作曲家 あなた声はお持ちですか？
イロンカ もしなかったら、ここに来る勇気なんかなかったでしょう。私、機関車みたいな声をしている、と言われました。
作曲家 どういう意味です？
イロンカ コーラスではこれが重要なんです、強い声と息が長くもつことです。
作曲家 その通り。
イロンカ コーラスというものは声楽ではなくて、肺楽なんですわ、お手にキスを。
作曲家 結構、お嬢さん。つまりあなたには良い声がある。
イロンカ 私、水の中でも２分間息をしないでいられます。私の声帯、千年に一度ものなんですよ。どうぞ試してみてくださいな。たらいの中ででも。それから私のスタイル、どうぞ判定なさってくださいな。・・・（立ち上がる）練習着だと私、アーモンドみたいですのよ。
作曲家 そりゃどんな風なんです？
イロンカ 私よくわかりませんの、でもパーパ12の町の編集者はそう書いてくれました。彼は詩人です。
作曲家 それは間違いないでしょう。そんなに可愛い容姿をなさってる、とてもチャーミング、それは確かです、お嬢さん。その点では、私にはパーパの編集者は必要ありませんよ。あなたの目は美しいし、大きい、いろいろと訴えかけてくる・・・
支配人 （電話の受話器を取り上げて）もしもし４３６３番を頼む！もしもし！
作曲家の先生？今日は、今見つけたんだが、お書きになったものの中で、取り決めになかった部分がある。私が思うに、もうこれはたくさんだね。もうとっくの昔に放り出すべきだったね・・・台詞からその部分を。おわかりですか？それなら頼みますよ。もしもし、もしもし！奥さんによろしく（受話器を置く。作曲家に）すみません。
作曲家 えーと、つまり、あなたの希望をまとめてみましょうか。あなたは、時々小さな脇役もやりたいという希望付きで、女声コーラスへの採用をお望みですね。
イロンカ ええと、時々は小さな王女役、でも長すぎないやつとかちっぽけな伯爵夫人で、五、六人の伯爵夫人が揃って登場するときだけの・・・「やれやれ、今日の夜会は成功だったわね！」みたいな二言三言とか、それや「いばらの妖精」で演じた役は、「何かがデンマークで臭っている」と言いました・・・そしてこんな風に向きを変えて「そうでしょう？閣下、ネスパ ア
バサドル？13」・・・こんなちょっとしたせりふを言いました。人間成長していけば、ありがたいことに、時ととにちりも積もって山となるんです。
作曲家 ほお、こりゃ好感の持てるご謙遜なお話ですね。あなたは、私に素晴らしい印象を与えましたよ、お嬢さん。
支配人 （立ち上がり、二つの窓の間にある棚のところに行き、その間言う）放り出す、放り出す。
イロンカ （支配人が棚の中を捜しまわっている間に）この人、しょっちゅう何をぶつぶつ言ってるの？
作曲家 かまうことはありませんよ。あなたは私の気に入った、もしあなたのご希望が高過ぎなければ・・・
イロンカ 高望みなんかしません、私服は自前ですし、動物は飼ってません、宝石はつけませんし、チキンは食べません。毛皮は着ないし、車には乗りません、私に何が要ります？私がおもらいさんにあげるものだって、たまに小さな髪留めとか、二、三本のタバコ、それだって自家製手巻きのヘルツェゴヴィナです。それで全部ですわ。
作曲家 ああ、これはお勧めもしないで。（タバコを彼女に差し出す）
支配人 （電話に非難がましく）もしもし！もしもし！
作曲家 どうした？
支配人 間違えました。（書類の中に身を潜める）
イロンカ （作曲家が差し出したタバコにマッチで火をつける）ありがとう、勇気が出ますわ。もうあの眼鏡も恐くありません。
支配人 はあ？
イロンカ あなた、羊のような目をしてるのね。
作曲家 すみませんが、ピアノの方に来てください。いっちょう試してみましょう。（ピアノの前に座る）
イロンカ （音階を歌う、作曲家は伴奏する、彼女は音階の間、あだっぽく作曲家によりかかる）
作曲家 あなたは耳がいいんですね。
支配人 よりかかられてるのがいいんだろうよ。
作曲家 （熱意をこめて）あなたの耳は素晴らしい！
イロンカ 私の耳のこと、ずい分ほめてくださるのね。
作曲家 さてと、それじゃ一曲聴かせていただきましょうか。
イロンカ 「青い勿忘草」をお願いします。
作曲家 喜んで。
イロンカ （歌う。作曲家、伴奏する）
青い勿忘草、
青い勿忘草、
はなああああああ・・・（「あ」の音をやたらと長く引き延ばす）
作曲家 （ピアノの伴奏を中止して）あの、何ですか、これは？
イロンカ だって長いブレスをお望みじゃないんですか？
作曲家 しかしこんなに長くなんて！普通にお願いしますよ。
イロンカ すみません。（作曲家の伴奏で、新たに第一節を歌う。歌が進むにつれて作曲家にもたれかかり、作曲家の肩に手を置き、そればかりかやがてその首に腕をまわす。作曲家がこれですっかりいい気分になるのがよくわかる、そして彼は女の胸に頭をもたせかける）
作曲家 （歌が終わると）ブラボー、お嬢さん、おめでとう！（熱っぽく）小さな役だけじゃない、大役だってもらえますよ！当劇場でキャリアを積めますよ。（彼女の手を捕らえて引き寄せる）なんと暖かい声をお持ちだ、心に届きました。まるで風鈴のように爽やかだ。それにこの柔らかい小さな手・・・それになんとかぐわしい・・・
（支配人はこれをぞっとして見ている）
イロンカ まあ、なんて幸せかしら。
作曲家 （頭をイロンカの胸に寄せながら、興奮して）それにこの小さな心臓は、あなたが歌ってる間、なんてドキドキしてたんでしょうね・・・それになんてこの心臓はかぐわしい・・・この小さな手は燃えるようだ・・・
イロンカ （喜びにあふれて）お優しい、うっとりさせる方・・・神様、私は間違いなく天国にいる心地ですわ。
支配人 （電話を鳴らして）もしもし、こちらは天国。失敬、こちらは支配人室。ちょっと先生、これはもうブタの所業すれすれですぞ、こんなやり方は。
作曲家 何か言ったか？
支配人 （電話を指して）彼に私の意見を言ってるんです。
作曲家 だがまさかどこの作曲家にだってそんな風に話したりはしないだろう？
支配人 あれは賢い人です、気を悪くしたりはしませんよ。（電話に向かって）もしもし！奥さんによろしく！（受話器を置く）
（長い沈黙、作曲家は困惑している）
イロンカ ねえ愛しい方、別な方の手にしてくださらない？こちらは痺れちゃって。
作曲家 どちらでもお望みの方を、お嬢さん。
（気まずい、長い沈黙）
作曲家 （困惑して、立ち上がる）シュクルテーティ、ちょっと。
支配人 （立ち上がる）何です？
作曲家 ちょっと、その・・・私に水を一杯持ってきてくれ。
支配人 水を一杯。
作曲家 そう。
支配人 水を一杯お望みですか？
作曲家 そうだよ、シュクルテーティさん。
支配人 今すぐに。
作曲家 そう。
支配人 わかりました。（テーブルからお盆とコップをとる）
イロンカ 私にもね、おじいさん。
支配人 あなたにも。同じく水を。
イロンカ ええ。でも冷たくなるように、よく蛇口から出してからね。
支配人 冷たくなるようにと。わかりました。（もうひとつコップを取ってお盆にのせ、出発する）
イロンカ さあ、行って。
支配人 行くとしますか。（悪意を込めて見返し、立ち止まるが、何か思いつき、頭を振りながら上手に退場）
イロンカ なんて怒りっぽいおじさんだこと。
作曲家 怒りっぽいというわけでもない、ああいうたちなんです。ここでは古顔で、家族みたいなもんです。
イロンカ 秘書？
作曲家 とんでもない。古い家具みたいなもんで、ここではもう習慣になってるように半ば書記、半ば召使です。
（お互いに見つめ合う）
イロンカ 契約してくださる？
作曲家 百年契約します。（彼女の両手を情熱的に握る）
イロンカ 私、お気に召して？
作曲家 とても、とても。大役をもらえますよ。すぐ、今われわれが稽古中の新しいオペレッタで。木靴のダンス・ナンバーをあげましょう。
イロンカ 好き？
作曲家 夢中です。（引き寄せる、イロンカ後ずさりする）どうして、そんなにそわそわしているの？
イロンカ どうしよう・・・誰にもわからないでしょうけど・・・ひどく悪い予感がするの。
作曲家 私が恐いからじゃないだろうね？（抱こうとする）
（支配人、コップ二杯の水をもって登場）
支配人 （作曲家に差し出して）どうぞ。
イロンカ レディーが先じゃなくて？
支配人 （作曲家が飲んでいる間）その通り、レディーが先ですな。
イロンカ （コップを取って）それって、私はレディーじゃないって、言いたいの？
支配人 おあがり、天使さん。私はここで明日までこのお盆を持ってるわけにはいかないんでね。
イロンカ （コップを手にして優しく）怒らないでね、シュクルテーティおじさん、（一口飲む）ねえ、あなたの耳って、怒ったときにはいつも動くの？
支配人 どうぞ、おあがりください。私はユーモアには興味ありませんね。
イロンカ でもあなたの目を見ればわかるわ、あなた、優しい、暖かい心の人だって。（飲む）
支配人 どれほど暖かいことか。
（召使、入ってくる）
召使 （作曲家に）旦那様のことを、大至急にと指揮者が呼んでいます、オーケストラがもっとリハーサルをやるんだそうです。
（支配人、書類の間に身をちぢめる）
作曲家 オーケストラ？もっとリハーサルだって？
召使 そうです。
作曲家 なんだ、指揮者がさっき、オケはもう終わったと言ったんだよ。
（疑わしげに、この間首をつき出した支配人を見る）
支配人 （この注視に再びさっと書類の間に引っ込み、顔の前に大きな本を立てる）
作曲家 （無念そうに、しつこく支配人を見つめる）多分あんたが指揮者に何か言ったんだな、シュクルテーティ。
支配人 あなたはここにいらっしゃる、と言っただけですよ。（再び首を引っ込める）
作曲家 結構、それどころか、非常に結構。（荒々しく）まことに結構。（突然決心して）お嬢さん、ちょっと待っていてください、すぐもどって来ますからね（ぷんぷんして、上手に急ぎ、召使の後を追って退場）
イロンカ はい、待ってますわ。
（今や、彼女は支配人と二人で取り残される。沈黙。支配人はあたかも何か書いているようなふりをする。イロンカは二つの机の間にある椅子に座る。イロンカ、すすりあげ、涙をこぼし、やがて泣き出す、やがてハンカチを取り出して、そっとあえぐ）
支配人 どうしたんだね？
イロンカ （すすり泣く）
支配人 どうしたんだね？なんで泣いてる？
イロンカ （泣きながら）私、絶望しているの。
支配人 どうして？
イロンカ （泣きながら）だってここでも又、支配人でつまづいたんですもの。（しゃくりあげる）神様、私ってなんて不幸なんでしょう！
支配人 支配人でつまづいた？
イロンカ 彼が私に何をしたか、あなただって見たでしょう？
支配人 見ていたよ。何もしていない。
イロンカ 私にそれを言うの？（苦々しく泣いて）私が入って来るとすぐ、あの支配人、汚い提案を私にしたじゃない。
支配人 そりゃまた、厚かましいね。
イロンカ （泣きながら）彼、汚い提案をしなかった？
支配人 私には聞こえなかったけど。
イロンカ それじゃ「親愛なるお嬢さん、お掛けください、この幸運を何に感謝したら良いでしょう？」って言わなかった？
支配人 それは言ってた。
イロンカ 支配人が言うんだったらもう、これは汚らわしい提案よ。ちゃんとした支配人だったら、ぽっと出のコーラス団員にこんな風に話したりしないわ。「私のところに面倒を持ち込もうというのかね、静かにほっといてくれたまえ、もうここでは誰も採用はしない」って言うわよ。でも「お掛けなさい、この幸運に感謝しますよ」って言う人は、（泣いて）私たち貧乏なコーラス団員にはよくわかっているのよ、こんな哀れな無防備な子にとってこれが何を意味しているのか。（しゃくりあげる）みんなは、下士官みたいに乱暴な口をきくって、言ってたのよ。
支配人 （悪意をこめて）しかしその苦〜いやつは、あなたがかきたてたんだし、わしがあのテーブルで不愉快になる位、彼に媚びてたんじゃないか。それでもあなたはそう言えるのかね？あなたが彼に「天国にいる心地だ」と言ったんじゃないか。
イロンカ （泣きながら）それじゃなんて言えばいいの？頭が痛いんです？一度私に何を期待されてるのかわかってしまったら、どうしたらいいの？パンを犠牲にするの？（しゃくりあげる）そうなったらもう、応えないわけにはいかないわ。
支配人 そいつは一理あるね。
イロンカ （泣きながら）人間やなことを強制されることもあるわ！
支配人 それはあなた、いくらなんでも言いすぎだよ。だがあなたがこうしてがっくりしているというのは、嬉しい驚きだね。
イロンカ （泣きながら）ろくでなし！ろくでなし！支配人なんてみんなろくでなしよ！
支配人 こいつは傑作だ。お嬢さん、もしその傷つけられた純潔の涙が・・・
イロンカ これは私の涙なのよ。いい、役者の塩水じゃないわ、私は心底から泣いてるのよ。だけどそれは本当の問題じゃないわ。
支配人 じゃあ何だね？
イロンカ 私には、あの支配人は好きになれないことよ。私の気に入ったのは別の人の方なの。
支配人 （何気なく）ああ、そりゃ当然だったね。シェルメツ。第十八騎兵隊の軽騎兵だったっけ。
イロンカ 軽騎兵じゃないったら。
支配人 じゃ？
イロンカ ・・・民間人よ。
支配人 シェルメツの？
イロンカ ペストの？
支配人 どこのだね？
イロンカ この近くよ。
支配人 近く？
イロンカ そ。鈍いのね。（苦々しく泣いて）あなたが気に入ったのよ。
支配人 （唖然として）私だって？
イロンカ （泣きながら）決まってるでしょ？
支配人 そいつは又・・・（本をテーブルと床に放り出し始める）
イロンカ そいつは又、そいつは又って、したいように私のこと怒ったらいいわ、私にだってその本をぶっつけたらいいわ、もうここで何をしたって無駄よ、だってあなたは私の気に入っちゃったんだし、あなたが子犬みたいに私の後を追っかけるようなるまで、私はおさまらないんだから。
支配人 私がか？
イロンカ 決まってるじゃない。あんたよ。
支配人 あんたは今日、生まれて初めて私と出合ったんだよ。
イロンカ 一度は誰かと初めて出会わなくちゃならないわ。二度目だったら始まりにはならないでしょう？
支配人 しかし一体全体、あんたは私に、この貧しい老いぼれに、何の必要があるんだね？
イロンカ あんた、そんなに老いぼれでもないわよ。頼もしいというほどでないだけよ。
支配人 あんた呼ばわりはよしてもらおう！
イロンカ でもあんたって呼びたくなるような表情をしてるんですもの。その眼鏡とって（眼鏡を外そうとする）
支配人 わしの顔に触らないでもらいたいね。（眼鏡をかけたまま）
イロンカ そんなこと言ったって、あんたきれいな、気立てのいい目をしてるわよ。それに親切で、パパみたいな声してるでしょう。（泣いて）お願い、あの支配人の手から救って。
支配人 しかしなんでそんなに彼が恐いんだね？
イロンカ いろいろあるのよ。例えばね、ダーリン、すぐ説明したげる。私、蚤ほどの才能もないの。これもパーパの編集者が私について書いたことなの。だけど私、それを支配人に言うほどバカじゃないわ。でもあんたには言うわ、あんたは取るに足らない人だし、私すぐに好きになっちゃったんだもの。
支配人 非常に結構。それから
イロンカ だって聞いてなかったの？さっきだってもう・・・（しゃくりあげながら）・・・配役のことで脅かしたわ。
支配人 なんだって？あれが脅かし？
イロンカ （泣いて）エレオノラ・ドゥーゼ14相手に言うんだったら違ったでしょうけど、私にだったらそうよ。だって私は才能ないし、役をもらっても、すぐ失敗するわ。そしたらあんな情熱注がれたって何になるの？
支配人 じゃあ演らなければいい。
イロンカ （泣いて）そんなの無理よ、ああいう支配人は、恋をしちゃうとみんな気違いよ、もっと大女優になれ、もっと大女優になれって、人を責めたてるのよ。（すすりあげ）それが私に何になるの？
支配人 （疑わしげに）なんでそんなにはっきりわかるね？
イロンカ （泣いて）だってそうなんですもの、シェルメツから来たのだってそのためだったのよ、私、支配人のフィアンセだったの。
支配人 今まで黙ってたね。
イロンカ 支配人夫人をひっぱたいてやったと言ったわよ。
支配人 それは言ってた。
イロンカ じゃあ、人が支配人夫人をひっぱたくのはどうしてだと思って？何もかもそのためよ、支配人たちなんて地面に呑み込まれちゃえばいいんだわ！
支配人 つかみ合いまでやったのかね？
イロンカ 女らしいやつだけよ。
支配人 そりゃあ、どんなやつかね？
イロンカ 私たち、お互いのかつらにねらいをつけてたの。ひどく髪が抜けたし、煮詰まった話し合いもあったわ。でも私の方でひっぱたいてやったんで、彼女の方じゃないわ。喫茶店全体が証人よ。支配人にはもううんざりだったの。みんな支配人のお人形さんはきらいなのよ。（すすりあげる）だから私、パーパからも出てきたのよ。
支配人 パーパでも支配人かね？
イロンカ 決まってるでしょう？私みたいな可愛そうな子は、もし支配人に引っかかったら、破滅するよりないのよ。会計係の彼女とかチェロ奏者の彼女だったら、みんなに好かれるし、それだったら小さな役ももらえるの。支配人だって「可愛そうな会計係が喜ぶように、チェロ奏者が喜ぶように、あの子に何か役をやろう」って言うのよ。女優たちからも好かれるわ、だって取るに足りない人の恋人なんだもの、ドロンワークのブラウスや黒い下着とか半分になったコロンとか、いろんな端ぎれを贈り物にくれるのよ。私が古い造花とか、しわくちゃのリボンとか、くたびれたビロードを着けてると、こう言われるの。「可愛そうにご覧なさいよ、なんてつつましい小さな人なの、おばかさんが喜ぶんだったらあげましょうよ」って。
支配人 だから私はあんたの気にいったのか。
イロンカ もちろん、それだからよ！こんなに貧乏で車もないような、あんたの地位のせいよ。
支配人 私にはアイロンひとつないんだよ。給料じゃ自分一人満足に食べていくことも出来ないんだ。
イロンカ もし必要なら、お金は私があげるわ。
支配人 ありがとう、お嬢さんや、まだそこまではいっとらんよ。いいだろう、もし、もちろんもしかして、というだけの話だよ。あんたは私の気に入ったとして・・・
イロンカ まあ、幸せ。
支配人 失敬。ただの仮定だからね。
イロンカ わかってるわよ、大切な人、仮定するようになるってどんなことか！
支配人 えらく確信があるんだね、お嬢さんや、でもちょっと待ちなさい、あんたはもっとつつましく暮らすことになるんだよ。
イロンカ あなたを選んだこと以上につましいことなんて、もうあり得ないわ。
支配人 いやもっとつましくなるよ。今言ったように、あんたは私の気に入ったと仮定しよう。さてそうなったらあんた、あの支配人のことはどうするね？
イロンカ あなたのことを好きだって、はっきり言うわよ。
支配人 そして私はお払い箱か？
イロンカ 絶対、お払い箱にはならないわ、だって彼、私が後であなたを裏切るのを期待するもの。
支配人 ねらいはそれか。なぜ期待するんだろう？
イロンカ だって私はそんな風に見えるし、あなただってそうだからよ。
支配人 えらく堕ちたもんだ！
イロンカ 堕ちたもんなのは、あなた方の方だわ。すぐ人を誤解するのよ。私は、香りのきつい、小さな野スミレに見えるんでしょうけど、嗅いでみたら道徳的には本物の真珠14なんだって、わかるはずよ。
支配人 （突然腹を立てて）言ってごらん、お嬢さん、一体全体あんたは劇場に何を求めているんだね？あんた方は劇場に何を期待してるんだ？劇場に何の関わりがある？
イロンカ さあ、もう承知したら？
支配人 あんたには才能もない・・・
イロンカ （抗議して）よくそんなことが言えるわね。
支配人 あんたが言ったんだよ。
イロンカ あれは別よ。あれは私の謙遜なの。私にだって才能はあるわ、でも私に必要な分だけ。私は自分で充分だと思っているのに、批評家たちにはもっとたくさんでなきゃならないっていうのは、ずい分ひどい話よ。どうして、私に出来るのよりもっと上手にやれって要求されるのかしら？私に必要なのはつつましい芸術と、つつましい彼氏よ。
支配人 わかった、わかった、もう充分だよ、お嬢さん。（眼鏡を外す）
イロンカ やっと眼鏡も外したのね？（彼の顔にさわる）これだとずい分、頼もしくなってよ。
支配人 私の顔に触るのはよしてくれ、とさっきもう言っただろう。
イロンカ そんなに私を恐がるなんて、まるで私のことがひどく気にいったみたいじゃない。
支配人 そうかい、そうかい、じゃあ見なさい。
イロンカ あなたの目を見ればわかるわよ、私のパパさんは途方にくれてるんだんって。（抱きつこうとする）はらいのけないで、乱暴な人ね。可愛い貧乏人さん。不細工なハンサムさん。私がどんなにあんたのこと好きだか、知らないでしょう。私の目を見て。
支配人 （どぎまぎして）きれいな目だね、そいつは確かだ。
イロンカ そしてお芝居の演目は？清潔でささやかな家庭の幸福よ。お昼はチーズ付きのお肉の入ったスープ。午後はあなたの下着を洗うわ。夕方は清潔なシーツ。ああいった偉大な情熱じゃないわ。ただのまともな清潔さと安らぎなの。ヒステリーなんて何になるの？そんなの無くたって、私死にやしないわ。
支配人 私もだ。
イロンカ でもお望みとあれば、私習うわよ。
支配人 お望みのはずがないだろう、まっぴらだね。
イロンカ 私に必要なのは、ただ愛せるだけじゃなくて、かわいそうに思えるような、そんな人なの。（感傷的になる）
支配人 （おずおずと、そっと抱く）可愛い人だ、降参するしかない。
イロンカ でしょう？（胸にすがりつく）かわいそうな小役人さん、少しは私を賞賛してみて。
支配人 （すっぽりと抱きしめて）本当に、本当に可愛い。なんて優しい。
イロンカ （彼の胸で）こうしてるとなんて幸せなのかしら。優しい人の腕の中で。
（作曲家、下手から急いで登場、彼らを見つけて、こぶしを固めて立ち止まる――沈黙）
支配人 （荒々しく）いかがかね？ほれこれが、あなたのやり方だ。
（イロンカをつきのけて彼女から離れる）
作曲家 （仰天して）え？なんですと？
（長い沈黙。――電話が鳴る）
支配人 （電話にかけつける）もしもし？セニツェイさんのママ？今日は。――セニツェイさんが危篤だって？えらいこった。医者が言ったんですか？――死ぬだろうって？（安心して、さっさと）ほんとに、本当にお気の毒です。さようなら。（受話器を置く）
（この間、作曲家は堅苦しくイロンカを見つめている。新たな沈黙）
支配人 （困惑して）さて、あなたのやり方だとどうなるか、今見ただろう。
作曲家 さてと、こりゃ傑作だ。まったく傑作だ。
イロンカ （作曲家に）ごめんなさい。大事な愛しい支配人さん。
作曲家 何だって？あれでもまだ、私を支配人だと思ってるんですか？彼の首ったまにかじりついたくせに。
イロンカ なあに？・・・どうしてあなたを支配人だと思ってるって。じゃ、
あなた支配人じゃないんですか？
作曲家 いいえ、お嬢さん。支配人さんはそこ、あなたの後ろに立ってますよ。
（指さす）
イロンカ （ふり向いて）シュクルテーティ？
作曲家 お嬢さん、この人はシュクルテーティじゃない。ここにシュクルテーティという人はいない。この人が支配人だ、この人と冗談の取り決めをしたんだよ。彼は女たちから逃げたかった。そして今や逃げ出したというわけだ。
イロンカ それ本当？
支配人 本当だ。（自分のデスクにもどる）
イロンカ （苦々しく爆発する）じゃあ、神様はちっとも私を愛してくださらないのね。パーパから支配人のせいで出て来て、シェルメツでも支配人の手に落ちたんだわ。あそこも支配人のせいで出て来て、ここでも落ちて、とび出したのに、また落ちこんだんだわ。神様は私を愛してくださらない。（しゃくりあげる）
作曲家 それがそんなにまずいんですか？
イロンカ だって私は有名な女優になんかなりたくないっていうのに。
支配人 さあ、おじょうさん、その大問題では今私らが力になろう。あなたは涙をふいて、別の劇場に紹介状を持って行く。
作曲家 失礼、それには同意しかねますな。私には彼女と契約する権利があるんですよ。そう約束したじゃありませんか。お嬢さん、あなたは当劇場に契約させてあげますよ。
イロンカ まあ、ありがとうございます。お手にキスを。（泣く）
支配人 それじゃあ、今度はまた、なんで泣いてるんだね？
イロンカ だって今は何をおっしゃってもムダでしょうけれど、私、感じたんです。私を抱いてくださったとき、善意から私に体をこすりつけてきたんだって。
支配人 やれやれ、お嬢さん、あなたがあんまり熱烈に攻めてくるから！・・・さ、泣かないで、お嬢さん、あれには何の理由もないんだ。それどころか
イロンカ それどころか？
支配人 それどころか・・・（困惑して）ほっといてくれたまえ。（作曲家に）あなたも、ここで何をぽかんと見とれてるんです？まるで・・・（本を放る）世界には、支配人にうんざりしている女優が一人いて、彼の方でも・・・彼の方でも・・・何をまたつっ立ってるんだね？お嬢さん。もう心配しないで家に帰りなさい、それから明日の午前中ここに来なさい、後で秘書があなたの契約書を作っておくから。
イロンカ ありがとうございます。明日また、ご親切な方、お手にキスしてもかまいません？（彼の手に触れる）
支配人 いや、結構。私の方が・・・あなたの額に、お嬢さん。（額にキスする）
心配しないで行きなさい、でもすぐにだよ。
イロンカ （上手にむかって出て行く、その間泣きながら言う）なんてへまなのかしら！（ドアのところで泣きながらふり向く）おじゃましました。（上手に出て行く）
支配人 さようなら、お嬢ちゃんや。（デスクに座る）
（短い沈黙）
作曲家 魅力的な被造物ですね。
支配人 （赤いノートを用もなくパラパラめくる）あの中には生まれつきの欠点がたくさんあるんだよ。（パラパラさせる）私はあの賢いところが好きだね。あれは、ばかな娘っこの中にある、一番良い類いの賢さだ。賢い女どもの賢さときたらぞっとするね。（パラパラ）だがばかな女どもの賢さだったら、ももみたいにツルリと口あたりがいいのさ。
作曲家 一理あるようですね。
支配人 そうとも。人生とは不思議なもんだ。（夢見ながら椅子の背にどっともたれる、そしてゆっくりと赤いノートの紙を小さく破って、紙屑かごに押し込む）
（短い沈黙）
（召使登場、無言でスタンドの下からセニツェイの台本を取り出し、持って行く）
（長い間、沈黙）
支配人 いいお天気だね。
作曲家 そうですね。お日様が照ってる。暖かいし。
支配人 少なくとも十八度はあるな。
作曲家 あなたは摂氏ではかるんですか？
支配人 左様。私は悲観主義者でね。
作曲家 私は、華氏の方が好きですね。
支配人 それだって悪くはない、という話さ。
（沈黙）
作曲家 （立ち上がる）さてと、それじゃあ・・・もうこれ以上話すこともないか。
支配人 ないね。
作曲家 それじゃ・・・さよなら、支配人。
支配人 （書類の間で、めんどうくさそうに）さようなら
（作曲家退場）
支配人 （イロンカがそこに忘れていった日傘を見る。開いてみる。傘は穴だらけ。微笑んで眺め、そのてっぺんをなでる。そっと独り言を言う）可愛い人・・・可愛い人・・・
幕