・ヤーノシュと取りくむ価値は、われわれ二人のうち片方にとってしかない、すなわちキシュ・ヤーノシュにとってだ。君じゃない。忘れるな、数学的な論理は感情的な問題の解決には最良の方法じゃないんだ・・・バスの乗客の一人が車掌に乱暴な態度をとった、車掌は家で幼い息子にびんたをくらわした、息子は怒ってある年寄りのおじさんにあつかましい口をきいた、その人はある別の車掌に乱暴な態度をとった。ことはさらに続いていく・・・そしてこんな風に悪い終わりの見えない連鎖は進む、たとえこれら全ては意味のないことだと、一人一人が知らなかったとしても、そしてあらゆることについて議論がなされたとしてもだ、一人の通行人が十フォリントを支払った、黄色い信号でスタートしたからだ・・・これらの瞬間に他のときと同様、同じくらいの人間が生まれて死んだ、別なふうになれ、と君が望んでもムダだ。
ジュジ 話したらいいわ、そんなばかげた陳腐なことだってちっともかまわないわ。
ヤーノシュ 君がこのことで正しい質問をするなら・・・(新たに彼女に飲み物を与える) 君はあの冷めたフロの水で風邪をひいてしまったぞ。おいで、君を寝かせよう。おやすみ。フトンをかけてあげるから、フトンの外には怪物たちがいて、君はフトンから鼻を出してはいけないんだと考えるんだ。(再び抱き上げ、自分の部屋に運ぶ、その間ぶつぶつ言う) いずれ俺が起こすかもしれない・・・君はほとんど寝付けないかもしれない・・・君は寝付けさえしない、俺はもう君を起こしている。(入って行く、ちょっとすると出てきてドアを閉める) やれ・・・やれ・・・(手足を伸ばし、頭を振る) これには何か不安にさせるものがあるな。俺が彼女に言ったこと「誰を相手にしているのか」を彼女は本気にしなかったようだ。俺をだ・・・一人の苦行者をだと？もし本気にしてたら、気がついていたら、もう逃げ出していなくてはならなかったはずだ、だが見ろ彼女はここにいる、俺のところにもぐり込んで赤ん坊のように駄々をこねている。だがそれは出来ない、それはあらゆる常識ある論理に反しているのだ、これを長いこと容認することは許されない。ジュジに一人の似非苦行者と寝たのだと信じさせておいてさらなる過ちの中に放っておくことは、不誠実になるだろう。ええい、ヴィンツェ夫人は今どこだ？あいつも必要なときにはここにはいない。あいつはこの件では単なる助手かもしれないにしても、われわれの間で力関係の上下を確立する意味はないのだから、あるいはより小さな、部分的な課題の解決策を見つけてくれるかもしれない。
ヴィンツェ夫人 (入ってくる) ちょっと、キシュさんや、お家賃を払わなくちゃいけないよ。
ヤーノシュ 家賃だって、ヴィンツェさん。何のためにそいつを今払うんだい？まだ月の初めじゃないか。
ヴィンツェ夫人 そうとも、そうとも、だけど先月の分が支払期限なのさ。管理人が、これ以上待てないと伝言をよこしたよ。
ヤーノシュ それじゃやっぱり待ってもらうことになるね、ヴィンツェさん、そう思うね。
ヴィンツェ夫人 だけど家具を売ったのを見たという伝言だよ。ということは金がある、それを全部飲んでしまわないうちに払ってくれとさ。
ヤーノシュ 管理人は下手な精神分析医だな。俺は実際いくらかの金をもらったが、ここにはヨーブがいて、よこせと言った。今あんたに渡す分しか残ってないよ、これで何か飲むものを持ってきてくれ。
ヴィンツェ夫人 何のために？あんた、自分の満足のためならこれ以上決して飲まないだろう、って言ったじゃないか。
ヤーノシュ だけどよく考えなくちゃならんのさ。まだたくさんの重要な課題の解決が俺を待ってるんだよ、ヴィンツェさん。
ヴィンツェ夫人 (ヤーノシュが彼女に金をわたしている間に) お金が手に入るかもしれないよ。
ヤーノシュ どうやって？
ヴィンツェ夫人 ミュラーさんさ、あの人は喜んでくれるだろうよ。
ヤーノシュ それじゃ、喜んでくれるというなら、ミュラーさんからもらおうか。行って、やつからもらってきてくれ。
ヴィンツェ夫人 むしろあの人自身をここに来させるよ。
ヤーノシュ いや、そんならむしろくれない方がいい。
ヴィンツェ夫人 何の話だか、言ってあげるからさ・・・あんたは家から出かけててもいいのさ。
ヤーノシュ 家から出かける気分じゃないよ。
ヴィンツェ夫人 そうしなくちゃね。ミュラーさんをあの若奥さんと二人にしておくのさ。(ドアの方をすばやく示す)
ヤーノシュ (感服してヴィンツェ夫人を見つめる) そりゃまた、見事な成果だね、ヴィンツェさん・・・本当にお見事だ。こんな短い時間で。ミュラーには、俺が一枚加わってると言ったんだろう？
ヴィンツェ夫人 わたしゃ何も言わなかったよ、言ったなんて決めつけないでおくれ。私はただ、ミュラーさんが何といったか、聞いてただけさ、そして「私はあんたにきいたりしない」ってあいつに言ってやったよ、あのキシュさんは、そんなことを言えるような人じゃない、もし私が言ったりしたら、あの人はすぐ私をたたき出すだろうよって・・・あんたはお家賃をはらわなくちゃならない、たまたまそれだから言ってるのさ、そしたらミュラーは五百だってよろこんで出す気になったよ。
ヤーノシュ いいとも、ヴィンツェさん。ミュラーさんを来させろよ。
ヴィンツェ夫人 だけど私は何も言わなかったんだよ。あんたがやつと話したがっているということで初めて、私はあいつを来させられるのさ。何を話すのかは、わたしゃ一言だって言えないよ。
ヤーノシュ だけど亭主には・・・ジュジの亭主には、それでもやはりいずれは遠まわしに言うんだろう？ヴィンツェさん。
ヴィンツェ夫人 わたしゃ何も遠まわしに言ったりはしないよ。私にとっちゃこの思わせぶりな、蜜のように甘い話は私の米びつじゃないんだよ。私は心に思ったことを、素直に言うのさ。わかるだろう、キシュさん。(退場)
ヤーノシュ ヴィンツェ夫人は俺のことを信用し始めた。今までは信用していなかった。今までは酷薄で冷めた理性で、俺もあのいやな臭いをきらっているのを知っていた、他の皆と同様に俺も彼女をきらっていると、酷薄で冷めた理性で知っていた、俺がマーリアを、ワインを、仕事を、金を、音楽を、映画を好きなのを知っていた。彼女は隠れた意図なしに一人の女と寝るやつを信用出来なかった、他の連中が俺を信用して、俺がやつらのために働くようにと支払っていた間は、俺を信用出来なかった・・・ふん、だが今ではもう信用している。他の連中は多分ただ本能で、だがヴィンツェ夫人は酷薄で冷めた理性で、俺が社会から足を踏み外したこと、俺にとっては今まで有効だったものが、何一つ有効でなくなったことを、確認したのだ―今ではもう俺を信用しているんだ。
(沈黙し、タバコをふかす、少しするとヴィンツェ夫人がもどってくる)
ヴィンツェ夫人 やつはすぐ来るよ。(間。部屋の中を行ったり来たりする、鼻をすすりあげる) だけどわたしゃそのお金からどの位もらえるんだい？
ヤーノシュ どんな金だい？ヴィンツェさん。あんたは何一つ知らないんだろう？
ヴィンツェ夫人 そうとも。わたしゃ何一つ知らないよ。百フォリントのためなら何も知らないよ。
ヤーノシュ なあきいてくれ、ヴィンツェさん―あんたが何もかも知ってたって、俺はむしろ平気だよ。
ヴィンツェ夫人 いいとも、それじゃいいとも、私は平気さ・・・(黙る) それじゃいずれミュラーがくれるさ。
ヤーノシュ (笑う) 俺と商談成立したとしたらね、ヴィンツェさん。取引するなら俺としか出来ないよ。(ヴィンツェ夫人が怒るのを面白がる、それから手を振って、彼女に金を与える) さあヴィンツェさん、ミュラーが来る間、飲み物を持ってきてくれよ。
ヴィンツェ夫人 あいつは来るさ。多分もうここに来ているよ・・・
ヤーノシュ それじゃそのためにも出てってくれ。
ヴィンツェ夫人 わたしゃ、あんた方が私抜きで交渉するとしたら気に入らないね。(間) あんたはだまし取られるよ・・・(間) ちょっぴりで満足しちゃだめだよ。私にまかせてくれれば、もっと上手く行くのに。(頭を振って、ブツブツ言う、出発し、ドアから振り向いて言う) キシュさんや、電話用コインを一枚持ってないかい？
ヤーノシュ 電話用コイン？でも多分あるかな・・・(探し回る、ヴィンツェ夫人に渡し、頭を振る) ヴィンツェさん、俺には、電話しても、亭主があんたの言うことを信じるとは思えないな。やつはあんたのことが大好きじゃない。電話用コインがムダになるだけだよ。
ヴィンツェ夫人 (怒って) 私が亭主に電話したがってるなんて、一体どこから考えだしたのさ？
ヤーノシュ 何か秘密めいた本能がそうささやいただけさ、ヴィンツェさん。いいかい、人間一人で柱の上に立ってると、そこから遠くまで見えるのさ。(ミュラーがベルを鳴らす、ヴィンツェ夫人が入れてやる、そしてドアから出て行く)
ミュラー (四十代の疑り深い動作の、奇妙な、好色そうな顔の、おしゃれした人物) 今日は・・・(手を差し出す、ヤーノシュは手を差し出されているのに気づかない) われわれはまだお互い知り合いじゃありませんね、芸術家さん、同じ家に住んで、三年目だというのに・・・(坐る)
ヤーノシュ ええと失礼ですが・・・あなたにはご専門分野で豊かな経験がおありですね、親愛なるミュラーさん。
ミュラー そりゃあ場合にもよりけりですね。どの専門分野のことをおっしゃってるんです？
ヤーノシュ 専門中の専門分野です。私が思うに、やはり人間を対象とする取り組みですね。卓抜したご専門です。しっかりしたインテリジェンスが要求されます。心理学的、類型学的、生物学的な知識が・・・法的なそして商業的知識が要求されます。
ミュラー (立ち上がりそうになり、疑わしげに) おそらく皮肉をおっしゃってるんでしょうな？
ヤーノシュ とんでもない。(彼に注ぐ) いかがですか？
ミュラー けっこうです。話合いの間は決して飲みません。
ヤーノシュ 飲み物代は値段に含まれています。
ミュラー あなたがおっしゃってるのは・・・つまるところ、私はお住いをお借りしたいのですが・・・一定の時間。
ヤーノシュ わかってますとも、わかってますとも、喜んであなたにおまかせしますよ、ミュラーさん、とはいえ言っておかなくてはならないのですが、・・・別の部屋であるご婦人の客が寝ている、という状況がひょっとして妨げになるかもしれないんです、私の部屋でです、ひょっとしてあなたはそこを借りたいと思ってらっしゃるのかも・・・ですがその点に関する限りそれはさしつかえにはなりません・・・
ミュラー (うなずく、それからやはりグラスを取り上げ飲む) 思うに、その、さしつかえにはならないでしょう。(咳払いする) 寝てるんですか？
ヤーノシュ 寝てます。多分いささか酔ってるかもしれないと思います。
ミュラー そのう・・・私はめんどうなことは一切好きじゃないんです。(間)三百フォリントお支払い出来ます・・・
ヤーノシュ ヴィンツェさんは、五百フォリントと言ってましたよ、ミュラーさん。
ミュラー 五百フォリントは大金です。
ヤーノシュ あなたにはもっとあるでしょう、ミュラーさん。
ミュラー (百フォリント札を五枚数えてテーブルの上に置く、ヤーノシュは取り上げもしない、浴室に行き、そこからコロンのビンを持ってくる)
ヤーノシュ これも値段に含まれています、ミュラーさん・・・私はひげそりのときはいつもこれを使っています。暗闇では・・・暗闇では幻想をかきたてます。(ミュラーくすくす笑い、そこから少しとって顔にこすりつける)
ミュラー サービスに対しては何の不満もありませんね、芸術家さん。それじゃ・・・(失敬というしぐさ)
ヤーノシュ (ドアを示す) どうぞどうぞ・・・(金をポケットに丸めてつっこむ) 私は静かにしています、唖になります。ヴィンツェさんは飲み物を取りに行かせました、私は静かに一杯やってるでしょう。どうぞ、ミュラーさん。(ミュラーそっとドアから入り込む、そして同じようにそっとドアを自分の後ろで閉める)
ヤーノシュ (一人残る、窓のところへ行き、そこから呆然として外を見つめている、長い間見つめている、やがてもどってきて、静けさの中で自分自身に向けてつぶやく) 俺はそもそも何を求めている、何を追いまわしているんだ？真実か？おそらく―誰もが自分自身のやり方でそれを追いまわしているんだ。ただもちろん、種類が多くて充分なところまで知られてはいない。見知らぬ部屋にある異世界の知られざる対象物だ。出発点は何もない、あるのは真実があるという前提だけだ。それについて俺は何も知らないし、ひょっとしたら認めてさえいない。それでもあるんだ。見つけてさえいないが、二度も俺の手の中にあったかもしれないのだ。そのときだって部屋の中にある・・・ブッダだってそう出来たはずだ、だが彼はやはり何らかの信仰に、仮説に頼った・・・慈悲への信仰だ、涅槃への条件提示にだ・・・だが慈悲は一人の苦行者の関心は引かない・・・いいや、引かないんだ。見とどけてやろうじゃないか、神よ、われら二人でどこへたどりつくのか・・・(ドアが突然パッと開く、そして心配顔のバーリントが飛び込んでくる)
バーリント (ヤーノシュを凝視する) 家内はどこです？(この後自身の部屋にとびこむ、空っぽなのを見てとり、ヤーノシュのところへ駆けもどる) ジュジはどこだ？
ヤーノシュ ジュジ？
バーリント 心臓の発作を起こしたという電話があった・・・救急車で運ばれたんですか？
ヤーノシュ いいや、運ばれてはいない。思うに、誰かにだまされたんでしょう。心臓の発作を起こしたらしい、なんて話は知りませんよ。
バーリント (安心してホっと息をつくが、まだ疑っている) でも・・・家から誰かが電話してきたんですよ・・・階段で具合が悪くなった、そして君が運んで行った・・・意識不明だったからと・・・それも悪ふざけですか？
ヤーノシュ さあ・・・ただの間違いですよ。一杯飲みませんか？
バーリント いいえ。それじゃ何があったんです？一体何があったんです？
バーリント (唖然として見つめる) ヤキモチ？君狂ってるな。僕は心配してるんですよ、なんたるナンセンスで下劣で間抜けな冗談ですか？僕は大急ぎで来たんです・・・タクシーで・・・何なんですかそれは？
彼が話している間、入り口のドアがそっと開く、そしてマーリアが姿をあらわす。彼女は二人の口論している男たちを見る、とりあえず彼らは彼女に気がつかない、彼女は静かにドアのところで立っている。
ヤーノシュ さあ、俺は知りませんよ・・・俺は今家にいさえしないんです、自分の部屋を賃貸ししたんでね・・・そのことを話すのは苦痛なんですが、何と言ったらいいかな？
マーリア (そっと呼びかける) ヤーノシュ
ヤーノシュ (その声に魅せられて振り向く、びっくりする) 君・・・君ここに？(同時に彼の部屋のドア開き、ジュジがそこから出てくる、そして仰天して二人の男を見る、突然悲鳴を上げる)
ジュジ あんたが・・・ここに？あなたが・・・ここに？それじゃ・・・それじゃ中にいたのは誰だったの？(荒々しく振り返る、ドアは開いている、一瞬彼女にはミュラーが見える、彼は部屋の薄暗がりに退却する。ジュジは身をこわばらせて他の者たちの方に向く) それじゃ・・・それじゃこれって・・・おお・・・それじゃこれもなの、これもなの・・・？
バーリント (さけぶ) ジュジ、どういう意味なんだい？
ジュジ どういう意味ですって？
あたりを見回す、 テーブルの上の短刀を見つけ、ひっつかみヤーノシュを刺す。一度、二度。肩、胸のあたりに命中する。ヤーノシュは倒れる。
バーリント ジュジ・・・僕のジュジ・・・何があったんだい？
マーリア (声をたてずにヤーノシュのもとに駆けより、傍らに膝まづく、場面は暗くなる)
ジュジ (その声はすでに闇の中から) 何が起きたかって？あなたが見たことが起きたのよ。それだけよ・・・
彼女は慟哭しながらすすり泣き始める。
場面が明るくなる、ヤーノシュは床に倒れている、その傍らにマーリアが膝をついている、救急医が今立ち上がる、安心させようとして。
医師 搬送します。
医師 (肩をすくめて、出て行く)
ヤーノシュ (弱弱しい、静かな声で) 俺は死ななかった・・・たった今世界は画面に凍り付いてしまった、一瞬だけだが、それから砕けた、百万片ものちっぽけなかけらに。大地の創造が始まった、最後の審判もすぐに終わった、それから我々がティハニー川をわたって、風が君のスカートをなびかせてるのも見えた・・・
マーリア しゃべらないで・・・
ヤーノシュ 今はもう全て大丈夫だ。俺は五次元にたどり着いた・・・それは他の四次元を取り囲んでいるからだ・・・オレンジの皮みたいに、そんなら俺は同時に全ての空間と全ての時間の中にいるんだ・・・全ての空間に・・・全ての・・・
(黙り込み、長い時間の後さらに弱弱しく言う)
マーリア しゃべらないで・・・
医師 (二人の看護助手ともどって来る、彼らは担架を下に置いて、注意深くヤーノシュをのせ始める。彼はその間うめき声をあげる、それからまだこれだけ言うが、最後まで言わないうちに、救急隊が彼を運び出す)
ヤーノシュ 俺自身のことも見えた・・・もし認識してなかったとしても、・・・悪の手助けはするまいという予感はもうあったから・・・もしこれ以上堕ちると・・・なぜなら苦行の・・・時期は・・・ナイフの一刺しで・・・過ぎ去ったのだから・・・そんなら自分自身を友情をもって見つめよう・・・(起き上がるが、医師がそっと横にならせる)
医師 この顔なら私は知っている、こいつとは何度も会った・・・見捨てられた人間の寂しい顔だ、私の管理に委ねられた、そしてこれから先誰にも助けてもらえない人間の・・・
担架が運び出される、マーリアは最後まで残る、一瞬後を見つめるが、それから彼女も出発する、そしてその背後で幕が降りる。
終幕
1 ラテン語で「心の最も明晰な生涯」の意？
2 同じく「健康の行い」の意？
3 ブダケシ ブダ側の丘陵地域でピクニック地として人気がある
4 原文は”ott gerédezlik a vetést”「あそこでは播いた種が芽ぶいて列をなしている」位の意かと思われるが、古い言葉のため定かでない。ここでは意訳
5 ベールテク、クラスナベールテク 現在のニールベールテク ハンガリー東部サボルチサトマール県のニールバートル区にある。
6 カミルス ﾏﾙｸｽ･ﾌﾘｳｽ･ｶﾐﾙｽ おそらく紀元前396年と389年のローマの臨時独裁官。紀元前390年ガリア人にローマが占拠、略奪されたときこれを撃退した。
7 キンキナトゥス ﾙｷｳｽ･ｸｩｲﾝｸﾃｨｳｽ･ｷﾝｷﾅﾄｩｽ 初期共和制ローマの英雄。紀元前
458年にアイクイ族がローマを包囲したとき、元老院は一介の農夫だったキン
キナトゥスを臨時独裁官に選び、彼に全軍の指揮を委ねた。元老院からの使いが来ると、彼の妻ラキニアは畑で働いていた夫のためトーガを取りに走って家帰ったという。
8 ペプラム 古代ギリシアの女性が着用した外衣。
9柱上のシメオン シリアのシメオン(390頃～459)、最初の柱頭行者（柱の上で単独で修行するキリスト教の修道士、５世紀から１０世紀にかけてシリア、メソポタミア、エジプト、ギリシアなどに現れた）
10 アレクサンドリア学派 180年頃パンタイノスによりアレクサンドリアに設立された私塾に形成された学派。聖書の比喩的な解釈を特色とする。
11 「私はより良きものを見、それを可となす。されど悪しきものに従う」ローマの叙事詩人オウィディウスの神話を主題とした６歩格詩「変身物語」（メタモルフォーゼ）７巻からの引用
12 サバチャーグ山 ブダペシュト地域で最も高い山のグループ、セーチェニ山、
ヤーノシュ山、マールイ山等が含まれるピクニック地域
13 オーブダ 現在のブダペシュト３区
14 クルーディ・ジュラ1978～1933 作家、古き良きブダペストを舞台にした
ロマンティックな長編小説の数々で知られる。